死刑確定囚(2008年)



※2008年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
外尾計夫
事件当時年齢
 45歳(1992年時)
犯行日時
 1992年9月11日/1998年10月27日
罪 状
 殺人、詐欺未遂、窃盗、詐欺、住居侵入、強盗
事件名
 父子連続保険金殺人事件
事件概要
 佐賀県鹿島市の古美術商外尾計夫(ほかおかずお)被告と元生命保険会社営業職員Y被告は1991年暮れ頃、Y被告がホステスをしていたスナックで知り合い、その後肉体関係を持つようになっていた。外尾被告はギャンブルなどで数百万円の借金があった。Y被告は夫が複数の女性と付き合っていたことなどから愛情を失い、離婚話も出ていたが、子供は引き取るなどと言われていたため憎んでいた。
 外尾被告とY被告は1992年9月11日午前0時30分頃、佐賀県太良町の護岸において睡眠導入剤などで眠らせたY被告の夫(当時38)を海に沈めて水死させた。そして、魚釣り中に護岸上から過って転落して死亡したと偽り、計2社から死亡保険金約9,900万円をだまし取った。保険金は二人で折半した。
 しかし、借金返済の残りを外尾被告はギャンブルで浪費し、1993年7月までに使い果たした。そこでY被告が夫から相続した土地を次々と売ったが、いずれも外尾被告が浪費し、生活に困窮するようになった。
 外尾被告は再び保険金殺人を計画。特に外尾被告に懐かなかった次男をターゲットにした。Y被告も当初は反対したが、説得を受け、外尾被告と別れるためにこれを最後にしようと決断。しかしY被告が躊躇して計画は失敗した。そこで別の強盗事件を計画。Y被告がかつて家政婦として働いていた一人暮らしの女性を襲うことにした。
 外尾被告とY被告は1998年9月29日午後8時頃、鹿島市に住む知人女性(当時75)方に宅配便の配達を装って押し入り、現金約13万7,000円やネックレス等6本(時価合計約120万円相当)及び普通預金通帳1冊を奪った。ただし暗証番号を聞き出すことができず、通帳から金を引き出せなかった。そのため金に困る状況は変わらず、保険金殺人を再び計画した。
 1998年10月26日午後10時30分頃、Y被告の次男の高校生(当時16)に睡眠導入剤入りのカプセルを飲ませ、27日午前0時30分頃、長崎県小長井町の海岸で、海に放り投げて殺害、保険金3500万円を騙し取ろうとした。しかし保険会社が支払いを保留したため、受け取ることはできなかった。なお事件時、長女(当時10)にも睡眠薬を飲ませ同行させ、外尾被告は殺害しようと考えていたが、それを察知したY被告が目を離さなかったため、実行されなかった。
 他に外尾被告は1992年1月19日、頻繁に通っていた鹿島市内のパチンコ店己の景品交換所に押し入り、女性従業員から現金約190万円を奪った。
 またY被告は1999年2月15日、知り合いの男性のクレジットカードを使い、銀行のATMで現金20万円を騙し取った。また同じクレジットカードを用い、2月23日、ビデオカメラ等2点(価格合計17万8,000円)を騙し取った。

 山口被告は1998年10月27日、次男を突き落とした後、次男の姿が見えなく、帽子が海に落ちていると110番通報。次男は午前3時半ごろ、岸壁近くの海中で発見された。司法解剖の結果、睡眠薬の成分が検出され、また岸壁につかまろうとした形跡がなかったこと、さらに次男に多額の保険金が掛けられていたことなどから、長崎県警は捜査を進めた。1999年8月30日、長崎県警は外尾計夫被告とY被告を殺人容疑で逮捕した。また7年前の夫死亡にも長崎県警、佐賀県警が捜査を進め、9月18日、殺人容疑で再逮捕した。同日、佐賀県警は事件当時に保険金が掛けられていたことを知りながら司法解剖もせず、2日間で事故死と処理したことについて謝罪した。
一 審
 2003年1月31日 長崎地裁 山本恵三裁判長 死刑判決
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控訴審
 2004年5月21日 福岡高裁 虎井寧夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年1月31日 最高裁第一小法廷 涌井紀夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 Y被告側は「2件とも外尾被告が主導した」と従属的な立場を主張した。しかし一審裁判長は、夫殺害について「発案・主導したY被告の方が責任が重い」▽次男殺害については「両名が一体となって実行したもので、刑に軽重の差はつけられない」との判断を示した。
 「外尾被告の暴力から逃れるためだった」とのY被告の釈明については「身勝手極まりなく、子供を犠牲にして殺害するなど言語道断。親子のきずなを断ち切るような犯行は許されない」と退けた。
 また、Y被告側が「残された被告の2人の子供も極刑を望んでいない」と情状酌量を求めていたことについては「Y被告が死刑になれば(2人の子供は)実父と兄弟を殺害されたうえ、実母までなくすことになるが、(酌量の)評価には一定の限界がある」と述べた。
 しかし、山本恵三裁判長はY被告の長男や長女らによる母親の助命嘆願などを配慮。判決宣告後、死刑をやむなく選択したとして、控訴するよう呼びかけていた。外尾被告、Y被告は量刑不当を理由に控訴した。

