西澤保彦『なつこ、孤島に囚われ。』(祥伝社文庫)

 異端者にして耽美主義者、百合族作家・森奈津子は、パーティーの流れから洋風居酒屋で同業者の倉阪鬼一郎、牧野修と飲んだ帰りの途中、ゴージャス美人に拉致されて、気が付いたら離れ小島の別荘にひとりぼっち。もっとも、別荘は冷房完備、テレビOK、プールはあるし、食べ物飲み物ぎっしり、海は美しく毛蟹が食べ放題ビール飲み放題。本棚には異端者・耽美主義者好みの本がぎっしり、しかも森奈津子の著書は完全揃い。まさにパラダイス。向かいにも島が見えて、双眼鏡で覗くと、そこにはどうやら男性の姿が。こちらを<ユリ島>、向かいを<アニキ島>と名付け、締切忘れてくつろぐ奈津子。1週間後、警察の救いの手が。と思ったら、<アニキ島>で死体が発見。漫画家野間美由紀に事件のあらましを説明するととんでもない推理が……。

 タックシリーズでおなじみ、「とんでもない設定にあれやこれや推理して適当な解決を勝手に付ける」タイプの中編バージョン。設定にページを取りすぎたことと、推理する材料があまりにも乏しいので、一体何が適当な解決か見当の付けようがないまま終わってしまった。この手のタイプの小説は、あれやこれや様々な推理が出てくるから楽しいのであって、中編には向いていない。事実、推理も何もなく、「ただ巻き込まれました」だけで話が終わってしまった。実在の作家たちが出てこなかったら、もっとつまらない小説になっていただろう。キャラの面白さだけを楽しむ小説。それ以上のものは何もなし。西澤としては、初の駄作と言っていいだろう。過去に失敗作はあっても駄作はなかった作家だけに残念。




K・O『真相 死刑囚舎房 上』(徳間書店)

 下巻を持っていないのだが、絶版なので、現在探求中。帝銀事件や三鷹事件、こういう見方もあったんだと思った次第。いずれコーナーに反映させます。




鯨統一郎『千年紀末古事記伝 ONOGORO』(ハルキ文庫)

 稗田阿礼が倭の全ての歴史を感知し終えた。女盛り、35歳の阿礼は太安万侶に全てを話す。倭の民がどこから来たのか、そして倭の秘密とは。淤能碁呂とは一体何だったのか。

 「※古事記の真相に触れています」との但し書きがあるように、鯨統一郎版古事記の真相本。古事記にある数々の矛盾を今解き明かす……というほどではない。倭の民がどこから来たのかを思い付き、そこから数々の古事記の物語を当てはめていった、という方が正しい作品。『古事記』を知っている人から見たら「こんな茶番を思い付いたな」と思うに違いない。途中、密室が出てくるのはご愛敬。『古事記』鯨統一郎翻案と言った方が正しいだろうか。オリジナルとはちょっと言い難い。最後は悪のりしすぎ。
 ただ、平易な文章で書かれているので、この作品から本物の『古事記』を読みたいと思う人が出てくれたら……無理か。




戸梶圭太『赤い雨』(幻冬舎文庫)

 ある日、日本全国に雨が降り出した。普通の雨ではなかった。ピンク色の雨だった。ピンク色の雨が降った時間は10分程度だったので、気付く人も少なく、特に話題にならなかった。しかし、その日から何かが変わった。デパートの店員に因縁を付ける常習犯、中学校の暴力恐喝犯、ヤクザ、詐欺商法……今まで市井の人は泣き寝入りしていた。ところがピンク色の雨が降った日から状況が変わった。市井の人が反撃を開始するようになったのだ。そして警察の目の前で公然と行われる私刑、犯罪者に対する一般人や警察の暴力、格段に増えた裁判の死刑判決、そしてテレビ中継の前で公然と行われる会社乗っ取り犯への処刑……。それらに対して日本中が驚喜する。「やられたらやり返す。日本人は我慢のしすぎだ。なぜもっと本気で怒らない。波風を立てることを恐れているばかり何だ。暴力をちらつかせることが必要なんだ。相手になめられてはいけない」 再び日本に赤い雨が降り、その傾向はより強くなった。どこもかしこも私刑が当たり前になった。
 ピンク色の雨が降った日、志穂は赤ん坊が死産だったことと、もう子供が産めない体になったことを知り、泣き通しだった。退院後、志穂は穏やかな生活を望んでいたが、テレビも、近所も、そして夫すらもテレビの私刑に興奮した。さらに嬉々として私刑に参加する夫に怯え、志穂は逃亡を謀る。

