佐木隆三『殺人百科 陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫)


発行:1977.9.10



「犯罪者は陰の隣人です。この隣人をして、思う存分に語らせる方法はないか。行為としての殺人そのものより、それに至る経過や日常を語らせてみたい」1970年代の殺人事件の数々を公判調書、新聞報道、関係者に直接取材し、殺人者の“日常”を描いて犯罪小説の金字塔を打ち立てた画期的ドキュメンタリー小説。(粗筋紹介より引用)  『問題小説』(徳間書店)連載。1977年5月、徳間書店より単行本刊行。1981年4月、文藝春秋にて文庫化。


【目 次】
 第一話 醒めた友情
 第二話 日曜日の残酷
 第三話 虚構の花嫁
 第四話 天使の当惑
 第五話 歳上の人
 第六話 饒舌なる詩人
 第七話 巡礼いそぎ旅
 第八話 神聖なる屍蝋
 第九話 真夜中の実験室
 第十話 夢の島情話
 第十一話 下町恋情怨舞
 第十二話 みゆき荘十号室
 第十三話 褐色の銃弾
 第十四話 何処へ行ったの?

 私を犯罪者について興味をもたせるようになった一冊(苦笑)。連載当時の作者は『復讐するは我にあり』を上梓したころで、まさに脂がのっていた時期だったと言えるだろう。フリーライターである日名子暁とともに取材を重ね、公判調書や新聞報道を確認し、犯罪の現場を踏み、弁護士や関係者に当たることで事件を構成し、なぜ殺人を犯したと「語らせた」連載である。後年の佐木は裁判レポートが中心になってしまい、内容も少しくどいところが見られるようになるが、この頃はページ数の都合こそあれど、短い枚数に抑えたことでかえって犯罪者の心情がわかる(実際はわかったつもりになるだろうが)ドキュメント・ノベルに仕上がっている。
 このシリーズは後に4冊まで出版されるが、面白いのは1、2巻である。メジャー(大久保清事件など)なところからややマイナーなところまでを網羅し、さまざまな立場の犯罪者を語らせたこのシリーズは、犯罪マニアにとって欠かせないものとなっている。
 単行本では過去10年間の殺人事件史があったのだが、文庫版では割愛されていることが残念である。
 第1巻となる本書は、1件を除き1970年代前半の事件を取り上げている。第十三話は、後に書かれた小説『海燕ジョーの奇跡』のモデルとなった事件である(ただし、内容はだいぶ異なる)。
 事件概要は以下。

○第一話 醒めた友情
<上野消火器商一家5人殺害事件>
 東京都荒川区に住む徳永励一(36)と大田区に住む木村繁治(38)は1974年2月6日午後3時10分ごろ、台東区上野にある消火器販売製作所を訪問。社長の妻(69)と社長(71)を徳永がハンマーで殴り、木村が首を絞めて殺害した。午後6時ごろ、三男の妻が帰宅。金のありかを聞いたが分からなかったので、縛って転がした。6時45分ごろ、帰ってきた三男を木村がハンマーで殴り、徳永がハンマーで滅多打ちにした。そこへアルバイトで消火器のセールスマンをしていた国鉄職員の男性(26)が入ってきたので徳永がハンマーで殴り倒し、職員と三男を風呂場に連れて行き水に浸して窒息死させた。さらに洗面器に水をくみ、三男の妻の顔を見ずに押し当て、窒息死させた。その後、徳永と木村は近くにある消火器販売店に行くも、シャッターが閉まっていたため断念。死体を集めて灯油をばらまき、ガス栓を開いて放火しようとしたが、未遂に終わった。現金78,000円を奪い、山分けして逃亡した。
 徳永の継父はかつて製作所のセールスマンであった。徳永も見習いとして働いたが、製作所が販売店を開いて直接消火器を販売するようになり、得意先は減る一方。継父の死後は、セールスマンを辞め、メッキ工場など職を転々とし、事件当時、徳永と木村は同じとび職の親方の下で働いていた。製作所に恨みのある徳永が木村を誘い、犯行に及んだものだった。ただし、強盗については木村が積極的に動いている。
 7日正午過ぎ、電話の繋がらないことに不信を抱いた三男の妻の父親が製作所を訪れ、死体を発見。遺留品の中に、血だらけでネーム入りのズボンがあったことや指紋から前科のある徳永が浮上し、8日に指名手配した。徳永は自宅に戻り、母親に友だちとやったと告げた後行方をくらました。母親が警察に供述し、唯一の友人であった木村が浮上し、2月11日に逮捕状が出た。同日、浅草で仕事の未払い金をもらいに行き、あっさりと木村は逮捕された。3月8日、足立区のメッキ工場に職探しに現れた徳永が逮捕された。
 二人は逮捕後すぐに犯行を自供。木村は事前の共同謀議を否定したものの、1975年12月22日、二人に求刑通り死刑判決。1977年3月17日、被告側控訴棄却。1979年12月25日、最高さは上告を棄却し、死刑が確定した。
 1986年5月20日、二人への死刑が執行された。徳永、49歳没。木村、52歳没。

