ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1966~1970年】(昭和41~45年)



【1966年】(昭和41年)

日 付事 件
4/7 概 要 <千葉大学腸チフス事件>
 1966年4月7日、千葉県警は千葉大附属病院第一内科研究生S(32)を、細菌をばらまいた容疑で逮捕した。千葉大附属病院、静岡県社会保険三島病院で集団赤痢と腸チフスが異常発生しており、Sが細菌をばらまいたことが原因であったという。ところが裁判の過程で、思わぬ事実が発覚した。病院内の衛生管理の怠慢によって、赤痢やチフスの自然発生が引き起こされていたという。この頃、赤痢やチフスの自然発生はかなりの頻度であり、衆議院でも厚生省は激しい追求を受けていた。Sは内部告発をこめて、保健所に匿名通報していた。ところが千葉大附属病院は、院長が日本学術会議第七部会の委員になるよう運動中であったため、この事実は非常に具合の悪い出来事だった。そのため、「事実」は「事件」に仕立て上げられ、「事件」とSの名前をマスコミに流し続けた。警察はマスコミの報道をもとに捜査を開始するようになった。
 Sは逮捕後に一度自供したがその後は否認するも、13件63人への傷害容疑で起訴された。
 裁判でSは無罪を主張した。弁護側は「事件」の矛盾を徹底的につき、起訴の方法で人をチフスに感染させるのは不可能であると証明した。1973年4月20日、東京地裁は、Sの自供や検察側の主張による方法では赤痢ないしチフスを発症させることは多くの場合不能か至難であることや、自然感染の疑いもある、また動機も不明など、無罪を言い渡した。
 検察側は控訴。1976年4月30日、東京高裁は千葉大病院と三島病院から検出された腸腸チフス菌がいずれもD2型菌で同じ性質を持った腸チフス菌であったことから、検察側が証明する方法で感染は可能であると判断。さらにSの自白には一貫性があり、信頼できるとして、懲役6年(求刑懲役8年)の逆転有罪判決を言い渡した。犯行動機は性格異常に加え、医局に対する潜在的不満があったとした。1982年5月25日、最高裁で上告は棄却され、確定した。
文 献 「千葉大学腸チフス事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

飯田佐和子『大橋誠を求めて 「千葉大腸チフス事件」の冤罪を告発した疫学者』(一葉社,2018)

大熊一夫『冤罪・千葉大学腸チフス事件』(晩聲社,1991)

畑山博『罠』(文藝春秋,1978)

福田洋『科学的魔女裁判』(潮文社,1991)
備 考  この事件は冤罪の可能性が高いと思われる。しかし、当の被告が再審を拒否している。それほど、マスコミ・警察・周囲の人物に傷つけられたのだろう。
5/21 概 要 <臨港橋通り魔殺人事件>
 1966年5月21日午後10時55分ごろ、町工場を経営する夫婦の一人息子(当時26)が、横浜市鶴見区の鶴見川橋で少年(19)に柳刃包丁で刺され、重傷を負った。病院に運ばれたが、22日夜、失血死した。少年は3日後、従姉と友人に付き添われて自首した。少年は1月に少年院を出所したばかりで、勤務する製材所の同室の男に度胸がない、左人殺しもできないだろうと言われたことに反発して事件を犯したもので、被害者との面識はなかった。
 1967年2月27日、横浜地裁は少年に懲役5年以上10年以下の不定期刑を言い渡した。少年は控訴せず、判決は確定した。
 事件後、被害者の父親は「殺人犯罪撲滅を推進する遺族会」を設立し、町工場を売り払い、全国の殺人被害者遺族の元を行脚した。1974年、三菱重工業爆破事件後に設立された「被害者補償制度を促進する会」と合併し、「犯罪による被害者補償制度を促進する会」が設立された。父親は会長となり、マスコミや国会で制度の設立を訴えた。
文 献 佐藤秀郎『衝動殺人』(中央公論社,1978)
備 考  
5/21 概 要 <国分寺主婦殺人事件>
 1966年5月21日、東京都国分寺市で主婦(40)が自宅で短刀で滅多突きにされて殺害され、現金約2,000円が奪われた。学校から帰宅した子供たちが発見。被害者宅に落ちていたスポーツ新聞に、犯人の指紋が残されており、3年前ににのぞきで捕まった犯人と一致。5月25日、強盗殺人容疑で杉並区に住む無職のH(22)を逮捕した。自宅からは凶器の短刀や、犯行を記録した日記なども見つかった。Hはすぐに犯行を自供。半年前に国分寺市近辺や調布市内で民家に侵入し、ナイフで家人を脅して現金を奪った強盗や窃盗事件計3件を犯していたことも自供した。
 1966年11月28日、東京地裁八王子支部で求刑通り死刑判決。1967年5月17日、東京高裁で被告側控訴棄却。1968年4月26日、被告側上告棄却、確定。
 1971年11月9日、執行。28歳没。
文 献 堀川惠子『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』(講談社,2011/講談社文庫,2015)
備 考  
6/30 概 要 <袴田事件>
 1966年6月30日未明、清水市の味噌製造工場の専務宅で出火、全焼した現場から一家4人の焼死体が発見。遺体にはいずれも多くの刃物による傷があった。被害者宅には多額の現金・預金通帳・有価証券などが残されており怨恨による犯行と考えられていたのである。その後、捜査の間に金袋がなくなっていることが判明。7月4日、元プロボクサーで同工場に勤務している袴田巌(30)の部屋から血痕のついたパジャマを押収。大々的に報道されたが、実際は、二度の鑑定が不可能なほどの微量であった。8月18日、袴田が逮捕、21日後にとうとう「自白」した。連日の過酷な取り調べ、拷問によるものであり、「自白調書」が45通も作られたという摩訶不思議な話である。
 裁判で袴田は無罪を主張。公判当初、犯行の着衣はパジャマとしていたが、事件から1年2か月後の1967年8月31日、血の付いたズボンなど5点の衣類が、麻袋に入った状態で、すでに捜索済みであったはずのみそ工場のタンクの中から見つかった。9月13日に公判が急遽開かれ、検察側は冒頭陳述における犯行時の着衣をパジャマから5点の衣類に変更した。1968年9月11日、東京地裁で死刑判決。44通の自白調書を否定。1通の自白調書を証拠として採用した。控訴審では1971年11月20日、「5点の衣類」の装着実験が実施されたが、ズボンが小さくて袴田被告は穿くことができなかった。しかし、検察側の「生地が1年以上も水分・味噌成分を吸い込んだあと長期間証拠物として保管されている間に自然乾燥して収縮した」という検察側の主張を認め、1976年5月18日、東京高裁で控訴棄却。1980年11月19日、最高裁で被告側上告が棄却され、死刑が確定。
 1981年4月20日、静岡地裁へ再審請求。1994年8月9日、静岡地裁は請求を棄却。即時抗告後の2000年7月、袴田死刑囚の衣服に付いていたという血痕をDNA鑑定したものの、判別不能という結果に終わった。2004年8月26日、東京高裁は請求を棄却。最高裁第二小法廷は2008年3月24日付で、再審開始を認めず、特別抗告を棄却する決定をした。
 日弁連や日本プロボクシング協会などが再審支援活動を続けている。
 2008年4月25日、袴田死刑囚は第二次再審請求を提出した。袴田死刑囚は心身の状態から本人による弁護人選任が難しいため、姉が申立人になった。弁護側の要請を受け、さらに静岡地裁からの要請により、地検側は次々と証拠を開示。さらに静岡地裁は衣類に残った血痕のDNA型鑑定を実施。弁護側の鑑定人は者「被害者の血とは確認できない」と判断、検察側の鑑定人は「被害者の血である可能性が排除できない」との見解を示し、双方食い違う結果となった。さらにシャツに付いた血痕と袴田死刑囚本人とのDNA鑑定については、双方とも一致しないという結果となった。
 2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は、犯行着衣とされた「5点の衣類」をめぐるDNA型鑑定結果を新たな証拠と認めた上で、「(袴田元被告を)犯人と認めるには合理的な疑いが残る」「(「5点の衣類」について)後日捏造された疑いがぬぐえない」として再審開始を決めた。刑の執行停止に加え、拘置の停止も認める異例の決定となった。法務省によると、死刑囚の再審が決定したケースで、拘置の執行停止が認められたのは初めて。静岡地検は、拘置の執行停止決定を不服として、静岡地裁にこの決定を停止するよう申請すると同時に、東京高裁に決定の取り消しを求めて抗告したが、静岡地裁は静岡地検の申し立てを退けた。抗告に対する高裁の判断には時間を要するため、地検が釈放を指揮し、袴田元被告は同日午後、逮捕から47年7カ月ぶりに釈放された。3月28日、東京高裁(三好幹夫裁判長)は、拘置の停止を認めた静岡地裁の判断を支持する決定をした。静岡地検は3月31日、決定を不服として東京高裁に即時抗告した。
 2018年6月11日、東京高裁(大島隆明裁判長)は「DNA型の鑑定結果を信用できるとした地裁の判断は不合理」として検察側の即時抗告を認め、静岡地裁の再審開始決定を取り消した。なお、「年齢や生活状況、健康状態などに照らすと、再審請求棄却の確定前に取り消すことは相当であるとまでは言い難い」として、死刑と拘置の執行停止は取り消さなかった。
 2020年12月22日付の決定で最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は、再審開始を認めない東京高裁決定を取り消し、高裁に審理を差し戻した。5人の裁判官のうち3人の多数意見で、高裁決定の取り消しは全員が一致し、2人は「差し戻しではなく再審を開始すべきだ」と反対の立場をとった。死刑の執行停止と釈放は維持される。小法廷は衣類に付着した血痕のDNA型鑑定結果は「DNAが残存しているとしても極めて微量で劣化している可能性が高い」として証拠価値を否定したが、「5点の衣類」に付着した血痕の色について審理を尽くしていないとした。
 2023年3月14日、東京高裁(大善文男裁判長)は静岡地裁の再審開始決定に対する検察側の即時抗告を棄却した。また地裁の死刑執行及び拘置停止を支持した。裁判長は、1年以上みそ漬けされた衣類の血痕の赤みが消失することは、専門家の鑑定書や証人尋問により明らかになったと判断。さらに検察側が新たに行った実験結果からも試料の血痕に赤みが残らないことが確認されたとして、弁護側の実験報告書は、衣類の血痕には赤みが残らないことを認定できる新証拠と認定した。さらに衣類は事件から相当期間が経過した後に、捜査機関を含む第三者がタンク内に隠匿した可能性が否定できず、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いとした。3月20日、東京高検は特別抗告を断念し、再審決定が確定した。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

いのまちこ(編)、たたらなおき(漫画)、大庭有希子(原作)『デコちゃんが行く 袴田ひで子物語』(静岡新聞社,2020)

尾形誠規『美談の男 冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』(鉄人社,2010)

尾形誠規『[完全版]袴田事件を裁いた男 無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元エリート裁判官・熊本典道の転落』(朝日新聞出版,2023)

白砂巖『こがね味噌会社専務一家刺殺放火事件と袴田裁判の真実 ならびに「刑事訴訟法」「公文書関連法」「再審」「国家賠償法」に関する提案』(社会評論社,2023)

高杉晋吾『地獄のゴングが鳴った』(三一書房,1981)

袴田巌『主よ、いつまでですか 無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』(新教出版社,1992)

袴田事件弁護団『はけないズボンで死刑判決―検証・袴田事件』(現代人文社,2004)

浜田寿美男『袴田事件の謎 取調べ録音テープが語る事実』(岩波書店,2020)