 やられたらやり返せ。警察は当てにならない。世の中は加害者に都合のよいように出来ている。だからといって私刑が許されるわけではない。しかし、仕返しはしたい。人間だったら、特に弱い立場の人間だったら一度は考えることだろう。そんな人間の奥底に潜んでいる願望を前面に出したサスペンス小説である。しかし、私刑が横行したらどうなるか。そんなことも教えてくれる小説である。
 しかし、その私刑に驚喜する一般民衆と、穏やかな生活を望む「普通の人間」である志穂とのギャップの激しさを前面に出すべきなのに、そこが今ひとつ。人が心の奥底に持っている狂気を書きたかったのか、それとも暴力がまかり通る世界での恐怖を書きたかったのか、そこがはっきりしない。そのため、物語の焦点が曖昧になってしまい、読者に恐怖感が伝わらず、ぼやけた作品に仕上がってしまっている。ホラー、サスペンス、どちらの分野から見ても中途半端に仕上がった作品。この人が持っている、テンポのよい読みやすさは健在なだけに、次はもっと焦点を合わせた作品を書いてほしいと思う。
 結局、戸梶圭太の欠点は、設定を考えすぎてページ配分に失敗し、結末が急ぎすぎて殴り書きになってしまうところだな。そこさえ直せば、物凄く面白い娯楽作品が書ける作者だと思う。




フレッド・カサック『殺人交叉点』(創元推理文庫)

 あの瀬戸川猛資が『夜明けの睡魔』(創元ライブラリ)で「フランス風小手先芸の極致。小手先芸もここまで来れば、芸術品というしかない」と誉めた「サプライズ・エンディング」の傑作。「サプライズ・エンディング」をあらすじで書くのは後から読む人にとって一種のネタ晴らしという気もしないではないが、まあ、色々なところで書かれた作品だから、今更ここで書いても反則ではないでしょう。しかも長らく絶版、文庫版は「誤訳」で有名だった作品。新訳決定版を待ち望んでいた読者は多かったに違いない。
 古典作品には二つの種類があって、「今読んでも十分面白い作品」と「当時読んだら面白いが、今では古びてしまい読めない作品」の2種類があると思う。残念ながら、「殺人交叉点」は後者。ミステリ初心者だったら「こういう手もあるのか」と驚くかも知れないが、ある程度ミステリを、特に最近の新本格を読みこなしている読者だったら、このエンディングにたどり着く前に真相が分かってしまうに違いない。そしてこの作品は、このエンディングさえ分かってしまえば、非常に退屈な作品なのである。「こんな古典もあるんだよ」という意味で読むにはよいかも知れない。そんな作品だった。ある程度、期待も大きかっただけに、がっくり来たのも事実である。
 併録の「連鎖反応」は乱歩が好みそうな「奇妙な味」の中編。けれど、フランスミステリにしてはゆっくりとしたサスペンスで、途中ちょっと退屈した。まあ、無難に面白い作品といえる。
 それでも、カサックが今頃になって読めるとは思わなかった。こうやって海外の様々な時代の作品を読めるというのは、実に幸せである。ありがとう、創元推理文庫。あとは生きている間にぜひとも、『ラッフルズの事件簿』を出してください。お願いします。




安原顯編『ジャンル別文庫本ベスト1000』(学研M文庫)

 現代小説、冒険小説、歴史小説、ノン・フィクションなど様々なジャンルのベスト50を取り上げ、簡単な解説を書いたガイド本。こういう本はどんな本がベストにあがっているのか、それだけを楽しみにしていればよい。読んだ本が挙がれば、自分の目が正しかったと思えばよい。読んだことのない本が挙がっていれば、面白そうだから手に取ってみようかと考えてみればよい。ガイド本とはそんなものである。なにもガイド本に挙がっている作品全部が名作とは限らないし、例え名作であっても、自分の読書傾向とは合わない作品も結構あるものである。あくまで指標であり、必ず全てを読む必要はない。ただの参考資料である。ただ「浅く広く」がモットーの私みたいな物好きは、一体何冊読んでいるかなどということを知りたくなるために、ついついこういう本を買ってしまう。悪い癖である。ということで早速数えてみた。

