ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1986~1990年】(昭和61~平成2年)



【1986年】(昭和61年)

日 付事 件
2/19 概 要 <マニラ保険金殺人事件>
 1986年2月19日、マニラ市を旅行中の元都庁職員Hさん(51)が鈍器で頭を殴られ死亡した。Hさんは7500万円の海外旅行傷害保険に加入しており、受取人は第三者の不動産業者K(53)であった。その後、立案者である芸能会社社長O(39)と、殺害の実行犯であるKが逮捕された。KとOはHさん殺害の前にも保険金殺害未遂事件を起こしていた。Oは全面的に認め、1987年2月27日、東京地裁で懲役12年(求刑懲役13年)判決。控訴せず確定。Kは全面的に否認したが、保険金の分け前を6:4としたことが主導的な役割を果たしたと認定され、1988年3月16日、東京地裁で懲役20年(求刑無期懲役)判決。7月19日、東京高裁で被告側控訴棄却。1991年10月、最高裁で被告側上告が棄却され、刑が確定。
文 献 「マニラ保険金殺人事件―『O・被害者を求人募集』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

井上安正『マニラ保険金殺人事件』(中公新書ラクレ,2009)
備 考  この事件の前後で3件、保険金殺人事件らしき日本人殺人事件がマニラ周辺で発生している。
3/11 概 要 <新潟ラブホテル殺人事件>
 無職Fは1981年に結婚、子供を一人設けたが、典型的なヒモであった。1985年、傷害事件を起こして逮捕、新潟刑務所に収容されたのを幸いに妻は離婚届を提出、新潟から出ていった。しかしFの判決は執行猶予。三ヶ月余りで出所した1986年3月6日、山梨県に住む妻の養母であり実の祖母(当時73)の所へ直行、様子を探っていたが、祖母に見つかりとがめられて逆上。祖母の顔を浴槽の水に押しつけて窒息死させたところに、たまたま元妻が戻ってきたため、Fは元妻を連れて逃走。
 二人は元妻の婚約者である茨城県の会社員(当時26)から金を奪おうと計画。3月11日未明、会社員を新潟市内のホテルに連れ込み、両手足をシーツなどで縛り、会社員を浴槽に押し込んで水死させた。死体は円形ベッドのマットを持ち上げて隠したが、偶然ベニヤ板で覆われた密封状態であったため、腐敗が進まず、死体に気がつかなかったという。Fは元妻を連れて逃走。17日、京都で銃砲刀剣類所持等取締法違反により現行犯逮捕。18日に犯行を自供した。
 1987年7月6日、甲府地裁で求刑通り死刑判決。1988年12月15日、東京高裁で被告側控訴棄却。1995年6月8日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。元妻は懲役5年の判決。
 Fは第五次再審請求棄却。第六次再審請求準備中の2013年12月12日、執行。55歳没。
文 献 「新潟・ラブホテル殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
3/19 概 要 <福井女子中学生殺人事件>
 1986年3月19日夜、福井市の市営団地で中学三年生の女子生徒(15)が顔や首を包丁で刺され、殺害された。福井県警は1987年3月「血の付いた服を着た姿を目撃した」との知人証言などから、殺人容疑で同市に住む無職男性(21)を逮捕。男性は一貫して関与を否定したが、福井地検は7月に起訴した。
 1990年9月26日、福井地裁は「証言は信用できない」として求刑懲役13年に対し、無罪判決を言い渡した。1995年2月9日、名古屋高裁金沢支部は証言の信用性を認めた上で、シンナー乱用による心神耗弱の状態にあったとして、懲役7年の逆転有罪判決。1997年11月12日、最高裁が上告を棄却し確定した。
 2003年3月に満期出所した男性は、2004年7月15日、名古屋高裁金沢支部に再審を請求した。2011年11月30日、名古屋高裁金沢支部は、男性の再審請求を認め、再審を開始する決定をした。裁判長は「弁護側が提出した鑑定結果は、有罪の根拠になった関係者の供述の信用性に疑問を生じさせる」と述べた。2013年3月6日、名古屋高裁は検察側が申し立てた異議を認め、再審開始決定を取り消す決定をした。2014年12月10日、最高裁は弁護側の特別抗告を退け、再審請求棄却が確定した。
 2022年10月14日、男性は名古屋高裁金沢支部に第二次再審請求を申し立てた。
文 献 「偽証――福井・女子中学生殺人事件」(里見繁『冤罪をつくる検察、それを支える裁判所』(インパクト出版会,2010)所収)
備 考  
5/9 概 要 <裕士ちゃん誘拐殺人事件>
 1986年5月9日、S(45)は引っ越し費用に困り、東京江東区で裕士ちゃん(6)を誘拐。石で殴った後、首を絞めて殺害。2,000万円を要求して現金受け取りに現れたところを逮捕された。1986年12月22日、東京地裁で求刑通り死刑判決。本人控訴取り下げで確定。「拘置所の中で裕士ちゃんの供養をしたい」と言った。1995年5月26日執行、53歳没。
文 献  
備 考  
5/15 概 要 <人肉スライス事件>
 1986年5月15日、新潟市内にあるラブホテルの浄化槽から約60個の肉片が出てきた。指紋と行方不明者リストから、高松市の鰻屋店員N子(49)と判明。自宅浴室からルミノール反応が確認され、さらに夫のOが行方不明となっていた。Oは4月19日にN子を殺害後、手足を除いて肉体を細切れにし、行く先々の途中で各部分を捨てていった。5月28日、Oは全国指名手配された。30日、滋賀県琵琶湖の近くで、車をエンコさせ観念。近くの家から新聞記者を呼び出し、殺害の事実のみを否定して残りを自供。同時に記者の通報で警察に逮捕された。もともとぐうたらで仕事をせずに金をせびるOをN子が罵倒したことによってOは激怒し、かっとなって殺害したものだった。
文 献 「邪推から生まれた“恋敵”」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
5/20 概 要 <トリカブト保険金殺人事件>
 1986年5月20日、沖縄旅行中の経理事務所経営・神谷力(46)と三度目の妻であるA子さん(33)は、A子さんが半年前まで池袋のクラブで働いていたホステス時代の仲間3人を那覇空港に出迎えた。神谷は急用があると空港に残り、女性陣は予定どおり石垣島行きの飛行機に乗った。島に着いた正午過ぎ、A子さんは多量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみ、午後3時に死亡した。行政解剖で、死因は心筋梗塞とされた。
 友人たちは死に方がおかしい、変なカプセルを夫に飲まされていた、出会ってから6日目でプロポーズなど不審な点が多いことから池袋警察署にも連絡したが、まともに取り合ってもらえないため、マスコミに相談。『FOCUS』編集部のカメラマンがA子さんの葬儀に行くと、夫側の参列者は一人もいなかた。調べると、神谷が用意した供花の名義会社がすべて実在しない、神谷の事務所の申告所得が3年間ゼロなのにA子さんに4社総額1億8500万円の生命保険金が掛けられていたことが明らかになった。
 『FOCUS』を初め、マスコミが大々的に報道。神谷も取材に応じ反論した。神谷は最初の妻と1965年に結婚。妻は1981年7月、体の不調を訴えて向かった病院で呼吸が停止し、38歳で死亡。2人目の妻は1970年前後から交際しており、1982年に結婚。1985年9月、心臓発作を起こし38歳で死亡していた。
 A子さん死亡後、神谷は保険金を請求したが、保険会社4社はA子さんが神経系の病気で通院していたことを言わなかった、として「告知義務違反」を理由に支払いを拒否。神谷は訴訟を起こした。1986年12月、東京地裁は保険会社に支払いを命じた。しかし控訴審の途中で行政解剖を行った琉球大学医学部助教授(当時)の大野曜吉が証言台に立ち、トリカブトによる中毒死の可能性があると述べた。大野は当時心筋梗塞と判断したものの、心臓があまりにも綺麗だったことに不信を抱き、血液を保管。恩師がいる東北大で分析した結果、トリカブトが検出されており、その報告はすでに沖縄県警に送られていた。神谷は訴訟を取り下げ、北海道に身を隠すも、警察は神谷がトリカブトを62鉢も購入したこと、さらにフグも大量に購入していたことが判明した。
 1991年6月、警視庁は別の横領容疑で神谷を逮捕。残された血液からトリカブト毒とフグ毒が検出された。7月1日、殺人と詐欺未遂容疑で再逮捕。
 神谷は全てを否認。さらに公判では、トリカブト毒の即効性により自分に殺害は不可能であると主張した。しかし大野により、トリカブトのアコニチンとフグのテトロドトキシンの配合によって毒の効果を遅らせられることを証言。一審・東京地裁は、神谷がトリカブトを大量に購入していたことや、妻に1億8500万円の保険をかけていた事実などを積み重ねて有罪と判断し、1994年9月22日、求刑通り無期懲役判決。1998年4月28日、東京高裁で被告側控訴棄却。2002年2月21日、最高裁は神谷の上告を棄却、無期懲役が確定した。
 神谷受刑囚は服役中の2012年11月、大阪医療刑務所で病死した。73歳没。
文 献 神谷力『被疑者 トリカブト殺人事件』(かや書房,1995)

神谷力『仕組まれた無期懲役 トリカブト殺人事件の真実』(かや書房,2002)

坂口拓史『トリカブト事件-完全犯罪をつき崩した五年間の執念の記録』(ポケットブック社,1991/新風舎文庫,2004)

山元泰生『トリカブト殺人疑惑』(世界文化社,1991)