○第二話 日曜日の残酷
<尾西市アベック殺人事件>
 建設作業員で、殺人未遂など前科八犯のOY(34)、TJ(23)、TY(31)は愛知県尾西市の建設現場で働いていた。1973年2月4日の日曜日夜、現場近くの飯場に帰ってきた3人は、近くの河原公園に来ていたアベック(ともに19)を襲った。抵抗する男をOYとTJが襲い、OYが登山ナイフで刺して死亡させ、川の中に沈めた。TYが女を飯場まで引きずり、3人で夜通し強姦。翌朝、通報を恐れて殺害した。その後、飯場に車で迎えに来た現場監督(32)を脅し、女の遺体を車に乗せ、岐阜県各務原市の山中にある雑木林に遺体を埋めた。TJとTYはその後、兵庫県に逃亡。OYは飯場に居座った。OYの妹と結婚していた現場監督は苦慮し、5日夜、愛知県中村署に匿名で遺体を埋めるところを見たと、車のナンバーも含めて通報。車のナンバーから割り出された現場監督は、同日夜、中村署の事情聴取にすぐ死体遺棄を自供し逮捕された。6日未明、OYも逮捕され犯行を自供。同日午後1時過ぎ、女性の死体が、1時30分ごろ、男性の死体が発見された。現場監督の供述から午後2時過ぎ、西宮市内でTJ、TYが逮捕された。現場監督は後に起訴猶予となっている。
 アベックはとも尾西市の織物工場の従業員で、男性は定時制の利用学校に通い、ともに将来を誓い合っていた。そして清らかな交際を続けていた。
 1973年10月24日、名古屋地裁一宮支部はOYに求刑通り死刑、TJに無期懲役(求刑死刑)、TYに懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。TJは従属的立場と認められた。TYは控訴せず確定。1974年7月4日、名古屋高裁はOYの被告側控訴、ならびにTJの検察・被告側控訴を棄却した。TJは上告せず確定。1975年10月3日、最高裁はOYの上告を棄却し、死刑が確定した。
 OYは1977年に死刑が執行されている。

○第三話 虚構の花嫁
<虚構の花嫁事件>
 1974年4月28日夜、茨城県中郡の路上で製材工の男性(40)が自宅近くで死亡していた。交通事故に偽装されていたが稚拙であったことから、大宮署は殺人事件として捜査。翌日が男性の初めての結婚式であったことから、隣村に住むという結婚相手の身辺を洗おうとしたが、肝心の結婚相手がどこにも存在しない。この地方では、顔を見たことがないという花嫁が挙式当日訪れるというのはさほど珍しいことではなかった。当然結婚相手を紹介した仲人の男性(41)が疑われ、29日夜に任意同行。翌日、全面自供し逮捕された。
 仲人の男性は、殺害された男性の妹も結婚させたことがあったため、男性の家から嫁探しを依頼されていた。当てはあったが断られたのを言いそびれ、1973年12月23日に結納金20万円を受け取って8万円と領収を返すことで12万円を騙し取った。年が明けてからもたびたびお金を借り、パチンコなどに浪費していた。
 殺人と詐欺で起訴された男性は無期懲役判決(求刑同)が言い渡され、控訴が棄却されて確定している。