 ・現代小説(日本篇):50冊中0冊。ま、仕方がない。全く興味が持てない本ばかりだし。
 ・現代小説(海外篇):50冊中0冊。これも仕方がないか。
 ・冒険小説(海外篇):50冊中17冊。思ったより少ないな。ちょっとくやしい。
 ・歴史小説:50冊中1冊。『長い道』だけ。ははは。
 ・ノン・フィクション:50冊中0冊。だんだん寒くなってきた。
 ・海外ミステリー:50冊中22冊。なんだかセレクトが少しマニア過ぎないか?
 ・SF(外国篇):50冊中0冊。SFは全然読んでませーん。
 ・モダンホラー(外国篇):50冊中3冊。ホラーは苦手なんだって。
 ・伝記:50冊中0冊。誰が読むっていうの。
 ・エッセイ、詩の本、思想書:どれも当然0冊。
 ・宗教・オカルト本:ようやく2冊。泉鏡花と小泉八雲。これはオカルト本だったのか。
 ・精神世界の本:なぜか2冊。『菊と刀』『夢判断』。
 ・音楽の本:当然0冊。
 ・映画の本:『美女と犯罪』だけ1冊。
 ・コミック:50冊中4冊だけ。青年漫画のジャンルには全くと言っていいほど手を出していないからなあ。
 ・ノン・ジャンル(紀田順一郎):50冊中2冊。『アシェンデン』と牧逸馬。
 ・ノン・ジャンル(石堂淑朗):『黒死館殺人事件』のみ。
 ・ノン・ジャンル(辻邦生):こちらは0冊。
 ・ノン・ジャンル(安原顯):『フロスト日和』も途中なので、0冊。

 こうしてみると、全然読んでいません。しかし、読んでいないからといって、ここに紹介されている本を読もうという気は全然起きません。所詮そんなものです、人間って。全部のジャンルをカバーしようなんて、これっぽちも思いません。




別役実『探偵X氏の事件』(王国社)

 見事な推理力に洞察力。積極的探偵X氏に解けない謎はない。事件がなければ自分で探す。探してもないときは、自分で起こす。そして素晴らしいほどのスピード解決に、街の人みんなから嫌われる(笑)。思いがけない事件設定、ナンセンスなトリック、誰にも考えつかない意外な解決。そしてみんなで納得してしまい、街に平和がおとずれる(笑)。連作ショート・ミステリの傑作です。不可能犯罪あり、密室あり、誘拐あり、盗難あり、連続殺人あり、ダイイング・メッセージあり、もうトリックの宝庫。とにかく一度読んで、笑ってみてください。  中学生の頃、北海道新聞の日曜版で読んでいました。本になっていたことを知らないうちに絶版になっており、長年探していた本でしたが、黒白さんより譲っていただきました。有り難うございました。




森達也 監修デーブ・スペクター『放送禁止歌』(解放出版社)

