小林道雄『冤罪のつくり方 大分・女子短大生殺人事件』(講談社文庫)


発行:1996.12.15




 冤罪――。多くの冤罪は、杜撰な見込み捜査、代用監獄での苛酷な取調べが元凶だ。人にありがちな誤謬ではなく、捜査当局の面子意識や責任逃れ、時には功名心の結果だ。実際にあった、女子短大生強姦殺人事件の"思い込み自白"のプロセスを明らかにし、免罪という"罠"を浮き彫りにする力作ノンフィクション。「夢遊裁判」改題。(粗筋紹介より引用)

 1981年6月27日深夜から翌日未明にかけて、大分市のアパートに住む短大生(18)が自室で乱暴され、首を絞められて殺害された。警察は隣に住む会社員の男性を重要参考人として捜査。任意で呼んだ男性にポリグラフをかけ、指紋・足跡・唾液・下着などを提出。半年後の翌年1月14日、警察は男性を逮捕した。厳しい"尋問"により男性は犯行を"自白"した。
 男性は捜査段階や地裁公判の初期に「被害者の部屋にいたことは覚えている」などと供述していたが、裁判途中から無罪を主張。直接証拠はなかったが、1989年3月9日、大分地裁は求刑通り無期懲役判決。福岡高裁の控訴審では1991年、裁判長が職権で、男性の毛髪と被害者の体内に残されていた精液とのDNA鑑定を実施。1993年8月に出た鑑定結果は「現場から採取された毛髪の一本から被告と同一型のDNAを検出した」とした。しかし、男性のものであるはずの髪の毛が男性のものではなかったことや、鑑定書写真と報告書に多数の誤りがあった。1994年12月、担当した筑波大学の助教授自らが信用性を否定。なお男性は、1994年8月、福岡高裁の決定により保釈になっていた。1995年6月30日、逆転無罪判決、そのまま確定した。
 無罪確定時で時効まで1年以上残っており、高裁裁判長が真犯人の存在を示唆したにもかかわらず、警察は「捜査はやり尽くした」と再捜査はせず、1996年に時効となった。

 「女子大生暴行殺人事件――ある"夢遊裁判"の記録」と題して『現代』1991年11月号に掲載。1993年6月、講談社より『夢遊裁判』のタイトルで単行本刊行。DNA鑑定から無罪判決まで他を大幅に書き足し、1996年12月、文庫化。

 裁判所が職権でDNA型鑑定を行った初めての事件であり、DNA型鑑定や科捜研の鑑定にいい加減なところが多いことを如実に表した裁判として有名な冤罪事件である。冤罪に巻き込まれた男性は14年間、被告の位置にあり、そのほとんどを獄の中で過ごす羽目になった。杜撰な捜査を行った大分県警、さらに地方裁判所は一切の謝罪を行わず、さらに大分県警は無罪判決が出た後、時効まで1年以上残っているのに一切の捜査を行わなかった。現代でも冤罪は簡単に発生することと、冤罪の恐ろしさを物語る事件でもある。
 本書は、ノンフィクションライターである著者が裁判を追い、無罪を信じて救援活動を続けてきた記録である。彼らからわかりきったことでも、警察と裁判所の面子で長々と審議が行われる事への苛立ちがひしひしと伝わってくる。
 ただ、無罪という思いが強すぎる分、やや感情移入が激しいと感じられる欠点があることと、裁判記録を追い続けた結果、検察側の反証にページを割きすぎている部分があること、さらにその反証がやや専門的なところがあり読みにくいという難点もある。もっとも、裁判の正しい実態を知らせるためには必要不可欠であったかもしれないが。
 読み物としてはやや専門的な部分があるかも知れないが、それでも冤罪の恐ろしさ、警察や検察の面子にこだわる姿などは十分に伝わってくる力作である。ただし、この教訓を裁判所や警察側が一切振り返っていないことも事実ではある。

 作者が当初「夢遊裁判」と名付けたのは、一審判決が有罪であったことを受け、裁判官は法廷のひな壇に眼を開けて座ってはいたが、眼は果たして覚めていたのか、裁判時代が夢遊のうちに行われていたとしか思えないことからである。

 作者は1934年、東京生まれ。雑誌記者を経て、廣済堂出版で「時代」編集長、出版部長となる。(出版)現在は、ノンフィクションライターとして、週刊誌、月刊誌等で活躍中。著書には、『されど人生――プロテスト挑戦15年・ゴルファーの記録』『「大人」になる方法』(以上、講談社)『若いやつは失礼』(岩波書店)などがある。


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