○第四話 天使の当惑
<杉並区元婚約者殺人事件>
 東京都杉並区に住む会社運転手の男性は、1973年4月、初めて行った新宿歌舞伎町のアルサロでホステスの女性と知り合い、その後付き合うようになる。女性は短大卒業後東京医大附属病院の衛生検査技師として働くかたわら、1973年2月からホステスとしてアルバイトをしていた。二人は結婚の約束をして同棲し、互いの両親に紹介したが、女性の両親が反対。更新所で調べ、早稲田大学卒の会社セールスマンと話していた男性が中卒の運転手であることが判明。不仲となり、11月3日夜には別れ話を持ちかけた女性の首を男性が強く絞めてしまい、女性は逃げ出した。その後は仲直りしたが、5日夜、男性(24)の下宿先に女性(24)は帰ってこなかった。6日夜、女性の下宿先へ行き仲直りをしようとしたが、「中卒の百姓あがりとは結婚できない」と言われたことに腹を立て首を絞めて殺害。レンタカーを借り、遺体を布団袋に詰めてコンクリートの塊と一緒に葛飾区の川へ沈めた。
 男性はその後2回自殺を図り、3回目のガス自殺も9日朝、管理人に発見されて助かった。しかし退院後は痴呆状態が続き、広島市へ連れ帰られ、精神病院に収容された。退院後、兄のところで左官見習いを始めたが、女性の失踪を操作していた警察は3月22日、先の事件の殺人未遂容疑で逮捕した。3月25日、川から死体が浮かび、その後男性は殺人容疑で再逮捕された。
 東京地裁は男性に懲役10年(求刑懲役13年)を言い渡し、後に確定した。

○第五話 歳上の人
<群馬2女性強盗殺人事件>
 群馬県松井田町のNは兄と二人暮らしだったが、死んだ両親に溺愛されて育ったため怠け者だった。いつの間にか、兄嫁と関係ができ、1955年に結婚し子供を産んだ。怠け者のまま、兄嫁が農業を営んで生活していたが、1962年5月、2件の詐欺で懲役10月の実刑判決。出所後の1963年8月13日、寺に忍び込んで2,000円を奪った。さらに9月13日、同じ地区に住む女性宅の土蔵に忍び込んで23万円を盗んだ。翌月に逮捕され、懲役5年の判決を受けた。
 仮出所後もパチンコ通いを続け、1968年9月9日、強盗に入った女性(44)のところへ謝罪に行ったが玄関払いを受け激怒。2時間後、電報配達を装って強引に入り、手拭いで首を絞めて殺害し現金15,000円を奪った。そして遺体を自分の家の近くの山林に隠し、翌日に畑へ埋めた。女性はアメリカ人との離婚が成立し、ノイローゼになっていたということもあり、山狩りなども行われたが殺人事件とは思われなかった。
 1972年3月12日、パチンコ帰りのNは松井田町の旅館に泊まった。旅館は女性の母と二人で切り盛りしていたが、当日は母は不在だった。そこで女性の家が土地を売ったといううわさを聞き、金があると判断。13日深夜、旅館に忍び込み騒がれ、女性を細紐で絞殺し、現金28,400円と預金通帳5通(額面180万円相当)を盗み出した。そして死体を裏の山林に隠し、翌日両脚を切断して死体を背負い籠に入れて自宅の畑まで運んで埋めた。
 その後、Nは女性が持つ定期預金証書を担保に合計41万円を借りて返さなかった。そのことに不信を抱いた女性が通報。4月15日、N(41)は松井田署に詐欺容疑で逮捕された。21日、Nは殺人を自供。翌日、遺体が発見され、さらに4年前の事件も発覚した。
 1974年7月26日、前橋地裁高崎支部で求刑通り死刑判決。1975年10月8日、東京高裁で被告側控訴棄却。1978年6月22日、最高裁で上告が棄却され確定。
 1984年10月30日、死刑が執行された。54歳没。