「トリカブト殺人事件―『神谷力・保険金目当ての妻毒殺』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

「トリカブト保険金殺人事件」(室伏哲郎『保険金殺人-心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
6/24 概 要 <名古屋実娘保険金殺人事件>
 1986年6月24日夜、名古屋市のパチンコ店員Yさん(20)が婚約者宅前で、二人組の男に木製バットで乱打され、二日後に死亡した。翌年1月13日、愛知県警は実父でホテル従業員のI(57)が実の娘の生命を対象に保険金の詐欺を狙った嘱託殺人と断定し、犯行否認(後に認めた)のまま、殺人と6000万円の保険金詐欺未遂の疑いで逮捕。Iの依頼を受けてYさんを撲殺したY(53)とA(48)を再逮捕し、殺害に使った木製の野球バットを現場近くの民家で発見し、押収した。
 Iは農家の末っ子に生まれ、甘やかされて育った。結婚したはいいが、自分の言うことを聞いてくれないという理由で離婚。二人の娘を自分で引き取ったものの、育てる能力はなかったらしい。離婚後は些細な理由から34回も転職をしている。自分が悪いのに、「娘はいうことを聞かない」という理由から、保険金殺人を計画。最初は就職後に家を離れた長女を狙ったものの、危険を感じて家出同然に父親の元を去った。パチンコ屋の店員になっていた次女の所に、毎月5万円を無心していたが、ついに次女Yさんをターゲットとした保険金殺人を計画。Yさんは中学時代非行に走ったという負い目から、どんなに苦しい目にあってもくじけないことを示そうと必死だった。そのことが徒となり、とうとう殺害された。
 1998年3月24日、名古屋地裁でIに求刑通り無期懲役、YとAに求刑通り懲役20年が言い渡された。Iだけが控訴。1998年10月27日、名古屋高裁で控訴棄却。1990年4月21日までに、被告側上告が棄却され、確定した。
文 献 「名古屋・実父による保険金殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
7/20 概 要 <えい児9人連続殺人事件>
 1986年7月20日、北海道富良野市のホステスE被告(41)の家から異臭がすると、男性の声で匿名の通報があり、富良野市署員が自宅を捜査したところ、バスタオルなどでくるんだミイラ化したえい児の遺体9体が発見された。Eは20歳でホステスになり、1972年、25歳で富良野市に来た。この頃から1982年までのほとんど毎年、生んでは殺しを繰り返していたという。Eは妊娠しても目立たない体格だった上、始終店を変わっていたため、周囲からも気付かれなかったという。通報した男性は、Eとの昼の情事を楽しむために訪れ、異臭に気がついたという。
文 献 「北海道・えい児九人連続殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
10/11 概 要 <高校教師教え子殺人事件>
 1986年10月14日、岐阜県羽島市の屋外中古車展示場で、若い女性の死体が灯油をかけられ、燃えているのが発見された。死体の首にはタオルがきつく巻き付けられ、両手を紐のようなもので縛られていた。落ちていた鍵から、女性は元モデルWさん(22)と判明。19日、高校教諭K(38)と元看護婦U(22)が、殺人と死体遺棄の容疑で逮捕された。
 Kは、外車を三種類とっかえひっかえして乗り回したり、服やアクセサリーも全てブランドもので決めていた。しかも財布にはいつもに、三十万円は入っていた。また、Kは父親が地元企業の取締役、妻が美容院経営と財力があったため、自由になる小遣いは多かった。多くの女生徒がKに憧れたが、Wさんもそんな一人で、いつの間にか男と女の関係になっていた。
 Wさんは高校卒業後、Kの紹介でモデルクラブに就職したが、8ヶ月後に退職。OLになるも1年でやめ、岐阜のソープランドで働いていた。すべてKの指示だった。売れっ子だったWさんは2年間で2,000万円近い金を貯め込んだが、全てKが使い込んでしまった。この頃Kは、生徒の中で目立つ子がいると、デッサンをしたいといってインスタントカメラでヌード写真を撮り、後で複写を取り脅迫する手口を繰り返していた。Wさんは1986年3月にソープランドをやめ、Kに金銭返却か結婚を迫った。KはWさんの一年後輩で、いつの間にか愛人になっていたUとともにWさんを殺害した。
 1987年12月8日、岐阜地裁はUに懲役1年6ヶ月+執行猶予3年。Kに懲役15年を言い渡した。Kの両親がWさんの家族に2,000万円を慰謝料として渡したことが大きな理由であった。しかし検察側は控訴。1988年6月21日 名古屋高裁は、2,000万円はWさんからの借金の返済分でしかないと認定し、一審を破棄してKに求刑通り無期懲役を言い渡した。1990年2月23日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
文 献 「高校教師教え子殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版, 1996)所収)

「岐阜・教え子焼き殺し事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
11/25 概 要 <有楽町三億円強奪事件>
 1986年11月25日、東京都千代田区にある三菱銀行有楽町支店横の道路に現金輸送車を留めてジュラルミンケースを取り出した時、左斜め後ろに付けた白いワゴン車から男たちが飛び出し、運転手や警備員たちに次々と催涙スプレーを吹き付けた。そして、2億800万円と1億2,500万円が入ったジュラルミンケース2個を奪い、ワゴン車に乗って逃走した。運転手はワゴン車のバックミラーにとびかかったが、車は発進し、バックミラーだけ取り残された。ワゴン車は700m離れた銀座の地下駐車場で金を詰め替え、止めていた別の車に乗って逃走した。ワゴン車は盗難車だった。27日、赤坂の駐車場でビニール袋に詰められた1,500万円が見つかった。
 1987年9月9日、盗難車に残されたリースの毛布から、麻布十番にあったマンションのアジトが発見され、フランス人グループが浮上。10月28日、残された1500万に残っていた指紋が、犯行グループの2人と一致。彼らは1984年10月、スミュール・アン・オクソワ美術館からコローの名画など5点、1985年10月にはパリ・マルモッタン美術館からモネの名画など9点を強奪し、フランス捜査当局から指名手配されていた。
 10月27日、コローの名画3点が東京都内で発見された。29日、警視庁はフランス国籍の2名J(31)、K(33)を犯人グループの仲間と断定し、逮捕状を請求。数日後、ICPO(国際刑事警察機構)を通じて国際手配した。11月2日はT(25)を手配した。もう1名F(22?)については身元が確認できず、手配できなかった。11月18日、L(39)を手配するも、Lはすでに7月、パリ郊外で射殺されていた。もう1人、フランス人の女性が一緒に行動していたが、彼女は何も知らない、日本に連れて行ってくれるからついていっただけと供述し、逮捕されなかった。
 Jらは盗んだ名画5点を日本で売りさばこうと、日本人ブローカー(47)と連絡を取って来日。しかしブローカーは絵画売却に失敗。Jら2人と共謀し1986年10月30日午前4時半ごろ、渋谷区の毛皮専門店に侵入、店内にあった毛皮コート65着(計2900万円相当)を盗んだ。日本人ブローカーは1987年9月に逮捕され、11月20日、東京地裁で懲役2年6月(求刑懲役3年)の実刑判決を受け、確定している。
 名画は5点のうち4点が発見され、うち3点は、当時の日本の所有者が所有権を放棄したり寄付するなどして、仏側に返還された。残り1点は所有権を主張したため、捜査協力で一時貸与した後、所有者に返還された。所有者は自らの美術館で展示後、1989年3月にルーブル美術館に寄贈した。
 Tは1988年1月15日、パリ郊外で逮捕された。主犯格のJは4月25日、逃亡先のメキシコで逮捕され、フランスに押送された。
 3人はいずれもフランス国籍のため「フランス逃亡犯罪人引渡法」の「自国民の犯罪は自国で処理」規定に基づき、フランスで裁判が行われた。
 1992年12月11日、パリ近郊ボビニの重罪裁判所でJとTに禁固6年が言い渡された。同じく起訴されていたPは無罪が言い渡された。PとKが同一人物かどうかは不明。
文 献 「二十年目の雪辱―有楽町三億円強奪事件―」(三沢明彦『捜査一課秘録 オウムとの死闘、凶悪犯逮捕の舞台裏』(光文社,2004)所収)
備 考  Jは1984年10月の絵画盗難事件で1990年6月27日、仏デイジョン大審裁判所(最終審)からは懲役5年の実刑判決を言い渡されている。

【1987年】(昭和62年)

