松本清張『小説帝銀事件』




 帝銀事件は世にも残虐な男の冷静な仕業である。犯行の奥にある冷たく暗い、非人間的な意志。何が何でも犯人を仕立て上げようとする検察当局の権力意志。作者は、旧軍部関係者のなかに犯人を捜そうとした警視庁方法が、GHQという壁にぶつかり退却したと推理し、また平沢のアリバイ成立の可能性を示唆する。清張ドキュメント。(粗筋紹介より引用)
 『文藝春秋』1959年5〜7月号掲載。第16回文藝春秋読者賞受賞。同年、文藝春秋より刊行。1961年8月、角川文庫化。

 R新聞論説委員仁科俊太郎は、ホテルで会った元警視庁幹部である岡瀬隆吉との会話中、不用意に「あの時は、アンダースンがね……」と漏らして後悔の色を見せて話題をずらしたことに興味を抱き、資料を取り出して帝銀事件のことを調べる。アンダースンとは、GHQで防諜部門を受け持ち、特務機関を作っていた人物であり、占領当時の米軍の犯罪時には必ず横やりを入れていた。

 帝銀事件は、1948年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行)椎名町支店で起きた大量毒殺事件。死亡者12名というのは、個人による殺人事件では戦後最悪の人数だった(現在は、2008年10月1日に発生した大阪個室ビデオ店放火事件における16人が最悪)。東京都防疫班の腕章をした男性が、集団赤痢の予防薬と偽って青酸化合物を飲ませ、現金16万円や小切手を奪った強盗殺人事件である。警察は当初、旧陸軍731部隊関係者を中心に捜査していたが、捜査は行き詰まり、さらにGHQによる旧陸軍関係への捜査中止が命じられた。そこへ、残された名刺より犯人を追いかけていた捜査班が8月21日、テンペラ画家の平沢貞通を小樽市で逮捕した。
 平沢は一度犯行を自供するも、その後は否認。1950年7月24日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1951年9月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。1955年4月6日、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。
 「平沢貞通氏を救う会」が結成され、超党派の国会議員や文化人などによる救援活動が展開された。
 平沢は死刑確定1ヶ月半後の1955年6月に第1次再審請求を提出。平沢の死まで計17回の再審請求、5回の恩赦出願を行っているが、いずれも棄却されている。
 平沢は1962年11月24日、仙台刑務所へ送られた(「仙台送り」)。当時東京拘置所には死刑場がなかったことから、仙台刑務所で執行が行われており、「仙台送り」は執行の準備が整ったことを意味していた。法務省は執行を狙っていたが、「救う会」は執行素子の大々的なアピールを繰り返し、国会で中垣国男法相が執行する考えのないことを発言するに至った。以後も法務省は執行のチャンスを狙っていたが、法相のいずれもがサインをしなかった。逆に、「救う会」による恩赦出願はいずれも棄却された。1985年には死刑確定後30年経ったことから、刑法31条を元に「死刑の時効」を訴える裁判を起こしたが、却下されている。
 平沢は1985年4月、八王子医療刑務所に移送された。1987年5月10日、肺炎で死亡。95歳没。39年間に渡る獄中生活は14,142日を数え、確定死刑囚としての収監期間32年は当時の世界最長記録であった。
 平沢の死後、2度の再審請求(第18次、19次)が行われたが、第18次は棄却、第19次は請求人である平沢の養子が病死したため、2014年に棄却されている。

 本作品は戦後犯罪史に名を残す帝銀事件について小説風に書き記したものである。論説委員の仁科が元警視庁幹部との会話をきっかけに事件を振り返る形になっている。描かれたのは死刑確定から4年後。世間ではまだまだ平沢有罪説も根強かったようで、小説内でも仁科俊太郎の妻が平沢憎しの発言をしている。
 事件から捜査、そして平沢の逮捕から自供までを丹念に追いかけ、所々で疑問点を投げかけている。ただし、その時点で終わりなのだ。資料を読み終わった仁科も、疑わしいところがあると思うレベルで終わっており、本事件の真相を追うような展開はどこにもない。語り部が仁科である必要など全くなく、これだったら普通に事件を記せばよかったのにと思ってしまう。この歯切れの悪さはいったい何だろう。事件の真相の一端ぐらい触れてもらわなければ面白くない。
 結局、帝銀事件の表面的な全容をまとめるだけに終わった作品である。清張は後に『日本の黒い霧』で帝銀事件を追いかけることになるが、個人的には本作品の増補版という形で出してほしかったと思う。

【参考資料】
 松本清張『小説帝銀事件』(角川文庫)

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