○第六話 饒舌なる詩人
<大久保清連続殺人事件>  大久保清は小学生の頃から早熟で、強姦他で前科4犯だった。1971年3月に出所後、親に最新型のスポーツカーを買ってもらい、コスチュームはベレー棒とルパシカ。画家や詩人、教師になりすまし、女性を誘い続けた。逮捕されるまでの73日間に127人の女性に声を掛け、35人を車に連れ込んでいた。騒がれた相手には強姦、そして殺害して死体を山中に埋めていた。合計で8人を殺害。1971年5月13日、群馬県藤岡市の会社員(21)を誘拐した容疑で群馬県警藤岡署に逮捕された。色々と抵抗したものの、7月までに全てを自供。死体は掘り出された。
 1973年2月22日の前橋地裁一審判決に控訴せず、そのまま死刑が確定。1976年1月22日、死刑執行。41歳没。腰を抜かし、刑務官に支えられたまま死刑台に連れていかれたといわれる。

○第七話 巡礼いそぎ旅
<古谷惣吉連続殺人事件>
 1965年11月9日、滋賀県大津市で海水浴場管理人(59)の絞殺死体が発見される。22日、福岡県新宮町で英語塾教師(50)が死体で発見された。遺留品からOさんが犯人と目されたが、11月29日、既に死体となっていた廃品回収業者Oさん(57)が絞殺死体で発見された。Oさんは10月30日に殺害されていた。12月9日、警察庁は広域重要事件105号に指定。12月11日、京都市で二人の廃品回収業者(60、67)の絞殺死体が発見。現場から前科のある古谷惣吉(50)の指紋が検出された。12月12日、警察庁が全国指名手配したわずか18時間後、古谷は西宮市大浜町の廃品回収業者の老人二人を襲って殺した後、巡邏中の芦屋署の警官三人に職務質問を受け、現行犯として逮捕された。取調中、12月5日に大阪府高槻市で建設作業員(53)を殺害したことも自供。他にも1964年11月から1965年5月にかけて、米子市と松山市でも老人と老婆を殺害した嫌疑を掛けられていたが、これは本人の否定と証拠固めが弱かったため、起訴までには至らなかった。
 古谷は1951年5月15日、福岡市で廃品回収業者の男性(40)を殺害し、現金6800円を奪っていた。さらに6月3日、八幡市で農家の男性(70)を殺害し現金230円と米3kg他が盗まれた。3か月後にS(20 事件時19)が逮捕される。Sはソウさんと呼ばれる共犯者がいると主張。そのソウさんが古谷だった。古谷は指名手配されるも捕まらず、Sは1951年11月7日、福岡地裁で死刑判決。1952年4月9日、福岡高裁で被告側控訴棄却。上告するも取り下げ確定。1953年9月16日、死刑執行。22歳没。古谷は1951年12月に恐喝で逮捕されたが、この時は清水という別名を使い、懲役3年の実刑判決を受けて服役していた。1953年9月の仮出所後、窃盗事件で逮捕されて本名がばれる。当然強盗殺人事件でも起訴されるが、すでにSが執行されていたことから、古谷は従犯を主張。1955年6月16日、福岡地裁は懲役10年(求刑無期懲役)判決を言い渡した。後に上告が棄却され確定する。
 古谷は判明しているだけでも10名を殺害。個人としては戦後最大の数字である。1971年4月1日、神戸地裁で求刑通り死刑判決。1975年12月13日、大阪高裁で被告側控訴棄却。1978年11月28日、被告側上告棄却、確定。
 1985年5月31日、死刑執行。71歳没。死刑囚の執行時年齢としては、2006年12月まで最高齢であった。

