伊佐千尋『法廷 弁護士たちの孤独な闘い』(文春文庫)


発行:1993.4.25



 昭和3年広島で起きた養母殺しの容疑者山本老は実に五十数年間、無実を訴え続け、現在、再審を請求、“第二の加藤老事件”といわれている。昭和49年千葉で起きた両親殺しの容疑者は“史上稀に見る残忍な凶悪殺人”として死刑を言い渡された。冤罪事件に取り組む弁護士たちの地道で真摯な闘いを描く異色作品。(粗筋紹介より引用)
 1986年10月、文藝春秋より単行本刊行。1993年4月、文庫化。



【目次】
 山本老・雪冤に賭けた五十五年
 殺人犯にされた一六五七日
 ある少年の罪と罰
 千葉・市原市奇々怪々の殺人事件


 タイトルにある通り、冤罪事件に取り組む弁護士たちの戦いを書いた一冊。確かに弁護士という職業は割に合わないところはある。世間から見れば逮捕された時点で有罪と見られてしまう人物を弁護するため、世間から冷たい視線で見られてしまうことは多い。それが被告の権利を守るためとはいえ、原告側を非難するケースもある。特にインターネットが普及した現代では、匿名による非難が簡単に広がるようになったことから、時にはいわれのない非難を浴びることもある。ただし誰もが首をひねるような弁護も時にあるから、必ずしも弁護士は常に「正義」であるとは限らない。また弁護士という地位を悪用する人物もいることから、弁護士という職業そのものに疑惑の視線を浴びせる人もいるだろう。
 本書はいずれも冤罪に取り組む弁護士を取り上げている。これについても、必ずしも「正義」の側にあると見られているわけではない。時にはなぜ再審するのか、なぜ無罪を訴えるのかと非難する者もいるだろう。最後に挙げられた市原両親殺人事件にしても状況は被告側に不利であり、弁護にしてもなぜこんな細かいところばかり訴えるのだろうと疑問を抱く人もいるに違いない。
 本書では依頼人の不利益に動く弁護士についても書かれている。必ずしもすべての弁護人が正義だと言っているわけではない。ただし、正義のため、真実のために動こうとしている弁護士がいることだけは頭に入れておいてもいい。
 作者は陪審制を入れるべき、裁判官だけによる判決は避けるべきと主張している。裁判員制度が導入された今、作者はどう思うだろうか。

 本書で取り上げられている事件は下記である。

 1928年11月24日に広島県比婆郡の山本家で起きた養母(56)殺人事件で山本久雄(30)が逮捕される。山本は無罪を主張するも、1930年1月24日に広島地裁で求刑通り無期懲役、1930年12月26日に広島控訴院で棄却、1931年4月8日に大審院で上告が棄却されて刑が確定した。山本は1945年11月の仮出獄以降、無罪を訴えて再審請求を果たそうするも原爆で記録が消失し、証拠も見つからずに時間ばかりが過ぎつつ、判決書の謄本、鑑定書を発見し、1983年9月9日、85歳で再審請求を広島高裁に申し立てた。扼殺という鑑定は間違いで、養母は病死もしくは事故死の可能性が高いという鑑定結果を付した。
 (なおこの後、再審請求は棄却。第二次再審請求も)

 1975年11月12日午後9時40分ごろ、沖縄県那覇市のビル5階にある自室で休んでいた男性(38)は、貸していたビル3階の漁店を訪れた船乗りの男性(30)がドアをたたいて主人を呼び出そうとしているのを知り、誰もいないから帰ってくれと伝えたところ、酔っていた男性は逆上して殴り掛かってきたので2発だけ殴り返した。警察を呼んで男を追っ払ったが、翌日早朝、仕入れのために出かけようとすると二階の玄関で男が倒れて寝ていたことに気付く。帰ってきてもまだ倒れており、明るくなったため血が流れていることに気付いたため、警察を呼んだ。その日の午後、男性は逮捕され、翌日船乗りが死亡したことを告げられた。
 男性は傷害致死で起訴されるも、犯行を否認。起訴事実に疑問を抱いた弁護人は再鑑定を依頼し、警察側の鑑定に不備が複数あることを発見。自ら階段から墜落したと結論付けた。検察側申立の再鑑定が行われるも、ここでも犯行を否認。1979年11月5日の結審当日、那覇地検は公訴事実のうち傷害致死を取り下げ、傷害のみの訴因変更を行った。そして罰金30000円を求刑した。1980年1月14日、那覇地裁は求刑通り罰金30000円を言い渡した。判決に納得いかない被告側は控訴、1980年5月26日、福岡高裁那覇支部は一審判決を破棄し、正当防衛による無罪を言い渡した。検察側は上告せず、無罪は確定した。

