折原一『冤罪者』




 ノンフィクション新人賞を受賞した五十嵐友也は授章式の帰り道、あるアパートの2階から火が出ているのを発見し、踏み込んでみたら、そこには両手両足を粘着テープで縛られ、首を絞められた女性の死体があった。その女性の顔と下半身は焼けこげていて、そして暴行された後があった。それが中央線沿線連続女性暴行殺人事件の始まりだった。その後5件同様な事件が続き、そして7人目の犠牲者は五十嵐のフィアンセであり、事件を一緒に取材していた週刊誌の編集者水沢舞であった。そしてその事件で精液等の手掛かりが見つかり、容疑者河原輝男が捕まる。河原は容疑を否認するが、7人目のみの犯罪で裁判に掛けられ(他は証拠不十分で不起訴)一審で無期懲役の判決。ところがその後、河原から五十嵐のもとへ無罪を訴える河原からの手紙が来て、五十嵐は取材を再開する。その後、決定的な証言が出て河原は無罪判決を得ることが出来た。しかし、それは新たな事件の始まりでもあった……。

 叙述トリックや密室ユーモア作品などで人気のあった折原一の、初の社会派ミステリ。1997年、書き下ろしで発表。

 本作品で題材としているのは、1968年から1974年にかけて千葉県、埼玉県、東京都で発生した首都圏女性連続殺人事件である。マスコミによっては、1974年の7件のみを指すケースもある。小説では、中央線沿線連続女性暴行殺人事件という名前で、12年前の1983年6月から9月にかけて、中野、高円寺、阿佐ヶ谷近辺の住民を恐怖で震撼させた7件の連続殺人事件に変わっている。
 Wikipediaより引用すると、以下のような経緯をたどっている。

 連続殺人とあるが、1件については別の犯人が逮捕されて解決しているし、1件については犯人の血液型が異なることから、残りについても同一犯による物かどうかについては疑問も残っている。このうち、7月3日の事件についてのみ、小野悦夫が逮捕された。この事件については、「松戸OL殺人事件」とも呼ばれている。

