小沼丹『黒いハンカチ』(創元推理文庫)

 高台にあるA女学院の屋根裏が、ニシ・アヅマのお気に入りだった。ちっぽけな窓からは、芝生と木立を適当にあしらった庭が見えた。住宅地の屋根が続き、遠くに海が見えた。ニシ先生は、その屋根裏で絵を描くのが好きだった。それ以上に好きだったのは、屋根裏で午睡をすることだったが。そんなニシ先生は、実は鋭い探偵眼の持ち主だった。時には持ち込まれた謎を、あるときは自ら謎を見つけだし、鮮やかに解決する。「指輪」「眼鏡」「黒いハンカチ」「蛇」「十二号」「靴」「スクェア・ダンス」「赤い自転車」「手袋」「シルク・ハット」「時計」「犬」の十一編を収録。

 余技作家小沼丹の、さらに余技ともいえる推理小説。雑誌「新婦人」に連載され、1958年に三笠書房から出版されて以来の初文庫化である。
 幻ともいわれていた短編集だが、読んでみると、確かに余技作家の余技作品以上のものではない。探偵といっても、事件の前から不思議な行動をじっと見ていて、謎を解くというパターンが多いので、探偵というよりはただの解決役でしかないのだ。同意語のようだが、私にしてみれば違う言葉だ。そこにひらめきはあっても、推理というものはほとんど存在しない。
 淡々とした筆致で書かれているからかもしれないが、読んでいてまったくワクワクしてこない。舞台が女学院で、主人公が若い女性なのに、枯れたイメージしか湧いてこないのはどういうわけか。「日常の謎」派の元祖といえる作品集かもしれないが、それ以上特記することはないだろう。




横溝正史『蜘蛛の巣屋敷 お役者文七捕物暦』(東京文芸社)

 奥州棚倉の城主、勝田駿河守の上屋敷でおぞましい光景が繰り広げられていた。当主直輝の娘で、その美しさが大名の若殿の間で評判であった一の姫、輝姫が怪しい術でむごたらしく犯されていたのだ。寝所の近くにいた男は「土蜘蛛の精」と名乗った。勝田家に災いが降りかかるのは、土蜘蛛がたたるからである。そしてまた今日、老中筆頭水野泉守忠之の御嫡男との婚儀がさだまった輝姫が、無惨にも花を散らしてしまった。狂言師の一人として女に化けて屋敷にいた文七は、そのむごたらしい光景を目撃し、はげしい憤怒の色を顔に浮かべた。文七はある決意を持って、勝田家にたたる土蜘蛛を排除することを決意する。土蜘蛛の正体は。それは20年前に起きたある事件が原因であった。

 お役者文七シリーズ第1作。かなり気合いの入った感じがするが、どことなく空回りしている気がするのは気のせいか。登場人物の紹介にページを取られている部分がなんとなく見受けられる。もう少し登場人物を減らしてもよかったのではないだろうか。
 第1作という事もあり、文七が八面六臂の活躍を見せるのだが、そのくせ後手に回る部分が見られるし、肝心の部分は別の登場人物にいいところを取られてるし、なんだか狂言回しと変わらない。もう少し颯爽としたところを見せてほしかったというのが正直なところか。




横溝正史『江戸の陰獣 お役者文七捕物暦』(徳間文庫)

 文七と大根河岸の岡っ引き金兵衛親分、乾分の雁八は隅田川の船上で、異様な音を発する団平船と遭遇する。その船には、領国で大評判の見せ物である狒々猿の赤染太夫が入った檻があり、太夫の使い手弁天お照が倒れていた。お照にけがはなかったが、なぜか血に染まっている。そしてお照の小屋では商売敵の女役者が殺されていた。「狒々と女」
 人気女役者市川鶴寿の小屋へやってきたのは奇怪な老人、猫々亭独眼斎という浮世絵師であった。鶴寿の絵を描きたいと、手付け一両をおいていく。その翌日、独眼斎が差し向けた籠は女を乗せて寮へ向かったが、載っていたのは鶴寿ではなく、敵役の市川寿恵次。そして寿恵次は乳房の一つを噛み裂かれたように大きく抉られて死んでいた。「江戸の陰獣」
 一年前の正月、浅草の独楽回し唐草源太は雪だるまの中から死体となって発見された。源太はその美貌で色々な女に買われてきたが、その相手や肢体、閨房の様子なども細々と書いた水揚帳が出てきたからたまらない。奉行所はそこに載っている女を片っ端から調べたから、今までの秘め事がすべて外に出て大騒ぎになった。そして今年もまた、雪だるまから女の死体が出てきた。女の名前は玉虫屋のお蝶。源太殺害の重大な容疑者の一人だった。「恐怖の雪だるま」

 お役者文七シリーズの中編集。三編とも雑誌に載ったきりだったため、今回が初めて纏められたことになる。
 「江戸の陰獣」「恐怖の雪だるま」は後に人形佐七ものとして改稿されている。

