島田荘司『ネジ式ザゼツキー』(講談社ノベルス)

 キヨシ・ミタライはハインリッヒからエゴン・マーカットを紹介される。エゴンは記憶の一部を失っていた。そんなエゴンが書いた『タンジール蜜柑共和国への帰還』もまた奇妙な童話だった。小さな肘の骨を持った少年エッギーがタンジール蜜柑共和国を訪れる。背の高いタンジール蜜柑の幹には家々の集合体が小さな村を作っている。女たちは小さな羽根を背中に持った妖精だ。エッギーは骨の持ち主ルネスに骨を届ける。右腕のない妖精ルネスは、関節がネジ式のザゼツキー構造だった。
 エッギーとルネスの奇妙な冒険談が書かれた童話の最後は、撃たれたルネスの首がゆるゆると回転して落ちるところだった。ルネスの首は、ネジで体に填っていたのだ。
 キヨシはその童話は現実にあったことだと言い出し、ハインリッヒを“タンジール蜜柑共和国”へ招く。キヨシが導き出した驚くべき事件と、その真相とは。

 キヨシと書くとビートキヨシみたいだな。どうでもいいことだが。
 横書きに書かれた文章は思ったより読みやすい。横書きと縦書きの文章が入り交じるが、読んでいて特に苦痛は感じなかった。会話が中心の文章は、たいていは読みにくいものなのだが。
 記憶喪失者の会話と童話から驚くべき事件の存在が導き出される。この辺の強引な力業は島田荘司ならでは。博覧強記の如き様々な知識が紡ぎ出されるが、無意味にペダントリーを並び立てているわけではなく、すべてが謎解きに直結しているので苦にならない。普通だったらわけのわからない言葉などが多く出てくると読んでいて嫌になるものだが、ぐいぐいページを捲らせてしまう力は恐ろしささえ感じる。島田荘司という人は、本当にパワーのある人だ。驚くべき事件が導き出されたあとは、一気呵成に解決編へ向かう。
 ただ、御手洗の推理は専門的な知識を必要とするものが多いので、謎が解かれるカタルシスを読者は共感できない。特に一編の童話から事件を導き出すところは、名探偵というよりはむしろ精神科医の範疇に入る内容である。推理の段階……というか苦悩が全く見受けられず、一つの事柄からすぐに推理→解決へ向かってしまうので、読者が謎解きに浸ることができない。読者は不可解な謎の余韻を楽しめないのだ。そのあたりは再考の余地があるのではないだろうか。
 強引な力業で面白く読ませることはできたが、本格ミステリとしての楽しみに浸るには展開がやや性急すぎる。その大きな原因は、御手洗潔が血の通った名探偵ではなく、莫大な知識と推理力をもっているただの精神科医と化しているところに問題があるのではないだろうか。魅力的な謎と推理を追い求めるのもいいが、読者を置いてけぼりにしてはいけない。




京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』(講談社ノベルス)

 白樺湖畔に聳える「鳥の城」。館の中に数え切れないほどの鳥の剥製があるこの屋敷は、病気で一歩も外へ出たことのない由良昂允元伯爵の世界そのものだった。主である由良のもとに、五人目の妻が嫁ぐことになった。23年前から過去4度、由良の花嫁はいずれも婚礼の翌日、命を奪われていた。花嫁を守るべく依頼されたのは、探偵である榎木津礼次郎。そして小説家関口巽もともに館を訪れることになった。

 京極堂シリーズ最新刊。事件そのものは単純だが、それを形成する世界観がすごいというか、呆れるしかない。これが京極小説だといわれればそれまでだが、蘊蓄が延々と続いて物語が進まないことに苛つくばかりである。小説の2/3も過ぎてからようやく流れが加速し、そこからは面白くなる。ただ、これをミステリの範疇に入れるのはどうかとも思うけれどね。ミステリの尺度で評価すると、長すぎ。200ページ程度で終わる事件だ。三人称で書けば、簡単に終わってしまう。一人一人の惑いをそのまま文章にするから、長くなるのだ。まあ、それが京極小説なのだが。
 実は『塗仏の宴』を読まずに本作に取りかかってみたのだが、まあ何とか読むことができた。ただそれは、京極堂や関口、榎木津などのキャラクターを知っているからであって、初めてこれを読む人にとってはちんぷんかんぷんだろうな。