○第八話 神聖なる屍蝋
<京都内縁妻屍蝋事件>
 大阪市のYは記念贈答品販売業を営むもうまくいかず、親類や友人から金を無心する一方だった。しかし女性には不思議とモテ、離婚後も二人の水商売の女と同棲していた。1969年5月ごろ、京都のクラブのホステスの女性と知り合い、同棲を始めた。女性から借金して家電販売店を開業するも放漫経営で営業不振となり、女性や親族から金を借りるだけでなく、女性が買った自宅や店まで抵当に入れるも、1971年2月末ごろには取引停止となる。3月24日午前2時ごろ、酒を飲んで寝ていたYは、ホステスの仕事から帰ってきた女性(35)と口論になり、詰られたため激怒。台所から出刃包丁を持ち出し、女性を刺して殺害した。Yはその後、ブリキ製の衣装箱に防腐剤と数珠を入れ、荷物と一緒に大阪へ移り住んだ。その後、二人の女性と同棲したが、衣装箱は「神聖なもの」として一切手を触れさせなかった。
 1973年6月中旬、Y(40)は知り合いと一緒に豊中市のアパートを借りると言って布団袋4個とダンボール5箱を運び込んだが、手付金5,000円を払っただけで姿を見せなかった。9月4日、業を煮やした管理人が巡査立会いの下荷物を確認し、屍蝋化した女性の死体が発見された。部屋に残っていたダンボールなどから写真など身許を示すものがいくつも見つかり、捜査本部が内縁の夫だったY(40)に任意同行を求めたところ、あっさりと犯行を自供したため、25日午前2時に逮捕した。一緒に荷物を運んだ男性はただ手伝っただけであり、死体が入っているとは知らなかった。
 殺人容疑で起訴されたが、逮捕時の死体遺棄容疑は遺体を「神聖なるもの」として持ち歩いていたためか、免除されている。大阪地裁は求刑通り懲役15年を言い渡し、控訴せず確定している。

○第九話 真夜中の実験室
<手製毒ガス保険金殺人事件>
 山形市釈迦堂に住む近郊きっての素封家、Y(45)は1973年3月20日午前2時半ごろ、3日前からシイタケ栽培を始めたビニールハウス内に妻(43)とともに行き、保温用に練炭火鉢2個を使っていたことから安全のために防毒マスクを付けたが、妻のほうには無臭の一酸化炭素を詰め込んだ袋がつながっていた毒マスクを着けさせた。一酸化炭素を吸い込み、妻は死亡。Yはマスクを取り外し、警察へ通報。一酸化炭素中毒による事故死として処理された。
 Yは6月28日に子連れの女性(41)と再婚。妻を亡くして落ち込んでいたため、友人が元気を出してほしいと奔走したものだった。
 Yは妻の死亡によって8000万円の保険金を得ていた。東北郵政監査局は8月ごろ、東北ブロック以外の地域から保険金が振り込まれていたことに不信を抱き、警察と連携を取って捜査に乗り出す。簡易保険は厳密な審査はないが、同一ブロック内での加入契約の制限があった。捜査の結果、Yは山形を含む7県で契約をしていたが、契約時に妻本人ではなく替え玉を使ったことが判明した。なお、長女にも替え玉を使って1972年10月から12月にかけて大量の保険金をかけていたが、妻の死後に解約している。奪った金は、商品相場につぎ込んで浪費した。1974年3月29日、Yは妻死亡時の保険金詐欺で逮捕される。Yは罪を認め、詐欺の対象となった6000万円分について山林を処分するなどして弁償した。ところがこれは別件逮捕であり、4月7日、殺人罪でYは再逮捕された。
 1975年1月29日、山形地裁で求刑通り無期懲役判決が言い渡されている。