矢澤昇治『袴田巌は無実だ』(花伝社,2010)

山平重樹『裁かれるのは我なり―袴田事件主任裁判官三十九年目の真実』(双葉社,2010/ちくま文庫,2014)

山本徹美『袴田事件』(世界文化社,1993/新風舎文庫,2004)

「神の儀式で勝利した―頭がはぜる―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「死刑囚の手紙――静岡・袴田事件」(里見繁『冤罪をつくる検察、それを支える裁判所』(インパクト出版会,2010)所収)

「袴田事件 袴田巌」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  2007年2月26日、テレビの報道番組で一審当時の判事がインタビューで「私は無実だと確信していた」と述べた。しかし、残り2名の裁判官が有罪と判断したため、判決は死刑となった。この判事は良心の呵責から、7ヶ月後に裁判官を辞している。
9/4 概 要 <春日部強盗放火殺人事件>
 N(33)は小さい頃から車が好きだった。車のことならプロそこのけに熟知していた。Nはポルシェに惹かれていたが、国産車さえ買う金もなかった。
 1966年は18件の放火殺人事件が起きていたことにNは着目。9月4日、ちょっとした知り合いで、小金を貯めていた東京都北多摩群のタクシー運転手(48)を布団蒸しにして窒息死させた。その後風呂を沸かしてヒゲを剃り、冷蔵庫のビールを飲んだ後、洋服ダンスから43,000円を盗み放火。自転車さえも盗んで、逃走した。
 9月16日には、埼玉県春日部で帽子工場長代理(35)の妻(30)を強姦後、夫と妻と次男(11か月)を絞殺、2万円を奪った。家に放火し、長男(5)が怪我を負った。9月22日に自首。取調中、9年前に埼玉県坂戸市で、自転車商(33)一家5人を殺害したことを自供したとされるが、これはマスコミの誤報である。
 1969年3月24日、浦和地裁で求刑通り死刑判決。6月28日、控訴を取り下げ死刑確定。1973年10月12日、死刑執行。40歳没。
文 献 「生まれ変わりました。喜んで死にます」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)
備 考  
12/5 概 要 <川端町事件>
 1966年12月5日、当時の福岡市下川端町のマルヨ無線川端店に二人組の強盗が押し入り、宿直の店員2人の頭などをハンマーで殴り、売上金約22万円を奪って逃走。直後に店が炎上し、店員1人(23)は自力で逃れたが、1人(27)は焼死。O(20)と少年(17)が逮捕、起訴された。1968年12月24日、福岡地裁はOに求刑通り死刑、少年に懲役13年判決を言い渡した。Oは控訴審から放火殺人を否認したが、1970年3月20日、福岡高裁は被告側控訴棄却。少年は上告せず確定。1970年11月12日、最高裁は被告側上告を棄却し、Oの死刑判決が確定した。
 第5次再審抗告審では、原因となったストーブを蹴り倒すことはできないと認定したが、手で倒すことも可能とし、放火を認定している。
 現在、日弁連が全面支援して再審請求を続けている。第7次再審請求中。2023年現在、最古参の死刑囚である。死刑確定後の拘置期間が50年を超えるのは、戦後最長である。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  1998年10月29日、最高裁で再審請求棄却に対する特別抗告を棄却されるものの、その中で「一部無罪」も再審請求は可能との初めての判断が示された。

【1967年】(昭和42年)

日 付事 件
1/13 概 要 <藤沢・女子高生暴行殺人事件>
 1月13日夜、労務者S(26)は神奈川県藤沢市の路上で、帰宅途中の定時制女子高生(19)を呼びとめ、人気のないところで乱暴、殺害し、空き地に埋めて、横浜市に逃走した。翌日昼、女子高生が帰らないことを心配し、探していた母が女子高生のヒールを発見、藤沢署に届けた。当初は誘拐と思われたが、一切の連絡がなかったため、16日に公開捜査。翌日、逃走先で接触したSのいとこが、捜査本部に通報。捜査員が空き地を捜索し、女子高生の死体を発見。ただちにSを全国指名手配し、18日に逮捕した。
 1969年3月18日、横浜地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。しかし検察側は控訴し、1971年11月8日、東京高裁は強姦の前歴があることを加味し逆転死刑判決。1972年7月18日、被告側上告が棄却され死刑確定。S本人は、死刑判決を受けたことが心外であり、再審請求を行う予定だった。
 1982年11月25日、所長から呼ばれたSは、特に不審を抱かず連行された。この頃の東京拘置所では、慣例として前日言い渡しをしていたため、自分が執行されるとは夢にも思っていなかったらしい。所長室で即日処刑を聞かされ、暴れ狂った。手錠が掛けられ、腰縄で固定されたSは大人しく刑場まで引きずり込まれたが、腰縄を解かれ、手錠を外された瞬間再び逆上。50分に渡る格闘の末、刑務官が寄ってたかって取り押さえ、首に縄を掛けて吊した。通常行われる儀式どころではなかった。41歳没。
文 献 「巨漢百キロ、「言い渡し」を聞いて狂乱・格闘」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)
備 考  
1/23 概 要 <混血少年連続女性殺人事件>
 米黒人兵と日本人女生との間に生まれた少年T(16)は、小さい頃から縮れ毛、皮膚の色が黒いという理由で差別感を持ち、ひねくれ出すようになった。中学時代に窃盗で補導、宮城県立の矯護施設に移された。卒業した1966年、東仙台の自動車整備工場で働くも、6月に入って蒸発。そのまま九州や大阪で空き巣を繰り返しながら放浪し、9月に仙台に捕まって空き巣で逮捕。少年鑑別所に送られたが、集団赤痢の疑いで市内の病院に入院し、10月4日に脱走。以後、窃盗を繰り返しながら、放浪を続けた。
 1966年12月13日、愛知県豊橋市の会社員の妻Aさん(24)の首を絞め、猿ぐつわをはめ乱暴し殺害。現金20,000円を奪った。Aさんは臨月だった。死体は水の張られた浴槽に投げ込まれていた。
 12月27日、千葉県葛飾郡の職員宅に忍び込んだが、妻Bさん(28)が帰宅。ナイフで脅し、ヒモ、目隠し、猿ぐつわをしたうえ乱暴。その後、ヒモで殺害し、現金24,000円を奪った。
 1967年1月16日、山梨県甲府市の職員の娘Dさん(25)の首を絞め、猿ぐつわをはめ乱暴、殺害し、現金を7,000円を奪った。死体は全裸のまま鴨居からぶら下がっていた。
 1月23日、江戸川区の近くの団地6軒に侵入、現金約10万円を盗んだが、駅前で警戒中の警察官に逮捕される。同日、警察庁広域重要指定106号事件に指定された。
 求刑は死刑だったが、少年法により罪一等減じて1972年9月9日に千葉地裁で無期懲役判決。控訴せずそのまま確定。1988年に仮出所している。
文 献 「差別-混血少年連続殺人事件」(小沢信男『犯罪専科』(河出文庫,1985)に収録)

