樹下太郎『銀と青銅の差』(文春文庫)

 プロローグ。2DK一戸建ての家でガスの臭いがしているのを、新聞配達員が発見した。中に踏み込むと、男女の死体。女はうす絹のスリップ一枚だけ。ネクタイで絞殺されていた。仰向けに寝ている女の上にのしかかる格好になっていた男は、ガス中毒で死んでいた。解剖の結果、女は妊娠三ヶ月であることが明らかになった。玄関、窓など、全ての入り口には鍵が掛かっていた。遺書がないという点が疑問ではあったが、状況から無理心中と判断された。ある刑事が、庭の隅に小さな光るものが落ちているのを発見した。ラグビーのボールのような楕円の銀の台の上に金でマークが浮き彫りにされていた。マークには筆記体のローマ字で、ニレ、と書かれてあった。刑事は男の上着を点検した。襟のボタンホールにバッジがついていなかった。なぜわざわざ外して捨てたのか。刑事は、好奇心から会社を訪ねることを思い立った。

 そして物語は過去に戻り、三人の男の視点から語られることになる。

 舞台は、発展著しい電気メーカー、株式会社楡製作所。この会社の社員バッジには二種類あった。デザインも、マークの金も全く同じだが、ラグビーボール型の台が違う。課長(課長代理も含む)以上は銀、あとはおしなべて青銅と言うことになっている。
 社員は当然、銀バッジを目指す。サラリーマンとしては当然である。そして青銅から銀に昇格したとき、まわりのひとびとは、かれに「おめでとう」という。社内だけでなく、得意先、仕入先、銀行、税務署の人々、それに行きつけの料亭やバーの女たちまで。銀バッジは、楡製作所社員にとって、あこがれの対象であった。
 一人目の男は尾田竜平。十一年前、26歳で工場の臨時工員として入社。発送部に回され、五年後に事務を担当。一年後、彼は社員に昇格した。ここまではよくある話である。社員昇格一年半後、彼は仕入課長代理の地位を与えられた。空前の抜擢だった。ところが十一ヶ月後、彼は左遷させられた。営業課に異動になり、しかも平社員に戻ったのだ。さらに屈辱的なことに、仕事は営業課の伝票書きと電話番だった。今まで女性職員がやっていた仕事の引継である(※女性蔑視的発言ですが、この作品が書かれたのが昭和36年当時と言うことで、お許し下さい)。彼にとってはあまりにも屈辱だった。
 左遷から三年、彼は係長にはなったが、バッジは青銅のままだった。そんなある日、彼は衝撃の事実を知らされる。彼は課長代理当時、人事を担当する進士専務の愛人、深井基代を叱ったことがあった。深井は専務にそのことを言いつけた。その1週間後、尾田は平社員に格下げになったということを。その時、尾田は進士に殺意を覚えた。

 二人目の男は大江明。尾田竜平と同じく、十一年前、臨時工員として入社した。尾田とは同期と言うこともあり、ウマが合っていた。大江の趣味は絵画だった。画さえ描ければ、それでよかった。だから出世なぞ、全く望んでいなかった。画の方では全く芽が出なかったが、商業美術の方に転じてから、少しずつ収入が入るようになった。そんなある日、大江の応募作品が東都新聞新聞広告コンクールの特賞に入選した。そして、宣伝課の課長から宣伝部に移らないかとの打診があった。もちろん彼は引き受けた。ところが、進士専務がクレームを付けた。さらに専務は、彼を発送部の課長へ昇進させると言ってきた。条件があった。彼が画の筆を折ることである。彼は拒み続けたが、専務が強引に彼を課長にした。同時に尾田も一緒に課長になった。大江と尾田は専務を蹴落としてやりたい気持ちでいっぱいだった。

 そして三人目は進士文明。株式会社楡製作所の創立メンバーであり、専務である。彼は元々、役職によってバッジを分けることなど反対だった。

 最初に読んだのは大学生の頃である。その頃の感想は「つまらない」であった。浪漫も不可思議も何もない。その頃の私は、不可思議な謎、論理的な解決、怪奇漂う幻想美、社会悪と靴底を減りすらした刑事、叙情と浪漫、背筋がゾクゾクするサスペンス、乾いた暴力、スペクタクルロマンと冒険、どんなものでも求めていたが、この作品には何も見つけられなかった。酒場でおやじ連中が愚痴を吐いているようなことを小説に仕立て上げたな、みたいなイメージしか持てなかったのである。
 今だからこう言える。何も分かっちゃいなかったな、と。

