吉田和正『死刑を志願した男』(三一書房)


発行:1992.8.31




 15歳からの31年間で娑婆暮らしわずか11ヵ月。人生の大半を刑務所で過ごすことになった男の呪われた運命。その減軽は、14歳で犯した少女殺し!(帯より引用)

【目 次】
第一章 刑務所がわが家
第二章 少女殺し
第三章 再開された盗みの日々
第四章 三十余年の刑務所暮らし
第五章 老女放火殺人事件
第六章 逮捕、自供
第七章 私を死刑にしてください


 工藤捷治(しょうじ)は9日前の1月27日に誕生日を迎えたばかりの46歳。15歳からこの年までの31年間で娑婆にいたのは11カ月と2週間。少年院3回、刑務所5回と臭い飯を食ってきた。娑婆にいた一番長い期間が4ヶ月、短いのはたった3日。そのほとんどは窃盗だったが、家人に見付かったりすると暴れるから、強盗や傷人の罪が付け加えられていた。そして窃盗で懲役10ヶ月の判決を受けていた捷治は1983年2月5日、満期で横浜刑務所を出所した。

 捷治には女物の赤い着物を盗む癖があった。母親は息子がこのようになった原因を考える。父親が花柳病に罹り、自分もうつされたから。大空襲の際に家を焼かれ、火事の中を家族で逃げ回ったから。そして32年前の1951年10月8日、近所に住む3歳の女の子が、溜め池に落ちて死んだから。捷治は一度警察に連れて調べられたものの、最終的に事故死と警察は判断した。しかし母親には、女の子を殺したのが息子であることがわかっていた。
 小さい頃から父親に虐待されていた捷治は、家に帰らないようになる。そして14歳で1度目の検挙。それから捷治は中学校へ行かなくなった。店から盗むだけでなく、空き巣をするようになる。父親が金を使い込んで会社を辞めさせられ、兄のいる九州へ行くことになったが、父親が嫌いな捷治は家出をして盗みを繰り返した。
 1952年5月30日、かっぱらいで5度目の検挙。練馬の東京少年鑑別所に収容され鑑別の結果、初等少年院送致が適当とされた。7月に工藤家は小倉に転居。9月19日、捷治は人吉農芸学院に入院した。9ヶ月後の6月19日に退院し、パン屋に就職。捷治にとって唯一の正業だったがヒロポンを打つようになる。しかし初めてもらった報酬をもって、いい仲になっていた家出娘と木賃宿で関係を持っているときにぼや騒ぎを起こす。結局パン屋には戻らず、盗みの日々に戻るが、アッという間に捕まる。8月20日、窃盗2件と放火未遂で福岡家裁は中等少年院送致を決めた。翌年7月中旬に退院するが、この度は窃盗未遂、住居侵入、銃刀法違反で捕まる。1954年11月4日、福岡家裁は捷治は医療少年院送致を決めた。捷治がヒロポンの常用癖があったことが理由の一つだが、もう一つは女物の和服を着て喜んだり、破り捨てたりおかしな行動をするからであった。
 捷治は福岡少年院で分類調査を受けたが、顕著な異常が認められなかったため、特別少年院に収容される。そして退院数週間前の1956年6月上旬に仲間の脱走を手伝ったことがばれてからやけを起こし、退院1週間前に脱走した。
 その後も盗みを繰り返し、窃盗容疑で逮捕。1956年9月21日、強盗と窃盗の罪で福岡地裁小倉支部は懲役3年以上5年以下の不定期刑を言い渡され、佐賀少年刑務所に収監された。この途中、義務教育が未修了だった捷治は長野県松本少年刑務所内に開設された中学校分校に入り、1年間の教育を受けて卒業している。
 1960年7月5日に残り9ヶ月を残して仮出獄。しかし出所13日後に強盗傷人で捕まる。しかも余罪が見付かり、住居侵入、強盗未遂、窃盗、そして強盗致傷の罪で起訴されると同時に仮出獄が取り消された。11月14日、福岡地裁小倉支部は懲役7年を言い渡した。この途中、些細なことで爆発してしまうことを鑑定してもらった結果、精神病質と診断され、1965年11月15日、城野医療刑務所に移監された。
 1968年9月8日、出所。翌日、刑務所仲間を訪ねて姫路に行ったが、真面目に働いているのを見て愕然とする。夜汽車に乗ったが、和服を着た中年の女性を襲って金を盗んでしまう。1969年10月13日、広島地裁は強盗傷人で懲役10年(求刑懲役12年)を言い渡す。1970年3月30日、控訴棄却。上告したが2日後に取り下げ、確定した。広島刑務所に収容される。
 1978年12月12日、満期出所。既に父は死に、母のところで正月を迎えた。盗みを2件やっているが、ばれなかった。その後横浜へ引っ越し、兄が店長を務めるピンクキャバレーで呼び込みをやり始めるが、店に保管してあった70万円に手を着けてしまう。それ以後店には行かず、店舗荒らしで出所から4ヶ月後に捕まる。1979年6月21日、東京地裁で懲役2年6ヶ月の判決が出て、福岡刑務所に下獄した。母は小倉に戻る。1981年12月24日に満期出所。しかし母の仕事先で空き巣を働いたことから居たたまれなくなり、母とともに横浜へ向かう。しかし出所から2ヶ月半後、神奈川県内で空き巣を働いて捕まり、懲役10ヶ月の刑を受けた。