安土茂『憎しみは愛よりも深し―実録・16歳連続女性殺人事件』(河出文庫,1999)
備 考  
6/29 概 要 <フーテン・マコ殺人事件>
 1967年2月16日午後4時過ぎ、横浜市のアパートで女性の遺体を大家が発見。殺害されたAM(19)は片桐摩湖と名乗り、14,5歳ごろから外人バーに勤め、ヌードショーにも出て、ピンク映画『体当りマンハント旅行』(豊原路子主演)にも水原リサの名前で出演経歴があった。ただしこの映画はあまりにも不出来で没となっている。左太ももに弁天小僧の刺青があり、伊勢佐木町などのナイトクラブ、外人バーではフーテン・マコとして知られていた。交友メモなどからは254人の男性の名前が挙がった。
 小沢昭一は1966年4月18日付の『内外タイムス』で彼女と対談しており、事件後に「絵に書いたような“ハマのズベ公”で、日本のズベ史に残る女」(週刊新潮)と語っている。
 4月8日、捜査本部は横浜でポン引きをしていたT(25)を逮捕。当時1万円を借金していたTは返済のため友人知人を駆けずり回るうちにマコのことを思い出し、顔を合わせたことしかなかったが金を借りに行った。姉御肌のマコは鷹揚に承知し、さらにしばらく女性経験のなかったTはマコを抱きたいと頼んでそのまま関係を結んだが、Tはあっという間に尽きてしまった。時間が短いことからさらにサービスを要求したマコを鬱陶しくなったTは、肘でマコの顎のところを押すと気絶してしまった。慌てたTは電気毛布のコードで絞殺して殺害。現金は指輪などを盗んで逃亡したものだった。マコのものらしいライターを持っているという噂から足がついた。
文 献 「無法-フーテン・マコの短い華麗な生涯」(小沢信男『犯罪専科』(河出文庫,1985)に収録)
備 考  
3/14 概 要 <横浜母子強盗殺人事件>
 機械工のH(28)は結納金のために準備していた8万円を飲酒によって使い果たし、強盗を思い立つ。1967年3月14日、横浜市のアパートに住む友人で元同僚の家に行き、妻(25)に借金を申し込んだ。ところが断られ逆上。妻と長女(1)を、そばにあったスカーフで絞め殺した。郵便貯金通帳を奪い、ガスレンジからガスを放出し、やかんをかけ火を点火して放火自殺を目論んだが未遂。Hはその足で婚約者の実家に行き、通帳から下ろした49,900円を使って結納金を納め、姿を消した。4日後に犯行が発覚、6日後には全国指名手配され、その翌日に逮捕。
 1969年4月30日、横浜地裁で求刑通り死刑判決。1967年12月17日、東京高裁で自判、死刑判決。1971年10月26日、最高裁で被告側上告棄却、確定。1975年12月7日、死刑執行。37歳没。
文 献 「成仏して被害者に会って詫びたい」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)
備 考  
4/19 概 要 <宇都宮友人保険金殺人事件>
 1967年4月19日、宇都宮駅前のバーのマスターであるHN(28)は行き付けの喫茶店のママに、常連である自動車整備士の男性H(27)を呼び出させ、さらに洋服店勤務の男性T(23)を呼び出させた。HもTも、HNのバーの常連で、さらにHNが会長になったボーリング友の会の会員だった。3人は午後8時ごろからHNのバーで飲んでいたが、Hの飲むカクテルには睡眠薬が入っていた。午後9時30分、HNはホステスを帰させた。午後11時ごろ、意識を失ったHを連れてHの車で郊外の工業団地予定地に行き、HNの命令でTがピストル型ライターで何度も殴った。その後、近くの踏切に車ごと放置して貨物列車に轢かせて事故死に見せかける計画だったが、うろたえたHNは踏切を通過してしまう。市内のグランドに入り、HNは虫の息だったHの顔を座布団で覆い、殺害。浄水場のある山へ車を向けたが、途中で車はスリップし、動かなくなる。ジャッキなどを使って車ごと崖に落とそうとしたが、土管に車が引っかかり動かない。そこで死体を引きずり出し、崖下に放り込んだ。
 2か月前の2月8日、HNはHを誘い、日本生命の満期100万円の保険に互いを受取人として加入した。死んだ場合は満期の3倍が支払われ、さらに死亡原因が災害だったときは満期額が加算される契約だった。HNは腰巾着のTを誘い、過去に二度Hを殺害しようとしたが失敗していた。HNは結婚したい女性がいたが、女性よりバーの主人では両親が許さないと言われ、小料理屋を開こうとする資金が必要だった。また、車の購入や遊興による借金が180万円あった。
 20日、トレーニング中の競輪選手が車を発見し通報。遺体が発見された。HNは刑事に当日夜来たが、女のために金を貸してくれと言われたので貸したと答え、警察の捜査も一度はそちらの方向に傾いた。しかしすぐに嘘は発覚し、25日、捜査本部はHNとTを逮捕した。
 HNは1968年7月10日、宇都宮地裁で求刑通り一審死刑判決。1969年1月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。1969年11月6日、被告側上告棄却、確定。既に執行されている。
文 献 「設計-保険金殺人事件」(小沢信男『犯罪専科』(河出文庫,1985)に収録)
備 考  
4/24 概 要 <売春婦連続殺人事件>
 W(19)は日雇い人夫としてその日暮らしをし、売春婦相手の女遊びを生き甲斐としていた。
 1967年4月24日、愛知県内で投宿した売春婦(36)に追加の売春代金を支払ったが、コンドームを使用しない性交を拒否され憤激、絞殺して30,000円あまりを奪った。
 1967年8月5日、大阪府内で、ナイフを所持して通行人から金品を強取しようとして、男娼(26)を刺殺して失血死させた上、約200円を奪った。
 1972年4月10日、大阪府内で売春婦(39)と性交後金はないといったところ逆に難詰されたため、絞殺。現金2,000円等を奪った。
 1973年3月20日、大阪府内で売春婦(40)と性交後絞殺、現金22,000円を奪った。
 二つの事件後、窃盗等の非行により約1年間、中等少年院に入っている。
 犯行時未成年であったことや自白が認められ、1975年8月29日無期懲役判決。1978年5月30日、大阪高裁で一審破棄死刑判決。
 上告審より男娼殺害と1972年の事件について無罪を主張。最高裁が判決を確定するまでの間、判決の土台となる報告書作成を担当した最高裁第一小法廷の当時の調査官が男性殺害については無罪、もう一件の女性殺害についても審理のやり直しを主張し、判事の一人がこれを支持。判事の全員一致が原則とされる死刑判決の言い渡しが事実上できなくなっていた。判事が退官するまで上告審判決を出すことができず、高裁判決から10年後の1988年6月2日に上告棄却、確定。
 2021年現在も再審請求中である。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「殺していない罪まで―割れた合議―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
4/29 概 要 <元千葉準ミス千葉大生殺害事件>
 1967年4月29日、16年前にミス千葉コンテストの準ミスに選ばれたF(35)が、付き合っていた千葉大4年のAさん(23)に青酸カリ入りの紅茶を飲ませて毒殺。最高裁で懲役8年確定。
文 献
備 考  
6/29 概 要 <岸和田巡査殺人事件>
 1967年6月29日1時20分過ぎ、頻発していた盗犯の張り込みを行っていた。岸和田署の巡査(23)が若い男を職務質問したところ、いきなりナイフで刺されて殺害された。捜査は難航。1969年秋から1971年10月にかけ、豊中署管内、池田署管内、さらに奈良県、兵庫県で同一犯と思われる連続強盗強姦事件が発生した。モンタージュ写真が貼られたことから犯人(23)は広島に逃げ11月13日、廿日市の住宅街で強盗強姦事件を引き起こし、同日逮捕。その後計39件についての事件について自供。さらに大阪に移監され69件について自供。ただしそのほとんどは証拠が掴めず、供述もあいまいだった。そのうちに岸和田での巡査殺しを自供。さらに1967年から1971年にかけて起こした強盗殺人事件について「自供」するも、半分は供述と現場が一致せずガセと思われ、3件についても証拠を掴むことはできなかった。これらについてはいずれも新聞紙上で「スクープ」されている。
 1973年3月6日、大阪地裁の判決公判で、1970年5月20日の豊中市での強盗強姦事件と1971年11月13日の廿日市での人妻強盗強姦事件で懲役8年(求刑懲役12年)、近畿管内の強姦および強姦未遂事件の計2件で懲役3年6月(求刑懲役7年)が言い渡された。その後、巡査殺害について起訴された。
文 献 西村望『蜃気楼』(立風書房,1978/徳間文庫,1982)
備 考  
6/29 概 要 <多摩川外交官令嬢焼殺事件>
 1967年6月29日午後6時ごろ、貿易商社社員のKM(30)は交際していたブラジルR市駐在の総領事の娘(29)とドライブ。食事後の午後9時ごろ、世田谷区多摩川堤の路上で結婚をめぐり口論。女性になじられたKMはカッとなって女性を殴り、さらに蹴り飛ばして失神させた。そして車のトランクからガソリン5リットル入りの補助タンクを持ち出して半分ほどを体に浴びせ、ねじった紙にライターで火をつけた。女性は直前で意識を取り戻したが、KMはかまわず投げつけ、女性を焼死させた。30日午前5時30分、ヤクルトの配達人が焼死体を発見。家族からの届け出で身体的特徴が一致。捜査本部は7月4日、KMを逮捕。KMは犯行を否定するも、車の中に女性の指環などが発見され、さらに自宅から女性の真珠のネックレスが発見されたため、9日にKMは犯行を自供した。KMは数回の逮捕歴があり、1956年には窃盗で懲役4年以上6年以下の不定期刑を受けて少年刑務所に5年服役していた。
 KMは1966年1月、女性がタイピストとして勤めていた商社に入社。女性は5月、給料の良い別の会計事務所に移ったが、KMは女性に接近し、7月から交際を始める。KMには4歳下の妻と息子がいたが、別れ話が出ていた。KMは将来独立すると言って女性から都度金を引き出し、合計で100万円を超えた。しかしいつまでたっても離婚をしないので、女性は約束を守るよう、KMに求めていた。しかしKMは妻とよりを戻しており、離婚する気はなかった。
 女性の母親はブラジルの夫の元へ戻るが、後に首を吊って自殺。父親も退官、隠棲した。
 KMは殺人と窃盗で起訴され、1968年6月4日、東京地裁は計画的犯行として求刑通り死刑判決を言い渡す。1973年3月9日、一部無罪となって無期懲役に減刑。上告するもすぐに取り下げ、刑は確定した。
文 献 「中産-外交官令嬢焼殺事件」(小沢信男『犯罪専科』(河出文庫,1985)に収録)
備 考  
8/28 概 要 <布川事件>
 1967年8月30日の朝、茨城県北相馬郡利根町布川に住む独り暮らしのTさん(当時62)が自宅で殺されているのが発見。盗まれたものは不明ながら、財布が見つからないことから、強盗殺人事件として捜査が始まった。二人連れの男が被害者付近宅にいたという証言から捜査が進められ、主に素行不良、前科者、被害者から金を借りていたものなどの中からアリバイのないものを対象に捜査。10月10日に桜井昌司さん(20)、16日に杉山卓男さん(21)が別件で逮捕された。その後、二人は「自白」させられ、12月に起訴。
 水戸地裁土浦支部で開かれた初公判では両者とも犯行を否認した。1970年10月6日、水戸地裁土浦支部は両者に求刑通り無期懲役の判決。1973年12月20日、東京高裁で被告側控訴棄却。1978年7月3日、最高裁で上告が棄却され、判決は確定した。
 2人は1983年に再審請求するも、1992年に最高裁で棄却が確定。1996年に仮釈放後の2001年に第二次再審請求を提出。2005年9月21日、水戸地裁土浦支部は再審開始を決定。2008年7月14日、東京地裁は検察側の即時抗告棄却。2009年12月14日、最高裁第二小法廷は検察側の特別抗告を棄却したため、再審開始が決定した。
 2010年7月9日、水戸地裁土浦支部で開かれた再審初公判で被告側の2人は無罪を主張、検察側は有罪立証の方針を示した。検察側は被害者の首に巻かれていた下着など遺留品4点のDNA鑑定を求めたが、7月30日の第2回公判で裁判所は申請を却下した。また、録音テープに記録された「自白」の内容に対する矛盾が多数指摘された。11月12日、検察側は2人に無期懲役を求刑、12月10日の最終弁論で結審した。2011年3月16日に判決日が指定されていたが、3月11日に発生した東日本大震災で水戸地裁が被害を受けたことから延期された。
 2011年5月24日、水戸地裁土浦支部は強盗殺人事件について、桜井さん、杉山さんに無罪を言い渡した。別件の窃盗事件については、執行猶予付きの有罪判決を言い渡した。裁判長は、「自白調書は、捜査官らの誘導などで作成された可能性を否定できない」「自白は信用性を肯定できず、任意性も疑いをぬぐえない」「2人を現場前で見たという目撃証言は信用性に欠ける。強盗殺人の犯人の証拠は存在しない」と述べた。弁護側は「警察・検察が(無罪の)証拠を隠し、追認した裁判所にも責任がある」として誤審の原因解明を求めていたが、判決で目立った言及はなく、足利事件の再審判決のような裁判長の謝罪などはなかった。検察側は控訴せず、無罪判決は確定した。地検の次席検事は会見で「事件から40年以上経過しており新証拠を見いだすことはできず、判決を覆すことはできないと判断した」と控訴断念の理由を述べた。2人への謝罪はなかった。
 8月29日、2人は刑事補償法に基づく補償金を、1人につき約1億3,000万円支払うよう水戸地裁土浦支部に請求した。2人が逮捕されてから、仮釈放されるまでの約1万600日に、同法の上限額である1日当たり12,500円を掛けた金額である。検察側は11月4日付の意見書で、刑事補償請求で「逮捕から無罪が確定するまで、強盗殺人事件について、何ら疑われるべき事情や証拠がない」とした点について、第一次再審請求棄却が最高裁で確定した経緯などに触れ、「相当とは思われない」と主張し、刑事補償額の算定について減額を求めた。桜井昌司さんは12月5日に水戸地検を訪れ、同地裁に提出された検察側の意見書に対し、「名誉毀損に当たる」などとする抗議の申し入れ書を手渡した。水戸地裁土浦支部(神田大助裁判長)は2012年3月5日付で、請求通り各約1億3,000万円の刑事補償を支給する決定を出した。不服申し立ての期間を経て13日に確定した。
 水戸地裁土浦支部(神田大助裁判長)は2012年6月15日付で、桜井さんと杉山さんが請求していた裁判費用の補償額を、計約1,500万円と決定した。2人の公判出廷に要した旅費や弁護士の報酬などから補償額を算定した。費用の補償は刑事訴訟法に基づき、無罪判決が確定した事件が対象。再審に要した費用は対象にならない。
 2012年11月12日、警察と検察の違法な捜査や不当な公判活動の結果、43年に渡って精神的苦痛を受けたとして、県と国を相手に慰謝料や逸失利益など計約1億9千万円の国家賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。杉山卓男さんは提訴しなかった。
 杉山卓男さんは2015年10月27日に亡くなった。69歳没。
 2019年5月27日、東京地裁は警察(茨城県)の取り調べや法廷での偽証、検察(国)が弁護団の求めがあったにもかかわらず、証拠を出さなかったことを違法と判断。これらがなければ、刑事裁判の2審で無罪になった蓋然性が高いなどとし、約7,600万円の支払いを命じた。ただし、別の窃盗事件を含め、逮捕勾留による身柄拘束についてや、検察官が起訴したことについては違法を認めなかった。無罪となった元被告が国家賠償を求めた訴訟で、証拠開示を巡って検察の違法性が認められたのは初めて。県と国が判決を不服として控訴、桜井さんも認定の一部を不服として付帯控訴した。
 2021年8月27日、東京高裁は警察の取り調べを違法とした一審判決を維持しつつ、新たに検察の取り調べも違法だと認定。一審とほぼ同額の約7,400万円の賠償を国と県に命じた。茨城県警の取り調べ対応では、殺害を認めない桜井さんに捜査員が「ポリグラフ検査で全てうそだとわかった」と伝えたのは虚偽と判断。「自白させるために心理的動揺を与えた」とし新たに違法性を認定した。一方、一審が違法と認めた(1)検察が公判で重要証拠の開示を拒否(2)捜査員らが公判で故意に虚偽証言――などの争点は「判断するまでもない」とだけ述べた。国と県は上告せず、判決は確定した。
 桜井昌司さんは2023年8月23日午前、直腸がんのため、水戸市の病院で死去した。76歳没。
文 献 伊佐千尋『舵のない船』(文藝春秋,1993)

