「本格と証拠の問題」



 最近、犯罪ノンフィクションや実録ものなどを読むことが多い。そのなかでも特に冤罪ものを読むと、警察や検察、そして裁判所は見るところを見ず、ただ犯人を作り上げてきたんだなと考えさせられる。冤罪事件の多くの特徴は、拷問などによる強引な自白、貧弱でかつ誤った(もしくは故意に捏造した)証拠、無理矢理こじつけたとしか思えないような動機設定、被害者に有利な証拠をつぶすなどである。再審無罪、もしくは判決無罪を勝ち取った事件は複数あるが、いずれも裁判そのものに十数年以上かかり、その間被告人は狭い獄中で怯え、被告の家族は肩身の狭い思いを強いられる。失われた年月は取り戻せない。しかも裁判で無罪になったとき、今度は被害者の遺族が辛い思いをすることになる。ではいったい犯人は誰なのか。突然不幸が押し寄せてきて、犯人が捕まったことでなんとか精神の安定を図ってきたのに、いざ無実ですと言われ、その怒りと悲しみをどこに持っていけばよいかまったくわからなくなるに違いない。
 拷問など昔のことだよと言われるかも知れないが、現在ですら、冤罪を叫んで数多くの確定囚が再審を訴えているし、裁判で証拠不十分、無罪判決が出されることも多い。警察によっていつ犯人に仕立て上げられるかわからない。我々も用心する必要がある。

 なぜこんな事を書いたのかというと、ここで「本格ミステリ」の方に話が戻る。本格ミステリのほとんどは、犯人が逮捕されて(もしくは自殺して)事件が終結し、めでたしめでたしとなる。その後の裁判に関しては触れられない。高木彬光『刺青殺人事件』では、「犯人に死刑判決が下った」という下りがあるのだが、そのように裁判の結果が書かれることが珍しいのである。
 ところが、本格ミステリの半分以上についていえることだと思うが(統計を取っていないので自信はない)、とても裁判を維持できるような証拠などないことが多い。犯人が自白しているからいいものの、完全に白を切り、腕のいい弁護士が付いたら、とても公判を維持できない、そんなミステリが多いことに最近気付かされた。
 例えば横溝正史『悪魔の手鞠唄』。このミステリ、解決自体に無理があることも指摘されているが、そのことを抜きにしても、証拠らしい証拠はまったくない。
 例えば島田荘司『斜め屋敷の犯罪』。ダイイング・メッセージ、犯行機会、犯行手順を考えると、その人しか犯人がいないということは納得できるのだが、実はいずれも「状況証拠」であって、「直接証拠」ではない。一応、犯人でなければ有り得ない行動をとるのだが、これだって「冗談だよ」などと白を切り、徹底した裁判戦術を採った場合、有罪か無罪か、どっちに転がり込むかわからないというのが正直なところである。
 例えば有栖川有栖『孤島パズル』。これも犯行機会から推理を組み立てているが、白を切れば「はい、それまでよ」という解決である。
 清涼院流水になると、明確な推理すらないのだから、あんな好い加減な推理で捕まってしまう犯人もたまったものではないだろうし、裁判所で検察はかなり苦労するに違いない。

 実例をいくつか挙げてみたが、「本格」を追求していけば行くほど、実は「証拠」が残らないことが多い。坂口安吾『不連続殺人事件』ではないが、「その程度の証拠ぐらいひっくり返すことが出来ないとでも思っていたのかね」(原典がないのでうろ覚え)と犯人に言われたらどうするのだろう。もちろん、あくまで小説の世界の中であって、現実ではないのだから、こんな細かいことを突っ込む必要はないのかも知れない。とはいえ、読んでいて気になることも事実なのである。


<おまけ>
 『「本格ミステリ」裁判所』という本を誰か作りませんか。ホームページでもいいけれど。本格ミステリを一冊取り上げ、犯人が捕まった以後の仮想裁判をやってみるというもの。犯人を有罪にするために、どれだけ苦労するか、いい勉強になると思います。凡例を調べるのが大変なので、私はやるつもりはありませんが。


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