 捷治は今度こそ働こうと思いながらも、結局出所4日目から盗みを再開する。盗んだ金はゲーム喫茶でのポーカーゲームや飲食代でほとんど無くなった。そして出所から18日目の1983年2月23日、捷治は横浜市金沢区の家へ盗みにはいる。しかし見つけた和服を次々と身に纏っていたとき、小柄な老女(63)が帰ってきた。捷治は老女を押さえつけるが抵抗したため、以前に盗んで持っていた日本刀で首を刺してしまい、殺害した。その後、たとう紙にライターで火を付ける。火は別の紙に燃え移り、やがて家に移り燃え盛った。捷治は現金を盗んで逃げた。
 家が全焼したため証拠は焼けてしまい、捜査は捷治のところまで届かなかった。捷治は再び盗みを始める。
 3月12日、工藤捷治は住居侵入、強盗事件で逮捕令状が請求された。一昨日の強盗事件で指紋が採取されたことと、被害者が捷治の写真を見て間違いないと言ったからである。そんなことを知らない捷治はこの日も強盗事件を3件引き起こし、母のアパートに帰ってきた。もっとも母は、兄の家に逃げていたが。警察はまだ令状が届いていないから、逮捕できなかった。捷治は警察の張り込みに気付き、日本刀を持って屋根から逃走。しかし追いかけられ、午前10時55分に逮捕された。
 捷治は磯子署で強盗事件を中心に取り調べを受け、起訴されていったが、強盗殺人や強盗強姦については自供しようとしなかった。しかし捷治はこの頃から、夜になるとうなされるようになった。老女が夢まくらに立ち、夜通し捷治を苦しめていた。そんな様子を見て、取り調べていた磯子署の刑事たちはまだ何かを隠していると確信した。そして老女強盗殺人事件との関連性を調べるようになる。
 捷治はその頃、夢の中で祖母の夢を見るようになった。老女が現れて逃げ回ると祖母が現れ、老女に土下座するのだった。祖母は3年前に92歳で死亡したが、捷治にとって一番可愛がってくれた人だった。
 7月8日、取り調べの刑事が「きょうはお前のおばあさんの命日だったな、水の一杯でもあげてやれや」と告げた。捷治は手を合わせて瞑目し、その後強盗殺人を自供した。そして上申書を提出した。捜査本部があった金沢署は、犯人が隣の署で捕まっていたことを知り、ショックを受けた。
 捷治が寝泊まりしていた母のアパートを刑事たちが家宅捜査したとき、仏壇に一人の女性の名前が書かれた位牌を見つけた。32年前に捷治が殺害した女の子の名前が書かれていた。母が毎日、冥福を祈っていたものだった。検事からの要請により、捷治は上申書を書いた。事件は既に時効を迎えていた。
 工藤捷治が起訴された公訴事実は、窃盗10、強盗6、強盗殺人1、強盗強姦1、現住建造物等放火2、傷害1、銃砲刀剣類所持等取締法違反1件の合計22件となった。このうち強盗2件は、前刑の服役以前に起こしたものであった。出所から35日間で合計732400円の現金を盗んでいる。他に32年前の幼女殺人も新聞で報じられていた。
 1983年9月12日、横浜地裁の初公判で工藤捷治は殺意を否定した。国選の弁護人は、捷治は爆発性精神病質の異常人格者であり、犯行当時は心神喪失または耗弱状態にあったとして無罪を主張した。
 捷治は精神鑑定を受けたが、精神病を疑わせる所見はなく、責任能力はあると判断された。捷治は扱いの不満や、母や兄から差し入れや返事がないことに苛立ちをつのらせ続けていたが、1985年9月1日に爆発。看守が要求に応じなかったことに激怒し、独房の窓を叩き割り、ガラス片を看守に投げつけた。そして器物損壊と傷害が新たに罪状として加わった。
 1986年1月30日、検察側は前刑の服役以前に起こした2件の強盗事件について懲役7年、残りの事件について死刑を求刑した。
 1ヶ月後の最終弁論で捷治は、「悪いことをしたと心から反省しています。あんな事件を起こしたのですから死刑はあたりまえだと考えています。でも、自分だって進んでひねくれたわけではありません。(中略)これからまた長い間刑務所にいて獄死するのは辛い……お願いします。私を死刑にしてください」と話した。
 3月25日、横浜地裁は先に主文を言い渡した。2件の強盗事件について懲役5年、そして残りの事件について無期懲役、と。地裁は、拘置支所内で経を上げて被害者の冥福を祈っているなど人間性を全く喪失していないこと、生い立ちに同情すべきことがあること、近似の量刑の実状などを理由としてあげた。
 検察側は控訴しなかった。捷治は控訴したが、6月4日付で取り下げ。19日に判決が確定し、捷治は下獄した。


 長々と書かせてもらったが、本書は工藤捷治(本名はS・Y)が最後に下獄するまでの一生をずっと書き記したものである。そこに何らかの外部からの意見が入っているわけではない。ただ最初から最後まで、事件の概要と工藤捷治の傷害が書かれるだけだ。よくわからないが、長い長い犯罪記録をずっと見せられたような気分になる。それ以上でもそれ以下でもない。
 荒んだ人生を歩んでいる主人公だと思うけれど、3/4は自業自得、1/4は刑務所の教育が形ばかりで身にならないという結論だろうか。満期出所したって、その後は普通の人生を歩んでいる人もいるわけだし、結局は本人の資質でしかないだろう、犯罪を犯すかどうかは。

 作者の吉田和正は1944年、広島県生まれ。日本大学中退。映画助監督、週刊誌記者を経て作家活動に入る。


<ブラウザの【戻る】ボタンで戻ってください>