金井貴一『毒殺―小説・帝銀事件』(廣済堂出版)




 昭和23年1月、東京の帝国銀行椎名町支店で惨劇は起きた。行員たち十六名が、「GHQの命令で消毒に来た」という男に青酸性と思われる毒物を飲まされ、次々と倒れていった。警視庁は捜査員一万五千人以上という未曾有の体制で犯人の手掛かりを追う。一方、事件を知って顔色を変えた男がいた。彼は戦時中、満州第七三一部隊に送り込まれ、細菌研究に従事していたが、毒物の種類、それを飲ませる手口などに共通点を感じたのだ。捜査の手はやがて、彼の周辺にも及ぶ。戦争のために別れたままになっている恋人を探すため、北日本へ向かう男は、容疑者として追われる。しかし、捜査の方向はGHQ関係からと思われる圧力によって奇妙にねじ曲げられ、真相はより深い闇の中へと―。昭和史に新たな光を当てる長篇本格推理。(「BOOK」データベースより引用)
 1999年3月、書き下ろし刊行。

 帝銀事件は、1948年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行)椎名町支店で起きた大量毒殺事件。死亡者12名というのは、個人による殺人事件では戦後最悪の人数だった(現在は、2008年10月1日に発生した大阪個室ビデオ店放火事件における16人が最悪)。東京都防疫班の腕章をした男性が、集団赤痢の予防薬と偽って青酸化合物を飲ませ、現金16万円や小切手を奪った強盗殺人事件である。警察は当初、旧陸軍731部隊関係者を中心に捜査していたが、捜査は行き詰まり、さらにGHQによる旧陸軍関係への捜査中止が命じられた。そこへ、残された名刺より犯人を追いかけていた捜査班が8月21日、テンペラ画家の平沢貞通を小樽市で逮捕した。
 平沢は一度犯行を自供するも、その後は否認。1950年7月24日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1951年9月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。1955年4月6日、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。
 「平沢貞通氏を救う会」が結成され、超党派の国会議員や文化人などによる救援活動が展開された。
 平沢は死刑確定1ヶ月半後の1955年6月に第1次再審請求を提出。平沢の死まで計17回の再審請求、5回の恩赦出願を行っているが、いずれも棄却されている。
 平沢は1962年11月24日、仙台刑務所へ送られた(「仙台送り」)。当時東京拘置所には死刑場がなかったことから、仙台刑務所で執行が行われており、「仙台送り」は執行の準備が整ったことを意味していた。法務省は執行を狙っていたが、「救う会」は執行素子の大々的なアピールを繰り返し、国会で中垣国男法相が執行する考えのないことを発言するに至った。以後も法務省は執行のチャンスを狙っていたが、法相のいずれもがサインをしなかった。逆に、「救う会」による恩赦出願はいずれも棄却された。1985年には死刑確定後30年経ったことから、刑法31条を元に「死刑の時効」を訴える裁判を起こしたが、却下されている。
 平沢は1985年4月、八王子医療刑務所に移送された。1987年5月10日、肺炎で死亡。95歳没。39年間に渡る獄中生活は14,142日を数え、確定死刑囚としての収監期間32年は当時の世界最長記録であった。
 平沢の死後、2度の再審請求(第18次、19次)が行われたが、第18次は棄却、第19次は請求人である平沢の養子が病死したため、2014年に棄却されている。2015年に遺族が第20次再審請求を行った。