日 付事 件
2/8 概 要 <カンボジア難民男性の妻子殺害事件>
 M一家は1985年3月22日、カンボジア難民として日本へ入国。神奈川県大和市のインドシナ難民訓練施設へ入所して日本語教育などの訓練を受けた後、8月20日に同県秦野市内へ転居し、Mは市内のプレス工場に勤めた。当初は真面目に働いていたが、日本語が十分に話せないことや、同胞が退職したことで次第に孤立。さらに職場で弁当を捨てられるなどいじめにあったことから仕事に身が入らず、翌年9月には退職。以後、定職がなくブラブラしており、夫婦仲が悪化。妻は自宅でアルミ製品を洗浄する内職をしていたが、1987年2月4日より持病で入院した。
 2月8日午後、秦野市の自宅でM(34)は小学2年生の長女(8)、長男(6)、二女(4)を刺身包丁とハンマーで殺害。さらに午後6時30分頃、入院中の妻(26)の元を訪れ、同室の入院患者2人が気を利かせて席を外した隙に刺身包丁で何箇所も刺して殺害した。
 Mはそのまま逃亡したが、午後11時頃に病院近くの川沿いに潜んでいるところを発見され、殺害を自供。緊急逮捕された。
 一審でMは起訴事実を認めたが、弁護側は「事件の背景には、日本の難民受け入れ態勢の不備や、日本社会特有の閉鎖性があり、こうした事情が被告を精神的に追い詰めた」と主張。裁判所が行った精神鑑定で「被告には被害妄想が見られ、難民性精神障害」と認定。検察側も論告で「犯行当時、心神耗弱状態だった」とし、日本人に対して被害意識を持ち、心が病んでいったことを認めた。
 1992年1月31日、横浜地裁小田原支部は懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。
文 献 八塩弘二『空しく消えたS・O・S―カンボジア難民の妻子殺害事件』(東京図書出版会,2010)
備 考  
2/22 概 要 <藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件>
 1987年2月22日、神奈川県藤沢市で、ロックミュージシャンのMさん(32)が従兄弟で不動産業者のS(39)とMさんの妻であるMM(27)の2人に殺害された。「Mさんに憑いた悪魔を祓うため」に犯行に及んだとし、S被告が「首を絞めて殺さなければ悪魔は出ていかない」と首を絞めて殺したもの。2人はかつて同じ新興宗教の信者で、犯行当時はSを「教祖」とする3人だけの宗教集団を結成していた。加害者2人は「体内に棲む悪魔を追い祓えば、そのうちMさんが復活する」と信じていた。
文 献 「藤沢市悪魔祓い殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「立ち退き話のもつれが招いた惨劇」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
3/1 概 要 <新宿・通信教育学生傷害致死事件>
 1987年2月28日夜、調理師の男性F(30)は、港区のスナックでたまたま会った渋谷区の通信教育学生の男性(22)が米国留学予定と聞いて自らの体験を話すうちに意気投合。3月1日午前2時、新宿区にある自らのマンションに誘い、酒を飲み始めた。しかし部屋にあったタオルで男性の首を絞めて失神したところを後ろ手に縛り、ガムテープで目隠しして足を紐で拘束したうえ、鎖骨の窪みへの愛撫を繰返した。しかし男性が意識を取り戻して暴れたので、肉包丁の柄で後頭部を何十回も殴りつけ、ビニール紐で絞殺。死体をマンションの非常階段に放置した。
 Fはその日も普通通りに出勤。5日、牛込署は傷害致死容疑でFを逮捕。裁判では殺意のみに焦点が絞られ、Fの性格については触れられなかった。東京地裁は殺人罪でFに懲役12年の実刑判決を言い渡した。しかし1998年9月8日、東京高裁はFに殺意はなかったと認定して一審判決を破棄、傷害致死罪で懲役7年を言い渡し、確定した。
 Fは出所後、母親の強い願いで精神病院に入院するも、同じ行為を繰り返したとのことだが、報道がないため詳細は不明である。
文 献 日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社,2004/新潮文庫,2006)
備 考  Fは中学三年生の1971年10月3日、「中学生応援演説忌避殺人事件」(当該項目参照)を起こし、医療少年院に送られた。入所中の医療検査により、Y染色体を二個持つ性染色体以上が確認されているが、F本人には伝えられなかった。Fは1年11か月で出院し、その後米国で修業。帰国後、調理師として働いていた。Fは他人の首筋や鎖骨を触ると異常に興奮するという性癖を持っていた。
4/27 概 要 <童話作家宝石商殺人事件>
 1万円札を偽造して逮捕された童話作家T(49)が1987年4月27日、1月16日に東京上野の宝石商(38)を殺害し、榛名山に埋めて、宝石1億円余りを奪ったことを自供。Tが経営していた企画会社の元社員N(51)と知人の室内装飾業W(41)共犯として逮捕された。榛名山中に埋めに行くとき、Wが運転するTのBMWには、Tの愛人であり偽札事件の共犯でもあるU(25)、元社員H(45)も同乗していた。Tは北原綴の筆名で、全国学校図書館協議会推薦図書の著作もあった。偽札事件では他に、Tの友人で元出版社社長のM(42)も逮捕されている。Tらが偽造そした1万円札は36億円分で、通貨偽造では史上最大の金額。ただし、偽造したお札は出来の悪いものだったため廃棄したが、それが見つかって事件発覚につながっている。1989年3月27日、東京地裁で求刑通り一審無期懲役判決。控訴取り下げ、確定。
文 献  
備 考  
5/3 概 要 <赤報隊テロ事件>
 1987年5月3日午後8時15分頃、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局2階の編集室に目出し帽の男が侵入し、散弾銃2発を発射。夕食中のK記者(29)が死亡、I記者が重傷を負った。9月24日午後6時45分過ぎ、朝日新聞名古屋本社の新出来寮に目出し帽の男が侵入。1階居間兼食堂のテレビに散弾銃を1発発射。逃走途中、マンションの壁にも1発が発射された。このときは負傷者が出なかった。警視庁は広域指定116号事件に指定した。その後、報道機関に「すべての朝日社員に死刑を言いわたす。ほかのマスコミも同罪である。反日分子には極刑あるのみ」との声明文が届いた。差出人の名は「赤報隊 一同」。その声明文の中で、1月24日、朝日新聞東京本社に銃撃したことが記されていた。調査の結果、外壁から弾痕が発見された。1988年3月11日、朝日新聞静岡支局駐車場で、時限発火装置付きピース缶爆弾が入った紙袋が発見された。さらに、中曽根元首相事務所と竹下首相宛てに脅迫状が届けられた。8月10日には、東京港区Eリクルート前会長の自宅玄関に、散弾銃1発が発車された。1990年5月17日、名古屋市内の愛知韓国快感玄関で、灯油入りのプラスチック容器と発煙筒が燃え、壁ガラスが破損した。いずれの事件にも犯行声明文が出された。
 2003年、全ての事件が時効となった。
 2009年1月29日発売の「週刊新潮」2月5日号から4回に渡り、実行犯を名乗る男性(65)の手記が実名で掲載された。これに対し朝日新聞は「事実と異なる」とする記事を載せた。また手記で犯行の指示役とされた元在日米国大使館職員の男性(54)が新潮社に抗議。謝罪と記事の訂正を求めた。男性は新潮社と数回にわたり話し合った結果、「抗議した点について納得できた」として、3月19日に新潮社と和解の合意書を交わした。ただし、謝罪や訂正については触れられていない。朝日新聞は4月1日付朝刊で「虚報を放置するわけにはいかない」とする検証記事をあらためて掲載し、週刊新潮に訂正と謝罪を求めた。週刊新潮は4月16日発売の4月23日号で、「手記が誤報であったことを率直に認め、お詫びする」とした記事を掲載した。
文 献 「赤報隊テロ事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社)所収)

木村三浩「真相・赤報隊事件」(『ワニの穴10 ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社)所収)

樋田毅『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店,2018)
備 考  
9/4 概 要 <熊本・大学生誘拐殺人事件>
 1987年9月14日、T(21)は知人3人と共謀し、熊本県玉名市内をドライブ中だった小学校時代の同級生で資産家の長男の大学生(当時21)とその女友達を誘い出して拉致。同市内の山中にある廃材捨て場に連れ出し、空き瓶やコンクリートブロックで殴るなどして殺した。さらにこの大学生が生存しているように装って、父親に身代金5000万円を要求した。また女友達を12日間、ホテルなどに監禁、強姦した。
 熊本県警は、9月25日、連れ回されていた女友達を保護し、Tを除く3人を逮捕。その後Tは出頭し、逮捕された。
 裁判で共犯3人は、Tが主犯であると主張。Tは責任の押しつけと反論したが、1988年3月30日、熊本地裁で一審死刑判決。知人3人はそれぞれ無期懲役、懲役20年、懲役18年が言い渡され、そのまま確定した。福岡高裁の公判で、共犯2名は責任を押しつけたと認めたが、1991年3月26日、控訴棄却。
 最高裁に上告中の1997年12月下旬、Tは仲良くなった拘置所看守(懲戒免職)から金切りノコ、現金などを入手。鉄格子を切断して脱走しようとしたが、切断する音を別の職員に見付けられ発覚。親に会いたかった、一度会ったら帰るつもりだったと供述。看守は逃走援助未遂で実刑判決を受けた。また、福岡拘置所所長が調査の成り行きを気にし、勤務中に刃物で自分の胸を数回刺した。その後病院に運ばれて応急処置を受けたが、病院の五階から飛び降りて自殺した。また、監督責任を問われた当時の同拘置所処遇部長を訓告にするなど、職員計12人が減給や戒告、厳重注意などの処分にされた。Tは加重逃走未遂容疑で書類送検され、起訴猶予処分となった。
 1998年4月23日、最高裁で死刑確定。2002年9月18日、死刑執行、36歳没。
文 献 「彼はなぜ殺人犯の脱獄を手助けしたのか」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社,1997)所収)

「熊本・大学生誘拐殺人事件 田本竜也」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  

【1988年】(昭和63年)

日 付事 件
1/15 概 要 <地下鉄短大生殺人事件>
 M(48)は1988年1月15日午後10時半頃、大阪市にある地下鉄の駅の階段で通行人から金を奪おうと待ちかまえていたところ、女子短大生(19)が近づいてきた。包丁を突きつけて「騒ぐな」と脅したが「助けて」と大声を上げたので、左右の胸を数回突き刺して殺した。悲鳴で駆け付けて来た通行人の足音を聞いて、何も取らずに逃げている。
 他にも、1987年8月、大阪市のマンションのエレベーターホールで女性(当時19)の背中を果物ナイフで突き刺し25日間のけがを負わせて、逃走した。同年9月、別のマンションの廊下で女性(当時18)の頭を金属パイプで殴り10日間のけがをさせたうえ、現金600円入りのセカンドバッグを奪った。
 Mは1968年9月19日、大阪市のビル4階で金を奪おうとして24歳の女性を刺殺。強盗殺人容疑で逮捕された。1970年3月に最高裁で無期懲役が確定し、1987年4月30日に大阪刑務所を仮出所していた。
 Mは「若い女性が憎いから襲っただけで、強盗目的ではない」と主張。1991年2月7日、大阪地裁で求刑通り一審死刑判決。1997年4月10日、大阪高裁で被告側控訴棄却。2001年12月6日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 Mは2度再審請求を起こしたが棄却。2008年9月11日、Mは死刑を執行された。68歳没。
文 献 「若い女がにくいんや―再犯の心理―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
1/29 概 要 <コスモ・リサーチ事件>
 山口組系暴力団幹部K(31)と投資顧問業S(36)、暴力団員Iは、株の売買でつき合いがあった大阪府豊中市にある投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の実質的な経営者であるKさん(43)の資金力に目をつけ、金を奪おうと計画。Kさんは多いときで1,000億円を動かす派手な仕手を手がけたため、「30年に1度の相場師」などと呼ばれていた。
 1988年1月29日、Sの知人で大阪の投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の社員だったWさん(23)を退社直後に車に乗せ、Kさんの自宅まで案内させ、Kさんを拉致して脅した。Kさんは知人に「株の取引で必要になった」と1億円を用意させ、別の社員に大阪市住吉区内のレストラン駐車場まで車で運ばせた。Kさんがレストランに電話し、社員を帰らせた後、Kらは現金を奪った。1億円はK、Sが3500万円、Iが3000万円と分けた。その後、KらはKさんとWさんを絞殺。2月2日、KとIは東大阪市の貸倉庫内でコンクリート詰めにし、買った箪笥に隠した。
 その後、Iは自ら暴力団を興し組長となるが、6月19日に暴力事件を、22日に逮捕監禁事件を起こし、7月4日に逮捕された。
 警察の捜査の手が伸びるのを恐れたKは、実家が土木建築業を営む知人(死体遺棄容疑で後日逮捕)と7月17日未明と夜、1体ずつユニックで倉庫の中から引きずり出して積み込み、京都府のゴルフ場の造成地まで運び、バックホウで穴を掘って埋めた。しかし倉庫内でユニックを捜査中、1対目はタンスが壊れて腐汁がしみ出し、2体目はコンクリートが途中で割れ、人の形が付いた約100㎏のコンクリート片は運べず倉庫内に放棄する結果となった。その後、Kは釈放されたIに残りの片づけを依頼するも、Iは生返事ばかりで何もしなかった。
 Sは会社が行き詰まったため、分け前のうちの2,000万円相当をSに株で使いこまれたKを仲間に引き入れ、8月24、25日、別の証券会社から1億4,000万円相当の株券を騙し取り、29日に現金化した。Kはマンションを借り、Sをかくまった。しかしSは9月1日、詐欺容疑で指名手配された。
 9月3日、貸倉庫から腐臭が漂うと隣の倉庫の持ち主からの通報で警察が調べると、血痕がついたシートやセメントをこねた跡、台座などがあった。倉庫を借りていたIが浮かんだが、I、S、Kは逃亡した。9月22日、Sが詐欺容疑で逮捕される。29日、暴力容疑で逮捕されたIが逮捕され、殺人、死体遺棄を自供。10月6日、詐欺容疑でKが逮捕された。10月18日、白骨化した遺体が自供した山林から発見され、翌日3人は強盗殺人、死体遺棄容疑で再逮捕された。
 1995年3月23日、大阪地裁でK、Sに求刑通り死刑、Iに求刑通り無期懲役判決。Iは控訴せず確定。1999年3月5日、大阪高裁で被告側控訴棄却。2004年9月13日、最高裁で被告側上告棄却、KとSの死刑が確定した。
 2018年12月27日、執行。Kは60歳没、Sは67歳没。Kは第四次再審請求中の執行だった。
文 献 河村啓三『こんな僕でも生きてていいの』(インパクト出版,2006)