 控訴審で、Y被告は「夫と仲直りして殺意は喪失していたが、ギャンブルなどの借金返済に迫られていた外尾被告が一方的に計画を進めた。次男殺害は、思いとどまらせようと何度も抵抗した」と、強引な外尾被告に服従せざるを得なかったと主張していた。
 外尾被告は「Y被告に同情し、救うために協力した。死刑は重すぎる」としていた。
 控訴審判決はY被告について、夫殺害では夫が家庭を顧みなかった点などを指摘し「犯行に至った経緯には一片の同情があってもよい」とした。一審は「Y被告主導」としていたが、虎井裁判長は「両被告の果たした役割に大きな違いはない」と述べた。
 さらに、次男殺害についても、外尾被告から繰り返し誘われたことや、外尾被告が次男を殺そうとするのを度々妨害した点を挙げ「人間性と更生可能性を考える上で、十分しんしゃくするに値する」と判断。Y被告の2人の子供が極刑回避を求める嘆願を出していることも考慮に入れ、「責任は重大だが、それぞれに酌むべき点があり、原判決の量刑は重過ぎる」と結論付けた。
 一方、外尾被告については、夫殺害に積極的に加担したうえ借金返済後の保険金のほとんどを競輪につぎ込むなどしており、「外尾被告の異常な行状がなければ両被告が重大犯行を繰り返す必要はなかった。極刑をもって臨むほかない」とした。

 2007年12月20日の最高裁弁論で、弁護側は、共犯で無期懲役刑が確定したY受刑者(その後Mに改姓)と比較して「刑が重過ぎる。国連総会で死刑停止が決議され、死刑廃止は国際的潮流」と主張。死刑回避を求めた。検察側は「金銭欲から2人を殺害し、死刑を回避する理由がない」と反論、結審した。
 判決で涌井裁判長は「犯行は保険金目的で人の苦しみも生命の重みも考慮しないもので、罪質は非常に悪い」「水難事故を装って殺害した計画的な殺人で、冷酷、非情かつ残忍だ」と述べた。また、Y受刑者に比べて刑が重いという弁護側の主張に対しては、「実子の殺害に抵抗するY受刑者を執拗に説得。被害者2人を力ずくで海中に沈め、生命を奪う決定的行為をした」と、死刑が相当との判断を示した。
備 考
 実母による息子殺し保険金殺人事件は日本初。Y被告の父親は佐賀県警の警察官であり、それが捜査を遅らせた原因と噂されている。
 長崎地裁での死刑判決は25年ぶり。
 Y被告は一審では求刑死刑判決を受けるも、控訴審で無期懲役判決に減軽。2005年10月25日、最高裁第一小法廷で被告側上告棄却、無期懲役が確定。
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氏 名
小池泰男
事件当時年齢
 37歳
犯行日時
 1995年3月20日
罪 状
 殺人、殺人未遂、殺人ほう助、殺人未遂ほう助
事件名
 地下鉄サリン事件
事件概要
●地下鉄サリン事件
 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(旧姓 当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5,500人の被害者を出した。
 他は松本サリン事件におけるサリン噴霧車の製造に携わった殺人ほう助と、新宿駅青酸ガス事件の見張り役として殺人未遂に問われている。

 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫容疑者は1995年4月23日、東京・南青山の教団総本部前で殺害されたため不起訴。殺人犯は一審懲役12年が確定している。
 林被告は1995年5月に地下鉄事件で指名手配されてから、96年12月に沖縄・石垣島で逮捕されるまで、約1年半にわたって逃走を続けた。
一 審
 2000年6月29日 東京地裁 木村烈裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年12月5日 東京高裁 村上光鵄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年2月15日 最高裁第二小法廷 古田佑紀裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 仙台拘置支所
裁判焦点
 一審で林泰男被告の弁護側は「教団元代表の松本智津夫被告が首謀者で、被告は逆らうことができず犯行を幇助したに過ぎない」と改めて死刑を回避するよう求めた。
 また松本サリン事件については「犯意がない」と無罪を主張。地下鉄サリン事件について「内乱罪に相当する」として首謀者の松本智津夫(麻原彰晃)被告以外の死刑は重過ぎると主張した。
 一審判決では「他の実行役より多い三袋のサリンを何度も突き刺し、8人を死亡させた責任は重大で被告に有利な事情を最大限考慮しても、極刑をもって臨むしかない」と述べた。

