西村望『鬼畜 《阿弥陀仏よや、おいおい》』




 樫尾卯吉は高知の山峡にはりついた小集落に生まれた。唖のように物いわぬ子だった。徴兵をのがれて流浪の生活が始まった時、彼の人生は狂った。――捕えられて入営、やがて脱走、放火、殺人未遂、軍法会議。人生をやりなおそうと思った時もあったが、所詮、鬼畜のような殺人人生だけが彼の宿命だったようだ。酸鼻な犯罪行為と息をのむ現場描写で、著者が新ジャンルを開拓した社会派ドキュメント! (粗筋紹介より引用)
 1978年5月、立風書房より書き下ろし刊行。1981年、文庫化。

 ノンフィクション・ノベルを数冊書いている西村望の作家デビュー作。本作品は、「四国の鬼熊」事件とも言われている四国連続6人殺害事件を題材にしている。事件の概要は以下である。

 1963年9月25日、高知県出身のM(42)は強盗事件他で懲役5年の刑と、仮出所時代の残刑を合わせて服役していた高松刑務所から出所し、郷里の弟の家に行くも6日後に失踪。10月2日深夜、高知県中村市の町外れの雑貨商に盗みに入って見つかり、主人の男性(34)の胸を包丁で突き刺して重傷を負わせた。その後、山中に逃げ込んで野宿を重ね、中土佐町まで逃げ延びた。10月9日午前2時頃、小学校の用務員宿舎に侵入し、発見した女性用務員(49)を斧で殺害。現金490円を奪って逃走した。その後、徳島県まで逃げ、窃盗を重ねた。
 10月14日夜、徳島県三好郡池田町の池田町上水道管理事務所に侵入するも、住み込みの町職員の男性(50)に見つかり、斧で殺害。さらに妻(50)、三女(13)、里帰りしていた長女(30)と二人の長女(4)と長男(2)を斧で襲撃し、虫の息の長女を強姦した。翌日午前11時頃に近所の人が発見し、警察に連絡が入って駆けつけたところ、4人が既に死亡。かろうじて息が合った妻と三女が病院に運ばれたが、妻も死亡した。三女は重体であるも、後に回復する。ただちに手配されたものの、Mは15日午後9時半頃、池田駅から3つ目にある箸蔵駅付近にある日用雑貨店に侵入。主人(34)を斧で脅し、現金2000円を奪って逃走した。
 20日午前3時半頃、Mは香川県三豊郡豊浜町の雑貨店に侵入。気付いた妻をツルハシで滅多打ちにして瀕死の重傷を負わせ、助けようとしてつかみかかった夫にも重傷を負わせた。見つかるまでに電話線を切って現金170円パンやカーディガンを盗み、茶の間の汁を食って逃走した。
翌日、徳島、香川、愛媛の合同捜査本部が設けられ、3県合同で数千人規模の山狩りを実施した。22日午前2時頃、逃走中のMは愛媛県川之江市の部落にある一軒家の農家で、鶏を盗んで逃走。午前7時20分、山中でMは警察に見つかり、逮捕された。犯行現場に残された指紋から、名前等は既に判明していた。
 Mは大正10年、高知県長岡郡生まれ。父親は郵便局の集配人。
 高等小学校卒業後、土工や鉱夫として働いていたが、16歳の時に窃盗で検挙された。その後は職業を転々とするも、徴兵から逃れるため、昭和17年、朝鮮へ逃亡。翌年、朝鮮人になりすまして日本へ帰国するも、働いていた工事現場で顔見知りがいたため身許がばれ、連れ戻される。昭和19年、入隊が決定して行くだけの合間に、隣部落の娘の家へ侵入。戦時住居侵入、強姦の容疑で検挙されるも、そのまま軍隊に入れられた。しかし風当たりが厳しいことと、元々軍隊嫌いだったため、10日で兵営を脱走。郷里に戻り、山に隠れていたが、入隊直前で青年団長に侮辱されたことを思い出し、団長の家に放火し全焼させた。さらに団長の家族が身を寄せていた隣方にも火を付けた。追及が厳しくなって逃走したが、3月に池田町で逮捕された。そして営倉で拘禁中、逃亡を企てて看守兵士の銃剣を奪って重傷を負わせた。5月の軍法会議で無期懲役を言い渡され、広島刑務所に服役。昭和28年、日米講和条約に伴う恩赦で懲役20年に減刑。昭和31年6月、仮出所となり、郷里で洋服仕立業を初めて真面目に働くが、競輪に溺れるようになって金に困り、盗みを働くようになる。昭和32年9月に検挙され、懲役5年を言い渡された。前回の仮出所の残り8年もあったが、後に減刑され、昭和38年9月25日、刑期2年を残して仮出所。郷里の弟の家に落ち着くも、6日目に飛び出していた。
 Mは強盗殺人2件(死者6人、重傷1人)、強盗殺人未遂2件(重傷3人)、強盗1件、強盗殺人予備1件、窃盗9件、強姦1件(これは不起訴?)で起訴された。
 1964年3月3日、徳島地裁で求刑通り死刑判決。1965年8月5日、高松高裁で被告側控訴棄却。1966年3月31日、最高裁で被告側上告が棄却され、死刑が確定した。
 1970年10月29日、大阪拘置所で死刑執行。