 1999年5月22日深夜、というより23日早朝「放送禁止歌!唄っているのは誰?規制するのは誰?」というドキュメンタリーが放送された。この本は、4章に分かれている。第1章は、ドキュメンタリーの出発点、テレビから消えた放送禁止歌についての企画、そしてどこで規制されているかという追跡。第2章は「竹田の子守唄」「網走番外地」など、なぜ放送禁止歌となったのかについて。第3章は森達也とデーブ・スペクターの対談。放送禁止歌に対する日本とアメリカとの違いについて。そして第4章、部落差別と放送禁止歌についてである。  私は「放送禁止歌」という存在は知っていた。なぎら健壱「悲惨な戦い」やつぼイノリオ「金太の大冒険」などだ。単純にいえば、露骨な性表現に関することを連想させる曲が「放送禁止歌」だと思っていたのだ。
 かつて、チェッカーズが紅白歌合戦に出たとき、「NANA」で出演したいといったら「やろうぜ、NANA」という歌詞が性行為を連想させるのでやめてほしいというクレームが付き、結局「SONG for USA」になったという新聞記事を読んだことがある。放送禁止後も含め、私はその程度の問題だと思っていたのだ。
 しかし、この本を読むとそんな簡単な、甘っちょろいものではないことが分かる。岡林信康や友部正人、三上寛、頭脳警察、泉谷しげる……当時のフォーク世代の曲の多数が「放送禁止歌」に触れているではないか。最初の頃は、政治的、反社会的なメッセージを含む歌は規制されていたらしい。本来、フォークってそういうものだろうと思うのだが。
 これが70年代にはいると、歌詞全体の意味よりも、部落差別、それに差別用語などの言葉そのものが問題となり、規制されるようになってきたというのだ。「まま子」「みなし子」「おし」「びっこ」……。さらには「支那」「蘇州夜曲」といった戦時中の蔑称。北島三郎の「ブンチャカ節」(デビュー曲)が、歌の合間に入る「キュッ、キュッ、キュー」という合いの手が、ベッドの軋む音を連想させるから放送禁止だなどとなると、もう呆れるしかない。ところが、ところが、話はそう簡単なものではなかった。
 森は日本民間放送連盟の番組・著作権部、村澤繁夫部長に取材する。驚くことに、「要注意歌謡曲一覧表」というものはあるが、1983年度版を最後に刷新していないのだ。しかもそこには、「網走番外地」「手紙」「イムジン河」「自衛隊に入ろう」「チューリップのアップリケ」「竹田の子守唄」……は入っていない。どのディレクターに聞いても、「これは放送禁止だ」と言われた曲は全然入っていないのだ。結局、メディアの誰もが「異論を唱える発想がない」のだ。クレームが付く前に臭い物に蓋をする。それが現状である。「放送禁止歌」などというものは存在しないことに森は気付き、愕然とする。
 第3章は森とデーブの対談で、日本とアメリカにおける「放送禁止歌」の違いである。有り体に言えば、規制の発想そのものが違うのだ。「なぜ規制するか」。アメリカのメディアはそれをまず考える。規制する必要がない、放送する必要があるとすれば放送するのだ。たとえそれが差別用語であっても、その言葉が必要であると感じるシーンであるのなら放送するのだ。何でもかんでも隠してしまおうと考える日本とは雲底の差である。しかも、国による規制はない。放送全体の規制ではない。あくまで放送局自体の規制なのだ。それに、暴力シーンなどの描写を放送する場合、事前に警告を入れる。それは作る側にも、子供には見せたくないからと考えているからだ。そこが、日本とのメディアとの徹底した違いである。ゴールデンタイムに平気でヌードシーンを見せつけ、親はPTAで「子供に見せたくない番組」などと非難しながら、自分では昼間のワイドショーで不倫や人の色恋沙汰に一喜一憂し、報道との自由と名を借りて人のプライバシーを土足で踏みにじる日本とはえらい違いである。
 第4章は、部落差別と放送禁止歌である。「竹田の子守唄」のルーツを訪ねて、京都市の竹田を訪ね、様々な話を尋ねる。私は、部落差別についてはほとんど知らない。北海道ではそのような教育をほとんど行っていない。だから、私は、部落差別がどの程度凄まじいものなのか、全く分からないと言ってよい。しかし、まだ根深く残っていることは、西日本に来たとき、何となくではあるが感じることができた。我々はそういう存在を知らされる機会を持つことがほとんどない。持とうとしないという意見もあるが、それはさておこう。結局今の政府、教育、マスコミ、メディア、すべてがそういうものを閉じこめようとしている。それが現状だったのだ。だからこそ「竹田の子守唄」も「放送禁止歌」になるのだ。タブーを生み出していたのは僕たち自身だった! 森の叫びは、はたして日本国民全体に届くだろうか。
 私は道産子のため、あるひとつのタブーの存在を知っている。アイヌ民族だ。小学生の社会科の授業の教科書は「わたしたちの北海道」である。北海道の歴史は、そのままアイヌの歴史である。今ある北海道の地名の大部分が、アイヌ語の読みを漢字に当てはめたものである。そして江戸時代以降は、大和民族による略奪と侵略の歴史でもある。しかし、日本の教科書にそのことはかけらも載っていない。あまつさえ日本政府は、日本は単一民族国家であると平気な顔をして言っている。他の民族が怒るのも当然である。しかも、その単一民族の中で平気で差別を行っているのだから。
 部落差別とは問題が異なるかも知れないが、いずれにしても日本は「臭い物には蓋をする」方式ですべてをまかり通そうとする。昭和天皇の戦争責任、慰安婦問題、戦後補償問題、公共事業、不良債権、誠二と企業の癒着、報道の自由という名の人権被害、犯罪被害者対策、老後保障……。すべてをうやむやにしたままである。もっと日本人は、タブーに立ち向かう勇気と努力が必要である。
 もし差別用語を使うのであれば、それが差別用語であるということをまず認識する必要がある。何でもかんでも規制すれば、使わなければいいというものではない。差別の背景を理解し、その上で覚悟を持って差別用語を使い、差別というものの実体を理解してもらう。それが本当のメディアであると私は思う。