河村啓三『生きる 大阪拘置所・死刑囚房から』(インパクト出版会,2009)

河村啓三『落伍者』(インパクト出版会,2012)
備 考  
2/6 概 要 <警察官ネコババ事件>
 1988年2月6日午前11時40分ごろ、大阪府堺市の主婦(当時36)は、店先に落ちていた15万円入りの封筒を、槙塚台派出所に届けた。しかし派出所にいたN巡査(当時31)がネコババ。堺南署は、主婦が15万円を隠した犯人であるとでっち上げようとした。後に大阪府警が捜査に乗り出し、別の大事件が発生している日にN巡査の犯行であることを発表。しかし主婦が民事訴訟を起こしたことから騒ぎは拡大し、当時の境南署長が引責辞任するなど、警察側もようやく非を認めた。しかし、誰がでっち上げようとしたかは、明らかにされないままだった。
文 献 読売新聞大阪社会部『警察官ネコババ事件―おなかの赤ちゃんが助けてくれた』(講談社,1989/講談社文庫,1992)
備 考  
2/23 概 要 <名古屋アベック殺人事件>
 A(19)をリーダーとする非行少年グループ6名(少女2名を含む)は、1988年2月22日深夜、名古屋市のテレビ塔付近に集まっていた。懐が寂しかったので、アベックを襲って金品を強奪しようということになり、二台の車で名古屋埠頭へ向かう。二台の乗用車を次々と襲い、8万6千円を強奪。シンナーに酔っていた彼らは勢いづいて、大高緑地公園入口の駐車場に乗り入れた。日付が変わっていた早朝、駐車場内に停まっている乗用車のアベックを襲った。理容師Xさん(19)は必死に抵抗したが、鉄パイプや木刀で滅多打ちにされた。そして社内で腰を抜かしていたY子さん(20)を四人の男で輪姦した。その後、Xさんを絞殺。死体を車のトランクに入れ、吸い殻などを拾い集め逃げ出した。Y子さんは車内で監禁していたが、処置に困り絞殺。二人の死体を三重県の山林に埋めた。
 23日にY子さんの車が発見。Y子さんが行方不明になっていることから警察の捜査が始まり、グループは27日に逮捕された。
 1989年6月28日、名古屋地裁は主犯Aに求刑通り死刑判決、Bは事件当時17歳だったことから死刑相当として求刑通り無期懲役判決、C(事件当時21)に懲役17年(求刑無期懲役)判決、D(事件当時19)に懲役13年(求刑懲役15年)判決、E子(事件当時17)とF子(事件当時18)に求刑通り懲役5年以上10年以下判決を言い渡した。少年への死刑判決は永山則夫元死刑囚以来、10年ぶりだった。事件当時19歳だったAに死刑判決が出されたのは、「少年だから死刑になるはずがない」とうそぶいたことと、「Y子さんの首に綱を巻き付け、綱引きをしよう」といった犯行の残虐ぶりが原因と思われる。B、D、E子、F子は控訴せず確定。1996年12月16日、名古屋高裁はAの一審判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。Cも一審判決を破棄し、懲役13年判決を言い渡した。双方上告せず、確定。
 Aは地裁判決後、被害者2人の両親に謝罪文を送り続け、高裁判決確定後に岡山刑務所に収監された1997年以後は作業賞与金(刑務作業に支払う恩恵的な給与で時給10-数10円程度)も添えて謝罪文を送り続けた。Y子さんの父親が初めて返事を出したのは2005年3月で、作業賞与金送付への礼状だった。以後、文通を続けているという。謝罪を繰り返す受刑者に対し、父は「決して許さないが1人の人間として接している」と話している。
文 献 「名古屋アベック殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「反省し「シャバ」に戻った少年少女のそれから―名古屋「アベック」殺人事件」(「新潮45」編集部編『殺戮者は二度わらう』(新潮文庫,2004)所収)
備 考  Aが無期懲役に減軽されたのは、一審から控訴審の間、写経などをして反省の態度を示していたからだという。
3/18 概 要 <名古屋妊婦殺人事件>
 1988年3月18日午後、名古屋市の会社員Mさん(31)の妻Mさん(27)が、自宅のアパートで、何ものかに電気炬燵のコードで絞殺されていた。さらに、臨月だったMさんの腹を切り裂き、男の赤ん坊を生きたまま取り出した。代わりに、コードを切断した電話機と車のキーホルダーを突っ込んだ。そして数千円の入った財布を奪い、逃走した。19時前、夫のMさんが帰宅し、妻の死体を発見、通報した。赤ん坊は生きており、手当を受け奇跡的に助かった。
 暴行を受けた形跡はなかった。殺害方法が残酷すぎることから、知り合いによる犯行という可能性もあったが、怨恨の線はなかった。物取りの犯行とも思われたが、殺害方法が異常である。警察が特定人物をマークしているという噂もあるが、2003年に時効となった。
文 献 蜂巣敦「名古屋妊婦切り裂き事件」(『ワニの穴10 ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社)所収)

「切り裂かれた腹部に詰め込んだ「受話器と人形」-名古屋「臨月妊婦」殺人事件」(「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫,2002)所収)
備 考  
6/20 概 要 <鶴見事件>
 電気工事業Tは、知人の土地や建物を担保に約1,200万円を借りる約束をして、1988年6月20日午前10時40分頃、横浜市鶴見区の不動産業兼金融業の男性(当時65)の事務所を訪れた。Tは男性と奥の和室へ入った後、隠し持っていたバールで男性の顔などを殴り、さらにドライバーで胸や背中などを刺して殺害。男性が用意していた現金1,200万円を奪って逃げようとしたが、外出から帰ってきた男性の内縁の妻(当時60)と鉢合わせをしたため、妻も奥の和室で滅多打ちにして殺害した。Tは、妹の夫が経営する会社の資金難を援助してから約4,910万円の借金があり、奪った金は金融業者への支払いに充てられた。殺害した男性からも借金をしていた。夫婦の知人が午後2時30分頃に事務所を訪れ、遺体を発見した。捜査本部は7月1日、Tを強盗殺人容疑で逮捕した。
 Tは自白するも公判では無罪を主張。弁護側は現場の状況と自白の内容が合致しないと主張。凶器について3度の鑑定が行われるなど、裁判は長期化した。1995年9月7日、横浜地裁で求刑通り死刑判決。凶器や殺害態様について、「完全に解明できない」としながらも、捜査段階の被告人の自白に任意性があることや、事件当時被告人が犯行時間帯に現場にいた事実などから起訴事実を認定した。
 Tと弁護側は無罪を訴え続けるも、2002年10月30日、控訴棄却。2006年3月28日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。Tは2007年4月、横浜地裁へ再審請求を提出した。
文 献 大河内秀明『無実でも死刑、真犯人はどこに』(現代企画室,1998)

高橋和利『『鶴見事件』抹殺された真実』(インパクト出版会,2011)

森炎『司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決』(講談社,2012)

「第五章 鶴見事件 高橋和利」(片岡健『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社,2016)所収)
備 考  被害者夫婦の娘である女性は最高裁公判日時の通知を希望していたが、最高検が郵送した通知書は事件当時の旧住所であったため、転居先不明で返送された。女性は最高裁弁論、判決を傍聴することができなかったため、上告審を担当した最高裁第三小法廷に手紙を送った。上告審を担当した裁判長は「遺族の気持ちに最大限応えるべきだ」と刑事局に指示し、刑事局幹部が女性宅を訪れて判決文を手渡し、内容を説明するという異例の措置をとった。
 検察庁の被害者通知制度は1999年4月に始まったが、この事件は制度開始前に起訴されたため対象外であった。しかし最高裁に上告している死刑判決事件の遺族については、最高検が可能な限り日時を伝えていた。
10/28 概 要 <札幌テレホンクラブ殺人事件>
 1988年10月28日、札幌市のマンションの一室から若い女性のガス中毒死体が発見された。部屋の住人はY(25)。病院での検死後、Yの両親に遺体を確認させたところ、「娘に間違いない」と断言。Yは腰痛などで入退院を繰り返したことや離婚歴があったこと、窓ガラスをガムテープで目張りしていたことから、前途を悲観してのガス中毒と判断。札幌南署は遺体を両親に引き渡した。
 2日後、札幌市の教師Fさん(32)が、Yの部屋で死んだのは自分の妻S(27)ではないか、との届出があった。Fさんは23日から修学旅行の付き添いで留守にしていたが、29日に帰ってみるとSさんの姿がない。捜索願いを提出後、妻は協会の信者友達であるYのところへ遊びに行ったことを思いだした。札幌南署で確認したところ、遺体の血液型はO型で妻と同じだった。ところがYの血液型はAB型だった。南署は直ちにYの両親に連絡したが、遺体は既に荼毘に付されていた。
 31日、南署がYの部屋で再検証に行ったが、部屋は既に両親の手によって綺麗に片付けられていた。しかし、Fさんの家で採取したSさんの指紋と遺体の指紋が一致し、遺体はSさんと断定された。
 11月2日、Yの部屋で採取した指紋が、1987年5月28日に札幌市ススキノのラブホテルで刺殺された会社員Sさん(27)の現場で採取された指紋と一致した。捜査本部は直ちにYを指名手配。11月4日、Yはススキノを歩いているところで逮捕された。元々の動機は、彼女が両親に肯定された存在でなかったことが始まりだったらしい。
 Y側は心神耗弱を訴えたが、1991年2月26日、札幌地裁で求刑通り一審無期懲役判決。1992年9月26日、札幌高裁で被告側控訴棄却。1995年5月、最高裁で被告側上告が棄却され、確定した。
文 献  「札幌テレホンクラブ殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
11/16 概 要 <綾瀬母子殺人事件>
 1988年11月16日、東京都足立区綾瀬で母(36)と子(7)が殺害され金品が強奪された。1989年4月25日、綾瀬の中学生3人が母子強盗殺人容疑で逮捕された。3少年は自白して家庭裁判所に送致されるも、のちに無罪を主張。アリバイがあったことから、6月9日、3人は釈放された。9月12日、東京家庭裁判所は、アリバイがあること、物証が一致しないことから自白した調書に証拠能力がないとして、無罪に相当する不処分の決定を言い渡した。
 警察の取調べでの暴行・脅迫、捜査の杜撰さが非難を浴びた。特に警察・検察は、アリバイのあることを知っていながら取り調べを続けていた。少年の1人は「警察は怖かった。最後になってもやっていないといえば暴行されると思った」と証言している。また父親の1人は、弁護士に巡り合わなければ無罪にならなかっただろうと語っている。
 事件は再捜査されず、2003年11月16日に公訴時効となった。
文 献 横川和夫・保坂渉『ぼくたちやってない 東京・綾瀬母子強盗殺人事件』(共同通信社,1992)
備 考  

