福田洋 『凶弾−瀬戸内シージャック事件』




 1970年5月11日、午前零時。山口県南西部に位置する山陽町の国道二号線。雨はますます強くなっていた。交通取り締まりのためにパトカーを走らせている警官中川、堀江は、追い越し違反をしたプリンスを検問した。プリンスには三人の若者が乗っていた。川藤展久(20)、子分の少年A、Bだった。
 そのプリンスは、盗難車の届出を受けたナンバーと酷似していた。中川はその車を検問所に連れて行こうとプリンスに乗り込み、車を発進させた。そのとき、川藤は後部座席のダンボールより、猟銃を取り出し、中川の項に押しつけた。猟銃を振り払った中川に、Bがナイフで刺し、全治二週間の傷を負わせた。Bは逮捕されたが、川藤とAはそのまま車で逃亡した。山口県警は非常線を張ったが、山中で無線連絡が遅れたことと、川藤達が途中で軽四輪を盗んで乗り換えたこともあり、検問を避け、朝には宇部市にたどり着いた。
 服を買って着替え、テレビアンテナの箱に猟銃を仕舞う。そして川藤は言った。
「広島へ行こう。そこで一仕事をして、大阪へ飛ぶんじゃ」
 中学を中退して家出、その後千葉から福岡まで仕事を点々としながら、時には盗みで少年院入りなどの経験を重ね、20歳まで成り行き任せに生きてきた川藤に、当てなどあるわけでもなかった。川藤は広島駅前の中央郵便局を襲う案を立て、二人は山陽本線の列車に乗った。偶然に助けられ、刑事には見つからなかった。広島駅の一つ手前にある横川駅で降り、タクシーで広島市内に入る。気のせいか、警官の姿がやたら目に付く。結局二人は強盗をあきらめた。
 12日午後二時、広島市郊外、岩鼻付近に二人組が居るとの通報が入る。パトカーが急行したが、道が細い。警官達は車を降り、手分けして捜査を始める。やがて、23歳の警官が川藤達を見つける。近くを通りかかった軽四輪に協力を要請し、二人に追いついたまではよかった。ところが、川藤は猟銃の銃口を軽四輪の運転手に向けていた。警官の目が川藤の方に向けられる。その時だった。Aは脱兎のごとく走り出した。その隙に川藤はドアのガラスを割り、警官に拳銃を荷台に投げるよう要求した。警官は渋々拳銃を投げ入れ、川藤はそのまま荷台に飛び乗り、運転手に銃口を向けたまま、逃げるよう脅迫した。その後、Aは山中で捕まったものの、川藤は検問の目をくぐりぬけ、警察の予想とは正反対の広島市内に向かっていた。
 午後三時半、広島警察本部からわずか500mの銃砲火薬店で川藤はライフル二丁、猟銃一丁、実砲三百発、ライフル弾八十発、ハンターコートを奪う。店主、店員、そして軽四輪の運転手を倉庫に閉じこめ、川藤は逃走した。このとき、ガソリン代だと1200円を運転手に渡していた。
 タクシーを拾った川藤は宇品港へ向かう。そして銃で脅しながら桟橋を駆け抜け、停泊中の小型旅客船「ぷりんす丸」を乗っ取った。乗組員7名、乗客37名を乗せた船は、静かに出港した。


 後に「瀬戸内シージャック事件」と呼ばれる事件の概要を長々と書いてきた。これはそのまま、本編で取り上げる『凶弾−瀬戸内シージャック事件』のあらすじでもある。小説では荒木英夫となっているが。
 事件が起きた1970年は、学生闘争後の中核派学生による内ゲバ事件や、新左翼派などの過激派による事件が多発していた時期でもあり、約1ヶ月前には「よど号ハイジャック事件」も起きていた。公害、貧富差の拡大、物価上昇、インフレ、過密過疎など、高度経済成長時代のひずみが表面化していったのもこの頃からである。学歴・能力至上主義の社会もこの頃からであるが、「落ちこぼれ」の存在がクローズアップさるのはもう少し先の話である。
 この「瀬戸内シージャック事件」も、最初は大学闘争に端を発した過激派によるものと思われていたようだ。だが、実際は違った。もともと川藤には、大それた事件を起こそうという気持ちはこれっぽっちもない。ただ、流れるに流れ、たどり着いたのが「ぷりんす丸」だったというわけだった。意地の悪い書き方をすれば、「落ちこぼれ」が引き起こした犯罪程度の認識しかされていない。被害者は一人も殺されていないのだ。人の記憶に残らない原因の一つであろう。
 しかし、頭の良すぎる学生達が、社会の矛盾に反抗して様々な学生闘争を起こした「青春」があった(このあたりは今の「オウム事件」にも通じる)ように、社会の落ちこぼれでも社会に反抗する「青春」があった。そしてたった一丁の猟銃に力を託した。それが「瀬戸内シージャック事件」であった。
 1970年には、先に記した「よど号ハイジャック事件」の他にも「三島由紀夫割腹自殺」があり、その前年は「永山則夫連続射殺事件」「安田講堂陥落」が、翌年には「大久保清事件」など、昭和史に残る大事件が起きている。「瀬戸内シージャック事件」が記憶の奥底に沈んだままなのも仕方のないことではないか。