 1974年7月3日午後10時頃、犯人は国鉄馬橋駅西口前の路上を歩いていた千葉県松戸市の信用組合事務員の女性(19)に刃物を突きつけ、近くの建築中のマンションに連れて行き暴行。送っていこうとしたところ、女性が逃げ出したため、女性の着ていたスカートの吊り紐で首を絞めて殺し、午後11時過ぎ、遺体を近くの宅地造成地に埋めた。遺体は8月8日に発見された。
 犯人の血液型がO型であったこと、目撃証言などから、足立区に住む建設作業員、小野悦男(当時38歳)が捜査線上に上がる。小野は窃盗・詐欺・住居侵入・傷害・常習累犯窃盗などで前科8犯、服役13年。松戸署捜査本部は9月12日、別件の窃盗容疑(6月に馬橋のマンションからカラーテレビなど50余万円相当を盗む)で小野を逮捕。この時点で、各マスコミは小野を連続殺人事件の犯人として報道した。30日、馬橋のアパートで6月に起きた強姦事件(2階の女性の部屋に忍び込み、刃物で脅して強姦)で小野を再逮捕。当初は過去に放火で逮捕されていることから、当初捜査本部は小学校教師の事件を重点に取り調べていたが、11月に信用組合事務員の女性殺人事件を取り調べるようになる。11月22日、小野は女性殺害について自白。12月1日、小野が捨てたとされる雨傘が造成地のドブから、4日に川の土手から定期入れなどが発見された。12月5日、千葉地裁松戸支部で別件の初公判が開かれ、小野は窃盗と強姦を大筋で認めた。12月9日、女性殺人容疑で小野を再逮捕した。しかし12月31日、千葉地検松戸支部は起訴を見送って処分保留とした。翌年1月21日、下水溝から女性のものと思われるスカートのつりひもが、2月10日に同じ下水溝から女性のものと思われる衣類や靴が詰め込まれた雨用ズボンが発見される。このズボンが、小野が現場近くの工事中のマンションから盗み出した物と判断。3月12日、小野を殺人、死体遺棄容疑で起訴した。窃盗・強姦事件と併合された。
 起訴直前から「小野悦男さん救援会」が結成され、小野被告への差し入れや面会、弁護団への調査協力などを重ねる一方、事件をめぐる報道のあり方についても批判活動を行った。
 1975年6月6日から始まった裁判で小野は無実を主張。弁護側は、「雨傘等は死体発見場所から200mしか離れてない場所にあったのに、事件直後の捜索では見つからず、100日あまりも後になって自白で見つかったとするのは不自然」「定期入れ等についても、当初から徹底的な操作が行われているのに、半年後に始めて発見されるのは不自然」「衣類投棄の自白は方法や場所が著しく変換している」などから、捜査官があらかじめ発見していたか、ねつ造した物証を被告の自白に無理やり押し付けた」と主張。弁護側は自白の信用性ばかりでなく、その任意性も「違法な別件逮捕による長期拘置のもと、捜査官が強制、誘導した」と全面的に否定した。また、事件当日のアリバイも主張した。
 裁判は長期化。代用監獄など拘置が182日間に及んだことから、終盤の71日間の自白調書は、千葉地裁松戸支部が「違法な取り調べで得られた」として証拠から排除した。1986年9月4日、「自白は信用できる」として、求刑通り無期懲役判決を言い渡した。
 1991年4月23日、東京高裁は一審判決を破棄し、無罪判決を言い渡した。裁判長は、「捜査当局は被告を代用監獄である警察留置場に拘置し、自白を強要しており、任意性は認められない」として自白調書の証拠能力を否定。信用性についても「供述は不自然、不合理で、物証の発見も真犯人のみが知りうる『秘密の暴露』とは評価できない」と述べた。証拠の発見経緯についても、捨て場所を指示したことを裏付ける供述調書がないうえ、発見時に被告が現場に立ち会っていない点などをあげ、「捜査官の偽装とまでは断定できないが、理解しがたい不明朗な事実が多すぎる」とし、捜査のあり方に疑問を投げかけた。別件の窃盗、強姦事件は有罪と認定し、懲役6年が小野に言い渡されたが、拘置日数のうち量刑相当分を刑期に算入したため、小野は閉廷後、約16年半ぶりに釈放された。検察側は上告を断念し、無罪が確定した。小野には、未決拘置期間6068日のうち別件で有罪となった6年を差し引いた3871日を対象として総額約3650万円(一日当たり9400円)が刑事補償で支給された。
 小野は「冤罪のヒーロー」として騒がれ、代用監獄制度廃止を求めた集会などで経験談を語った。
 しかし小野は1992年に窃盗事件を起こし、懲役2年の実刑判決を受けた。
 出所後足立区に住んでいた小野悦男(59)は、家出をしてきた茨城県出身の女性(41)と区内の公園で知り合って同居するようになった。しかし1996年1月5日、小野は家事をしない女性と口論になり、バットで頭を殴って殺害。頭部と陰部を切り取り、リヤカーでゴミと一緒に駐車場へ運び、遺体に火を付けた。9日、女性の死体が発見された。警視庁は小野が犯人ではないかと睨んだものの、過去のことを考え慎重な捜査を続けた。
 4月21日午後4時40分頃、小野は都内の公園で遊んでいた女児に声をかけて自転車に乗せ別の公園へ連れて行ったが騒がれたため、口を塞いで首を絞めるなどして殺害しようとした。女児は午後9時頃に通行人が発見し、近くの救急センターに運ばれ、意識が回復した。4月26日、警視庁捜査一課が殺人未遂とわいせつ目的誘拐などの疑いで逮捕した。
 4月27日、遺体を運んだ布団に付いていた体液が、小野のDNAと一致。5月2日、小野の自宅裏の中から、布に包まれた頭蓋骨とノコギリが発見された。また冷蔵庫から、切り取られた陰部が発見された。
 5月8日、小野は両事件について上申書を提出。同日夜、弁護人の野崎研二弁護士が東京地裁内の記者クラブで会見し、小野が容疑を大筋で認めるに至った心情などについて記したコメントを発表した。
 1998年3月27日、東京地裁で求刑通り一審無期懲役判決。1999年2月9日、東京高裁で被告側控訴棄却。そのまま刑が確定した。

 『冤罪者』に出てくる河原輝男は、中央線沿線連続女性暴行殺人事件の犯人として騒がれ、最後の1件のみで起訴され、一審無期懲役判決を受けるも、二審で無罪となり、釈放される。小説の後半は、釈放後の話となっている。河原の経歴は、小野悦夫とダブるところが多い。
 冤罪というテーマを核にしているせいか、中身はとてつもなく重い。といっても文章そのもののリズムはよいので、テンポよく読むことが出来る。一応叙述トリックが入っている(このテーマで叙述トリックを入れること自体が凄い)ものの、主眼となるのは水沢舞殺しの犯人は誰かと言うこと。本当に河原は無罪なのか、それとも有罪なのか。事件を取り巻く人たちを巻き込みつつ、衝撃のエンディングへと向かっていくその展開はお見事。主人公や脇役の心理描写にも納得できるものが多く、思わずそうだよなと頷いてばかりいた。折原、久々の傑作。
 こういう「冤罪」ものを取り上げた本って、大体はどちらかに偏ったものが多いので不愉快になることが多いけれど、今回は一応両方の言い分を載せているので満足。証拠不十分な事件が起きると必ず「冤罪」「無罪」と大々的に声を挙げる「人権」論者って多いけれど、時にはものすごく不愉快なんだよって、誰か教えてあげてほしい。

【参考資料】
 折原一『冤罪者』(文藝春秋)


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