【1989年】(平成元年)

日 付事 件
1/4 概 要 <女子高生コンクリート詰め殺人事件>
 1988年11月25日、帰宅途中の女子高生Wさん(18)に少年Cが襲いかかった。主犯である少年Aが助けるふりをして近づき、甘言を弄して誘拐。少年B、Dも荷担。C宅に略取した。その後41日間、Wさんを不法に監禁、強姦行為や暴力行為、陵辱を繰り返した。1989年1月4日、Wさんはショック死。4人は遺体をボストンバックに入れた後ドラム缶にコンクリート詰めにし、空き地に投げ出した。
 3月29日、別事件で少年鑑別所に収容されていたA、Bのもとに、綾瀬署の刑事が訪れた。刑事たちは、1988年11月16日に起きた綾瀬母子殺人事件の捜査で、現場付近の不良グループを虱潰しにチェックしていた。刑事はAを見て、何かあると思い「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」とカマをかけた。Aは「すみません、殺しました」と答えた。しかし告白したのは、綾瀬の事件ではなく、本事件であった。
 1990年7月19日、東京地裁はAに懲役17年(求刑無期懲役)、Bに懲役5年~10年(求刑懲役13年)、Cに懲役4年~6年(求刑懲役5~10年)、Dに懲役3年~4年(求刑懲役5~10年)の刑を言い渡したが、検察側は刑が軽過ぎると控訴。1991年7月、東京高裁はAに懲役20年、Bに懲役5年~10年、Cに懲役5年~9年、Dに懲役5年~7年の刑を言い渡し、確定。
 1999年に出所したBは2004年5月19日未明、東京都足立区の路上で、好意を寄せていた女性と交際していると思い込んだ知人男性に「女を取っただろう」などと言いがかりをつけ、車のトランクに押し込んで埼玉県内のスナックに4時間以上監禁し、顔を殴るなどして約10日間のけがをさせた。このとき、Bは男性を「人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ」などと脅していたとされる。Bは6月4日に捕監禁致傷の疑いで逮捕された。2005年3月1日、東京地裁はBに対し、懲役4年(求刑懲役7年)を言い渡した。
 主犯Aは2009年に出所。養子縁組で名前が変わっている。『週刊文春』によると、2013年1月に振り込め詐欺の「受け子」として逮捕されたが、完全黙秘したため、1月31日に不起訴で釈放されたとある。
 Cは2018年8月19日、埼玉県川口市の路上で、32歳の男性の肩を警棒で殴った上、首をナイフで刺したとして逮捕された。2019年11月22日、さいたま地裁で懲役1年6月+執行猶予3年の判決を受けた。
文 献 渥美饒兒『十七歳、悪の履歴書-女子高生コンクリート詰め殺人事件』(作品社,2003)

おんな通信社編『女子高生コンクリート詰め殺人事件』(社会評論社,1991)

おんな通信社編『報道のなかの女の人権 「女子高生コンクリート詰め殺人事件」をめぐって』(社会評論社,1991)

佐瀬稔『うちの子が、なぜ!-女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社,1990)

死刑をなくす女の会『女子高生コンクリート詰め殺人事件―彼女のくやしさがわかりますか?』(社会評論社,2004 おんな通信社編『女子高生コンクリート詰め殺人事件』の新装版)

別府育郎・村田雅裕『迷走-女子高生コンクリート詰殺人事件』(あいわ出版,1990)

藤井誠二『少年の街』(教育史料出版会,1992)

藤井誠二『17歳の殺人者』(ワニブックス,2000/朝日文庫,2002)

藤木あきこ『だらだら坂のとらんたん』(日本図書刊行会,1994)

横川和夫、保坂渉『かげろうの家―女子高生監禁殺人事件』(共同通信社,1990)

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社, 1999)所収)
備 考  
1/27 概 要 <佐賀女性七人連続殺人事件>
 1989年1月27日、佐賀県北方町の山林で三人の女性の死体や白骨が発見された。佐賀県警は捜査本部を開設、連続殺人と見た。白骨遺体は武雄市の料亭従業員A子さん(48)で、1987年7月8日から行方不明になっていた。二遺体は、北方町の主婦B子さん(50 1988年12月7日から行方不明)と、同町の従業員C子さん(1989年1月25日行方不明 37)であり、二遺体はいずれも絞め殺されていた。国道34号線は佐賀県鳥栖市から長崎に至る幹線道路であり、この間で4人の女性の未解決殺人事件があった。1980年6月24日、白石町のウェイトレスD子さん(20)。6月27日、白石町の中学生F子さん(12)。1981年10月21日、中原町の会社員F子さん(27)。1982年2月18日、北茂安町の小学生G子さん(11)。C子さんを主要対象に選び捜査が進められたが、物証はほとんどなかった。被害者同士の接点はなにもない。奇妙なのは、失踪したのがほとんど水曜日であることだった。既に4人の事件については時効が成立している。
 時効直前の2002年6月11日、佐賀県警はC子さん殺害容疑で、住居侵入と窃盗の罪で鹿児島刑務所に服役中の元運転手M(39)を逮捕した。MはC子さんと顔見知りであり、1989年には一度C子さん殺害を自供していた。ところがその後、容疑を否認。物証が乏しく、逮捕が見送られていた。引き続きA子さん、B子さん殺害でも逮捕、起訴された。Mは容疑を一切否認している。2005年5月10日、求刑死刑に対し佐賀地裁で無罪判決。2007年3月19日、福岡高裁は検察側の控訴を棄却、一審判決(無罪)を支持した。検察側は上告せず、無罪は確定した。7月6日、Mは弁護士を通じて、無罪判決が言い渡されるまでの464日間の拘置期間について、佐賀地裁に補償を請求。地裁は「長期間拘置された上、無期懲役および死刑を求刑され、精神的にも肉体的にも大きな被害を受け、名誉も傷つけられた」として、刑事補償法の上限である1日当たり1万2500円、総額580万円を支払うことを決めた。
 Mはその後、福岡、宮崎、大分、鹿児島の4県で127件の窃盗事件などを繰り返した。被害総額は約440万円に上る。このうち2011年6月~12月に起こした5件の窃盗(被害総額計約34万円)と、2012年1月に使用した覚せい剤取締法違反容疑で福岡地検に送検された。2012年6月11日、福岡地裁は懲役2年10月(求刑懲役3年6月)を言い渡した。
文 献 「佐賀女性七人連続殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「水曜の夜に女が消える『佐賀連続殺人事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版,1996)所収)
備 考  
2/14 概 要 <先妻家族3人殺人事件>
 岐阜県羽島郡生まれのパチンコ店員だったM(45)は、勤め先の女性と親しくなったのが原因で、妻と離婚。その後、復縁を願ったが、元妻の両親(67、57)らに反対された。逆恨みを晴らすため、1989年2月14日午前3時半ごろ、両親宅に押し入り、両親と妹(32)を刺身包丁で次々と刺し殺した。
 殺意はなかったと訴えたが、1989年12月14日、岐阜地裁で求刑通り一審死刑判決。1990年7月16日、名古屋高裁で被告側控訴棄却。キリスト教に入信したMは、裁判で争うことに消極的になったことや、親兄弟が苦しむのを見たくない、と1994年3月7日に上告取り下げ、死刑確定。2000年11月30日、死刑執行、57歳没。
文 献 「自分の兄弟も苦しむ―上告取下げ―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
5/16 概 要 <中村橋派出所2警官殺人事件>
 3月に2年間の任期を満了して陸士長で退職した、アルバイト店員のS(20)は、銀行強盗で大金を手に入れるため、警官の拳銃を奪おうと計画。
 犯行前日の1989年5月15日午後11時ごろ、Sは東京都練馬区にあるアパートの自宅を出て、中村橋派出所裏にひそんだ。翌16日午前2時50分ごろ、勤務中の巡査(当時30 殉職後警部補へ二階級特進)が派出所脇の路上にあった所有者不明のオートバイを移動させていたところを狙い、持っていたサバイバルナイフ(刃渡り30cm)で背後から刺殺。叫び声を聞いて駆けつけた巡査部長(当時35 殉職後警部へ二階級特進)と格闘となり、胸や背中などを刺して殺した。両警官の抵抗により、何もとらずに逃走した。
 Sは徒歩で現場から約500m離れたアパートに帰り、18日ごろ、夜間に同区関町北の武蔵関公園の池に汚れた着衣などを捨てた。警官殺しを祝す声明文が送られるなど、地域住民の不安を募らせたが、6月8日に自宅アパートにいたところを逮捕された。
 1991年5月27日、東京地裁で求刑通り一審死刑判決。1994年2月24日、東京高裁で被告側控訴棄却。1998年9月17日、最高裁第一小法廷で被告側上告棄却、確定。
 Sは犯行時の責任能力を問題として2003年8月に再審請求を提出している。
文 献 「警察魂―中村橋派出所警官刺殺事件―」(三沢明彦『捜査一課秘録 オウムとの死闘、凶悪犯逮捕の舞台裏』(光文社,2004)所収)
備 考  
7/23 概 要 <宮﨑勤幼女連続殺人事件>
 1989年7月23日午後、宮崎勤(26)は幼女(6)に声をかけて車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしたところ、尾行していた幼女の父親に捕まった。その後の取り調べにより、4件の犯行が明らかになった。
 1988年8月22日夕方、入間市内を歩いていた幼女(4)に声をかけ、八王子市内の山林に連れ出したが泣き出したので絞殺。遺体をビデオに撮った後、衣服を持ち帰る。
 1988年10月3日、飯能市の小学校付近で遊んでいた幼女(7)を誘拐して殺害。
 1988年12月9日、川越市の自宅団地のそばで遊んでいた幼女(4)を誘い出し、殺害。
 1989年2月6日、8月22日に殺害した幼女の骨片や歯などが入ったダンボールを、幼女の家の玄関に置いた。
 1989年2月10日、朝日新聞社宛に、誘拐、殺害の詳細を綴った「今田勇子」名義の手紙が届く。
 1989年6月6日、江東区の公園で遊んでいた幼女(5)を誘拐して悪戯、殺害。遺体を自宅に持ち帰り、ビデオ撮影。二日目には遺体を切断し飯能市の霊園などに捨てた。
 1989年8月11日、一連の幼女連続殺人事件の被告として、正式に逮捕された。
 一審東京地裁での精神鑑定では、「極端な性格的偏り(人格障害)はあったが、精神病の状態にはなかった」「多重人格と離人症を主体とする反応性精神病」「精神分裂病だった」という3通りの結果が出た。一審判決では最初の精神鑑定を採用し、刑事責任能力があると判断して死刑判決。弁護側の「心神喪失もしくは心神耗弱」という意見は退けられた。2001年6月28日、控訴棄却。2006年1月17日、被告側上告棄却、確定。
 宮﨑勤は2008年6月17日、死刑を執行された。45歳没。再審請求準備中だった。
文 献 天笠啓祐・三浦 英明『DNA鑑定―科学の名による冤罪』(緑風出版,2006(増補改訂版))