 就職して数年後、出張した際、たまたまこの本を手にする機会があった。鞄に入れていた本も全て読み終わっていたこともあり、帰りの新幹線で読み始めることにした。昔のイメージから、大して期待していなかったのだが、読み始めるとすぐにのめり込んだ。手元に用意したビールのことなど、全く忘れて。
 サラリーマンにとっての昇格。これほど嬉しいことはないだろう。もちろん、例外もあるだろうが、やはり肩書きに役職がつくと嬉しい。ましてや、平社員からいきなりの課長代理昇格。二階級特進である。それがたった11ヶ月で平社員に逆戻り。しかも、女子職員の電話番の引継。屈辱と言ってもよい。
 これらのことは、サラリーマンを体験しなければ分からなかっただろう。読んでいるうちに、尾田や大江の怒りと悲しみ、そして進士の苦しみが体の奥底から沸いてくるのである。以前に読んだときにはこんなことはなかった。確かにトリックはない。エキセントリックな探偵は登場しない。おまけに足をすり減らすような刑事すら登場しない。浪漫のへったくれもない。それでもこの作品には、読者の心を震わせてくれる何かがある。それこそが、小説家としての読ませる力ではないだろうか。

 大多数の人にとって、たとえ周囲で事件が起きようと、知人が死のうと、自分が生き続けなければいけないし、会社の歯車は止まることはない。しかし、歯車には歯車なりの感情がある。そういうことを教えてくれる小説、それがこの『銀と青銅の差』である。サラリーマンの辛さと屈辱感を、たった二つのバッジで見事に表現し、そしてどんな日常にも殺意が転がっている。我々は小説を読んで怒りを感じながらも、歯車としての人生を歩み続ける。

 同時収録は、「オール讀物」に掲載された「死神」「骨」「土とスコップ」の3編。




高木彬光『破戒裁判』(角川文庫)

 高木彬光は凄い作家だと思う。各ジャンルのミステリで代表作といえる作品を書いているからだ。例えば、

 本格長編:『人形はなぜ殺される』『刺青殺人事件』
 本格短編:『妖婦の宿』『わが一高時代の犯罪』
 歴史ミステリ:『成吉恩汁の秘密』
 経済ミステリ:『人蟻』
 誘拐ミステリ:『誘拐』
 犯罪小説:『白昼の死角』

などなど。ここに挙げた作品のシリーズ探偵神津恭介や弁護士百谷泉一郎の他にも、近松茂道検事、霧島三郎検事、私立探偵大前田英五郎、謎の名探偵墨野隴人といったキャラクターを生みだし、架空戦記小説『連合艦隊ついに勝つ』、犯罪実話小説『神曲地獄変』、SF小説『ハスキル人』、他にも時代小説、捕物帖、少年物など様々なジャンルの小説を書いている。様々なジャンルを書く作家は多いけれど、そのジャンルの代表作といえる作品を何作も書ける作家はごくわずかだ。
 そんな高木彬光は、法廷小説でも傑作といえる小説を残している。それが『破戒法廷』である。

 事件は簡単だった。少なくとも検察側から見れば。被告は元俳優。小豆相場で一儲けをし、いまは隠匿者の生活をしている。罪状は二人の殺人と死体遺棄である。殺されたのは、被告のかつての劇団仲間で、かつ被告の不倫相手である元女優の夫。そして不倫相手の元女優である。直接証拠こそわずかなれど、状況的には被告にとても不利だった。しかし、被告は叫ぶ。「私は無罪である」と。
 検察側の尋問が進み、状況は被告にますます厳しくなる。天野検事は被告をどんどんと追いつめていく。しかし、百谷弁護士はいっこうに反対尋問を行わない。弁護側が喚んだ証人尋問でも状況は好転しない。そして百谷弁護士は、いよいよ被告本人に尋問を行う。