井上安正『警察記者33年』(徳間文庫)

 前読売新聞社会部部長である筆者が、事件の解明、そして報道を巡っての捜査当局、犯人、他社の記者等との駆け引き、そして真実の追究について書かれたノンフィクション。「弘前大教授夫人殺し事件」は犯人と目されている人物が服役終了後に真犯人が自白し、冤罪を証明したという希有の事件であった。それが、井上記者を始めとする読売新聞、弁護士、そして真犯人が冤罪事件の証明を懸けて取り組んでいたとは全く知らなかった。その他にも様々な事件について、記者側から見た鋭い視点が読者の心を揺さぶる。新聞記者は、人権すら無視してただ特ダネを求めているわけではなく、やはり事件の解決、そして被害者の冥福を祈っているんだなということが分かる貴重な本である。
 もっとも、ただ特ダネしか求めない記者が大勢いることも間違いないんだろうが。




はやみねかおる 松原秀行『いつも心に好奇心(ミステリー)!』(講談社 青い鳥文庫)

 青い鳥文庫の二大ミステリシリーズ、名探偵夢水清志郎とパソコン通信探偵団の激突企画。キーワードは「クイーン」「ジョーカー」「飛行船」「人工知能」。そして出来上がったのがこの本。はやみねかおるは、怪盗クイーンが巨大人工知能RDシステムを盗み出すという予告状付きの挑戦に、名探偵夢水がいかに挑むか。松原秀行は、回文を中心にした、いかにもパソコン通信らしい話題に、人工知能犬の盗難、なぞのチャット文と、これまた読書意欲を誘う展開。
 はやみねかおるは、いかにもはやみねワールドらしい展開に、はやみねかおるが持つ世界観、そしてはやみね的な論理。イヤな書き方をするとはやみねかおるの世界を一歩も出ていないのだが、やはりこうでなければはやみねかおるじゃないよ、という作品。「どのようにして盗むか」という点については、よくあるパターンだし、簡単に解けるかも知れない。しかし、それは主眼ではないのだ。小学生がミステリの面白みを知るにはこれで十分だと思うし、それにはやみねかおるが言いたいことは、むしろ最後の夢水の台詞なんだろうと思う。  「パソコン通信探偵団」シリーズを読むのは今回が初めて。なるほど、パソコン通信でできた探偵団という設定は面白い。美人ボスも魅力的だし。うーん、これは最初から読んでみたくなったぞ。謎そのものが弱いと言えば弱いけれど、解決に迫る展開はミステリファンでも十分に納得できるだろう。今回の「クイーン」の使い方は秀逸である。
 こうやって、片方シリーズのファンを引き込むのが、講談社の狙いだな。あまりにもあざといけれど、はまってしまったようだ。裏の読者対象年齢も洒落ているなあ。「小学上級からミステリー・ファンまで」。あまりにもひねくれた最近のミステリに飽きた人、一度無邪気なミステリに立ち返ることもよいかも知れない。  けれど講談社、いつもより版が大きいぞ。おかげで収納に苦労するじゃないか。



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