伊佐千尋『舵のない船 布川事件の不正義[新装版]』(現代人文社,2010)

井手洋子『ショージとタカオ』(文藝春秋,2012)

小田中聰樹『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書,1993)

桜井昌司『壁のうた』(高文研,2011(改訂版))

桜井昌司『俺の上には空がある広い空が』(マガジンハウス,2021)

佐野洋『檻の中の詩』(双葉社,1993/双葉文庫,1994/双葉文庫増補版,2002)

杉山卓男『冤罪放浪記 布川事件 元・無期懲役囚の告白』(河出書房新社,2013)

武山哲夫『自由と無罪への道のり』(同時代社,1996)

「証拠を隠し続ける検察、冤罪を見抜けない裁判所――茨城・布川事件」(里見繁『冤罪をつくる検察、それを支える裁判所』(インパクト出版会,2010)所収)

「布川事件――調書裁判と自由心証主義の暴走」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  ドキュメンタリー映画「ショージとタカオ」が2010年に製作され、翌年に公開されている。布川事件のドキュメンタリー映画「オレの記念日」(金聖雄監督)が2022年に完成された。
10/16 概 要 <カクタホテル変死事件>
 1967年10月16日、東京の「カクタホテル」208号室にて首吊り自殺を思わせる女性の死体が発見。女性は北海道に住むHさん(36)であった。Hさんは北海道室蘭市にある会社の小切手1,200万円を持ち出し、現金化したことにより横領の罪で指名手配されていた。当初捜査当局は自殺と判断していたが、「おとしの名人」といわれていた本庁捜査一課の平塚八兵衛警部補が疑念を抱き、他殺と判断。捜査を続行させた。その結果、北海道のバー経営者IH(32)の指紋がホテルの部屋に残されていたものと一致。ところが捜査同行を求めたところ、IHは逃走。21日に共犯者の女性IK(22)が北海道で逮捕。さらに年明けの1月にIHが大阪で逮捕された。
 IHとIKは1970年3月30日、東京地裁で無期懲役判決(IHは求刑死刑、IKは求刑無期懲役)。1971年に判決が確定している。
文 献 「偽装殺人を見破った昭和の名刑事」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「カクタホテル殺人事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)
備 考  数々の迷宮入りと思わせる事件を解決してきたH警部補の眼力のもの凄さを語る一事件。
10/27 概 要 <日産サニー事件>
 1967年10月27日未明、福島県いわき市の日産サニー福島販売株式会社いわき営業所で、宿直をしていたHさん(29)が刺殺され金庫内の現金2100円が奪われた。翌年4月27日、電電公社職員のS(29)が窃盗容疑で逮捕された。その後事件を自供し、5月8日、強盗殺人容疑で逮捕、起訴された。アリバイがあり、凶器とされるナイフ、ドライバーには血液反応もなかったが、1969年4月2日、福島地裁いわき支部で求刑通り一審無期懲役判決。1970年4月16日、仙台高裁で被告側控訴棄却。1971年4月19日、最高裁で被告側上告棄却、無期懲役が確定した。
 Sは1988年4月に仮釈放後、7月に再審請求。1992年3月23日、福島地裁いわき支部で再審開始が決定されるも、検察側が即時抗告。1995年5月10日、仙台高裁は再審を取り消した。Sは特別抗告をするものの、1999年3月9日、最高裁は棄却。現在、第二次再審請求準備中。
文 献  
備 考  
10/11 概 要 <永山則夫連続射殺事件>
 警察庁広域重要指定108号事件。永山則夫(19)は横須賀市の在日米軍基地内の住宅からピストルを盗んだ。1968年10月11日、東京都港区の東京プリンスホテルで、巡回中の警備員(27)を射殺。その3日後に京都・八坂神社境内で、警備員(69)を射殺した。さらに、同月26日には北海道函館市内で、タクシー運転手(31)を射殺して売上金約7,000円を奪い、11月5日には名古屋市内で、タクシー運転手(22)を撃ち殺し、売上金7,000余円を奪った。翌69年4月7日、東京・千駄ケ谷のビルへ盗みに入ったところを警備員に見つかり、発砲して逃走したが、間もなく逮捕。
 裁判で永山は、「逮捕時年齢こそ19歳だったが、生まれてからの劣悪な生活環境、幼少時に親に捨てられた過去、学校にほとんど通っていないことなどを考えると、精神年齢は18歳未満の未熟なものであった。故に、18歳未満は死刑を適用しないという少年法の精神に乗っ取るべきである」と訴えた。1971年には著書『無知の涙』がベストセラー。1980年21月12日、永山は読者で米在中の女性と獄中結婚した。
 1979年7月10日、東京地裁で死刑判決。1981年8月21日、東京高裁で裁判長は精神的成熟度では18歳未満の少年と同じであること、国の福祉政策が貧困であったこと、獄中結婚し贖罪の生活を送ることを誓約していること、遺族の一部に印税を支払っていることを理由に無期懲役に減刑。刑事事件の場合上告は憲法解釈の誤りか判例違反に限られるが、検察側は求刑死刑に対する無期懲役判決に対し、史上初めて上告した。1983年7月8日、最高裁で高裁差し戻し判決。1987年3月18日、東京高裁の差し戻し控訴審で死刑判決、1990年4月17日、最高裁で死刑判決が確定。
 裁判中も小説等を書き続け、1983年、「木橋」で新日本文学賞受賞。しかし、唯我独尊の性格が災いしたか、女性とは離婚。徐々に支援者も離れていった。
 1997年8月1日死刑執行、48歳没。その日、東京拘置所内では悲鳴が聞こえたという。同年5月に起きた「酒鬼薔薇事件」を法務省側が強く意識し、執行順位の早い確定者がいたにも関わらず、犯行当時少年だった永山を処刑したという意見が根強い。ただし執行当時、順位の早い確定者の殆どは再審請求中であった。
文 献 朝倉喬司『涙の射殺魔・永山則夫と六〇年代』(共同通信社,2003/新風舎文庫,2007)(後に『19歳の連続射殺魔 永山則夫事件と60年代』(文庫ぎんが堂,2012)と改題)

岩波明『精神鑑定はなぜ間違えるのか? 再考昭和・平成の凶悪犯罪』(光文社新書,2017)

大谷恭子『死刑事件弁護人-永山則夫とともに』(悠々社,1999)

大谷恭子『それでも彼を死刑にしますか―網走からペルーへ 永山則夫の遙かなる旅』(現代企画室,2010)

鎌田忠良『殺人者の意思 列車爆破狂と連続射殺魔』(三一書房,1970)

嵯峨仁朗・柏艪舎編『死刑囚 永山則夫の花嫁ー「奇跡」を生んだ461通の往復書簡』(柏艪舎,2017)

佐木隆三『死刑囚 永山則夫』(講談社,1994/講談社文庫,1997)

武田和夫『死者はまた闘う 永山則夫裁判の真相と死刑制度』(明石書店,2007)

永山則夫『永山則夫の獄中読書日記―死刑確定前後』(朝日新聞社,1990)

永山則夫『死刑確定直前獄中日記』(河出書房新社,1998)

永山則夫『法廷調書』(月曜社,2021)

永山子ども基金 (編集) 『ある遺言のゆくえ―死刑囚・永山則夫がのこしたもの』(東京シューレ出版,2006)

永山則夫入門制作プロジェクト (編集) 『永山則夫入門 死刑台から社会を問うた"連続射殺魔"』(梨の木舎,2020)

堀川惠子『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社,2009/講談社文庫,2016)

堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店,2013)

薬師寺幸二『永山則夫 聞こえなかった言葉』(日本評論社,2007)

「「連続射殺魔」永山則夫の逮捕」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「永山則夫連続射殺魔事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「連続射殺魔事件 永山則夫」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

「孤独なランナー―『永山則夫・広域重要手配108号事件』」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

「永山則夫事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「貧しい子らへ印税を―犯行時少年―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
11/6 概 要 <銀座バーマダムバラバラ事件>
 1967年11月6日、“銀座の女王” と呼ばれたナイトクラブのマダムのYさん(28)が、東京・赤坂のマンションの一室で絞殺された上、風呂場でバラバラにされ、千葉県銚子海岸と隅田川に棄てられた。犯人は金融業兼芸能ブローカーのI(23)で、動機は金銭上のトラブル。
 1968年5月29日、東京地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。9月30日、東京高裁で控訴棄却。1969年7月8日、被告側上告棄却、確定。
文 献 山口洋子『夜の底に生きる』(中央公論社,1984/新潮文庫,1987)
備 考  

【1968年】(昭和43年)

日 付事 件
1/1 概 要 <東京切り裂きジャック事件>
 1968年1月1日深夜、渋谷区の旅館で若い男とアベックで来ていた女性Tさん(34)が97箇所を切り裂かれて殺害された。腕時計、ハンドバック、現金などが奪われていた。7月10日、新宿で簡易料理店を経営する女性Tさん(48)の腹をナイフで切りだしていたT(28)が現行犯逮捕された。Tさんは命を取り留めた。取り調べ名人といわれたH警部補が出向き、元日の事件を自供させた。さらにTは、1967年8月2日にも、浅草で飲食店女性経営者(42)を刺殺したことを自白した。Tは1956年にも小学2年生の女子を殺害し、懲役15年の判決を受けた前科がある。
 Tは1969年10月29日、東京地裁で死刑判決。翌月に控訴を取り下げ、死刑判決が確定した。1972年8月(日付不明)に執行されている。
文 献 「渋谷・淫楽殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
2/20 概 要 <金嬉老事件>
 1968年2月20日、静岡県掛川市の元ブローカーで在日韓国人二世の金嬉老(本名権禧老(クォン・ヒロ) 39)が清水市のキャバレーで借金の返済を迫った暴力団S一派の団員二人をライフルで射殺した。そして45km離れた寸又峡温泉の旅館に押し入り、経営者一家6人と宿泊客10人を人質にとって籠城(途中で3人は脱出)。部屋にダイナマイト数十本を積んで威嚇。21日、報道陣のインタビューに応じ、暴力団S一派の悪を公表することと、清水署の取り調べで差別があったことを謝罪することを要求。取り調べたK巡査はテレビで謝罪を行った。24日、玄関での記者会見中、記者になりすました刑事に取り押さえられる。金は舌を噛み切って自殺しようとしたが、ある警察官がとっさに警察手帳を口に差し込んで未遂に終わった。出血量は体全体の20%という重傷であった。
 1972年6月17日、静岡地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。1974年6月11日、東京高裁で自判の上無期懲役判決。1975年11月4日、最高裁で無期懲役が確定した。1999年9月、強制送還を条件に仮釈放。そのまま韓国に帰国した。しかし、2000年9月には交際中の女性の夫を殺害しようとした殺人未遂の容疑で逮捕、鑑定留置され精神鑑定を受けた後裁判で有罪が確定、服役した。出所後はその女性と暮らしているという。
 2010年2月20日、事件の現場となった「ふじみや旅館」で当時の資料などを展示する資料館が開館された。
 金嬉老元受刑者は2010年3月26日午前6時50分頃、韓国・釜山市の病院で死去した。81歳没。前立腺がんで闘病中だった。死ぬ10日前、自身の釈放運動を主導してきた釜山の僧侶に対し、「刑務所で死ぬところだったのが、おかげさまで父の国で心安らかに死ねることになった」と感謝した後、遺骨の半分を故郷の釜山・影島の海にまき、残りは静岡県の母親の墓に埋めてほしいとの言葉を残したとされる。
文 献 「金嬉老寸又峡温泉籠城事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「金嬉老事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