 佐木隆三『復讐するは我にあり』が1975年に直木賞を受賞したことにより、ノンフィクション・ノベルというジャンルが脚光を浴びるようになったが、それに触発されたのだろうか。1978年に本作でデビューする。
 本作品の主人公、樫尾卯吉が生まれてから逮捕されるまでを、順に追って書いている。さながら、樫尾卯吉の伝記のようにだ。そしてそれは、犯罪記録そのものともなっている。20歳過ぎで逮捕されてからは、そのほとんどを刑務所で過ごしている。刑務所の中では比較的真面目だったようなので、無期懲役のまま刑務所にいればよかったのにと本人も思っていることだろう。
 それにしても、最後の連続殺人事件は酷すぎる。腹が減ったら奪い取り、邪魔をすれば殺すだけ。特に一家6人殺傷の残酷さは目を覆うばかりである。まさに本のタイトルにあるとおり、「鬼畜」の行為である。作者は、そんな鬼畜な行為を淡々と、しかし事細かに記している。それは陰惨すぎて恐ろしい。人間、ここまで恐ろしいことができるのだろうかといいたくなるぐらい、非道い光景である。
 しかし作者はあとがきでこう述べる。「もし同じような立場に立たされたら、おそらく何人かの人間が樫尾と大同小異の行動をするのではないか」。

 副題の「阿弥陀仏よや、おいおい」は、『今昔物語集、巻第十九、第十四話』に治められている話から来ている。
 讃岐の国にいた源太夫(げんたいふ)は、鹿鳥を狩り魚を取る、殺生をもってなりわいとするきわめて猛々しい男であり、人の首を切ったり足や手を折ったりせぬ日の方が少なく、因果を知らず三宝を信じなかった。ある日、家来とともに帰る途中、お堂で講(仏様やお経を供養する法要)が行われていた。源太夫は乗り込み、講師に話を迫る。講師は西西方には阿弥陀仏がおり、罪人でも公開して「阿弥陀仏」を唱えれば迎え入れられ、浄土に生まれ変わって仏となることができると教えた。源太夫はその場で頭を剃って出家し、家来を置き、入道となって鉦をたたき「阿弥陀仏よ。おおい。おおい」と呼びながら、ひたすら真っ直ぐ西へ向かっていった。そして西にある高い峰で阿弥陀仏が応えてくださった。七日後、入道は同じ場所で西を向いたまま、往生を遂げていた。口から蓮華が一本生えていた。

 樫尾卯吉は命のある限り逃亡を続けていく。「鬼畜」と呼ばれるような人生の中で、かれはどのような気持ちで彷徨い続けていたのだろうか。もし阿弥陀仏を唱えることで往生できるのなら、ひたすら唱えていたに違いない。

 樫尾卯吉という名前であるが、おそらく長江三郎『その男を追え 捜査実話シリーズ徳島編』(立花書房 はなブックス)に出てくる梶本康吉という名前をヒントにしたものと思われるのだが、もしかしたら逆かな。

 西村望は1926年1月10日、香川県生まれ。南満州鉄道社員、新聞記者、テレビレポーターなどの後、1978年、52歳のときに『鬼畜』でデビュー。『薄化粧』『丑三つの村』『刃差しの街』で直木賞候補になるも受賞できず。当初は犯罪小説が中心だったが、その後は時代小説を中心に執筆している。弟は作家の西村寿行。

【参考資料】
 西村望『鬼畜 《阿弥陀仏よや、おいおい》』(徳間文庫)
 長江三郎『その男を追え 捜査実話シリーズ徳島編』(立花書房 はなブックス) 第八話 殺人鬼

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