一橋文哉『宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ』(新潮社,2001/新潮文庫,2003)

大和田徹『今田勇子VS警察』(三一書房,1991)

小笠原和彦『宮崎勤事件・夢の中』(現代人文社,1997)

佐木隆三『宮崎勤裁判』上中下(朝日新聞社,1991~1997/朝日学芸文庫,1997~2000)

篠田博之『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書,2008)

芹沢俊介『“宮崎勤”を探して』(雲母書房,2006)

都市のフォークロアの会編『幼女連続殺人事件を読む 全資料・宮崎勤はどう語られたか?』(JICC出版局,1989)

宮川俊彦『君は宮崎勤をどう見るか』(中野書店,1990)

宮崎勤『夢のなか』(創出版,1998)

宮崎勤『夢のなか、いまも』(創出版,2006)

安永英樹『肉声 宮﨑勤 30年目の取調室』(文藝春秋,2019)

吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋,2000)

「第二章  私は優しい人間だと、伝えてください」(長谷川博一『殺人者はいかにして誕生したか』(新潮社,2010/新潮文庫,2017)所収)

「宮崎勤事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社)所収)

「見えない心―宮崎勤事件―」(三沢明彦『捜査一課秘録 オウムとの死闘、凶悪犯逮捕の舞台裏』(光文社,2004)所収)

「幼女連続誘拐殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「宮﨑勤 首都圏連続幼女誘拐殺人事件 1989」(赤石晋一郎『完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文芸春秋,2021)所収)

「連続幼女殺人事件 宮崎勤」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  精神鑑定で意見が分かれており、多重人格との鑑定結果も出されている。
9/18 概 要 <白いマンション殺人事件>
 住所不定、無職I(30)は1989年9月18日午前3時45分ごろ、東京都世田谷区に住む東海大学1年生の女性(当時19)が住むマンション西側の雨どいを伝ってベランダから女性方に侵入。一人で寝ていた女性の手を粘着テープで縛るなどし乱暴しようとしたが、大声で騒がれて抵抗され、外の通行人に気づかれそうになったことから、口にハンカチを押し込んだうえ両手で首を絞めて殺害。さらに、現金8000円が入った財布などを奪って逃げた。女性は従姉(当時24)と共同生活をしていたが、従姉は当日外泊して不在だった。
 捜査本部は不審人物の洗い出しを進めたところ、11月初めに現場付近で職務質問したIから任意で採取していた指紋が、ベランダに残っていた指紋と一致した。11月25日になって都内で発見、取り調べたところ、犯行を認めた。Iは函館市で働いていたが、9月10日、突然飛び出して上京、駅で古本を拾っては売り歩き、駅の周辺で野宿する生活をしていた。
 Iの弁護人は殺意と計画性を否定したが、1991年3月28日、東京地裁はIに求刑通り無期懲役判決を言い渡した。1993年5月13日、東京高裁で被告側控訴棄却。
文 献 笹倉明『白いマンションの出来事』(文藝春秋,1994)
備 考  都内山の手地区では1987年11月から白いマンションに住む一人暮らしの女性を狙った暴行、強盗事件が連続17件も起きており、関連性が注目されていたが、捜査本部は事件当時、Iが北海道にいたことなどから関連はないとした。
11/3 概 要 <坂本弁護士一家殺害事件>
 横浜市磯子区のアパートに住んでいた坂本弁護士(33)、妻(29)、長男(1)が1989年11月3日、忽然と姿を消した。襖などから微量の血痕が検出されたこと、蒲団などの寝具類は消えていたが財布などは残っていたことから、深夜何者かに拉致された可能性が強かった。坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が事件に関わっていると主張した。室内にオウム真理教のバッジが落ちていた。また坂本弁護士は、オウムに入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。さらに10月31日、オウムの幹部が横浜法律事務所を訪ねてきて、激しい口論を繰り返していたなどが理由である。オウム真理教は、活動を阻害しようとする罠、もしくは坂本弁護士の狂言だと反論した。事件は公開捜査となり、弁護士仲間が「救う会」を結成したが、捜査は停滞したままだった。
 1995年3月20日の地下鉄サリン事件で、警視庁は3月22日にオウム真理教の強制捜査を開始した。1995年9月、実行犯の供述により新潟、富山、長野の山中から三人の遺体が発見された。10月13日、松本智津夫(麻原彰晃)被告と五人の実行犯が起訴された。
 検察の冒頭陳述で、オウムの幹部たちは1989年10月26日TBSへ乗り込み、坂本弁護士の教団批判の収録テープを見て知り、殺害を決意した、としている。オウムが抗議に来て放映中止を要求したという事実を、TBSは隠し通そうとしたため、TBSの報道倫理が厳しく問われることになった。
 松本は2006年に死刑判決が確定(1993年の地下鉄サリン事件に詳細を記載)。実行犯である佐伯一明は2005年4月に死刑判決が最高裁で確定。端本悟は2007年10月に死刑判決が最高裁で確定。早川紀代秀は2009年に死刑判決が最高裁で確定。新実智光は2010年に死刑判決が最高裁で確定。中川智正は2011年に死刑判決が最高裁で確定。
 松本智津夫、早川紀代秀、新実智光、中川智正は2018年7月6日、死刑を執行された。全員再審請求中だった。佐伯一明、端本悟は2018年7月26日、死刑を執行された。
文 献 「坂本弁護士一家殺害事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「坂本弁護士一家殺害事件 岡崎一明」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

江川紹子『横浜・弁護士一家拉致事件』(新日本出版,1992)

江川紹子『全真相坂本弁護士一家拉致・殺害事件』(文藝春秋,1997)

大山友之『都子聞こえますか オウム坂本一家殺害事件・父親の手記』(新潮社,2000)

坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会編『生きてかえれ!』(坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会,1996)

佐木隆三『三つの墓標 小説・坂本弁護士一家殺害事件』(小学館,2002)
備 考  
12/27 概 要 <道後事件>
 風俗関係の仕事をしていたタイ国籍の女性K(25)は、松山市内に住む管理売春のボスであるタイ人女性S(当時自称29)方のマンションで、別のタイ人女性二人と同居していたが、三人は女性の理不尽な処遇に不満を募らせていた。1989年12月27日午前3時すぎ、三人はこれまでの不満が爆発、他の二人がSの首をカッターナイフで刺し、ひん死の状態にさせた。Sの金庫を壊して所持金を奪おうと、Kに隣室の台所から金づちを持ってこさせた時、Sの肩などがけいれんして動いているのを見て、KはSを確実に殺そうと金づちで頭を数回殴り、くも膜下出血による脳機能マヒで死亡させ、殺害した。三人はそのまま逃走。松山東署は殺人容疑で3人を指名手配した。
 1996年1月28日、Kは売春防止法違反の疑いで、大阪府警曽根崎署に逮捕、大阪入国管理局に収容された。2月2日、殺人容疑でKは逮捕された。2名は現在も逃亡中である(すでに時効か?)。
 1996年9月、松山地裁で懲役8年(求刑懲役12年)の判決。一審の法廷通訳人(日本人)はタイ語の日常会話すらできず、初公判で「私には出来ない」と訴えた。しかし、裁判官が「100点を要求している訳ではない。ベストを尽くせば」と慰留し、公判は続けられた。また、判決の認定理由部分は、「訳す必要はない」との裁判長の判断でタイ語に訳されなかった。
 控訴審では経験の豊富なタイ人の通訳人が付き、法廷内でのやり取りはていねいにタイ語に訳された。しかし、通訳人の日本語能力には難があったため、意志の疎通を欠いた。弁護側は「一審は法廷通訳人の通訳能力が著しく低く、調書内容が説明されないなど、十分な審理がされていない」と訴訟手続きの法令違反を主張した。さらに鑑定書の誤りを指摘し、殴打前に女性は死亡していたとして、殺人について無罪を主張した。さらに「日本の性産業は、悪質な日本人ブローカーに借金漬けにされたアジアからの貧しい出稼ぎ女性たちに支えられている。こんな構造がなければ不幸な事件は生じなかった」として、「弁護側の主張が認められなくとも、大幅な減刑措置を望みたい」と訴えた。しかし1998年3月、高松高裁は弁護側の訴えをすべて退け、控訴を棄却。刑は確定した。
文 献 深見史『通訳の必要はありません―道後・タイ人女性殺人事件裁判の記録』(創風社出版,1999)
備 考  