大倉崇裕『七度狐』(東京創元社 創元クライム・クラブ)

 「季刊落語」たった一人の編集部員の間宮緑は、編集長牧大路の代わりに静岡県杵槌村へ出張することになった。目的は春華亭古秋一門会を取材すること。上方落語の名門である六代目古秋が引退し、世襲制である「古秋」の継承者を決めるための腕比べを行うことになっていた。杵槌村は、かつてこそ温泉で栄えていたが、今では過疎化が進みもうすぐ合併される運命にあった。なぜこんな辺鄙な村で一門会を行うのか。それは45年前に先代の古秋がこの村で高座を務めたあと失踪しているという因縁があった。古秋の継承候補者は六代目古秋の息子3人、いずれも若手ではトップクラスの噺家であった。一門会の前日、緑たちが三人の最終稽古を見終えた夜、次男である古春が、豪雨の中の畑で全裸死体となって発見された。土砂崩れが起きたため、警察は来ることができない。緑は電話で牧に助けを求めるが、逆に調査して報告しろといわれる始末。さらに続く惨劇は、何を意味しているのか。

 デビュー作であり、牧と緑が活躍する『三人目の幽霊』は日常的な謎ものであったが、初長編作品は陸の孤島と化した過疎の村で起こる連続殺人事件。しかも落語の見立て殺人と、本格ミステリファンを泣かせる設定である。
 お膳立てはすべて揃っている本格ミステリ作品である。逆の言い方をすれば、あまりにも定型的な作品ということになる。一つ間違えば、古臭い作品と評されてしまうところだ。作者は落語を絡めることによって、うまくその評から逃れている。
 一つの芸術にかける執念というのも使い古されたパターンといえるが、落語の名跡継承にかける執念と怨念が誰にでもわかるように、しかも押さえた筆致ながら鬼気迫る様子が伝わってくるので、読んでいて古さを感じない。
 本格ミステリと芸にかける狂気。二つの要素がしっかり絡み合い、最後まで気を抜くことのできない作品に仕上がった。まくらからさげまでが一本道、若手実力者の噺に楽しく酔わせてもらった。




鳥飼否宇『本格的 死人と狂人たち』(原書房 ミステリー・リーグ)

 増田米尊は綾鹿市にある綾鹿科学大学の大学院数理学研究科の助教授である。彼は興奮状態になればなるほど頭脳が明晰に澄み渡る体質の持ち主であり、彼の方法論は研究者の間で変態的フィールドワークと呼ばれていた。そしてまた今日も、フィールドワークと称して同じ教室である修士2年の女子学生の部屋の隣を借りて、女子学生の性生活を覗き見していた。ところがその覗き見の最中に殺人事件が起きた。そして増田が容疑者となる。第一講「変態」。
 綾鹿科学大学の理学部生物学科の講師、上手勇樹。彼の講義の内容は擬態であった。そんな彼が熱中しているものは、あやかしに関連した犯罪事件や事故の新聞記事をスクラップすることであった。擬態に関する講義が進み、最後の試験で出された問題は。第二項「擬態」。
 大学創設以来初の女性学長として多忙な毎日を送る関宏子であったが、生命科学研究所の主任研究員、角田妃花梨に電話しようとしてたまたま妃花梨と妹の亜佳莉の会話を聞いてしまう。「てるがクローン」。亜佳莉の息子輝は、妃花梨の研究所で生み出されたクローン人間なのか。悶々と悩む宏子であったが、そこへ輝が誘拐されたと知らされて。第三講「形態」。
 そして最後に補講「実態」がつく。

 一言でいえば変な作品。何をやりたかったのかわからない。研究者はみなおかしな存在であるとでもいいたかったのだろうか。パロディとも違うし、下手なカリカチュアといったところか。自分は全然笑えなかった。多分こういう作品を理解しようとする頭を持っていないのだろう。唯一面白かったのは、擬態の講義の部分ぐらいだった。何が「本格的」なのかもさっぱりわからない。何がユーモラスなのかもわからない。わからないだらけの作品だった。別につまらないと置き換えてもいいが。