 二審判決は、林泰男被告が地下鉄サリン事件で他の実行役より多いサリン3袋を引き受けたのは「自発的ではなかった」と認定し、本来の性格も「凶暴・凶悪ではない」と指摘した。しかし、「実行役は結果全体について刑事責任を負うもので、教団の組織的犯行であることや、首謀者や指揮者が存在することは、死刑を回避する事情にならない」と結論付けた。
 被告側はサリン噴霧車の製造に携わったとして、殺人ほう助罪などに問われた松本サリン事件について、「犯意がない」と無罪主張したが、判決は「噴霧実験の立ち会いなどで毒ガスのサリンをまくことを認識していた」と退けた。また、弁護側が「内乱罪に相当する」として首謀者の松本智津夫(麻原彰晃)被告以外の死刑は重過ぎると主張した地下鉄サリン事件については、「直接の目的は警察の強制捜査阻止で、内乱罪の実質はない」と判断した。
 控訴審で被告側が強調したのは、暴走した教団に対する「恐怖」だった。「(不満分子として)教団にポアされると思った」「自分をだましていた」。松本智津夫(麻原彰晃)被告に逆らえなかった自分を責める言葉が繰り返された。しかし判決は、松本被告への恐怖心は「被告が供述するほど深刻だったとは考え難く、事件への関与も消極的だったとは言えない」と退け、「被告の弁解には自己保身的な姿勢がみられる」とも述べた。

 2007年12月14日の最高裁弁論で、弁護側は、死刑が残虐な刑罰を禁じた憲法に違反すると主張。噴霧車製造については「被告は主として電気配線などに従事し、全体構造は把握せず役割は極めて限定的」と指摘し、サリン噴霧に使われる認識がなかったとして、あらためて殺意を否認した。また、松本智津夫死刑囚に対する恐怖心を強調し、「自分や周囲の危険を避けるために犯行に及んだ。死刑は重すぎる」と主張した。
 検察側は、被告が他の幹部から聞いた話やサリン製造プラントが造られた施設建設に従事したなどの状況から「噴霧車がサリン噴霧に使用されると認識しつつ、製作に参加したことは明らか」と反論。地下鉄サリン事件で主要な役割を果たしたことなどから「被告人の刑責は重く、死刑で臨むほかない」とした。また松本死刑囚の影響については、「被告は1年半にわたって逃亡生活を送り、その間も松本死刑囚への帰依を口にしていた。犯行は恐怖心からではない」と反論した。
 判決で古田裁判長は、「教団の組織防衛を目的とし、法治国家に対する挑戦として組織的、計画的、大掛かりに行われた無差別大量殺人であり、反社会的で悪質の極みだ」と指摘。教団幹部の指示でサリン散布を引き受けたことなど有利な事情を十分考慮しても、林被告がサリンを散布した路線では、最多の8人の死者が出たことから、死刑はやむを得ないと結論づけた。
その後
 旧姓林。2011年ごろ改姓か?
 2008年12月22日付で東京地裁に再審請求。時期不明だが東京地裁は請求を棄却。即時抗告。
 2018年3月14日、東京拘置所から仙台拘置支所へ移送された。
 東京高裁は2018年9月4日付で、再審請求即時抗告審の手続きを終了する決定をした。
執 行
 2018年7月26日執行、60歳没。再審請求中の執行。
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氏 名
服部純也
事件当時年齢
 29歳
犯行日時
 2002年1月22日
罪 状
 殺人、逮捕監禁、強姦
事件名
 三島女子短大生焼殺事件
事件概要
 建設作業員服部純也被告は2002年1月22日午後11時5分ごろ、静岡県三島市の国道136号沿いで、アルバイト先から自転車で帰宅途中の女子短大生(当時19)を見かけ、誘いの声をかけたが、断られたため自分のワゴン車に押し込み強姦。同23日午前2時半ごろまでの間、三島市などを車で連れ回して逮捕・監禁したうえ、同市川原ケ谷の市道で、短大生に灯油をかけてライターで火をつけ、焼死させた。服部被告と短大生に面識はなかった。
 遺体が見つかった2日後の1月25日、同県函南町で無免許運転で乗用車をUターンさせた際、対向車と衝突し、2人にけがを負わせた上、逃亡。2月28日に逮捕され、業務上過失傷害などで懲役1年6月の実刑判決を受けており、本事件の逮捕・監禁容疑で逮捕された7月23日には、収監中だった。
一 審
 2004年1月15日 静岡地裁沼津支部 高橋祥子裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2005年3月29日 東京高裁 田尾健二郎裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2008年2月28日 最高裁第二小法廷 古田佑紀裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 被告は「火をつけた時、もう死んでいるかもしれないと思った」と確定的な殺意を否認した。
 高橋祥子裁判長は「犯行の発覚を恐れ、身元不明にするために焼殺という方法を選んだ異常残虐な犯行」と断罪。被告が少年時から再三更生の機会を与えられていたことに着目し「今後、矯正教育を継続しても犯罪性向を改めさせるのは困難と推測され、極刑をもって臨むことも理由なしとはいえない」と指摘した。しかし死刑の適用については(1)殺人など人を傷つける前科がない(2)周到な計画に基づく犯行でない(3)幼少期の劣悪な生活環境は量刑上考慮されるべきだ--とし「死刑をもって処断することは、ちゅうちょせざるを得ない」と結論づけた。また、「火をつけた時、もう死んでいるかもしれないと思った」と確定的な殺意を否認する服部被告の主張は退けた。