 戦後の混乱期に起きた帝銀事件であるが、毒物の知識がない平沢貞道が犯人であると信じているのが世の中に一体何人いるのだろうか。予防薬と偽って自らが実演してみせ、行員たちに毒物を飲ませる手際の良さなどから、毒物の知識があるものが犯人であると当時から言われていたにも関わらず、GHQによる旧陸軍関係への捜査中止が命じられたことからしても、旧陸軍731部隊関係者などが関わっていた可能性は高いと思われる。
 帝銀事件については真犯人像やその背景、さらには毒物についてなど、様々な観点から語られることが多い。必然的に、それに関するノンフィクション、研究書は多い。それと同時に、この事件を取り扱ったミステリも存在する。本書もそんな一冊である。
 昭和22年10月、偽名を名乗り、八木桐子とともに満州から引き揚げてきた小原沢誠次と酒木善信。小原沢は故郷の能登に戻るも、小原沢は敵前逃亡を企て射殺されたことになっていた。そして非国民の母親と村中から後ろ指を指された母親は自殺していた。結婚する予定だった木次綾子の兄はマルキストということで拷問され、家族は家に火をつけて心中。そして綾子は結核で入院し、そのまま行方不明になっていた。綾子の消息を追い、綾子の両親の骨をひきとった左翼の活動家を探すために東京へ来る小原沢。東京で酒木と再会するも、戦犯指定されていると聞き、担ぎ屋をしながら息をひそめて生きていた。酒木も小原沢も、関東軍防疫給水部隊、別名満州第七三一部隊に所属していた。何をする部隊なのか知らないまま、医師の手伝いをしていたというだけで配属されたものだった。
 目白署刑事課の若狭武史警部補は帝銀事件の一報を聞き、現場に駆けつけると、既に現場は消防署員や近所の人物に踏み荒らされた状態だった。事件はそのまま検察庁が捜査を引き受ける。若狭が手掛けたGHQ方面への捜査は上からストップがかかった。警視庁捜査二課の成岡智郎警部補は帝銀事件の捜査本部に入り、捜査会議で軍の関係者が犯人ではないかと意見を出すも誰も取り上げようとしなかった。しかし藤村刑事部長は極秘で七三一部隊方面を捜査してほしいと命令する。

 作者の金井貴一はNHK、MBSなどでテレビドラマの脚本を数多く手がけている。その一方、谷川遼太郎の名義で江戸川乱歩賞に応募し、4回最終候補に残った。1998年に本名で下山事件を題材にした『謀略の鉄路』を発表。本書はそれに続く作品である。
 作者は後に谷川涼太郎名義で旅情ミステリを、瀬川貴一郎名義で時代小説を多数書いている。


 作者はあとがきでこのように書いている。「戦後日本の基盤をつくって来たのは、果たして日本人だったのかという、素朴で大きな疑問です」。戦後日本の形が日本人の意思で掴み取ったのではなく、何者かの意思が介在していたのではないか、今の日本という国は、砂土に組み上げられた楼閣のような危うさがあるのではないか、と。そんな疑問への答えを、昭和二十年代前半に起きたいくつかの不可解な事件が用意してくれているような気がする、ということで書かれた作品の一つが本書である。
 とはいえ、本書の書き方をされると、今の日本の形成にアメリカが大きくかかわっていたとしか読めないのだが、何をいまさらという気がしなくもない。アメリカが大きくかかわらなければ、日本は再生できなかったのだから。

 本書では七三一部隊、そしてGHQが帝銀事件に関わってきたという形になっており、戦争や事件という運命に巻き込まれた一人の男が追われながらも恋人の姿を求めて逃避行を続けるというストーリーとなっている。
 犯人とされた平沢貞道の実名が出てくるなど、事実と虚実がないまぜとなっているが、それは作者の狙いとのこと。それだったらもう少しノンフィクションで書かれた疑問点を表に出してもよかったと思うのだが、それはドラマに不要と作者が判断したのだろう。結局メロドラマに近い仕上がりになっており、最初からそう思って読む分にはまあまあ楽しめるが、事件の重さ、そして小説の長さの割には小説の重みには欠けているだろう。

 何といっても本書の不満は終わり方。小原沢側のドラマはまだしも、追う刑事側はいったい何をやっているのだろうと聞きたいところ。ここまで真相に迫りながらも、その後の平沢の逮捕には何ら関与していないのだ。エピローグの意気込みが、その後に全く関与してこない。この乖離が、最後のがっかりした読後感につながっている。
 結局、脚本家による映像映えするドラマの盛り上がりしか考えなかった、そんな作品に終わっているのが残念。帝銀事件にGHQや七三一部隊の関与なんてありふれた材料だし、もう少し新しい何かを見せてほしかった。


【参考資料】
 金井貴一『毒殺―小説・帝銀事件』(廣済堂出版)
 Wikipedia「金井貴一」項。

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