○第十話 夢の島情話
<妻の不倫相手殺人事件>
 東京都江東区に住む韓国籍で鉄工所経営のS(48)は、同じく韓国籍で深川で役肉屋を経営している妻(43)が不倫をしていることに気付き、その相手がかつて妻が借金をしたガソリンスタンド経営者の韓国籍の男性(53)であると判明。数か月後の1974年3月12日、Sは妻を家の横に置いた廃車の冷凍車に監禁し、縛り付けて施錠。翌日午後2時過ぎ、男性が家に現れたところを詰問し、改造した鋲打ち銃で殺害。現金30万円や小切手(額面50万円)を奪い、毛布で遺体を包み、新夢の島に男性の車で運んで遺棄した。そして車をガスで切断してスクラップにし、業者に引き取らせた。14日午前4時、妻を解放。午後8時、銭湯に行くと言って家を出、そのまま行方不明となった。16日、男性の長男とSの妻が深川署に捜索願を提出。妻を監禁した容疑で3月19日、Sは全国指名手配になった。Sの車が見つかり、改造銃が中にあったことから4月4日に殺人容疑に切り替えられた。Sは沖縄県那覇市に潜伏していたが、小切手を使ったことがばれて4月6日に逮捕された。
 Sは犯行を自供し、死体の埋めた場所も詳細に供述。しかし新夢の島には毎日ゴミが運び込まれるため、死体の捜査には難航。Sは殺人で起訴されたが、死体のないまま起訴されたのは東京地検では初めてのことだったらしい。バックホウで掘り起こしても死体は出てこず、最後は検土杖によって死体の位置が判明し、掘り起こされた。

○第十一話 下町恋情怨舞
<愛人の子誘拐殺人事件>
 1974年10月17日、東京都葛飾区で鋼材販売業を経営するI(37)の娘Mちゃん(8)が、学校から帰った後行方不明になり、Iは捜索願を出した。1週間後の24日、Iの家に一通の脅迫状が届いた。そこには一千万円を要求する内容が書かれており、翌日指示された場所へ行ったが、犯人は姿を現さなかった。捜査本部はIの周囲を洗ううちに、女性従業員H(25)が浮かび上がった。Hは、Mちゃんが行方不明になった時間帯のアリバイ工作を行っていた。29日、捜査本部はHを任意で取り調べはじめた。Hは犯行を否定、深夜に縊死を図ったが果たせず、翌日、Mちゃんを殺害したことを自供した。さらに11月2日、捜査本部はIを死体遺棄容疑で逮捕した。
 IとHは、4年前からの愛人関係であった。Hも当初は、恋愛感情よりも性に対する興味から付き合っていた。二人の浮気が妻にばれ別れることになったが、そのときからHはIに対し恋愛感情を持つようになった。結局二人は寄りを戻し、アパートを借りるようになった。しかし、二人の関係はまたも妻に発覚。妻はアパートに怒鳴り込んだため、Hは別のアパートに引っ越すことになった。この頃から、Iの心はHから離れていった。
 10月17日、I夫婦は従業員の仲人を務めるため、礼服を着ていた。下にいたHに向かい、Iは「君もいい人がいたら結婚した方がいいよ」と言った。言い知れない怒りを、Hはたまたま帰ってきたMちゃんに向けたのであった。
 Iは捜索願を出した後、まさかと思ってHのアパートを訪れた。そこにはMちゃんの死体があった。IはHに、「死体を冷蔵庫に隠せ」「土曜日に埋めろ」と指示を出した。19日、HはIの指示通り、ひとりでMちゃんの死体を埋めた。そのことを21日に報告すると、「もっと深く埋めろ」と言われ、22日穴を掘って埋めた。しかしIは「もっと埋めろ」と言ったため、27日さらに深く埋めようとしたが、結局止めた。そして29日、取り調べを受けることになった。
 Hは1975年6月5日、東京地裁で懲役13年の判決を受け、そのまま確定した。Iは6月10日、懲役1年8ヶ月、執行猶予3年の刑を受けた。