【1990年】(平成2年)

日 付事 件
4/18 概 要 <横浜労働者刺殺事件>
 横浜市中区寿町四の寿町総合労働福祉会館北側階段下広場で1990年4月18日午後10時40分ごろ、北海道札幌市本籍で横浜市在住の土木作業員S(42)が、北海道出身の住所不定、作業員、Y(40)と酒を飲んでいるうちに口論となり、持っていた果物ナイフでSがYをの首を刺して失血死させた。21日、県警捜査1課と伊勢佐木署はSを殺人容疑で逮捕。SはYに借金の返済を迫ったところ、借りていないと言われて口論になり刺殺したと供述している。
 Sは横浜地裁の公判で殺害していないと起訴事実を全面否認したが、1990年12月11日、横浜地裁は「自白、目撃者の供述調書、ナイフの証拠も信頼できる」として、懲役8年(求刑懲役15年)の有罪判決を言い渡した。
 控訴審から私選弁護人が付き、被告の無罪を信じて奔走。1992年6月17日の第7回公判では、目撃証言した男性が初めて証人出廷し捜査段階の供述調書の内容を否定する証言を行った。しかし東京高裁は1993年3月3日、被告側の控訴を棄却。1年後、最高裁は被告側上告を棄却し、刑が確定した。
文 献 笹倉明『推定有罪』(文藝春秋,1996/岩波現代文庫,2010)
備 考  
5/12 概 要 <17歳小学1年男児誘拐殺人事件>
 1990年2月2日、福岡県太宰府市で下校中の小学1年生男児(7)が行方不明となった。筑紫野署や地元消防団、PTAらによる捜査で5日午前、林の中から首を絞められた遺体で発見された。捜査本部は目撃証言や過去の補導歴から13日、筑紫野市内の無職少年(17)に任意同行を求めて事情聴取、少年は犯行を認めたため未成年略取誘拐、殺人容疑で逮捕した。少年は殺害された男児が通っていた小学校の卒業生で、福岡市内の私立高校を89年12月に退学していた。
 少年は中学2年だった1986年11月、筑紫野市内で小学3年生女児を誘拐。3時間に渡って山中を連れ回した上、頭を金属バットで殴ったり、首を絞めたりするなどした上、一晩置き去りにした。未成年略取誘拐、傷害で初等少年院送致が決定し、89年3月まで少年院で過ごし、8月に保護観察処分が解けたばかりだった。
 少年側は誘拐を否認し、心神耗弱を訴えたが、1991年6月14日、福岡地裁は求刑通り懲役5-10年の不定期刑を言い渡した。少年は控訴したが、後に取り下げ確定した。10月に佐賀少年刑務所へ入所し、2000年12月に出所した。
 元少年は2001年9月、住居侵入容疑で逮捕。2002年10月に懲役7月が確定し、福岡拘置所に入所。翌月、出所した。
 2004年7月7日、元少年は佐賀県三養基郡内の団地踊り場で、下校中の小学生女児に声をかけ、体を触るなどした強制わいせつの罪で逮捕された。取り調べで、似たような余罪十数件を供述した。
文 献 西日本新聞社「少年事件・更生と償い」取材班『僕は人を殺めた』(西日本新聞社,2005)
備 考  
5/12 概 要 <足利事件>
 1990年5月12日、4歳の女児が行方不明となり、翌日渡良瀬川河川敷で遺体が発見された。1991年12月1日、元幼稚園バス運転手菅家利和さんが足利署に連行され自白。翌日、逮捕された。被害者の下着に付着していた精液のDNAが菅家さんの型と一致したことが「決め手」であった。その後、足利市で起きた別の2件の幼女殺害事件(1件名は1979年8月3日、5歳の女児が行方不明となり、後に遺体が発見された殺人事件。2件目は1984年11月17日、5歳の女児が行方不明となり、後に遺体が発見された殺人事件)でも逮捕された。後に菅家さんは足利事件では起訴されたが、残り2件は物証もなく証拠不十分として不起訴となった。
 菅家さんは公判途中から無実を訴えた。公判では特にDNA鑑定の証拠能力について争われたが、1993年7月7日、宇都宮地裁で求刑通り無期懲役判決。1996年5月9日、東京高裁で控訴棄却。2000年7月17日、最高裁上告棄却、確定。
 2002年12月25日、弁護団は宇都宮地裁に再審請求を提出。検察側のDNA鑑定について、「捜査段階のDNA鑑定は、今は利用されていない初期のもので鑑定結果は不正確」と主張した。また殺害方法についても、自白とは矛盾すると訴えた。
 2008年2月13日、宇都宮地裁は再審請求を棄却した。決定理由で池本寿美子裁判長は、弁護側が提出した証拠の新規性を認めた上で、女児の下着に付いた体液と受刑者とのDNA型が一致しないとする主張や、殺害方法と自白の内容とが矛盾するとした鑑定結果について「いずれも明白性を欠く」と判断した。弁護側は即時抗告した。
 2008年12月24日、東京高裁はDNA型の再鑑定を行う決定をした。検察、弁護側それぞれが推薦した専門家2人が別々に再鑑定を実施。ともに菅家さんと下着に付着した体液のDNA型が一致しないという結果となった。2009年5月8日、東京高裁は再鑑定結果を検察側、弁護側双方に交付した。
 2009年5月19日、菅家さんの弁護側は刑事訴訟法442条(検察官は再審請求があった場合、裁判所の再審開始の可否決定前に刑を執行停止できる)に基づき刑の執行停止を申し立てた。6月4日午前、東京高検は東京高裁の再審請求即時抗告審で、女児の下着に残された体液と菅家さんのDNA型が一致しないとした2件の再鑑定のうち、検察側推薦の鑑定人の鑑定内容を是認し、再審開始を容認する意見書を提出した。その後、東京高検は刑の執行を停止する措置を取ったため、午後3時50分に菅家さんは収監先の千葉刑務所から釈放された。法務省によると、検察が同法に基づき、無罪を見込んで裁判所の決定前に受刑者を釈放したのは初めて。6月23日、東京高裁は再審開始を決定した。
 10月21日、宇都宮地裁で再審初公判。佐藤正信裁判長は菅家さんに対し、被告名ではなくさん付けで呼んだ。11月、同様のDNA鑑定で死刑判決を受け、後に執行された飯塚事件の再審弁護団主任弁護士が弁護団に加わった。12月24日の第3回公判では警察庁科学警察研究所(科警研)の福島弘文所長が証人として出廷。DNA鑑定について「当時の技官らに聞き取り調査したが、大きな問題はなかった」「(今回の結果については)誤りではなく、今回より高度な鑑定で事実が分かった」と釈明したが謝罪は拒否した。捜査に用いることの是非については「数百人に一人が一致すると考えれば、参考程度で出すべきだった」と述べ、DNA鑑定への過大評価があったことを認めた。2010年1月21日、22日の第4~5回公判では、宇都宮地検の森川大司検事(当時)から取調べを受けて「自白」するまでの取調べテープが再生された。22日の公判では、森川元検事が証人として出廷したが、菅家さんには謝罪しなかった。2月12日、検察側は菅家さんに論告で「法廷で取り調べた関係証拠により無罪の言い渡しがされるべきことは明らか」と無罪を求めるとともに法廷で謝罪した。
 3月26日、宇都宮地裁は菅家さんに無罪を言い渡した。佐藤正信裁判長は「菅家さんの真実の声に十分耳を傾けられず、(釈放までの)17年半自由を奪うことになり、裁判官として誠に申し訳なく思う」と謝罪。陪席裁判官2人と立ち上がり、頭を下げた。検察側は上訴権放棄を申し立て、地裁に受理された。菅家さんの無罪が確定した。
 2010年9月、菅家さんは無実の罪で不当な拘束を受けたとして刑事補償などを請求。宇都宮地裁は2011年1月13日、「(逮捕や服役など身柄の)拘束の種類や期間の長さ、精神上の苦痛などを考慮すると、刑事補償法が定める上限が相当」と指摘。請求通り逮捕された1991年12月2日から釈放された2009年6月4日までの6,395日分について、上限額の1日当たり12,500円、計7,993万7,500円を認めた。また、無期懲役だった一審から再審公判までの弁護報酬などの訴訟費用約1,200万円の補償も認めた。その際、「再審請求段階で弁護団が行ったDNA型鑑定が重要な契機となり再審に至った」として、本来は補償対象外の弁護側の鑑定費用も考慮した。菅家さんは「冤罪に苦しむ人の弁護に役立ててほしい」として刑事補償の一部を日弁連に寄付した。
文 献 梶山天『孤高の法医学者が暴いた足利事件の真実』(金曜日,2018)

小林篤『幼稚園バス運転手は幼児を殺したか』(草思社,2001)(後に『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』(講談社文庫,2009)と改題、増補)

佐久間哲『魔力DNA鑑定』(三一書房,1998)

清水潔『殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(新潮社,2013/新潮文庫,2016)

下野新聞社編集局『冤罪足利事件―「らせんの真実」を追った四〇〇日』(下野新聞社,2010)

菅家利和『冤罪 ある日、私は犯人にされた』(朝日新聞出版,2009)

菅家利和・佐藤博史『訊問の罠 足利事件の真実』(角川書店,2009)

菅家利和・河野義行『足利事件 松本サリン事件』(TOブックス,2009)

「DNA鑑定の呪縛――足利事件と飯塚事件」(里見繁『冤罪をつくる検察、それを支える裁判所』(インパクト出版会,2010)所収)

「足利幼女連続殺人事件 「冤罪」で逃れた真犯人を追う」(週刊朝日ムック『未解決事件ファイル 真犯人に告ぐ』(朝日新聞出版,2010)所収)