阿部基治『金嬉老の真実 寸又峡事件の英雄の意外な素顔』(日本図書刊行会,2002)

岡村昭彦『弱虫・泣虫・甘ったれ』(三省堂,1968)

金嬉老『われ生きたり』(新潮社,1999)

金嬉老他『金嬉老の法廷陳述』(三一書房,1970)

金嬉老他『今こそ傷口をさらけ出して』(教文館,1971)

金嬉老公判対策委員会『金嬉老問題資料集』1~9、集成(むくげ社,1969~1973)

崔昌華『金嬉老事件と少数民族』(酒井書店,1968)

本田靖春『私戦』(潮出版社,1978/講談社文庫,1982)

山本リエ『消えないねずみ花火』(新人文学会,1974)

山本リエ『金嬉老とオモニ―そして今』(創樹社,1982)
備 考  
6/16 概 要 <横須賀線爆破事件>
 1968年6月16日午後3時半頃、横須賀発東京行き10両編成の上り列車が、北鎌倉駅を出て大船駅の手前200mにさしかかったとき、6両目(五号車両)の網棚に置かれていた新聞紙の包みが突然爆発。電車五号車両の屋根、天井に張られた鉄板および合金板4枚、座席7個、網棚、窓ガラス4枚のほか、車体付属品8点が損壊された。車両に乗り合わせていた乗客63名のうち、男性死亡1名(32)、重軽傷14名を数えた。神奈川県警は「史上かつてない特殊重大事件」として最大限の人員を投入。警察庁は広域重要指定事件107号に指定。爆破物の証拠から11月9日、大工W(25)を逮捕。動機は、かつて同棲していた女性が同郷の男性と恋仲になったことに怒り、女性が男のところに行く列車がこの列車であったため、脅かすために仕掛けたものであった。しかし、仕掛けた列車にはその女性は乗っていなかった。
 Wは船車覆没致死、電汽車顛覆、殺人、同未遂、傷害、爆発物取締罰則違反で起訴された。1969年3月20日、横浜地裁で求刑通り一審死刑判決。1970年8月11日、東京高裁で被告側控訴棄却。1971年4月22日、最高裁で上告棄却、死刑が確定した。船車覆没致死で死刑判決が確定した唯一の事件である(三鷹事件は電車顛覆致死)。
 1975年12月5日、死刑執行。32歳没。1995年、歌集がペンネームで出版された。
文 献 加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』(筑摩書房 ちくまプリマー新書,2019)

鎌田忠良『殺人者の意思 列車爆破狂と連続射殺魔』(三一書房,1970)

純多摩良樹『死に至る罪―純多摩良樹歌集』(短歌新聞社,1995)

「史上かつてない特殊重大事件」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「第五話 爆破狂」(佐木隆三『殺人百科(3)』(徳間書店,1982/文春文庫,1987他)所収)

「横須賀線電車爆破事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  この事件より数年前から、「草加次郎」による「地下鉄銀座線事件」など、交通機関を狙った爆破事件が全国各地で続発していた。逮捕されたものもあれば、未解決なものもある。
9/5 概 要 <韓国籍愛人嬰児殺害事件>
 1968年9月5日、大阪府吹田市でメリヤス加工業者Nさん(33)の赤ちゃん(生後一ヶ月)が、妻(27)が風呂に入っている間にベビーベッドから誘拐された。警察の取調中、Nさんの愛人で従業員K子(33)が容疑者に浮上。K子は8日に自白、逮捕された。赤ちゃんは近くの神社の境内に埋められていた。K子は韓国籍で悲惨な状況の中で育ってきて、苦労も多かった。K子は愛するNさんの子供を産むつもりで、Nさんもそれを望んでいたが、K子は過去の中絶手術で子供が産めない体になっていた。さらにNさんの妻に子供が産まれたため、Nさんの心はK子から離れていった。K子はNさんを探して家の中に入ったところ、赤ちゃんを見て逆上し、殺したものだった。事件後、NさんはK子が韓国籍であることを知り、「騙された」と激怒したという。
 1969年6月5日、大阪地裁は求刑懲役13年に対し、情状を酌量して懲役6年判決。検察、弁護側ともに控訴し、大阪高裁では残虐性は覆うべくもないと、懲役8年判決を言い渡した。ともに上告せず、刑は確定した。
文 献 「差別-何が彼女を嬰児殺し」(小沢信男『犯罪紳士録』(講談社文庫,1984)所収)

「被差別が引き起こした犯罪 在日混血児の幼児殺害事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)
備 考  
9/9 概 要 <群馬2女性強盗殺人事件>
 群馬県松井田町のNは兄と二人暮らしだったが、死んだ両親に溺愛されて育ったため怠け者だった。いつの間にか、兄嫁と関係ができ、1955年に結婚し子供を産んだ。怠け者のまま、兄嫁が農業を営んで生活していたが、1962年5月、2件の詐欺で懲役10月の実刑判決。出所後の1963年8月13日、寺に忍び込んで2,000円を奪った。さらに9月13日、同じ地区に住む女性宅の土蔵に忍び込んで23万円を盗んだ。翌月に逮捕され、懲役5年の判決を受けた。
 仮出所後もパチンコ通いを続け、1968年9月9日、N(37)は強盗に入った女性(44)のところへ謝罪に行ったが玄関払いを受け激怒。2時間後、電報配達を装って強引に入り、手拭いで首を絞めて殺害し現金15,000円を奪った。そして遺体を自分の家の近くの山林に隠し、翌日に畑へ埋めた。女性はアメリカ人との離婚が成立し、ノイローゼになっていたということもあり、山狩りなども行われたが殺人事件とは思われなかった。
 1971年3月11日、パチンコ帰りのNは松井田町の旅館に泊まった。旅館は女性の母と二人で切り盛りしていたが、当日は母は不在だった。そこで女性の家が土地を売ったといううわさを聞き、金があると判断。12日深夜、旅館に忍び込み騒がれ、女性(48)を細紐で絞殺し、現金28,400円と預金通帳5通(額面180万円相当)を盗み出した。そして死体を裏の山林に隠し、翌日両脚を切断して死体を背負い籠に入れて自宅の畑まで運んで埋めた。
 その後、Nは別の女性が持つ定期預金証書を担保に合計41万円を借りて返さなかった。そのことに不信を抱いた女性が通報。4月15日、Nは松井田署に詐欺容疑で逮捕された。21日、Nは殺人を自供。翌日、遺体が発見され、さらに4年前の事件も発覚した。
 1974年7月26日、前橋地裁高崎支部で求刑通り死刑判決。1975年10月8日、東京高裁で被告側控訴棄却。1978年6月22日、最高裁で上告が棄却され確定。
 1984年10月30日、死刑が執行された。54歳没。
文 献 「第五話 歳上の人」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  大久保清事件、連合赤軍事件に続いたため、群馬県警は穴掘り県警と揶揄されることとなった。
10/5 概 要 <近親相姦実父殺人事件>
 1968年10月5日、栃木県矢板市に住むM(29)は、自宅で植木職人の実父Y(53)を絞殺した。Mは中学2年の時にYに強姦され、それから10年以上も性の捌け口の対象にされた。家には弟、妹の他に実母もいたが、実母が口を出すとYが暴れだす始末。Mが親戚の家に逃げ出したときも、強引に追いかけて連れ戻す。とうとう二人で住むようになり、Mは5人の子供を産んだ(うち2人は嬰児死亡)。他に5人を中絶し、とうとう不妊手術を受けることとなった。ところが29歳になったとき、アルバイト先で知り合った年下の男性と相思相愛の仲になった。MはそれをYに打ち明けたが、Yは怒り狂い、連日連夜脅迫し、殴る蹴るの暴力を加えた。そして10日目、とうとう耐えきれなくなったMは、泥酔しているYを絞め殺した。このとき、Yはこう叫んだという。「おまえに殺されるのなら本望だ」と。
 尊属殺人罪で起訴されたが、尊属殺人罪が憲法違反ではないかとの議論になった。宇都宮地裁は尊属殺を重罰とするのは刑法に違反すると普通の殺人罪を適用し、被告の行為は正当防衛の行き過ぎの過剰防衛に当たると刑の免除を言い渡した。検察側が控訴し、東京高裁は尊属殺を合憲と判断。ただし犯行当時は心神耗弱であると認め、懲役3年6月の実刑判決を言い渡した。1973年4月4日、最高裁大法廷は他の2件と併せて尊属殺が憲法第十四条「法の下の平等」に違反するとし、二審判決を破棄。殺人罪を適用し、懲役2年6月執行猶予3年を言い渡した。
文 献 「尊属殺重罰」に違憲判決」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「第一話 黒い満月の前夜に……」(佐木隆三『殺人百科(2)』(徳間書店,1980/文春文庫,1987他)所収)

「矢板市近親相姦実父殺し事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

谷口優子『ドキュメント尊属殺人罪が消えた日』(筑摩書房,1987)
備 考  「尊属殺人罪」は2000年に刑法から削除された。
12/10 概 要 <三億円事件>
 1968年12月10日午前、日本信託銀行の現金輸送車は、東芝府中工場従業員のボーナス約3億円を積んで、府中刑務所北側の道路を走っていた。突然、白バイが急接近してきて、停車を命じた。若い警官は、この車に爆弾を仕掛けたという連絡があったと告げ、四人の行員を下車させた。警官は輸送車を点検するふりをして、発煙筒に点火。煙を見て四人の行員が避難するのを見ると、警官は輸送車に飛び乗って逃走。その後、車を乗り換えた後、足取りは消えた。遺留品も多く、モンタージュ写真も作られたが、捜査は難航。1975年、時効成立。
文 献 「三億円強奪事件」礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「3億円事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「三億円事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)

「時代を先取りして走り去った男『東京・府中三億円強奪事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版)所収)

「3億円事件 42年目の新証言」(週刊朝日ムック『未解決事件ファイル 真犯人に告ぐ』(朝日新聞出版,2010)所収)

阿良洋『俺がやった! 三億円事件・戦慄の手記』(光潮社,1975)

有川正志『君が犯人だ! 三億円強奪事件―告発 執念の追跡』(共栄書房,1985)

有川正志『謀略の残像―3億円事件はこうして未解決時効になった』(杉並けやき出版,2000)

風間薫『真犯人 「三億円事件」31年目の真実』(徳間書店,1999)

佐野洋『小説三億円事件』(講談社,1970/講談社文庫,1984)

清水一行『時効成立』(講談社,1975/角川文庫,1979)

鈴木久仁緒『精神病と三億円事件の真相』(杉並けやき出版,2012)

竹野衆星『事件「三億円」』(文芸社,2001)

谷丹三『3億円事件批判』(自費出版,1974)

東竜『長い府中の雨 府中三億円事件』(創栄出版,1987)

殿岡駿星『三億円事件の真犯人』(勝どき書房,2008)

中島河太郎編『三億円事件』(グリーン・アロー出版社 グリーンアロー・ブックス,1975)

中原みすず『初恋』(リトルモア,2002)

根上磐『三億円犯人の独白』(毎日新聞社,1975)