 本作品は、事件から8年後の1978年、第24回江戸川乱歩賞に『狙撃』のタイトルで応募された。この年の受賞作は栗本薫『ぼくらの時代』であり、ほぼ満場一致で決まったようだが、この作品をどう取り扱うかで議論が分かれたとのことである。後に『凶弾−瀬戸内シージャック事件』と改題されて発行された本作品は、実在の事件をもとにしたドキュメンタリー・ノベルであったからである。こういう形式が推理小説として適当かどうかとの議論があったらしいが、本編には関係ないので省略する。
 「ドキュメンタリー」とは、「潤色を加えず、実際あった出来事をそのまま記録したもの。」(新明解国語事典(三省堂))ではあるが、ドキュメンタリー・ノベルはドキュメンタリーではない。あくまで小説でなくてはならない。
 『凶弾』は様々な取材を元に、構成されている。ただ簡単に取材するというけれど、実はそんなに簡単なことではない。どこに取材をすればよいか分からないケースもある。ただ、被害者、加害者の家族、周辺の人物を取材するだけでは新聞記事・週刊誌以下である。取材に応じない人もいるであろう。実際に事件の起きた地形、街に何回も足を運ばなければならない。事件を取り巻く世情、背景、時代を考慮する必要もある。
 我々は、テレビや新聞報道、もしくは週刊誌程度でしか事件を知ることが出来ない。当時、本事件について、新聞報道がどこまで真実を伝えたのかが分からない。少なくとも、事件当初は、川藤が警官を刺したことになっていたようだ。今、人の記憶に残っているのは、川藤が瀬戸内海でシージャックしたということぐらい程度であろう。それすらも覚えている人がいるかどうか。警察、裁判所は犯人を裁けばそれで済むと思っているが、判決文は必ずしも真実ではない。いかにして事件の真実を伝えることが出きるか。それがドキュメンタリーである。
 本作品は「ドキュメンタリー・ノベル」である。どのようにして「ノベル」にするか。作者、福田洋は登場人物の心の動きまでを記すことにした。そうすることによって、福田洋なりに事件が何であったかを訴えることにしたのだ。あとがきで作者はこう書いている。ちょっと長いが、本作品の本質を物語っている文だと思うのであえて抜き出す。

(前略)
 それから数年、私は事件に関する資料、文章など、目に付き次第、メモし、蒐集する作業を続けた。
 メモ帳とスクラップブックの余白は徐々に少なくなってきたが、そこにあるのは、所詮は情報として定着された事実の堆積にしか過ぎなかった。
 私は、脳裏を乱舞する幾つかの疑問符に悩まされた。
 この特異事件発生の裏には、時代と社会と個人が複雑に絡み合った何かがあるのではないだろうか?
 これらの事件を惹き起こした人たち、これらの事実の起こした波紋に翻弄された人たちの内側は、どのようなものだったのだろうか?
 それらを活写するには、情報や事実の隙間を埋める、魚眼レンズ的な視点が必要なのではなかろうか?
 私は自問自答しながら筆を進めた。その結実が、この“小説”である。
 従って、事件の発生、推移、結末、及び、犯人、捜査側の動きは、場所的、時間的に全て事実であるが、主要登場人物の内面については思い切った造型を試みた。
 その試行の中に、現代社会の投影としての犯罪と犯罪者に対する、私なりの解釈を盛り込んだつもりである。
(後略)

 作者が“思い切った造型”を試みたことにより、ただのドキュメンタリーは「ドキュメンタリー・ノベル」に昇華した。もちろん、事実について嘘・脚色があってはドキュメンタリーにすらならない。それでは素材を用いた小説に終わってしまう。あくまで全ての事実を元にして、登場人物の内面を深く描写することにより、事件の社会性、現代性をより浮き上がらせることに成功する。
 本作品は、事件に対する綿密な調査、取材による「事実」、そして当時の時代、社会を盛り込み、さらに犯人の内面を思い切って突っ込んだことにより、ドキュメンタリー・ノベルの傑作となった。
 ただ、犯人は実際にどう思って行動していたのか。今では誰にも答えられない永遠の謎である。


 出港した「ぷりんす丸」は同夜、松山港に入った。途中、母や姉の説得には銃砲で返事を返した。それでも自分の飲んだコーラの代金はしっかり払うという律儀なところも見せていた。給油、乗客を全員降ろし、「ぷりんす丸」は出港し、翌朝宇品港に戻った。しかし、そこで待ち受けていたのはライフル銃隊であった。テレビ中継の中、川藤は胸を打ち抜かれ、ゆっくりと船橋に倒れ込んだ。真っ先にデッキに駆け上った刑事は、左手で拳銃を抜こうとした川藤の手を叩き落とし、手錠をかけた。そのとき、唇からかすかな声が漏れた。傍にいた船長も聞いていた。
「死んでたまるか、もう一遍」

 川藤は13日11時25分、呼吸を停止した。

 ライフル銃隊は、2年前の1968年、金嬉老事件を機に創設されて、この事件が初の出動であった。そして、人質解放のため、犯人を狙撃逮捕した初めての事件であり、犯人射殺という形で終わった初めての事件でもあった。


【参考資料】
 福田洋『凶弾−瀬戸内シージャック事件』(講談社文庫)
 福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社)


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