 死刑を求める検察側と、有期刑を求める被告側がともに控訴した。
 田尾裁判長は「監禁後、殺害をちゅうちょしたのは、発覚すれば重い罪で処罰されることを恐れたためで、専ら自己保身に基づく」と断じ、生活環境については「服部被告と同じ環境で育った兄弟に犯歴はない」と指摘。「人気のない場所で被害者を粘着テープでしばり、灯油を浴びせるなど計画的な犯行に劣らぬ迅速な行動をとっている。被告の犯罪性向は、成育環境よりも、被告の生き方に由来するところが大きい」と述べて、一審判決の情状酌量を否定した。そのうえで、「体を縛られた状態で焼き殺された被害者の無念はいかばかりか」と述べた。そして「若くてかわいいからと通りがかりの女性を無理やり車に連れ込んで暴行した後、警察に通報される不安と、早く覚せい剤を打ちたいという気持ちから足手まといとなった被害者を生きたまま焼殺した」「強盗致傷などの罪で服役し、仮出獄後、1年もたたないうちに犯行に及んでいる」「被害者に何らの落ち度もなく、犯行の動機は誠に身勝手。殺害方法も残虐きわまりなく、冷酷、非情だ」と述べ、一審を破棄した。

 2007年12月17日の最終弁論で、弁護側は上告趣意書で、過去の焼殺事件の判例を挙げて「残虐な犯行だが、同種事件では無期懲役判決が一般的。本件の死刑適用は均衡を害する」と指摘。死刑適用の基準とされる永山事件判決に照らし、「被害者1人の事件での適用は慎重な運用が必要。遺族の悲嘆も理解できるが、過度の重視は罪刑の公平性を欠く」と主張し、原審破棄を求めた。また、服部被告が遺族に謝罪の手紙を書いていることなどから「更生の可能性がある」と述べた。
 一方、検察側は「動機は自己中心的で犯行態様、犯行後の態度ともに冷酷、残虐極まりない。これまでの同種事件と比べても罪責は重く、死刑適用は免れない」と述べた。
 判決で古田裁判長は「乱暴の発覚を恐れるとともに、早く覚せい剤を使用したいという自己中心的で非情な発想から殺害した」と指摘。「家計に負担を掛けぬようアルバイトをし、誰からも好かれるまな娘を突然の凶行で失った両親の峻烈な処罰感情は当然だ」とした。
 服部被告が覚せい剤取締法違反や強盗致傷の罪で服役し、仮釈放から約9カ月で犯行に及んだ点を強調。「犯罪に向かう傾向は根深く、さらに深化、凶悪化している。反省を示しているが、意識のある人間に火をつけて殺すという残虐な殺害方法などからすれば死刑を是認せざるを得ない」と結論付けた。
 弁護側の「被害者1人の事件での適用は慎重な運用が必要」という主張には直接触れなかった。
備 考
 服部被告は1995年に強盗致傷罪で懲役7年の実刑判決を受けており、事件当時は仮釈放中だった。
執 行
 2012年8月3日執行、40歳没。
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氏 名
長谷川静央
事件当時年齢
 63歳
犯行日時
 2006年5月8日
罪 状
 殺人、窃盗、脅迫他
事件名
 宇都宮実弟殺人事件
事件概要
 埼玉県上福岡市に住む職業不詳長谷川静央(しずお)被告は、栃木県宇都宮市で父親から相続したアパートを経営する弟(当時60)に、家賃収入のうち約1,000万円の支払いを再三要求したが断られ続けたため、財産を全て手に入れようと殺害を決意。長谷川被告は2005年3月ごろから、当時勤めていたホストクラブのホスト数人に報酬1,000万円を示して殺害を依頼した。断られ続けたが、同店のホストだったS被告を「報酬を上げるかもしれない」と説得し、殺害を引き受けさせた。
 S被告は2005年5月8日、無施錠の二階から侵入。午後10時ごろ、帰宅した男性の胸や背中をナイフで約10回刺して失血死させた。さらに男性宅にあった現金約30,000円と乗用車1台(55万円相当)を盗んだ。長谷川被告は事件前、面識のないS被告を連れて弟宅周辺を下見させ、犯行の計画を立てた上で、指示していた。
 長谷川被告は事件の第一発見者で、5月10日に弟宅を訪れ、遺体を見つけたとして警察に通報。「8日から弟と連絡が取れなくなり、不審に思って訪れた」と話していた。また殺害日当日は、上福岡市の居酒屋に行ってアリバイを作っていた。
 S被告は報酬を要求したが、長谷川被告はまだ150万円程度しか払っていなかった。
 長谷川被告は2005年8月12日夜、横浜市内の洋品店で、経営者に「ピストルと爆薬を持っている」などと書いた文書を手渡して脅迫するなどして、神奈川県警に脅迫などの容疑で逮捕され、横浜地検が同罪で起訴していた。
 2005年9月21日、S被告が殺人容疑で逮捕。犯行を自供し、30日に長谷川被告が逮捕された。
 長谷川被告は「ギャンブルなどの遊興費で金がなく、借金もあった」などと供述している。
 長谷川被告の母は、1992年に事故死。死亡保険金や不動産を分割し、計約3,000万円分が長谷川被告に与えられた。お金を預かった親類男性は、長谷川被告の依頼で前の殺人事件の被害者側に見舞金を渡したほか、仮出獄後の2003年6月に約1,700万円分の通帳や実印を手渡した。
一 審
 2007年1月23日 宇都宮地裁 池本寿美子裁判長 死刑判決
控訴審
 2007年8月16日 東京高裁 阿部文洋裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年3月19日 本人上告取り下げ、確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 長谷川被告は2006年1月31日の初公判で、起訴事実を全面的に認めている。また公判途中で自らの量刑について「極刑をお願いしたい」と述べた。
 検察は論告求刑で「1980年に殺人罪などで無期懲役の判決を受け、20年以上も更生教育を受けたにもかかわらず、仮釈放のわずか2年後に事件を起こした。矯正は不可能」「仮釈放後も生涯をかけて贖罪しなければならないのに事件の黒幕として行動しており、改善更生は不可能。無期刑の受刑者である被告人に対し、重複して無期刑に処することは意味がない」と結論づけた。
 弁護側は最終弁論で、「無期懲役刑の仮出獄中の再犯だが、必ずしも被告人の矯正不可能さが増したとは言えない」などとして死刑回避を求めた。
 判決理由で、池本裁判長は「長期の受刑によっても性癖は改善に至らなかった」と指摘。利欲的で身勝手な動機や偽装、詐言の存在、事後の情状の悪さなどの点で両事件に「強い共通性を認めることができる」と指摘した上で「犯罪性向は顕著で、矯正可能性は皆無に等しい」「さらなる犯罪に及ぶ恐れも否定できない」と述べた。

 控訴審は2007年5月29日に初公判が開かれ、6月21日の第2回で結審した。弁護側は「死刑は重すぎる」などと主張した。
 阿部文洋裁判長は判決で「殺人罪で服役しながら、その仮釈放中に殺人に及んだ刑事責任はあまりに重大で、刑が重すぎて不当とは言えない」と述べた。
 判決は「弟の態度は明らかに不当とは言えない。解決には法的手段を取るべきで、弟を殺害して財産を得ようと考えた動機は極めて自己中心的で強い非難に値する」と退けた。