 舞台は法廷だけである。検察側、そして弁護側の尋問が延々と繰り返されるだけだ。しかし、法廷にはドラマがある。愛から憎悪まで、全ての心情が吐露される。いくつもの人生が走馬燈のように駆けめぐる。尋問を繰り返す毎に、追いつめられる被告。そして百谷弁護士からの尋問に、ついに暴露する、ある真実。『破戒裁判』とはよく付けたものだ。このタイトルに、秘密の一つが隠されている。
 この小説にはいくつもの「愛」の姿が描かれる。いくつもの「女」の姿が描かれる。この小説は、実は恋愛小説でもあった。裁判で最後に質問する被告。その場では答えは出なかった。しかし、最後の最後に、高木彬光は答えを出す。その答えは、みなさんで確かめてもらいたい。

 法廷の臨場感でいえば、もっと傑作があるかも知れない。しかし、この小説で書かれたドラマは、法廷小説であったからこそ光るものであり、読者の心を揺さぶるのである。そしてこの小説は、法廷小説の傑作として、今後も語り継がれるに違いない。


<蛇足1>
 百谷弁護士vs天野検事という図式は『法廷の魔女』という作品で再び試みられる。

<蛇足2>
 被告が裁判の最後で発する質問は、『都会の狼』という作品でも再び発せられる。よほどこの質問が好きらしい。




多岐川恭『変人島風物誌』(桃源社 ポピュラーブックス)

 「孤島もの」は本格ファンにとって、「雪の山荘もの」と同じくらいワクワクする設定だろう。クリスティー『そして誰もいなくなった』、江戸川乱歩『孤島の鬼』、横溝正史『獄門島』から綾辻行人『十角館の殺人』、有栖川有栖『孤島パズル』まで、「孤島もの」にはミステリの傑作といえるものが多い。「孤島」という舞台は、ミステリ作家の意欲を沸き立たせる舞台なのかも知れない。ここ最近では、「20世紀最後の新本格派」霧舎巧が『カレイドスコープ島』で「孤島もの」に挑戦している。

 今回紹介するのは多岐川恭の『変人島風物誌』である。桃源社・ポピュラーブックスの折り返しに書かれている作者の言葉を引用する。

 これは犯人当てゲームをめざした小説で、私としては初めてといって言い試みだけに、だいぶ難産した。矛盾が出てきたり、犯人がたやすく割れてしまうとすれば、私の無能の致すところで、やむを得ないが、フェア・プレイだけは、できるだけ努力したつもりである。

 ではどんなストーリーなのか。

 舞台は瀬戸内海に浮かぶ無数の小島の一つ、米島。もっとも、住人が変人ばかりなため、対岸の住民からは「変人島」と呼ばれている。
 ページをめくって最初に出てくるのは変人島の略図。最初の章で変人島の地誌の説明がなされる。
 次の章で変人第一号の地主とその家族、変人第二号の洋画家と妻とモデル、変人第三号の元ピアニストとその母親、変人第四号の老人と内妻、変人第五号の看護婦兼家政婦と少年、変人第六号の作家と情婦、と登場人物の説明。
 次の章でようやく自称まとも、変人第六号の秘書である主人公の自己紹介。
 一癖も二癖もありそうな変人達ばかりだが、それはそれで平和に暮らしていた彼らであったが、ある日、変人第一号の地主が殺される。そして続く連続殺人……。

 作者の言葉通り、犯人当てを主眼とした小説である。事件のデータは全て提示されており、そして論理的に犯人は暴かれた。作者の試みは成功したかに見える。ところがこの小説は、「論理」の部分よりも登場人物の人間関係の方が面白いのだ。他の作品に比べゲームに撤しようとしているが、それでも筆がのっているのは複雑な人間関係の部分というのは、ある意味皮肉な結果である。そして、その部分がこの小説をより面白くしているというのだから。

 ではこの小説、「論理」の部分はつまらないのか。そんなことはない。実にスマートな仕上がりである。消去法を使えば、きちんと犯人は目の前に現れてくる。それでもあっと驚かせるのは作者の腕だろう。最初の事件は密室だが、こんな簡単なトリックなのかと思うだろう。トリックは簡単であるほど鮮やかである。そして、それをさりげなく使うのが多岐川恭である。

 多岐川恭は様々なジャンルのミステリを書いている。本格推理の分野でもこのような傑作を書いているのだ。ところがこの小説、現在は絶版である。いや、文庫落ちしたという話も聞いたことがない。昭和30〜40年代の作家は推理小説ブームのために多作を要求され、数多くの作品を残したためか、逆にほとんどの作品が絶版になってしまった。これは推理小説ブームの弊害といえよう。現在は復刻ブームであるが、それでも拾い上げられない作品は数多くある。読みたいときに本はなしとはこのことだろうか。