折原一『被告A』(早川書房 ハヤカワ・ミステリワールド)

 杉並区で起きた連続殺人事件。被害者は幼女、老人、小学生、主婦と何の接点もなかった。ただ死体のそばに悪魔の絵柄のトランプが置かれていたことから、ジョーカー連続殺人事件と呼ばれていた。田宮亮太は容疑者として捕まり、北沢刑事の厳しい取り調べを受ける。耐えきれなくなった田宮は一番目の事件のみ自白したが、裁判の冒頭で無実であると主張した。田宮に逆転の秘策はあるのか。
 同じ頃、高名な教育評論家である浅野初子の19歳の息子が誘拐された。犯人が要求してきた身代金は1000万円。初子のもとには、悪魔の絵柄がついたダイヤのAと、「ジョーカー」と新聞の切り抜きで張り合わされた文字が届けられた。息子はジョーカー連続殺人事件の5番目の被害者なのか。離婚した夫は何の助けにもならない。初子は警察に届けず、自らの手で息子を救い出そうと、身代金を持って犯人の要求通りに動き回る。
 裁判と母親を嘲笑う真犯人ジョーカーはどこにいるのか?

 叙述トリックの名手が送る誘拐&法廷ミステリ。読んでいる途中はどうなるだろうかとドキドキし、読み終わったあとはやられたと感じた。ただそのあとに残る不審な部分。そして気付く。実はこの作品、アンフェアじゃないのか。
 よくよく読み返すと、本作品のトリックの根幹はアンフェアのぎりぎり一歩手前に踏みとどまっているようだ。ただおかしな記述も多い。以下、ネタバレ部分は反転で。
 例えば被害者の会の二人が裁判の展開と判決の予想をしているシーンがあるが、二人はこの裁判の本当の意味を知っているのだから、こんな会話は不自然である。それに、一般の人が来ているような書き方をしているが、それも不自然だろう。被告である田宮が事件関係者のアリバイを調べるよう求めるのも、よくよく考えるとおかしい。
 そうやって考えるとおかしなところが幾つも出てくる。例えば、拘置所から裁判所までの移動はどうごまかしたのかとか、法律を知っているのなら当番弁護士制度だって知っているだろうとか。疑問はいくつも湧いてくる。
 これだけ読者に疑問を抱かせるような作品は、やはり失敗作だろう。趣向に溺れたというか、トリックに溺れたというか。徹底した改稿を求めたい。




蜂巣敦『怪狂譚』(パロル舎)

 隣の変態から世紀の怪物まで狂ったお話、聞かせましょう。(帯表より)

 怪人・邪眼・フェティシズム・都市伝説
 異端・犯罪・猟奇・自殺・処刑・狂気・怪談……
 現実を浸食するダークサイドから
 真実に迫る奇ッ怪論集!
(帯裏より)

 日常に潜む悪意やオカルティズムは、人の住む街を霧のようにおおい、私たちがなんとなく考えているよりずっと強い影響を思想や行動にあたえているのではないかというのが、ライターをやるうえでのテーマのひとつになっていた。
 突発的な猟奇犯罪がおきると、人びとはうっすらとした霧の匂いを感じるのではないか。そうした事件もまた、太古からの霧と新しく発生した霧のまじわりと密接に関係しているから。
 私たちはもっと強く霧の存在を認識し、流れを読むべきではないかと思う。私たちは霧を理解すべきなのだ。これから社会になにがおこるか、自分はそれにどう対処すべきかを知るために。
 本書は、自分が今まで書いたもののなかから、そうしたテーマに沿うものを集めて収録したものである。
(「解説と初出」より)


 どう書けばよいかわからなかったので、帯やあとがきの言葉を引用してみた。日本や海外で起きた現実の猟奇事件から、アメリカの死刑の歴史、作者自身が体験したおかしな隣人、三大モンスター論にホラー映画、ホラー漫画、アニメーション、怪談まで色々な“狂ったお話”に関する論集。
 収録雑誌もテーマもバラバラなので、作者があとがきでいうように「霧の存在」を認識するまで至らなかった。一編一編はまあまあ面白いのだが、統一したテーマは感じ取られない。



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