 被告の弁護人が即日上告。長谷川被告は2008年3月17日付で上告を取り下げた。
備 考
 長谷川被告は1976年12月、ギャンブルの穴を埋めるために勤めていた宇都宮市内にある乾物店の金2,500万円を横領したことが発覚しそうになったため、店主(当時49)をバットで殴り、タオルで首を絞めて殺害。遺体を車のトランクに隠した後、1977年5月に福島県内の山中に埋めた。失跡から約13ヶ月後の1978年1月に死体遺棄容疑で逮捕され、その後殺人でも逮捕。宇都宮地裁で1980年3月に無期懲役の判決を受けて服役。2003年5月に仮釈放されていた。2005年9月に仮釈放が取り消され、受刑者に戻っている。
 S被告は求刑無期懲役に対し、2006年6月15日、宇都宮地裁で懲役23年の判決。2006年11月13日、東京高裁で一審破棄、懲役30年の判決。2007年2月13日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 長谷川被告は親族を相手取り、きちんとした遺産相続が行われなかったなどとして、7,000万円の損害賠償を求めたが、2007年7月23日、宇都宮地裁(今井攻裁判官)は「理由がない」として請求を棄却した。
現 在
 2012?年、再審請求。
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氏 名
松村恭造
事件当時年齢
 25歳
犯行日時
 2007年1月16日/23日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 京都・神奈川親族連続強殺事件
事件概要
 住所不定、無職の松村恭造被告は2006年10月、実家で伯母ら親類への不満を話して父に勘当され、別居していた母方へ移ったが、11月に出た。滋賀県内の養豚場で住み込みで働き始めたが、豚を殴って12月に解雇され、住居や収入がなくなった。2007年1月から同県内の電気機器工場に入寮したが、働く意欲をなくして寮を出た。
 2007年1月16日夕方、京都府長岡京市に住む私立校教頭の伯父宅を訪れ、伯母(当時57)に金を無心したが断られたため、鋭利な刃物で伯母の頭部や首を刺すなどして殺害。現金2万円やクレジットカードなどを奪った。
 奪った金を使い果たしたため、1月22日夜、神奈川県相模原市に住む大叔父(当時72)宅を訪れ宿泊。23日午前1時頃、金属棒などで大おじの頭部などを殴って殺害し、現金1万円や携帯電話などを奪った。松村被告は大叔父殺害後、奪った携帯電話で母親に「伯母さんをやったのは僕。金を借りに行ったら断られた。今朝も2人目をやった」と明かしていた。
 松村被告は1月23日夕、東京都練馬区内を歩いているところを逮捕された。
一 審
 2008年3月28日 京都地裁 増田耕兒裁判長 死刑判決
控訴審
 2008年4月8日 本人控訴取下げ、確定
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 松村被告は逮捕後、供述を拒否。
 2007年9月10日の初公判で、松村被告は罪状認否で「昨年末に仕事をクビになって住所不定となり、安心して破滅に踏み切れると思い、恨みのあった伯母を殺した。大叔父に恨みはなかった」と初めて2人の殺害を認めた。そして「金品を奪えば死刑か無期懲役しかなく、罪を重くして自分を追い込めると考えた」「自分の死を望む気持ちがあった。どうせ死ぬなら、恨みのある人を殺してからにしようと思った。人殺しという人生初体験の大事を、極めて冷静に完遂しえた。自分をほめてあげたい」などと特異な動機を明らかにした。
 検察側は冒頭陳述で、「困窮した生活が続き、金品を奪うため2人を殺した」と犯行に至った背景を詳述した。
 弁護側は冒頭陳述で、強盗殺人罪は成立せず、殺人と窃盗罪に当たると主張した。
 10月3日の第2回公判で、親族2人の証人尋問が行われた。松村被告は動機として伯父夫婦に侮辱を受けたと主張しているが、伯父は「思い当たることはありません」と述べた。
