高木彬光『追跡』




 <現職の警部が雪の降る路上で射殺された>実際の事件をヒントに、裁判の正義を信じる著者の憤りが産んだ本格推理小説の傑作。──弁護士百谷泉一郎のその友人は、変死体で発見された。懲役20年の冤罪事件について相談にきた直後だった。拳銃に異常な興味を示し、宿泊ホテルの遺留品の中にも、発射されてつぶれた弾丸が数個発見された。だが、恋人だと称していた女の写真だけが消えていた。不鮮明な女の身許、殺人事件の謎を追って、泉一郎は札幌へ飛んだ。
 忌むべき殺人に濡れ衣、冤罪事件に巻きこまれないと、あなたは断言できるだろうか?(粗筋紹介より引用)
 『新週刊』に連載。原題「暗黒星雲」。1962年、カッパノベルス化。1976年3月、角川文庫化。

 高木彬光のシリーズ探偵の一人でもある百谷泉一郎弁護士シリーズの一冊。百谷弁護士の長編は『人蟻』『破戒裁判』『誘拐』『追跡』『失踪』『法廷の魔女』『脅迫』の七冊。短編は「遺言状」のみ。名探偵・神津恭介を主人公とした本格推理小説と、私立探偵・大前田英策を主人公とした通俗小説を書いてきた高木彬光が、社会派推理小説ブームの中で作風を変換させるために登場させたのが百谷弁護士であった。『人蟻』は経済推理小説、『破戒裁判』は全編裁判シーンという裁判小説の嚆矢かつ傑作、『誘拐』は誘拐推理小説の名作である。
 『誘拐』では、雅樹ちゃん誘拐殺人事件の犯人、本山茂久をモチーフとした人物の裁判シーンで始まり、事件に重大な影響を与えている。
 『法廷の魔女』で百谷が弁護した被告の無罪を証明する証拠物件の自白調書は、帝銀事件の犯人として死刑判決が確定した平沢貞通の再審請求で実際に指摘された自白調書とほぼ同じ内容である。
 そして本作、『追跡』は、1952年1月21日に札幌市で発生した白鳥事件を背景としている。
 白鳥事件は、以下のような経緯をたどっている。

 1952年1月21日夜、札幌市内路上で、札幌市警察本部警備課長の白鳥一雄警部(36)が何者かによって射殺された。23日、同市内で日本共産党員札幌委員会名による天誅ビラが撒かれた。白鳥は市警警備課課長として日本共産党対策を担当していたこともあり、警察は日本共産党を集中的に捜査、20名近くの党員が芋蔓式に別件で検挙された。
 事件発生5ヶ月後、札幌信用金庫元従業員Hが、首謀者は同信用金庫理事長S、実行者は拳銃殺人前科があるTと公表。しかしSは、別件逮捕後保釈中の1952年12月23日に自殺した。
 1952年10月1日、警察は日共札幌委員会委員長M(29)を別件で逮捕。1953年6月9日、共産党札幌地区委員会の地下組織「中核自衛隊」隊員の北海道大生Tを逮捕。Tは幌見峠で他のメンバーらとともに試射を行ったことを供述。1953年8月19日及び1954年4月30日、幌見峠で弾丸が発見された。
 1954年3月28日、「中核自衛隊」隊員でポンプ工のSが殺害実行犯として、同隊副隊長で元北大生のTが白鳥警部行動調査担当として、同隊長のSが短銃を渡して犯行を指示したとして、いずれも殺人容疑で指名手配された。1955-56年頃、3人を含む計10人が漁船で密出国し、中国へ亡命した。
 1954年9月20日、「中核自衛隊」隊員の北海道大生Mを逮捕。1955年8月16日、元委員長Mを殺人罪で、元隊員Tと元隊員Mを殺人ほう助で起訴した。

 この頃の共産党であるが、「51年綱領」と呼ばれる農村部でのゲリラ戦を規定した中国革命方式の軍事方針を採択し、武装闘争路線を繰り広げていた。1951年12月26日発生した共産党員による印藤巡査殺害事件など、交番や裁判所の襲撃や火炎瓶投下などが相次いだ。
 白鳥事件については、松本清張が『日本の黒い霧』(1960)で米軍諜報機関による謀略説を説いている。他に山田清三郎が、『小説白鳥事件』(1969)等で共産党の関与を否定。一審で弾丸の鑑定を行った長崎誠三は証拠捏造疑惑を指摘しており、後に遺稿『作られた証拠−白鳥事件と弾丸鑑定』(2003)がまとめられている。一方で共産党関与説もあり、事件当時の幹部で中国へ18年間亡命していた川口孝夫が党員の犯行を示唆する回顧録『流されて蜀の国へ』(1998)や、日本共産党の元党員で社会運動資料センター代表渡部富哉による『白鳥事件 偽りの冤罪』(2012)等がある。
 2011年3月27日、HBC北海道放送は、ラジオ開局60周年記念ドキュメンタリーとして、事件関係者へのインタビューを通じて真相に迫った「インターが聴こえない〜白鳥事件60年目の真実〜」を放送し、第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞、第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞を受賞している。

 法廷では謀議の不存在、伝聞証拠の違法性などが争われた。また唯一の物的証拠である遺体から摘出された弾丸と、幌美峠の土中から発見された2個の弾丸が同一の拳銃から発射されたかどうかが争われた。
 一審では、3個の弾丸の線条痕が一致したという鑑定が採用されて、有罪の判決が出された。ところが一審では、当時東北大助教授で金属学が専門である長崎誠三が、長期間土中にあったにしては弾丸の腐食具合は進行していない、という鑑定を出していた。
 結局二審以降も鑑定結果は採用されているが、上告棄却後、一審の鑑定を行った教授は米軍が鑑定を行ったことを告白している。
 札幌地裁は1957年5月7日、元委員長Mに無期懲役判決(求刑死刑)を、元隊員Mに懲役3年執行猶予5年を言い渡した。5月8日、共謀を自供した元隊員Tに懲役3年執行猶予3年を言い渡した(一審で確定)。1960年5月31日、札幌高裁でMは懲役20年に減軽された(共犯Mは控訴棄却)、1963年10月17日に最高裁で上告が棄却され確定した。