 1979年7月21日、沖縄市内の国道で中学3年生が無免許で80ccのオートバイを運転中にハンドル操作を誤り、歩道に乗り上げてブロック塀に激突。運転手の中三男子A(14)が即死、後部座席に同乗していた中三男子B(15)が右肩骨折で全治1か月の重傷を負った。オートバイは盗難被害届が提出されていた。しかし不審に思った男子Aの母親が男子Bに問い詰めたところ、自分がバイクを盗んで運転していたと自供。沖縄署に自首させた。沖縄署の交通課長は母親が再捜査を依頼したときに断わるとともに、母親を怒鳴りつけた。さらに事故を目撃した中学の生徒3人が事故の真相を話しに行ったところ、事件は終わったと突っぱねた事実が明らかになった。事件は非行歴のある男子Bが盗んだバイクで、怖がる男子Aを脅して無理やり後ろに乗せ運転したものだった。しかも、事故処理の担当者である巡査は男子Bの父親であるレストラン経営者と知り合いであり、男子Bの母親が経営するバーにもよく行っていた。しかもハンドルの指紋採取もしていなかった。男子Aが運ばれた病院のカルテにはなぜか担当医師以外の筆跡で「運転していたのは自分だ」と書かれており、この病院には男子Bの父親の従兄弟が勤めていた。バイクがぶつかった木は事故の4,5日後に沖縄警察署の依頼で市役所の人間が夜中にこっそりと切っていた。
 その後男子Aの両親は男子Bの両親を相手取り、損害賠償調停を行い、その代行として市の顧問弁護士も務めるIに委任した。男子Aの両親は4657万7115円を請求するも、男子Bの両親は過失はないと請求を拒否。Iは男子Aの両親に相談をせず、男子Bの両親とわずか300万円で示談を成立させてしまった。弁護士報酬として30万円を勝手に天引きした。しかも自賠責保険金請求事務の代行時、保険会社から1741万1800円を受け取るも1300万円しか男子A両親に支払わなかった。男子A両親は別の弁護士に相談するも、依頼を受けたまま放置していた。
 男子Aの三回忌後、男子Aの両親は著者の知り合いの弁護士に新たに依頼。その後、Iは弁護士報酬100万円を除いて差額分を返済することに同意した。この顛末は地元紙に掲載され、Iは市の顧問弁護士の契約を破棄される。
 著者は男子Aの両親に助言し、男子Aの両親は警察から精神的苦痛と損害を与えられたとして沖縄県と県知事を相手取った国家賠償請求を行った。1983年3月3日、那覇地裁は遠国の主張をほぼ認め、県に対し120万円を支払うよう言い渡した。県は控訴せず、判決は確定した。

 ドライブイン従業員佐々木哲也被告は、1974年10月30日午後5時20分頃、市原市の両親宅で、交際していたトルコ嬢のことをめぐって自動車タイヤ販売修理業の父親(当時59)と口論になり、父親が女性のことを貶したため激怒し、テーブルにあった登山ナイフで滅多刺しにして殺したうえ、その直後に2階から下りてきた母親(当時48)もナイフで滅多刺しにして殺害。11月1日午前5時30分頃、2人の死体を車で同市五井海岸に運び、海に捨てた。
 2日、佐々木被告は市原署に両親が行方不明であると届出。市原署が調べたところ、両親宅の居間から多量の血痕が発見されたため、殺人事件として捜査。佐々木被告の乗用車のトランクから血痕の付着したタオルが発見されたこと、金庫から現金30万円が持ち出されていたこと、事件当日に佐々木被告が両親と口論していたことが発覚したため、5日に佐々木被告を殺人容疑で緊急逮捕。9日に市原市の沖合で父親の遺体が、10日に母親の遺体が発見される。
 裁判で佐々木被告は犯行を否認し、「父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張した。
 1984年3月15日、千葉地裁で求刑通り死刑判決。1986年8月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。1992年1月30日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 伊佐千尋は1929年、東京生まれ。1978年、「逆転」で第9回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。1982年、「陪審裁判を考える会」を発足。著書、訳書多数。


<リストに戻る>