梶山季之『黒の試走車』(光文社文庫)

 1957年、松本清張が『点と線』『眼の壁』を連載。単行本になると同時に未曾有の推理小説ブームが起こる。ごく一部の人の読み物であった「探偵小説」が、国民一般の間に広く読まれる「推理小説」に変わった瞬間である。名探偵、トリック、館や孤島など今までのキーワードが影を潜め、社会性、日常性、現実性といったキーワードが顔を出すようになった。
 この推理小説ブームから、「社会派」と呼ばれる作家が誕生する。有馬頼義、水上勉、黒岩重吾、邦光史郎たちがそうだ。彼らは後に推理小説から離れてゆくが、この推理小説ブームがなかったら、世に出てくるのはもっと違った形となったであろうし、もしかしたら世には出てこなかったかもしれない。
 同じく、推理小説ブームがなかったら、その後のハードボイルド、スパイ小説、新本格派などももっと別の形のデビューとなったであろう。

 梶山季之も、そんな「社会派」と呼ばれた一人である。その梶山季之のデビュー作であり、代表作とも言えるのが『黒の試走車』である。

 二大自動車会社、「ナゴヤ」と「不二」を追い越す勢いの「タイガー自動車」が発売した新型優秀車「パイオニア・デラックス」。生産が追いつかないほど好評であったが、発表後わずか二十日目、ある運転手が特急との衝突事故を起こす。運転手は「車のエンジンが急に止まった」と証言し、業界紙は新車に欠陥があるのではないかと騒ぎ立てる。しかも、事故の調査中の企画一課長柴山は謎の交通事故死をとげる。新たに作られた企画PR課の課長に任命された朝比奈は友人であった柴山の死の謎を探るとともに、ナゴヤ、不二の新型車の機密を探ることになった。企画PR課とは名ばかりで、実体は産業スパイであった。

 この小説は、当時ではほとんどなかった産業スパイ小説である。もちろん、柴山の交通事故死の謎といった推理要素はあるものの、中心は自動車会社による産業スパイ合戦だ。この手の小説は、情報が古くなる、すなわちリアルタイムで読まないと面白くないものもあるが、名作とよばれる小説にそんなことはない。
 最後に勝つのはナゴヤか、不二か、それとも朝比奈のタイガー自動車か。誰が敵で誰が味方か。どの情報が真実でどの情報がフェイクか。小説中の登場人物だけでなく、我々読者も惑わされたまま、物語はクライマックスに突入する。既にその時点で読者は梶山季之の術中にはまっているわけだ。一度つかんだネタは放さないトップ屋であった彼は、一度つかんだ読者を逃さない売れっ子作家に駆け上ってゆく。

 梶山季之は1930年、京城(今のソウル)に生まれる。高等師範学校卒業後に上京し、第15次<新思潮>同人となる。1959年、大宅壮一主宰のノンフィクション・クラブに加入、週刊誌のトップ記事を受け持ち、スクープ記者として名を馳せる。
 1962年に『黒の試走車』をカッパ・ノベルス(光文社)に書き下ろし、一躍超流行作家になる。その後、社会派推理小説『夢の超特急』、異色戦後史『小説GHQ』、小豆相場を扱った『赤いダイヤ』など大量の作品を発表、中間雑誌の売れっ子となる。
 1975年、香港で急逝。原稿の書きすぎにより命を縮めたという話もあるが、権力者への抵抗精神が旺盛だったことから暗殺説も一時流れた。




加納朋子『沙羅は和子の名を呼ぶ』(集英社)

 「黒いベールの貴婦人」「エンジェル・ムーン」「フリージング・サマー」「天使の都」「海を見に行く日」「橘の宿」「花盗人」「商店街の夜」「オレンジの半分」「沙羅は和子の名を呼ぶ」、1994〜1999年までに書かれた短編10編を集めたもの。
 「日常の謎」派の中でもミステリ味が薄い作者だが、ここに書かれた短編は普通小説に近い。一応、謎らしきものはあるが、そこに論理はなく、唐突に解決が導かれる作品がほとんどである。加納朋子は今後、ミステリから離れていくだろう。無理に謎にこだわるよりもその方がよいと思う。たとえ謎があろうとなかろうと、加納朋子の世界が壊れることはないはずだ。