猫屋犬平『府中三億円事件俺が真犯人だ』(日本図書刊行会,1999)

一橋文哉『三億円事件』(新潮社,1999)

平塚八兵衛『三億円強奪事件 ホシを追いつづけた七年間の捜査メモ』(勁文社エコーブックス,1975)

平塚八兵衛『ホシはこんなやつだ』(みんと,1975)

別冊宝島編『20世紀最大の謎三億円事件』(宝島社,2008/宝島社文庫,2008)

宮川弘『三億円事件の真相』1~3(鎌倉芸林,1977)

三好徹『三億円事件の謎』(文藝春秋,1980)

むらきけい『雨の追憶図説三億円事件―真相究明ガイドブック』(文芸社,2005)

吉田和明『三億円事件と伝書鳩 1968~69』(社会評論社,2006)

読売新聞社会部編『大捜査3億円事件』(読売新聞社,1975)
備 考  現在でも犯人は誰々ではないかと推理される戦後最大の強奪事件。最高強奪金額もしばらく破られることはなかった。
4/24 概 要 <名画「マルセル」盗難事件>
 1968年12月27日、京都国立近代美術館で11月4日から開催中の「ロートレック展」の会場から、19世紀末のフランス画壇の巨匠であり、36歳で早世したアンリー・ド・トウールズ=ロートレックの代表作である油彩絵画『マルセル』(当時価3,500万円相当)が盗まれた。この絵画はフランス・アルビの市立美術館が所蔵しているものであり、フランス文化省の好意により、今回初めて日本の展覧会に貸し出されたものであった。
 翌日、主催者であった読売新聞社などは発見者や情報提供者に1,000万円の懸賞金を送ると発表。また美術館の館長は辞意を表明した。翌年1月4日、事件当日の当直守衛(55)が自宅で自殺した。
 絵は発見されず、1975年12月27日に時効となった。ところが翌年、大阪に住む会社員夫婦が、友人である中学教師(28)から風呂敷に包まれた状態で2年半前から預かっていた保管物を、海外旅行に行って留守にするからと開けてみたところ問題の絵画であることが判明。1976年1月29日、新聞社に連絡をした。鑑定の結果、絵画は本物であることが判明した。
 京都府警は夫婦や中学教師を調べようとするが、すでに時効を迎えているために難航。民事時効の方はまだ成立していなかったが、中学教師は自分も中身を知らずに友人から預かったとしか答えず、さらにその友人の名前はいっさい出さなかった。
 結局事件の概要は分からないまま、主催者である読売新聞社の方から名画は無事にフランスへ返還された。
文 献 「3億円の街頭アクロバット」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考  

【1969年】(昭和44年)

日 付事 件
1/2 概 要 <皇居パチンコ事件>
 1969年1月2日、皇居長和殿東庭で行われた一般参賀の会場で、元陸軍上等兵奥崎謙三が昭和天皇に向かって手製のパチンコ銃で玉を発射した。このとき奥崎は、「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と叫んだ。奥崎は大戦中、独立工兵隊36連隊の一兵士として極限状態のニューギニアでかろうじて生き残った者の一人である。ヤマザキとは、ニューギニア戦線で戦死した戦友の一人。奥崎は一人で過激に「戦争責任」を叫んでいた。
 奥崎は裁判で、被害者である天皇や親族などを証人として召喚することを要求したが、ことごとく退けられた。1970年6月8日、求刑懲役3年に対し懲役1年6ヶ月の判決。双方控訴し、10月7日の東京高裁の判決は、刑期は同じだが未決勾留日数を刑期に参入する期間を増やして、刑の執行を不要にした。奥崎は上告したが1971年4月1日に最高裁は棄却、確定した。
 後に奥崎は1976年、銀座でポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラを撒き、猥褻図画頒布で懲役1年2ヶ月の判決を受けた。さらに1983年、軍隊時代の上官の長男に拳銃を発砲し、負傷させ、殺人未遂で懲役12年の判決を受けた。
 1987年、奥崎が殺人未遂事件前に出演した記録映画『ゆきゆきて、神軍』が公開された(撮影は1982~1983年)。映画はヒットし、数々の賞を受賞した。
 奥崎は1997年8月に満期出所。1998年7月には、自らが出演したドキュメンタリー映画『神様の愛い奴』が公開された。2005年6月16日に死亡。85歳没。
文 献 奥崎謙三『ヤマザキ、天皇を撃て!』(三一書房,1972他)

奥崎謙三『奥崎謙三服役囚考』(新泉社,1995)
備 考  この事件以降、一般参賀はガラス越しに行われることとなった。
1/18 概 要 <高隈事件>
 1969年1月18日、鹿児島県鹿屋市下高隈町に住む農家の夫婦(38、39)が自宅で殺害されているのが発見された。3ヶ月後、別件の詐欺などの容疑で鹿屋市に住む男性が逮捕された。男性は捜査段階でいったん犯行を自白、公判では一貫して否認したが、一審・二審で懲役12年(求刑懲役15年)の判決が言い渡された。しかし1982年1月、最高裁は有罪判決を破棄。差し戻し控訴審の福岡高裁は1986年4月、「別件逮捕、拘置中の取り調べは任意捜査の限度を超え、自白調書に証拠能力がない。アリバイも成立する」などとして無罪を言い渡し、5月に確定した。
 男性は総額6,100万円の国家賠償請求訴訟を東京地裁に提訴(のちに鹿児島地裁に移送)。1993年4月19日、国と県に約3,900万円の支払いを命じた一審判決が出された。1997年3月、福岡高裁宮崎支部は国・県の控訴を棄却、確定した。しかし男性は1995年3月に亡くなっていた。
文 献 宮下正昭『予断―えん罪 高隈事件』(四季出版,1988)
備 考  
2/17 概 要 <兵庫県愛人男性他殺人事件>
 1969年2月17日午後9時半ごろ、兵庫県揖保郡に住む衣類行商のKS(47)宅に愛人の無職男性(31)がやってきて、2,000円よこせと言った。KSが1,000円を渡すと出て行き、午後11時20分ごろ、酔っ払ってバーの女性(30)とともに戻ってきた。靴を叩きつけてガラス戸を壊し、さらにKSに出て行け、権利書をよこせなどを暴言を吐き、さらに風呂を焚かせて女性と一緒に入った。KSは二人に精力剤と称して睡眠薬を飲ませて眠らせ、18日午前1時ごろ、そばにあったタオルで女性の首を絞めつけ、さらにプロパンガスボンベを運んで男性の鼻先にガスコンロを置き、座布団をかぶせて栓を開いて殺害した。KSは二人の死体を床下の貯蔵用穴に隠し、19日夜に女性の体をバラバラにしようとしたが、片足を切ったところで精根尽きた。22日夜、KSは二人の死体を庭に埋め、翌日朝、姫路市にある男性の親許を訪れ、「息子が女と心中したので、困って庭に埋めた」と言って姿を消した。びっくりした両親がKSの家に行くと庭に赤土の山があったが、勝手に掘っていいのか迷っているうちに近所の人が竜野署に急報。刑事立会いの下で掘り返し、二人の死体を発見した。同日夕方、警察は行商仲間である知人の家にいたKSを逮捕した。
 KSは1958年に夫と死別し、36歳で未亡人となり子供はいなかった。男性は行商の得意先の一人息子であり、男性の高校時代からの知り合いで話し相手として時々遊びに来ていた。1959年9月、二人は関係ができ、付き合うようになった。10年も経つと金はむしられ、乱暴され、よその女を連れこまれるなどの苦しみを受けていた。バーの女性はたまたまこの日、客であった男性と付き合っただけだった。
文 献 「美徳-未亡人のツバメ殺し」(小沢信男『犯罪専科』(河出文庫,1985)に収録)
備 考  
2/28 概 要 <絹子ちゃん誘拐殺人事件>
 1969年2月28日、コザ市に住む米琉混血のY(当時20)は北中城村で、下校中の小学5年生の絹子ちゃん(当時11)を誘拐して殺害。トランクに詰めた死体を間借先で凌辱し、基地内に穴を掘って埋めた。当日午後9時過ぎ、捜索願が出される。読谷村で衣類が見つかり、3月13日、捜索した結果、土の中から女児の遺体が発見された。目撃証言からまたしても米兵犯罪かと騒然となったが、犯行に使ったレンタカーから足がつき、数日後に逮捕された。
 Yは戸籍上の父親こそ中学校の教員だったが、米軍基地でメイドとして働いていた母親が白人兵と関係して生まれた子供だった。両親は離婚し、母親はフィリピン系アメリカ人と再婚。しかしYは家族と反発。元校長である祖父の配慮で、関東のミッション系の高校に進むが、家出後、1年ほど精神病院で過ごす。高校卒業後、大学進学をあきらめて沖縄でパート仕事を転々としていた。母親は再婚相手の転勤に伴いハワイへ移り、母親がいつか来るといいと言ったため英語学校に通っていたものの、連絡もないまま不安になり事件を起こしたものだった。
 Yは誘拐、強姦、殺人、死体遺棄で起訴された。弁護側は精神障害で心神耗弱だと主張し精神鑑定を行い、精神医学的な見地からすれば異常だが、犯行の計画性など判別能力は十分に備えており精神病者ではないとの結論だった。検察側は死刑を求刑したが、1971年11月1日、那覇地裁コザ支部は無期懲役判決を言い渡した。検察側は控訴。佐木隆三の依頼で三人が安い料金で私選弁護人を引き受け、1972年8月14日、控訴審初公判が福岡高裁那覇支部で控訴審初公判が開かれたが、弁護側の再鑑定の申請にYは正常であると反発して三人を解雇。その後国選弁護人がつけられ公判が再開。1973年、控訴審は一審判決を支持し、無期懲役が確定した。その後の取材で、2009年時点で北九州医療刑務所に収監されていることが判明している。
文 献 佐木隆三『偉大なる祖国アメリカ』(河出書房新社,1973/角川文庫,1981)
備 考  
4/14 概 要 <本郷・兄弟決闘殺人事件>
 自民党の現役代議士H(55)の息子である京都大学四年生A(24)と、早稲田大学三年生のB(22)は、小さい頃から仲が悪かった。兄は何事も従順な優等生タイプ、弟は運動神経の塊みたいな腕白坊主であった。二人の仲の悪さは、大人になっても続いた。1968年春にも、二人は空手で決闘しており、そのときは勝負が付かなかったらしい。特に目上の者を何とも思わない態度をとる弟に、兄はいらだちを隠せなく、家庭の平穏を乱す元凶だと思っていた。
 1969年4月13日、新幹線で京都から上京した兄は、弟と決着を付けようと、弟宛に電報を送った。場所は学園紛争で廃墟と化した東大安田講堂だった。しかしこの日、弟は疲れていたため、延期を申し出た。そこで兄は弟を連れて、宿泊している旅館に戻り、酒を飲み始めた。このとき、兄は決闘を止めようと思い直していた。ところが弟が「いつやる」などと挑発してきたため、決心。帰ろうとしていた弟の不意を襲い、背中に隠し持っていた日本の登山ナイフを突き立てた。
 1971年3月3日、東京地裁は兄に対し「心神耗弱であったが刑事責任はある」と懲役6年の実刑判決を下した。
 なおH代議士には地元で同情する声が起こり、次期出馬を促す署名運動で二万人を突破。立候補し、三選を果たした。
文 献 「権力-競争社会弟殺し」(小沢信男『犯罪紳士録』(講談社文庫,1984)所収)