 本書は1962年に執筆されており、時間的にはMの上告審前に書かれている。高木彬光が訴えたかった点は、白鳥事件が冤罪であることである。角川文庫版の解説である和久俊三は、「高木さんは、裁判の正義を叫び、もちまえの情熱と義憤にかられ、この事件への告発的意図をこめて体あたりしている」と書いている。
 百谷泉一郎の大学時代の親友で、いまは地元北海道にいる豊島勝清が上京してきた。食事中、豊島は懲役20年の高裁判決が出て上告中の事件が冤罪だ、人妻と恋愛をしているという話をしている途中、当の人妻から電話がかかってきたため、相談は後日となった。しかも豊島は別の友人に、拳銃に詳しい人を紹介してもらっていた。そして翌日、豊島は他殺死体となって発見された。百谷は豊島の家族の要望により、札幌へ飛ぶ。札幌で百谷は紹介された北洋新聞記者の森谷健吾に、懲役20年の殺人事件について尋ねると、森谷は即座に城沢事件の話を始めた。

 裁判では唯一の物的証拠である遺体摘出弾丸と、試射現場土中から発見された弾丸が同一の拳銃から発射されたかどうかが争われているのだが、本書でもこの弾丸が事件に関わるきっかけとなっている。もっとも読み終わってみると、弾丸自体は重要なキーポイントとなっているものの、被害者の行動はちょっと的外れだったこともわかる。
 小説自体も途中から城沢事件の話が延々と語られているため、本事件の謎解きとどちらが主体かわからなくなっている。2/3を過ぎた当たりから今度は百谷が狙われるようになるのだが、犯人側が取った行動としてはあまりにもお粗末で、なぜ自分から動いてかえって疑惑を深めてしまうのだろうというおかしな話で終わってしまっているのは残念だ。
 なお白鳥事件に対する個人的な意見だが、弾丸の件については捏造の可能性は高いだろう。土の中に埋もれていた弾丸が腐食していなかったというのはかなり無理があると思われる。だからといって、Mが事件に関与していなかったとも言えないのが、本事件の闇の深さである。この本が出た頃は、謀略説や冤罪説が強かったようだ。しかし、実行犯とされる人物を含め10名が中国へ亡命していることが明らかになった時点で、共産党の関与がなかったという主張に無理があるだろう。当時転向して関与を証言した人々はかなり叩かれたらしいが、そちらに対する「冤罪」についてはどう責任を取るのだろう。当時、日本共産党は冤罪を訴えてキャンペーンを展開していたにもかかわらず、現在は党史にすら一言も載っていないそうだ。
 そういう意味では、高木が当時の世間に流されて書いた作品と言えなくもないし、不自然すぎる証拠の弾丸に怒りを抱いて書いた作品なのかも知れない。

 なお白鳥事件のその後は以下である。
 Mは無実を訴え、1965年10月21日に札幌高裁へ再審請求。1969年6月18日、札幌高裁は請求を棄却。1971年7月17日、札幌高裁は異議申立を棄却。
 1975年5月21日、最高裁で特別抗告を棄却した。しかしこのとき、最高裁が示した、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は再審制度にも適用されるべきであり、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるとした「白鳥決定」により、免田事件等の再審につながっていった。
 Mは1969年11月14日に仮出所。1977年6月に刑期満了となった。1994年11月3日、埼玉県大宮市内の自宅火災により死亡した。71歳没。
 1973年12月23日、中国に亡命した10人のうちの3人が帰国した。いずれも起訴猶予となる。その後、1978年までに指名手配された3人を除く4人が相次いで帰国した。
 1988年1月14日、殺害実行犯Sが肺ガンで死亡、64歳没。同年2月27日、実行指示者Sが肝臓ガンで死亡、59歳没。いずれも北京西郊外の八宝山革命公墓で「革命烈士」として手厚く執り行われたとされる。
 1997年6月3日、時事通信社北京支局は元北大生Tが北京市内で生活していることを確認し、インタビューをした。Tは事件の関与の有無について明らかにすることを拒んだ。警察庁は中国の警察当局に対して国際刑事警察機構(ICPO)ルートで事実確認を国際手配した。しかし中国公安当局は明確な回答をしなかった。
 1998年10月29日、事件当時、共産党道地方委員会で軍事部門を担当するとともに事件後に中国へ渡った男性Kが北海道新聞のインタビューに応じ、共謀を自供したTの証言はほぼ正しいと話した。また回顧録『流されて蜀の国へ』を自費出版した。
 2002年3月、警察庁は中国へ亡命したT、S、Sの3人について国際刑事警察機構(ICPO)を通じて中国公安当局に生存確認を要請した。
 2012年3月中旬、元北大生Tが北京市内で病死した。82歳没。
 実行指示者Sは中国への逃亡が確認できなかったことから、1975年4月に殺人容疑の時効が成立している。しかし元北大生Tと実行犯Sについては中国への逃亡が確認されたことから公訴時効は停止している。死亡したことが中国公安当局から確認が取れないため、2012年現在も逮捕状の更新手続が続いており、有効なもので日本最古の逮捕状とされている。


【参考資料】
 高木彬光『追跡』(角川文庫)
 新聞記事多数。

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