○第十二話 みゆき荘十号室
<娘殺害事件>
 1971年3月29日午前10時ごろ、東京都豊島区池袋のアパートで工員の女性(29)が娘(2)の首をタオルで絞めて殺害。その後、ガス自殺を図ったが、当日健康診断を受ける予定だった保育園の保母がアパートに来て発見。女性は病死したと言うも、すぐに殺人とわかり逮捕された。女性の夫はバクチ好きで、事件当時は窃盗の有罪判決を受けて刑務所に収監中だった。女性は生活保護を受けていたがパート勤めをしていた。娘の保育園入園が決まり、預けることができれば正従業員になれるため喜んでいたものの、当時娘は風邪を引いたため、健康診断に落ちると悲観して殺害に及んだものだった。
 1971年12月22日、心神耗弱が認められ、東京地裁で懲役3年執行猶予3年の判決を受けた。

○第十三話 褐色の銃弾
<沖縄暴力団抗争相手殺人事件>
 沖縄県の暴力団の理事であるU一家の幹部であったH(25)は、かねてから理事長であるSの一派からのU一家に対する態度に恨みを持っていたことから1974年10月24日午後9時頃、仲間のUSと共謀して宜野湾市のキャバレーに入り、中にいたS(45)を射殺。さらに捕まえようとした配下の部下(30)にも拳銃を撃ち、2か月の重傷を負わせた。2人はそのまま車で逃走し、警察に駆け込んで逮捕された。
 U一家は武闘派として抗争に加わっていたが、服役中にSが家族や出所後の面倒を見てくれなかったことからやくざ社会に嫌気がさし、理事会等にも欠席を続けた。SはUらを破門し、それを契機にU一家は1974年10月5日に解散を宣言し、警察本部指導の下で公表した。それを快く思わなかったSはUの懸賞金まで出して行方を追い、配下の者を次々とリンチに掛けていた。
 那覇地裁はHに懲役13年(求刑懲役15年)、USに懲役5年(求刑懲役7年)を言い渡した。USは控訴せず確定。Hは1976年1月14日、那覇高裁で控訴が棄却され、そのまま確定した。

○第十四話 何処へ行ったの?
<和泉女子工員2人殺人事件>
 大阪府和泉市にある繊維会社の三代目社長となることが決まっていたTは大学時代からプレイボーイで、大学一年になった1966年、宮崎県から中卒で繊維会社に就職したA女と付き合うようになった。2年後、同じ町から就職していた1年後輩のB女にTを紹介したところ、TはB女に手を出して三角関係となった。妊娠していたA女は1969年6月、勤めを辞めて帰郷。TはA女の家に行き、両親に結婚したいと告白。A女を大阪に連れ帰った。10月5日、A女はTの紹介で堺市の食品会社に就職するも、10日後に姿を消した。その後、TはA女の預金通帳から17万円を引き出した。Tは郷里にA女の手紙を出すなどの偽装工作を行っていたため、警察への届け出などもしなかった。
 TはB女との交際を続けたが、1974年にT(26)が見合いをして別の女性と結婚することが決まったことを知り、5回目の妊娠中だったB女(23)はTをなじった。TはB女に結婚の約束をし、駆け落ちの費用として50万円の都合を付けさせたが、5月4日にB女とドライブしてミカン畑に誘い、殴った後に絞殺。杉林にスコップで穴を掘って埋めた。
 新婚旅行から帰ったTをB女の家族が問い合わせる。さらに家族や媒酌人である勤務先の社長も詰問。4月以降は会っていないと言い張るTは、8月に退職する。マスコミもTのことを追いまわした。9月10日には「小川宏ショー」にA女とB女の両親が出演して公開捜索。Tも出演し、交際の事実を認めたが、その後は知らないと言い張った。
 9月25日、重要参考人として任意出頭。翌日に一度は自供するも、その後撤回。しかし9月28日に全面的に自供。同日夜、B女が掘り出された。翌日、近くに埋めたA女の遺体を警察犬が発見した。
 1977年1月17日、求刑死刑に対し一審無期懲役判決。被告が遺族にそれぞれ300万円を払ったこと、遺族が寛大なる処分を訴えたことが理由と思われる。1978年3月8日、控訴が棄却され、確定している。

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