「本郷・兄弟決闘殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
4/23 概 要 <同級生首切り殺人事件>
 1969年4月23日、川崎市にある私立高校1年生の少年(15)が、高校近くのツツジ畑の中でメッタ切りに合い、なおかつ首を切り落とされて発見された。届け出たのは少年と一緒にいた同級生(15)で、彼も左腕など2箇所を切られ、血だらけであった。彼は3~4人の若い男に切られたと証言したが、矛盾点が多く、かつシャツに付いていた血が被害者のものであったことから追求すると、4月26日に犯行を自供した。二人は中学時代からの同級生で仲は悪くなかったが、いつも被害者に悪ふざけをされていたため、決着をつけようと登山ナイフを持参。しかしナイフを見せつけると、逆に「お前はブタだからナイフまでブタに似ている」と言われたため、カーッとなって殺害した。ただしこれは少年の供述であり、真相は不明。我に返ったあと、被害者が生き返るのが怖くなり、首を切断。そして自分で左腕を切り、ナイフを捨てたものだった。横浜家裁は加害者の少年を「分裂病質の精神障害」と認め、少年院送致を決定。後に関東医療少年院に送致した。
文 献 奥野修司『心にナイフをしのばせて』(文藝春秋,2006/文春文庫,2009)
備 考  
6/10 概 要 <姑殺人事件>
 法務省役人Kさんの妻H子(29)は、同居していた姑のSさん(77)が常日頃から家のトイレではなく空き地などで用を足すことが不快だったが、1969年6月10日、とうとう怒りが爆発。取っ組み合いになり、手近にあった風呂敷で絞め殺してしまった。我に返ったH子は強盗に入られたように見せかけて警察に通報したが、簡単に嘘はバレ、逮捕された。まだ存在していた尊属殺人罪で起訴された。一審求刑は懲役10年だった。
文 献 「家族-マイホーム合戦姑殺し」(小沢信男『犯罪紳士録』(講談社文庫,1984)所収)
備 考  
9/10 概 要 <正寿ちゃん誘拐事件>
 1969年9月10日、黒岩恒雄(19)は渋谷区で小学1年生で登校中の正寿ちゃん(6)を誘拐した。いきなり腹を殴りつけ、そのまま横抱きにして連れ去るという手口である。しかし正寿ちゃんが抵抗したため、10分後に公園のトイレで殺害。500万円の身代金を要求したが、12時間後に警察の様子を探ろうと渋谷所前をうろついていたところを逮捕された。その後、渋谷駅の手荷物預かり所に合ったバッグから、正寿ちゃんの遺体が発見された。
 黒岩は他にも女優や歌手を相手に犯行を計画、住所を書いたリストを持っていた。誘拐事件は、後の女性芸能人誘拐のための軍資金を稼ぐためのものであった。
 1972年4月8日、東京地裁で死刑判決。1976年10月7日、東京高裁で被告側控訴棄却。1977年12月20日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 1979年10月、死刑執行、29歳没。
文 献 「正寿ちゃん誘拐殺人事件 黒岩恒雄」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
9/27 概 要 <横浜・夫婦による娘殺害並びに誘拐事件>
 1969年9月27日昼、横浜市磯子区で兄弟と遊んでいた女児(2)が中年女に抱きかかえられ、車で連れ去られた。兄弟の話を聞いた母親が警察に通報。兄弟は連れ去った中年女を「ライオンおばちゃん」と証言。身代金等の電話がなかったことから単純誘拐と判断した捜査本部は10月7日に公開捜査。13日、捜査本部は横浜市中区の長屋に住む生活保護受給の女性(46)とその夫(33)を逮捕。その後の捜査で、前年8月15日に先天性股関節脱臼の障害を持つ娘(1)を夫が殺害して床下に埋めたことを自供。誘拐された女児は娘の代わりだった。ところがその娘は実子ではなく、産婦人科の医師から斡旋された赤ん坊だった。しかも6年前の1963年8月、結婚直前だった女は簡易宿泊所で出産したが育てる当てのない女から男の子の赤ん坊を譲り受けたが、すぐに世話を面倒臭がったので、8月8日に夫が赤ん坊をカトリック教会に預けたまま行方をくらましていた。
 逮捕された女は劣悪な環境に育ったため無学で知能程度が低く、姉に遊郭へ売られて女郎生活を送ったためか、妊娠しても流産し続けた。今の夫と結婚してからも6回流産していた。
 夫婦は殺人、死体遺棄、未成年者略取の共同正犯として起訴された。1970年5月22日、横浜地裁は2人に懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。検察側は刑が軽すぎると控訴、妻も刑が重すぎると控訴した。1971年1月26日、東京高裁で検察・被告側控訴が棄却され、刑は確定した。
文 献 「第二話 哀れ女獅子の子守唄」(佐木隆三『殺人百科(2)』(徳間書店,1980/文春文庫,1987他)所収)

「誘拐-“鬼夫婦”幼女殺し」(小沢信男『犯罪専科』(河出文庫,1985)に収録)
備 考  
12/14 概 要 <現役映画女優愛人刺殺事件>
 大映の映画女優であるI子(36)は、兵庫県姫路市の興行師M(40)と深い関係になり、4年後に妊娠。1969年2月に男児を出産した。しかし妻子のあるMは認知を拒否、二人の間でもめ事が続いていた。12月14日、正月映画の撮影が終わったI子は、姫路市のドライブウェイ駐車場で認知を迫ったが、Mが拒否。隠し持っていた包丁でMを刺した。I子はすぐに救急車を呼び、Mは「自分で刺した」と救急車の中で言い続けていたが出血多量で死亡、I子は逮捕された。I子が最後に撮った主演映画は大ヒットとなった。I子は一審で懲役5年が確定。
文 献  
備 考  

【1970年】(昭和45年)

日 付事 件
1/8 概 要 <四条畷・ハーレム殺人事件>
 1969年1月、天理教の分教会長を務める女(59 年齢は事件当時、以下同)と三男(28)が姫路市で小さなスーパーを開店。共同出資者の男(「夫」)は数年前から分教会長と関係を持っていたが、1968年6月に脅迫と銃刀法違反容疑で徳島県警に逮捕されており、分教会長が保釈金を支払っていた。分教会長が19歳も年下の男と関係しているという噂が広まるのを恐れ、モーテルで働いている「妻」との見合いを思いつき、「夫」と「妻」の二人は内縁の夫婦となった。スーパーは分教会長、三男、三男の妻(「姉」)、「夫」、「妻」が働いており、7月には分教会長の死んだ夫の弟の長女である高校二年生の娘(「妹」)がアルバイトに来た。しかし経営は思わしくなく借金だらけとなり、8月に三男が失踪。8月17日、男1人女4人がライトバンで夜逃げした。8月31日、分教会長を除く4人が八尾市を訪れ、女3人が紙管工場に勤めるも9月6日には工場を辞めて出て行っていた。同日、大阪市北河内郡四条畷町の金網製作所に4人の家族がそろって工員として採用され、文化住宅に住むようになった。しかし「妻」(48)はすぐに欠勤、「夫」(40)も糖尿病を理由に2週間後には欠勤するようになり、「姉」(22)「妹」(17)が誘った会社の同僚たちなどと麻雀ばかりしていた。
 1970年1月6日、「夫」「姉」「妹」が文化住宅から行方をくらました。1月8日、文化住宅の床下から、セメント詰めの女の死体が発見された。1月10日、三人が泊まった北海道江別市の旅館の経営者夫婦が指名手配の写真と一致していることを確認して通報し、3人は死体遺棄容疑で逮捕された。
 その後の供述で、1969年8月の逃亡後、「夫」は分教会長にゴムバンドで殴り続けるという処罰を繰り返し、衰弱させた。8月27日、「妻」と「姉」が琵琶湖で衰弱した分教会長を岸辺の水に顔を付けて殺害。2人で衣服をはぎ、全裸にして石を載せ、水面下に沈めた。遺体は11月1日に白骨死体となって発見されていたが、死亡推定日時が4,5月ごろと判断されていたため、捜査本部は重視していなかった。ライトバンでは4人が「夫」と一緒に寝ていたが、文化住宅では「姉」と「妹」が「夫」と寝るようになり、「妻」がはじき出されるようになった。そのことを不満に思った「妻」は琵琶湖の一件を持ち出して通報すると脅すようになった。ただでさえ働いている間、「妻」が「夫」と寝ているのではないかと不安になった「姉」と「妹」は「夫」にそそのかされ、11月20日頃から「妻」に食事を与えず昼は浴槽に押し込め、夜は「処罰」を繰り返すようになり、12月1日に「妻」は衰弱死した。床下に埋めたが腐臭が漂うになり、2週間後には再び「姉」と「妹」が穴を深く掘って遺体を移し替えようとしたが重くて失敗。「姉」がセメントを買って砂と混ぜ、死体の穴の上に流し込んでいた。正月、「夫」が再び匂い出すと言いだし「妹」が同調。カッとなった「姉」は家を飛び出すも夜には戻った。ところが4日、「夫」は「姉」に命じて畳を持ち上げ、かつて掘った穴に「姉」を入らせると、「妹」に紐で縛らせ、さらにスコップで泥を掛けさせた。「夫」は正月に男と寝ただろうと批判、「姉」は必死に潔白を主張すると、「夫」はスコップを手にとって数回殴った。
「夫」は横領や猥褻図画陳列などで前科四犯。1966年1月に徳島市で学習塾を開いた。そして複数の女性の助手と雑魚寝をしていた。「夫」には助手に暴力をふるう癖があり、助手が出てこなくなると肉親を呼んで脅した。また、塾の生徒の母親を呼び出しては強姦し、生徒の父兄から教材費を集めては遊興費に流用していた。父兄から返還を求められたこともあり、助手の1人と姫路市へ逃亡したところを逮捕されていた。保釈中に逃亡して公判に出廷しなかったことから、保釈が取り消されていていた。
 後日、三男は室戸市からマグロ船にコック長として乗り込んでおり、事件当時はインド洋にて操業中であることが確認された。
 1970年6月2日の大阪地裁の初公判で、「姉」と「妹」の弁護側は「夫」の影響を恐れて分離公判を提案。それは認められた。1974年1月29日、大阪地裁は「姉」に懲役5年(求刑懲役12年)、逆送された「妹」に懲役4年(求刑懲役6年)を言い渡した。殺意を否認した被告側と、刑が軽すぎると検察側の双方が控訴。1976年8月6日、大阪高裁は双方の控訴を棄却し、刑が確定した。「夫」は糖尿病が悪化して出廷がままならなくなった。たまに開かれる公判では殺意を否認し、女たちが勝手にやったことだと主張。その後病状が悪化し、1977年6月8日に死亡。12日に公訴棄却が決定した。
文 献 「第三話 魔の淵を漂った姉妹」(佐木隆三『殺人百科(2)』(徳間書店,1980/文春文庫,1987他)所収)
備 考  
2/13 概 要 <「殺し屋」連続殺人事件>
 会社役員S(27)は、「殺し屋」を雇い、以下の事件を引き起こした。
  1. 愛人の夫(当時34)の殺害を従弟に100万円で請け負わせた。従弟は他1名と共謀し、1970年2月13日夜、東京都内の路上に停止した自動車内で、ナイフなどで心臓を突き刺して殺害した。
  2. 覚せい剤購入の資金として暴力団員の男性(当時32)に300万円を貸したが返済しないので、金の隠し場所を聞いた上で殺すように従弟に依頼。従弟と他3名は共謀の上、1971年10月27日夜、神奈川県内の堆肥貯留場で、裸にし、手錠、猿ぐつわをかませた上、クロロホルムをかがせて失神中に土中に埋めて窒息死させた。
  3. 男性(当時39)が商取引に関して裏切ったと思い、男性に殺害を依頼。男性と知人は1973年4月15日午前2時頃、茨城県内にある男性の事務所兼宿舎で、クロロホルムで失神させた上首を絞めて殺害。死体を土中に埋めた。このとき、男性の妻(当時35)も殺害されている。妻殺害については、Sは依頼していないと無罪判決が出されている。
 主犯のSは1977年3月31日、東京地裁で求刑通り一審死刑判決。1982年7月1日、東京高裁で被告側控訴棄却。1989年10月13日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。現在、再審請求中。
 他に5人が一緒に審理された。実行犯のFは一審死刑、二審で無期懲役に減刑され、確定。Iは一審死刑、二審で無期懲役に減刑され、1989年10月25日までに最高裁で被告側上告棄却、確定。他に3人に懲役20~15年判決が言い渡されている。
文 献 飯田博久『赤い鳥を見たか――ある「殺し屋」の半生』(現代書館,1982)