 いずれも奇怪な謎が文七の名推理で解かれる作品であり、捕物帳としての謎解きを十分に楽しむことができる。「江戸の陰獣」で扱われるトリックは、今でも十分インパクトのあるものだろう。「江戸の陰獣」の結末は、人形佐七ものの作品と異なっており、私としてはむしろこちらの作品に軍配をあげたい。自分が今まで読んだ横溝正史の時代物でも屈指の出来に仕上がっている。中編だからとて、侮るなかれ。シリーズものの中だるみもなく、謎解き興味を十分に満たしてくれる作品だ。ただ、謎解きの方に走ったばかりに、文七の本来の活躍があまり見られないのは残念だ。やはりこのシリーズは、水も滴るいい男ぶりの文七が様々な恋模様に巻きこまれながら、八面六臂の活躍をするべきだった。謎解きもいいのだが、文七には似合わない。それがこのシリーズを終わらせてしまった一つの要因ではないかと考える。
 作者はこのシリーズをどう思っていたのかはわからないが、長編4作、中短編3本も書かれたとあれば、それなりに愛着があったと考えても間違いではないだろう。今新たに捕物帳のドラマとして取り上げられてもいいと思う。




横溝正史『謎の血蝙蝠 お役者文七捕物暦』(徳間文庫)

 文七の育ての親、歌舞伎俳優板東彦三郎の一座に加賀からやってきた若役者、中村菊之助は水も滴るいい男だった。ただ気になることは、菊之助の左の二の腕に紅蝙蝠のかくし彫りがあったことである。文七は菊之助が名前を変えて鉄火場に出入りしていたことを知っていた。ある夜、菊之助は新しいひいきの客の席に呼ばれたが、客であるはずのお美代は菊之助を薬で眠らせて、守袋から絵図面を盗み取ってしまう。その絵図面に書かれている文字は「三千両埋蔵秘図」。その頃、文七は金兵衛から大岡越前のもとに入った情報の内容を聞かされる。17年前、城の護金蔵から四千両を盗み取った賊が今になって判明した。その賊の一味が今、江戸にかくれているという。しかも三千両という大金が、江戸のどこかに埋まったまま。賊の一味には、左の二の腕に紅蝙蝠の入れ墨があったという。賊の一味と菊之助の関係は。三千両という大金の行方は。

 お役者文七シリーズ第四弾。ただ今回は文七の活躍は少なく、むしろ菊之助や賊の一味たちの動きの方が主眼におかれている書き方である。とくに毒婦お美代の活躍(?)はすさまじい。いっそのこと、文七を登場させずに菊之助に謎解きをさせてもよかったんじゃないかと思えてしまう。もちろん、文七は要所要所で活躍しているわけだが。
 事件そのものは大きいが、ミステリ特有の謎という点で見たらかなり物足りないか。今回の作品は、捕物帳というよりも、冒険譚として読んだ方がいいようだ。ただページ数のせいか、結末があまりにも急ぎすぎて、せっかくの余韻をぶち壊しているのが残念である。




横溝正史『花の通り魔 お役者文七捕物暦』(徳間文庫)

 『比丘尼御殿』の一件が落着した骨休みに、大根河岸の岡っ引き金兵衛親分と乾分の雁八は文七を誘ってのんびり夜釣りを楽しんでいたのだが、上手の方からつづらが流れてきた。拾い上げて中を開けてみると、そこに入っていたのは女の死体。歌川喜多麿に艶色三幅対と似顔絵に描かれた上野不忍池にある銀杏茶屋の茶汲女お葉だった。さらには三幅対の一人、浅草仲見世柳家の看板娘お鶴も昨日から行方不明という。そして残る一人、柴明神あたり屋の矢取女お仙にも魔の手が迫る。お仙は千寿丸と名乗る小姓に誘われ一夜を過ごしたが、その千寿丸に殺されそうになり、辛くも一命を取り留める。そしてお鶴もまた死体で発見された。しかも、喜多麿が仕事場として借りている寮にある柳の木の下に埋められていたのだ。お鶴もお葉も千寿丸と名乗る小姓に誘われていたという。千寿丸とはいったい何者か。文七たちが懸命の捜査を続けるうちに、事件はとんでもない方向に流れていく。

 お役者文七の第三長編。今回は純粋に事件の謎を追う文七の活躍を楽しむことができる。その分、文七個人を取り巻く部分についてはほとんど進展がないので、シリーズものとして楽しもうとすると、やや拍子抜けしてしまう。できれば文七を巡る恋愛模様などに進展があると、もっと面白さが増したのだが。
 謎の展開は、人形佐七シリーズの某作に似ていることもあってか、だいたいの予想はつくかもしれない。しかし横溝正史、トリックをただ横流しするのではなく、いくつかの変化を付けることにより、読者の意表をつくことに一応成功している。一つの謎からどんどん事件が大きい方向に流れていくという展開は、時代物ではありがちだが、うまく纏まった方ではないか。
 ただ横溝正史の作品ともなるともう少し耽美的な部分を読ませてほしいという思いがあるため、本作ではややあっさりと流してしまった印象を受けてしまう。「そつなく纏まっている」以上のものがほしかった。



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