 弁護側は、大学を中退したり、父親との関係が険悪になったりしたことから、人を殺害して自殺する「破滅」を望んだとも述べ、被告の心理鑑定や精神鑑定を求めたが、京都地裁は「必要はない」と却下した。
 12月5日の第6回公判で、松村被告は3人目の殺害を計画していたことを明らかにした。誰かは明らかにしなかった。26日の次回公判で結審予定だったが、検察側は次回、改めて被告人質問を行い、新たな殺害計画の詳細を追及する。また松村被告はこのほか、昨年末に勤務先を解雇されたことなどから、「社会に仕返ししよう」と考え、一連の犯行を決意したと説明。「殺すことだけ考えていた」と述べ、強盗目的を否定した。
 12月26日の第7回公判では、殺害を計画していた3人目として、東京に住む小中学校時代の同級生の名前を実名で挙げた。
 2008年1月30日の論告求刑で、検察側は「刃物やゴム手袋なども用意した上、2人の頭部などに50カ所以上の傷を負わせた」と犯行の計画性や残忍性を指摘した。さらに「一言の謝罪もなく、遺族の気持ちを踏みにじっている」などと遺族の処罰感情の強さを強調した。
 松村被告が犯行当時、自殺願望を持ち、「恨みのある親族らを殺してから、死のうと思った」と公判で述べたことについて、「逃走していることなどから、不合理で信用できない。自己を正当化する詭弁」と批判した。そのうえで、伯母を殺害した動機を「金品強奪の目的以外にありえない」、大叔父についても「計画性が高く、心ある人間の所業ではない」と指摘した。 松村被告が強盗目的を否認していることについて、「金や携帯電話など今後の生活に必要なものを奪っており、被告の供述と矛盾する」とした。さらに、小中学校の同級生だった男性を狙った「第3の殺人」を計画していたとされる点についても触れ、「史上まれにみる非道な事件で、被告の暴力的性向が大きく、更生が不可能だ」「2人の尊い命を奪っても良心の呵責が見受けられず、残虐非道きわまりない」と断じた。
 同日の最終弁論で、弁護側は、殺人と窃盗の罪にとどまるとした上で「就職にも失敗し、自らを破滅させようと犯行に及んだ。犯行は死を前提に刑罰を重くしようと強盗に見せかけただけ。金品の強奪を考える余裕はなかった」と強盗目的を否定した。被告は公判を通じて死を望む言葉を繰り返していたが、弁護側は「死刑は違憲論や反対論があり、慎重であるべき」と極刑の回避を求めた。
 検察側が死刑求刑を告げた瞬間も、松村恭造被告は腕と足を組み、平然とした表情を崩さなかった。あごひげを蓄え、濃紺のジャケット姿の松村被告は最終陳述で「事件に至った原因の半分以上は母親を守ってくれなかった父親にある。まったく反省していない。ざまあみろと思っている。世間に借りはないから、法律を守る義務はない。(自分のことを)許せない人間は許さなくてもいい」などと、自筆のメモ11枚を約20分間かけて読み上げた。
 増田裁判長は、死刑を選択した理由について「死刑の適用は慎重に慎重を重ねるべきであるが、今回の事件の責任は重大で、罪刑の均衡や一般予防の見地からも極刑がやむを得ない場合にあたる」と述べた。これまで被告が法廷で「まったく反省していない。ざまあみろと思っている」と発言したことにも触れ、「反省の態度が認められない。暴力傾向も根深く、被告がいまだ若いことを考えても、更生を期待することは極めて困難だ」と指摘した。
 判決は▽実家を追い出され、生活費に困った末の犯行は被告の身勝手な性格や行動が原因で、酌量の余地はない▽あらかじめ凶器を準備するなど、計画的だ▽刃物で執拗に刺したり、金属棒で頭部を多数回殴るなど、いずれの犯行も強固な殺意がある▽2人もの尊い命が無残にも奪われた結果はことのほか重大だ-など、被告に不利な事情を列挙した。
 弁護側の主張に対しては、▽被告が金銭に困っていた▽複数個所を物色している-などから、「金品を奪う目的で殺害した」と述べ、2人への強盗殺人罪成立を認めた。