松永憲生『怯える殺し屋』(JICC出版局,1985)
備 考  
3/31 概 要 <「よど号」ハイジャック事件>
 1970年3月31日早朝、羽田発福岡行きの日航機よど号が、富士山上空で赤軍派9名によりハイジャックされた。乗員7名、乗客131名が人質に。メンバーは、リーダーのT(27)、サブ・リーダーのK(25)、O(24)、Y(23)、A(22)、A(22)、T(21)、Y(20)、S(16)である。9名は機長に、北朝鮮平壌に向かうよう命令。機長は燃料補給を理由に福岡に着陸。病人、子供など23名の人質を解放。飛行機は平壌に向かうかに見えたが、実は韓国の金浦空港に着陸した。韓国側は平壌に見せかけるよう偽装していたが、米軍機がいたことなどから赤軍派はすぐに見破った。事態は深刻なものになった。4月1日、Y運輸政務次官(36)が身代わりになるよう申し出た。3日、残りの人質99名、乗員3名が解放、Y次官が人質となり金浦空港から平壌空港に向かった。9人はそのまま北朝鮮に亡命、Y次官と乗員3名はよど号で羽田空港に帰った。
 本事件は、日本初のハイジャック事件であった。日本政府はこの事件の反省から、1970年6月7日に航空機の強取等の処罰に関する法律、いわゆる「ハイジャック防止法」を施行した。
文 献 「赤軍派「よど号」ハイジャック事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

島田滋敏『「よど号」事件三十年目の真実―対策本部事務局長の回想』(草思社,2002)

久能靖『「よど号」事件122時間の真実』(河出書房新社,2001)

高沢皓司『女たちのピョンヤン―「よど号」グループの妻たち』(三一新書,1995)

高沢皓司『さらば「よど号」!―25年の軌跡』(批評社,1996)

高沢皓司『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社,1998/新潮文庫,2000)

田中義三『よど号、朝鮮・タイそして日本へ』(現代書館,2001)

山中幸男・高沢皓司『朝鮮民主主義人民共和国―「よど号」グループの朝鮮レポート』(三一新書,1994)

渡辺也寸志『枷―アメリカの謀略にはまった「よど号」田中義三』(ポット出版,1999)
備 考  
5/13 概 要 <瀬戸内シージャック事件>
 1970年5月11日、午前零時。山口県で盗難車に乗っていたK(20)、少年A、Bは、パトカーにより検問を受ける。Bがナイフで刺し、全治二週間の傷を負わせた。Bは逮捕されたが、KとAはそのまま車で逃亡した。12日、途中で逃亡したAが逮捕。Kは銃砲火薬店でライフル二丁、弾などを奪い、逃走。宇品港に停泊中の小型旅客船「ぷりんす丸」を乗っ取った。乗組員7名、乗客37名を乗せた船は、静かに出港した。同夜、松山港に入る。途中、母や姉の説得には銃砲で返答した。自分の飲んだコーラの代金はしっかり払うという律儀なところも見せている。給油、乗客を全員降ろし、「ぷりんす丸」は出港し、翌朝宇品港に戻った。しかし、そこで待ち受けていたのはライフル銃隊であった。テレビ中継の中、Kは胸を打ち抜かれ、ゆっくりと船橋に倒れ込んだ。真っ先にデッキに駆け上った刑事は、左手で拳銃を抜こうとしたKの手を叩き落とし、手錠をかけた。そのとき、唇からかすかな声が漏れた。傍にいた船長も聞いていた。「死んでたまるか、もう一遍」。Kは13日11時25分、呼吸を停止した。
文 献 「瀬戸内シージャック事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

福田洋『凶弾-瀬戸内シージャック事件』
備 考  ライフル銃隊は2年前の1968年、金嬉老事件を機に創設されて、この事件が初の出動であった。そして人質解放のため犯人を狙撃した初めての事件であり、犯人射殺という形で終わった初めての事件でもあった。
5/15 概 要 <豊橋事件>
 1970年5月15日午前1時45分頃、愛知県豊橋市の文具店から出火した。焼けた2階から、妊娠5ヶ月の妻(35)、長男(2)、二男(1)の遺体が発見された。妻は上半身が血塗れ、下半身は裸の状態で、電気コードで絞殺されており、子供2人は焼死だった。また、夫の証言から、現金12万円や財布、結婚指輪などが盗まれていることが判明した。夫は取引先の人と大阪に行って不在だった。
 8月28日、文具店の男性店員(21)が逮捕され犯行を自白。強姦致死、殺人、放火、窃盗容疑で起訴された。
 男性は名古屋地裁豊橋支部で開かれた11月4日の初公判では犯行を全面的に認めたが、第2回公判以降、否認に転じた。新聞記者や現職刑事などが男性の無罪を信じて走り回った。弁護士も3名の私撰に変わり、無罪の論陣を張った。1973年12月、捜査時の中心的人物で定年退職したばかりの元刑事を弁護側証人として招聘。元刑事は店員犯人説への疑惑は「消えませんでした」と証言し、当時の物証に基づかない捜査のあり方を批判した。
 検察側は死刑を求刑したが、1974年6月12日、無罪判決。そのまま確定した。求刑死刑で一審無罪判決が確定したのは異例のことである。
 無罪確定5年後、ある物証が明るみに出た。妻の陰部にかぶせてあったさるまた(妊娠していた妻がはいていたと推測)に、犯人のものと思われるB型の精液が付いていた。しかし犯人とされた男性はA型だった。捜査当局は夫のものと弁解していたが、夫は非分泌型のB型であり、精液からの血液型の判別は不可能であった。この無実の証明となりうる物証は、捜査陣の手によってずっと隠されたままだった。
文 献 椎屋紀芳『自白 冤罪はこうして作られる』(風媒社,1982)
備 考  
8/8 概 要 <実兄一家皆殺し事件>
 埼玉県戸田市の無職H(34)は、小学生の頃から下着の盗み癖があった。それに覗きも常習で、両親や兄夫婦、さらには近所の家の寝室や風呂、便所などを覗きまくっていた。1970年5月、Hは三度目の窃盗の刑期を終え、青森刑務所を満期出所した。その後は東京・蒲田の簡易宿泊所に泊まりながら日雇労働をしていた。人の言うことには素直に従う性格だが、当時の刑務所職員に言わせると「こういう大人しい奴がいちばん、なにをしでかすかわからない」タイプと言われた。
 1970年8月8日、浅草で時間をつぶしたあと、実家の方に向かったが、ストリップでムラムラしていたせいか、あちこちの家を覗いていた。そして23時30分頃、実家の近くにある兄夫婦の家に来た。裏へまわると鍵がかかっていないので入って覗くと、6畳間で実兄(40)、兄嫁(37)、次男(8)が川の字になって寝ていた。以前から兄嫁とやりたいと思っていたHは実家に戻ってマキ割りを取り、再び兄夫婦の家に戻った。そして兄嫁の頭を叩き割り、続いて兄、次男を殺害した。さらに物音で目が覚めた長男(12)も殺害した。その後、虫の息の兄嫁にのしかかり、性行為を延々と繰り返した。
 凶器が実家の物と判明し、弟3人のうち唯一アリバイのなかったHが容疑者としてあがる。26日、宿泊所でHは逮捕されてあっさりと自供。「肉を食べられなかったのが残念だ」と供述した。精神鑑定した医師から「精神病質と性欲倒錯を有し、精神障害はないものの、彼は善悪の区別のない怪物である」と言われた彼は、1972年7月17日、浦和地裁で求刑通り一審死刑判決。何事にも素直に従う性格の彼は控訴せず、そのまま死刑が確定した。1976年4月27日、死刑執行。39歳没。
文 献 「第四話 人我を怪物(モンスター)と呼ぶ」(佐木隆三『殺人百科(2)』(徳間書店,1980/文春文庫,1987他)所収)
備 考  『殺人百科(2)』で控訴せず死刑が確定したのは過去2件しかないと書かれているが、それは誤り。
10/18 概 要 <大森勧銀殺人事件>
 1970年10月18日夜、東京の日本勧業銀行大森支店で宿直行員が電気掃除機のコードで絞殺され、大金庫室のボルト数本が外された。10月27日、C(21)が逮捕され、自白を待って起訴された。第1回公判でCは犯行を否認。自白は暴行・脅迫・誘導によるものと無実を訴えた。1973年3月22日、東京地裁は求刑通り無期懲役判決を言い渡した。
 控訴審では兄の努力により、国選弁護人2名に代わり、私撰弁護人3名が付いた。弁護人は絞殺方法の謎を解明し、凶器であるナイフの所在を確認することによって自白のでっち上げを暴いた。その後裁判所による足跡鑑定が行われ、Cの靴ではなく複数の足跡という結果が出された。1978年7月30日、東京高裁は無罪判決を言い渡す。1982年3月16日、上告が棄却され、無罪が確定した。
文 献 大森勧銀事件弁護団・松永憲生『逆転無罪』(現代史出版会,1979)
備 考  
11/25 概 要 <三島由紀夫割腹自殺>
 1970年11月25日、作家の三島由紀夫は右翼「楯の会」のMら4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入、東部方面総監を人質に取った。三島らは自衛隊員らを集め、クーデターを訴える演説を行ったが、隊員から罵声を浴びるだけだった。演説終了後、総監室で三島、Mは自ら腹を割き、後から介錯を受けて自殺した。
文 献 「三島由紀夫割腹事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「三島由紀夫割腹自殺」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

伊達宗克編『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社,1972)

谷口雅春『愛国は生と死を超えて』(日本教文社,1971)

蜂巣敦『Mのオカルティズム』(パロル舎,1995)

山本舜勝『サムライの挫折』(三幸社,1985)

山本舜勝『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』(バナジアン,1995)
備 考  三島の切腹→介錯という方法は、どちらかといえば刑罰を受けて死ぬときの方法である。
12/21 概 要 <沖縄コザ事件>
 1970年12月21日午後、沖縄・コザ市の米軍嘉手納基地第2ゲート近くで米兵の乗った車が人身事故を起こした。その事故処理に疑問を持った群衆が米軍MPに向けて投石。MPは群衆に向けてピストルで威嚇射撃を行い、群衆は次々と米軍の車などに放火、これを阻止しようとしたMP、機動隊と数千人に膨れ上がった群衆が衝突、翌朝近くまで争乱状態が続いた。また一部の群衆が嘉手納基地に乱入した。
 住民は米国兵士による殺人、暴行、強盗事件に加え、毒ガス移送の引き延ばしなど長年の怒りが一気に爆発した形となった。
文 献 伊佐千尋『炎上―沖縄コザ事件』(文春文庫,1986)
備 考  


【ノンフィクションで見る戦後犯罪史】に戻る。