「足利事件――論理的可能性への立脚は誤判の根源である」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  最高裁でDNA鑑定が証拠として認められた初めての判決。
 事件当時、栃木県足利市、群馬県太田市という隣接する2市で、4歳から8歳の5人の少女が誘拐または殺害されている(「北関東連続幼女誘拐殺人事件」(1996年の項記載))。足利事件はそのうちの1件である。
6/2 概 要 <練馬社長宅三億円強奪事件>
 1990年6月2日午前11時ごろ、埼玉県新座市にある建設会社の営業所に練馬区長の秘書を名乗る男から電話があり、仕事の話をしたいので会いたいと、建設会社社長の実兄である常務の男性(67)を指名した。当初は午後6時30分の予定だったが、再度遅れるとの電話があったため、常務は他の従業員を返して一人で待っていた。午後8時ごろ、二人組の男が押し入り、常務は拉致された。車の中で二人は常務が所持していた現金を奪った。
 午後11時ごろ、東京都練馬区に住む建設会社社長宅に、ストッキングで覆面した二人組の男が常務を連れて押し入った。孫の誕生祝をしていた社長の男性(59)、妻(54)、三女(28)、夫(29)、長男(4)、次男(1)に短銃と刃物を突き付け、「金を出せ」と脅した。二人は7人の手足を粘着テープで縛り上げ、さるぐつわをして応接間や居間などに押し込み、現金五億円を準備しろと脅迫。二人組はそのまま4日昼頃まで監禁。二人組は一家を監禁中、家の中を物色してダイヤの指輪、金のネックレスから背広のポケットにあった現金、さらに米ドル札や腕時計、べっ甲のメガネなどまで盗んだ。社長が4日午前、会社に連絡をして現金を準備するよう社員に指示し、社員が三億円を用意して自宅に届けると、二人は娘婿の車で逃走した。社長は自力で粘着テープをほどき、午後2時ごろ、練馬署に電話した。7人にけがはなかったが、二人はほとんど食事をとらせなかった。
 捜査本部に7月上旬、寄せられた民間情報から、以前建設会社の下請けの仕事をしたことがある自称右翼団体塾長Mが捜査線に浮上。周辺捜査から、刑務所で交友関係があった小田島鐵男が浮かんだ。小田島は窃盗などで18回の逮捕歴があり、事件の20日前である5月13日に出所したばかりだったが、高級賃貸マンションに住み、約1億円を預金、高級外車の購入、数回の海外旅行をしていたため疑いが深まった。
 主犯であるMは8月25日、東京・光が丘署に銃刀法違反容疑で逮捕されたが、この時はまだ手配されておらず、9月14日に釈放された。
 9月22日夜午後8時ごろ、捜査本部は香港から帰国した小田島鐵男(47)を成田空港から任意同行。建造物侵入、逮捕監禁、強盗の容疑で逮捕した。M(45 韓国籍)は23日に指名手配された。10月19日ごろ、筑波山で僧職の格好をしたMは偽名でアパートを探していると大工の夫婦に声を掛け、同情した夫婦は茨城県つくば市に住む自宅の離れにある解体予定の古い倉庫を無償提供した。11月29日午前3時10分ごろ、高飛びの準備をしたMは倉庫のすぐ隣の民家に押し入ったが逆に父子に取り押さえられ、通報で駆け付けたつくば北署員に強盗傷害の現行犯で逮捕された。持っていた運転免許証と外国人登録証からMと判明し、30日午後、再逮捕された。
 奪われた三億円のうち、最終的に約一億六千五百万円が社長に返還された。
 1991年11月28日、東京地裁はMに懲役13年(求刑懲役15年)、小田島に懲役12年(求刑同)の判決を言い渡した。
文 献 「練馬社長宅三億円現金強奪 1990」(赤石晋一郎『完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文芸春秋,2021)所収)
備 考  小田島鐵男は本事件後に刑務所で服役中に知り合った男性と出所後、2002年8月5日「マブチモーター社長宅強盗放火殺人事件」などの事件を起こす。
7/6 概 要 <女子高生校門圧死事件>
 1990年7月6日午前8時半ごろ、神戸市の県立高校で、校門指導のH(39)が門限時刻になったため、校門のレール式扉を閉め始めた。登校中の生徒が扉の隙間に殺到したが、このとき1年生のIさん(15)が門扉と門柱に挟まれ、圧死した。
 11月16日、高校側は過失を全面的に認め、兵庫県はIさんの遺族に賠償金を支払うことで示談が成立した。
 1993年2月10日、神戸地裁はH被告に禁固1年、執行猶予3年の判決を言い渡した。Hは控訴せず、刑が確定した。
文 献 細井敏彦『校門の時計だけが知っている』(草思社,1993)
備 考  
11/16 概 要 <川崎製鉄専務夫人殺人事件>
 1975年12月26日正午ごろ、岡山市のマンションに住む川崎製鉄専務の妻(55)が自宅の和室で後頭部を床に打ち付けられた上、ストッキングで首を絞められ殺害された。犯人は現金20万円、預金通帳(額面260万4456円)、印鑑、株券92枚(870万円相当)を奪って逃走。さらに同日午後0時40分頃、銀行で通帳から全額を引きだした。
 遺体は翌日、発見された。遺体発見が犯行から10時間以上も後だったため、初動捜査が送れ、難航した。
 時効直前の1990年春、岡山県警は専従捜査員を3人から7人に増員。さらに銀行の払戻請求書に残されていた指先3分の1の指紋を、導入したばかりのコンピュータで分析。目撃された犯人の身長、年齢などを元に指紋を復元し、コンピュータで照合した結果、1976年に滋賀で窃盗容疑で逮捕されたことのある、千葉県八千代市に住む不動産会社支店長の男性(49)の指紋と一致した。
 岡山県警は12月16日午前、佐倉市の会社にいた男性を任意同行し取り調べ、午後2時に逮捕した。時効成立40日前だった。
 男性は当時神戸市内で新聞販売店を経営していたが、資金繰りに困っていた。男性はその後、1986年に不動産会社に就職していた。
 1991年6月19日、岡山地裁は男性に懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。判決で裁判長は逃亡していた15年間について「長期間が経過したことで被告に有利な情状とすることは、いわゆる逃げ得を許すことになる」としながらも、「被告は、いわゆる逃亡生活をしてきたわけではなく、普通の社会人として、過ごしてきた」と判断。その上で「再犯の可能性もなく、刑罰を加える必要性は犯行直後に比べ、格段に減少した。無期懲役にするのは、もはや重すぎる」と酌量減軽。「犯行は、冷酷非道で被害者と遺族の苦痛、無念さは計り知れないが、被告の反社会性は(逮捕までの)15年の歳月によってほとんど消えたと思われる」と述べた。
文 献 松垣透『時効40日前の逮捕―殺人犯の逃亡の記録』(リム出版新社,1994)
備 考  
12/11 概 要 <群馬県妻子保険金殺人事件>
 1990年12月11日20時過ぎ、石材店従業員K(52)から群馬県新里村駐在所に「娘(10)が帰ってこない」との届出があった。「19時前、村道を車で帰宅中、算盤塾帰りの娘と出会い車に乗せたが、友達の所に寄りたいので友人宅に降ろした。買い物を済ませ30分後に迎えに行くと顔も出していなかった」とのことであった。翌日になっても帰らなかったため、警官、消防団、PTAなども協力して捜査が始まったが、一切の手掛かりがなかった。1週間後、娘の絞殺死体が村道から10mほど入った林の中で発見。調べでKはパチンコに狂い、サラ金に1,500万円の借金があったことが発覚。取調中に殺害を自供し、19日に逮捕。さらに20日、3年前の1987年10月23日、病弱の妻(当時40)をもロープで絞殺し、自殺に偽装して保険金500万円を受け取っていたことが発覚。逮捕された。
 1992年6月、東京高裁で求刑通り無期懲役判決が確定。
文 献 「10歳の塾帰り実娘保険金殺人の父親」(室伏哲郎『保険金殺人-心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
2/25 概 要 <宝石店従業員他保険金殺人事件>
 1990年12月28日、無職の男性Sさん(27)と宝石店従業員Kさん(20)の遺体が、福岡県田川郡赤池町の駐車場で全焼し放置された乗用車内で見つかった。二人とも刺し傷があったが、Kさんに抵抗した後があったのと、Sさんの筆跡で「誘ったがバカにされた。死ぬ」という遺書めいたものがダッシュボードにあった。そのため、当初は無理心中を図った事件として処理されそうになったが、女性に災害死亡時1億円の保険金がかけられていたことが判明。心中を装った保険金殺人と分かった。Kさんが働く北九州市の宝石店女性経営者M(21)と古美術店主O(41)が共謀、従業員と、テレホンクラブで女性経営者が知り合ったSさんとの無理心中を装い、保険金を受け取ることを計画。90年12月25日から26日にかけて、2人を果物ナイフで刺すなどして殺害、遺体を置いた男性の車にガソリンをかけ放火したものだった。この事件で保険金は支払われていない。1月31日、地元新聞が「保険金殺人として捜査開始」の記事を出し、Mは姿を消した。その後、二人は指名手配された。
 なお、Mが経営していた宝石店であるが、実際は商取引が皆無と言ってよいペーパーカンパニーであった。M、KさんはOの古美術店従業員募集で応募してきた同僚であった。MはすぐにOと情交を結び、今回の偽装計画を立てたものであった。
 Oは、埼玉県で起こしたとされる強盗事件で公判中の1994年2月、殺人容疑で逮捕されるも、物証に乏しく処分保留のまま釈放。2年後の1996年2月、親族らの「犯行状況を告白された」という検察官調書などを「新証拠」として、再逮捕された。捜査段階から一貫して黙秘を続けるも、1999年3月の第25回公判で突然、殺人を認める供述を行う。その後の公判で、「取り調べは無意味だと思い黙秘。自分の罪を逃れるためではない」と説明した。2000年3月15日、福岡地裁で死刑判決。弁護人が控訴するも本人が取り下げ、3月30日、死刑確定。
 Mは指名手配後関東方面に潜伏していたが、Oの死刑判決を知り、4月29日に福岡県警田川署に出頭、逮捕された。2002年6月28日、福岡地裁はMの共同正犯を認め、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。
 Oは2007年4月27日、死刑を執行された。59歳没。
文 献 「女宝石店主無軌道保険金殺人」(室伏哲郎『保険金殺人-心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  O被告はなぜ、公判途中で殺人を認める供述を行ったのか。その心変わりの理由は不明である。


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