 松村被告は控訴期限の3月31日に大阪高裁へ控訴。弁護人に対し、「死刑判決に不満があるわけではない。友人、知人に手紙を書きたいが、日にちが足らなかった。判決が確定すると手紙の発信回数が制限されるので控訴した」と話した。京都新聞社の取材に対しては、「今も死にたいという気持ちに変わりはない。控訴は身辺整理の時間が必要だったからで、取り下げるつもり」と話していた。
 4月8日、控訴を取り下げ、死刑が確定した。
その後
 2009年11月、控訴審再開請求。2010年5月、最高裁で棄却、確定。その後、再審請求の準備をしていたとされる。また恩赦も請求していたらしい。
執 行
 2012年8月3日執行、31歳没。執行は誕生日当日だった。
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氏 名
山本開一
事件当時年齢
 56歳
犯行日時
 2003年12月14日
罪 状
 殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 入間市暴力団組員5人射殺事件
事件概要
 埼玉県入間市の指定暴力団系山本組組長山本開一被告は、山本組にあった暴力団埼玉本部事務所を細田組に移されるなどしたことから、組織内で冷遇されていると感じ、さらに細田組組長らが自分を殺そうとしていると聞き、殺害を決意。
 2003年12月14日午後0時25分ごろ、入間市の細田組事務所で開かれた同じ上部団体に所属する組長らの会合で、持ち込んだ拳銃2丁を発砲。細田組組長(当時69)と組員2名(当時41、56)、系列暴力団会長(当時64)、系列暴力団組長(当時61)の5人を射殺した。
 山本被告は犯行後、狭山署に自首した。
一 審
 2005年9月8日 さいたま地裁 福崎伸一郎裁判長 死刑判決
控訴審
 2006年9月28日 東京高裁 阿部文洋裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年4月24日 最高裁第一小法廷 才口千晴裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 山本被告は犯行を認めながらも、細田組組長との対立については「組に迷惑がかかる」として具体的な供述をしなかった。公判で弁護側は、犯行の動機について「細田組組長に対し、先制せざるを得なかった」と主張、寛大な判決を求めた。
 福崎裁判長は「暴力団特有の反社会的発想に基づく残虐かつ悪質な犯行だ」とした。

 被告側は控訴審で量刑不当を主張したが、阿部裁判長は「拳銃2丁や実弾13発を携行し、次々と射殺した。強固な意思に基づく冷酷な犯行で、5人の命を奪った結果と責任は重大。死刑は重すぎるといえない」として退けた。