司馬遼太郎『梟の城』(新潮文庫)

 映画を見たので、今更ながら読む。
 時間の制約がある分、やはり深みという点では小説の方が上。しかし、結末の描き方という点では映画の方が上ですね。小説の方は、ラストがちょっとあっさりしています。
 映画はなかなか面白かったですが、2時間30分はちょっと長すぎ。映画ではなんのために出てきたかわからない役になってしまった木ざる(葉月里緒菜)を削れば、もっと面白くなったんじゃないだろうか。




清涼院流水『ユウ 日本国民全員参加テレビ新企画』(幻冬舎ノベルス)

 極楽関西チャンネルで毎週月〜金に放映される「ゴールデンU」。一般大衆が次々とテレビ画面に登場し、15秒内で自己PRするだけの番組だが、既に三年目を迎え、視聴率も20%以上をキープしている。木村彰一はとある理由からこの番組を見始めたが、ある日、いきなり自分の名前が出てきたのでびっくりする。しかもベスト・インパクト賞を受賞し、「ゴールデンU」から電話が掛かってくる。あの木村彰一はいったい誰か?

 『エル 全日本じゃんけんトーナメント』(幻冬舎ノベルス)に続く木村彰一ものの二作目。もちろん、独立した作品なのでこの作品だけ読んでも構わない。毎度の事ながら、「こういう読み方をすると二回楽しめます」構成も有り。はっきり言って不要だと思いますが。
 清涼院にしてはものすごく読みやすい作品。とはいえ、清涼院らしさを失っていないのはさすが。もっとも、この人はこういう書き方しかできないんだろうけれど。「ゴールデンU」というテレビ番組そのものの発想も面白いし、後半で語られるトリックも今回は納得させられる。ただ、最初の謎が中途で明かされ、最後の方では全然別の話になってしまったのは残念。
 清涼院は常に魔球や変化球で勝負してくるが、たまには直球で勝負してきてほしい。創造力については非凡なものを持っている人だと思うから。




戸梶圭太『溺れる魚』(新潮ミステリー倶楽部)

 女性化粧品の万引で捕まった女装マニアの秋吉。強盗傷害犯の金を着服した白州。二人の警部補は、罪のもみ消しと引き替えに、あるエリート公安警部の内定を始める。その警部とつながっていた大手複合企業ダイトーグループは“溺れる魚”と名乗るものから奇妙な脅迫を受けていた。

 典型的なB級面白小説。町中でカーチェイスは始まるわ、ライフルぶっ飛ばすわもうハチャメチャ。特別監査官、公安、大手企業、現代芸術家、暴力団、革滅派と、出てくる登場人物は多種多彩。これだけの人物を最後できちんとまとめる実力は見事といえる。脅迫の着眼点も面白いし、動機も面白い。チェイスは法律無視としか思えないが、この面白さの前には目を瞑られる程度の欠点だ。
 問題点としては、前作『闇の楽園』と同様、様々な人物の視点から物語を書いているため、中心人物が誰かさっぱり分からないこと。そのため、特定人物への感情移入が全く出来ない。そしてもう一つ、エリート公安警部を内定するネタがあまりにも曖昧で小さいことだ。この程度ならわざわざ内定なんかしないんじゃないかと思うようなネタなのだ。導入部分であるため、もう少し考えてみるべきではなかっただろうか。
 とにかく、この人は面白い小説を書ける人だと思う。今後も注目したい作家がまた一人増えた。




芦辺拓編集『贋作館事件』(原書房)

 意外な拾いもの。贋作者それぞれが愛情込めて書いているのだから悪くなるはずもない。個人的には、芦辺拓(ちょっとノスタルジック過ぎるかな)と北森鴻がお薦め。しかし、もっとも面白いのは、ちょっと懐かしい斉藤肇。黒後家蜘蛛の会の贋作も笑えるが、『贋作館事件』そのものを贋作した「贋作家事件」は仕掛けとしてお見事。これで中身が笑えないと洒落にならないが、そんな心配はご無用。本編より笑えたりして(笑)。
 この手の企画は、たまに読むから面白いのであって、頼むから連発しないでほしいですね。