篠田秀幸『人形村の殺人』(ハルキ・ノベルス)




 440年前、時は戦国。人形村の庄屋はたたりを祓ってもらおうと、旅の修行僧にお願いする。ところが修行僧に兄を殺して家を奪い、池に埋めていることを看破され、若い者を使って殺してしまう。そのとき、修行僧は呪いをかけた。すると手をかけた若い者、そして庄屋本人などが次々と不可解な死を遂げる。生き残った者は怒りを静めるために神社を建てた。
 時は移り昭和13年、再び惨劇は起きた。庄屋の子孫であり、村の権力者である法眼辰也が、村の寄り合いに配られたブドウ酒に青酸カリを入れ、12人が死亡した。人形村は笹山町と名前が変わっていた昭和38年、法眼家の女子高生が誘拐され、殺された。被差別部落出身の一人の若者が捕まり、死刑判決を受けた。「笹山事件」と名前が付いたその事件は冤罪であるとの声が高まり、弁護団が付いて再審請求を続けた。そして現在、ついに笹山事件の再審が始まったが、笹山事件の関係者である法眼家の一族が次々と死んでいった。これは440年前に悪鬼と化した修行僧の怨念か? 名探偵弥生原公彦がその謎を追う。弥生原シリーズ第3弾。時間的には前作『幻影城の殺人』より前になる。
 ほとんどいちゃもんを付けるために買ったとしか思われていないだろうが、予想通りやります。なら買わなきゃいいのに。そうはいきません、舞台が岡山で、冤罪事件を取り扱っているとなれば。以下、完全に怒りモード。

 篠田秀幸曰く、「これは私にとっての八つ墓村である」。確かに横溝正史の『八つ墓村』の骨格そのままである。舞台が岡山県。発端は戦国時代。一族の不可解な死。昭和13年、一族の者が大量殺人事件を引き起こす。そして現代の殺人事件。村(今では町)の旧家が法眼家、一柳家。名前に鶴子や辰也など。その他の登場人物で石坂浩二まで出てくれば、横溝を意識していること、ばりばりである。更に欲張って、有名冤罪事件「狭山事件」を「笹山事件」と置き換えて話に組み込んだが、そこで失敗した。登場人物全ての意識、そして小説自体のウェイトがすっかり冤罪事件の方に向いてしまい、現代の殺人事件は添え物でしかなくなっているのだ。"雪の密室"が出てきても、読者は不可能興味を楽しむ暇がなく、冤罪事件の謎解きに目を向けさせられてしまう。440年前の因縁もとってつけたようにしか見えない。作者は『八つ墓村』の面白さを充分にわかっているはずなのに、なぜこのような2本立ての骨(440年前の因縁からの殺人事件、「笹山事件」)を作ってしまったのか、理解に苦しむところである。
 しかも弥生原に謎解きさせる「笹山事件」の真相が、「狭山事件」における他人の著書の引き写しにほぼ近いというのは問題だろう。もっともこの「引き写し」というのは私の推測だが、あとがきにある参考文献以外の本を読んだことがあり、そこに書かれていることに近いので、ほぼ間違いないだろう。少なくとも、疑問点と到達点はほぼいっしょである。これだったら、島田荘司『涙流れるままに』のように冤罪事件を創作した方がよかった。ワトソン役の作家の驚き方が、虚しく見えて仕方がない。
 これだけならまだ失敗作程度ですむのだが、さらにやってはいけないことをやっているのでそこを述べる。一つ目。「狭山事件」を「笹山事件」に置き換えるのはわかるが、せめてあとがきにぐらい、「狭山事件」は岡山県ではなく埼玉県であることを書くべきだ。このままでは読者が「狭山事件」が岡山県で起きた事件であると、誤解してしまう。作者が本気で「狭山事件」が冤罪であると思っているのなら、もっとその点をはっきりさせるべきだろう。
 二つ目。昭和13年の大量殺人事件に、実際に起きた事件を引き写している。そんな必要がどこにあるのだろうか。全くない。実際に起きた「名張毒ブドウ酒事件」は1961年に三重県名張市郊外の村で起き、5人が亡くなった事件だ。こちらも冤罪の可能性が高い事件である。冤罪の可能性を追求するのなら許せる。しかし、この小説では大量殺人事件が起きたという事実でしか用いられていない。なぜ所も時代も、背景すら違う事件を引き写す必要があったのか。作者は"大量毒殺事件"中に奥西松雄という登場人物がいる。犯人として捕まっている奥西勝死刑囚と名前が似通っている。毒薬こそ青酸カリとサッカリンとの違いはあるが、殺害したとされる手順も全く同じである。作者はこの事件を詳細に知っているのだ。そのうえで岡山県の、しかも昭和13年の事件に移植している。あとがきにも一切触れていない。これは事件の関係者、再審請求を続けている奥西死刑囚、それに読者をも冒涜している。大量殺人事件を書くだけなら、空想で書けばよい。
 三つ目、と言ってもこれは誤植なのかも知れないがひとこと。結末部分に出てくる「弘前大教授殺人事件」は、「弘前大教授夫人殺人事件」が正解。現実の事件なのだがから、正確に引用してほしい。
 つまらない小説はあっても、ひどい小説は初めてである。ここまで非道い(わざと漢字にしました)小説はまずない。
 念のために附記する。岡山県に人形峠はあるが、人形村も笹山村は、それに人形洞はない。


 篠田秀幸は、新本格ミステリブームが終わりそうな1994年、『蝶たちの迷宮』でデビュー。「この事件の犯人は、探偵である。またそれは、証人でもあり、同時に被害者でもある。のみならず犯人は、この小説の作者でもあり読者でもある」という作品だったが、はっきり言って失敗作、駄作だった。私見だが、講談社ノベルスから出版された「新本格」系統の作品では、高原伸安『予告された殺人の記録』に次ぐ駄作だろう。
 二冊目は無理だろうと思っていたが、角川春樹事務所のハルキ・ノベルスから精神科医の名探偵弥生原公彦シリーズが出版される。デビュー作『悪霊館の殺人』(1999)は探偵小説風味の本格ミステリだが、二作目『幻影城の殺人』(2000)は、岡山県笠岡市に造られる「角川映画」をモチーフとした「映像と夢の『ハルキ・ワールド』」という巨大テーマパークを舞台とした連続殺人という、太鼓持ち小説である。そして三作目が本書であり、この作品から過去の有名事件や歴史的事件と現代の事件を絡ませた謎を解くという趣向が出てくるようになる。四作目以降は読んでいないのでわからないが、少なくとも評判になったという話は聞いたことがない。その割にシリーズとして続いていることも確かだが。
 以後、『法隆寺の殺人』(2001)は山背大兄王と聖徳太子、『帝銀村の殺人』(2002)は帝銀事件(この作品では、帝銀事件研究家として作者と同名人物が出てくる)、『鬼首村の殺人』(2003)は下山事件、『悪夢街の殺人』(2003)は不明、『龍神池の殺人』(2004)は宮崎勤事件、『卑弥呼の殺人』(2005)は邪馬台国、『神々の殺人』(2006)は記紀神話、10作目。今のところ、10作で終わっているらしい。
 他の作品で実在事件がどのように取り扱われているのか。さすがに確かめる勇気は、私にはない。


【参考資料】
 篠田秀幸『人形村の殺人』(ハルキ・ノベルス)


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