 2008年3月13日の最高裁弁論で、弁護側は「被害者らが山本被告の殺害を計画していたので先手を取った」など述べ、死刑の回避を主張、検察側は上告棄却を求め、結審した。
 才口裁判長は被告側主張を、「殺害計画があったとしても、拳銃で先制攻撃をすることで解決を図るといった発想は認めることはできない」と退けた。そして「犯行は白昼、住宅街の暴力団事務所で行われ、地域社会に与えた衝撃は計り知れない」「犯行は計画的、残虐で、刑事責任はあまりにも重大」と述べた。
備 考
 最高裁第一小法廷での上告審弁論で、才口千晴裁判長は、2007年12月施行の改正刑事訴訟法に基づき、法廷で被害者を匿名とする決定をしたことを明らかにした。最高裁では今回が初の適用。弁論では検察、弁護側双方が被害者を名前ではなく「甲」「乙」「丙」などと呼んだ。弁護側は「被害者の氏名は犯行の基本中の基本。憲法が保障する裁判の公開の原則に反する」と疑問を投げかけたが、第一小法廷は「非公開で行うわけではないので合憲」と判断した。
その後
 2010年1月2日午後11時12分、肝臓ガンのため死亡。62歳没。法務省が発表した。2009年8月にがんが判明したが、本人が手術などを望まず、最低限の治療を続けていた。11月から容体が悪化し、拘置所内の病室で酸素吸入を受けるなどの処置を受けていた。
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氏 名
加賀聖商
事件当時年齢
 40歳
犯行日時
 2001年8月4日
罪 状
 強盗殺人、殺人、窃盗
事件名
 伊勢原市同居母娘強殺事件
事件概要
 無職加賀聖商(としあき)被告は、2001年8月4日午後、同居していた伊勢原市桜台に住む会社員の女性(当時43)宅で、花火大会に行こうと女性の長女(当時12)を誘ったら『行かない』と言われたため、腹が立ち首をヒモで絞めて殺害。さらに22時頃、帰宅した女性の頭をハンマーで殴り、背中を包丁で刺して殺害した。現金1万円とキャッシュカードを奪い、カードで現金85万円を引き出して逃走した。遺体は8月21日、伊勢原署員が発見。8月26日、加賀被告は全国に指名手配された。加賀被告は出身地である夕張市でテント生活などをしていたが、所持金がなくなった9月24日に北海道警夕張署南部駐在へ出頭した。
一 審
 2004年2月4日 横浜地裁 小倉正三裁判長 死刑判決
控訴審
 2005年7月19日 東京高裁 須田賢裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年6月5日 最高裁第一小法廷 才口千晴裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審で弁護側は「金品を強奪する目的はなかった。殺人と窃盗に分けて考えるべきだ」と主張した。
 小倉正三裁判長は加賀被告について「仕事もせず、中学生の小遣いを持ち出すなど、自堕落で無為徒食の生活をしていた」と指摘。「中学生が反発するのは当然で、自らの非を棚に上げている」と被告の態度を非難した。さらに、母親の殺害は計画的で用意周到だったと指摘した。さらに現金を奪うことを目的にした強盗殺人と認定した。

 控訴審で弁護側は、母親殺害について「金目当てではなく、強盗殺人罪は成立しない」と主張したが、判決で須田裁判長は「長女を殺害後、帰宅する母親を待ち受け殺害するなど、計画的で強固な犯意があり、極刑はやむを得ない」と述べ、「被告の供述は信用できない」と退けた。

 2008年3月27日の最高裁弁論で、弁護側は「娘の殺害は突発的で計画性はなく、母の殺害も金銭目的ではなかった。死刑は重すぎる」と主張。検察側は「二審の判断は相当。身勝手な犯行に同情の余地はない」として上告棄却を求めた。
 判決で才口裁判長は「二人への殺意はいずれも強固で、犯行態様は執拗かつ残忍。事実関係をおおむね認めていることなど、被告のために酌むべき事情を十分に考慮しても、刑事責任は極めて重大で、死刑を是認せざるを得ない」と述べた。
現 在
 2012年時点で第二次再審請求中。
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氏 名
上部康明
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 1999年9月29日
罪 状
 殺人、殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 下関駅通り魔事件
事件概要
 1999年9月29日午後、山口県豊浦町の運送業、上部康明(うわべやすあき)被告(38)はレンタカーに乗って山口県下関市のJR下関駅東口からレンタカーごと構内に突っ込み、約60m暴走、7人をはねて2人を殺害した。車を降りた上部被告は、文化包丁を振り回して改札口を通り、階段で1人、ホームで7人を傷つけ、3人を殺害した。上部被告はホームで駅員達に取り押さえられたが、死者5人、重軽傷10人。「社会に不満があり、誰でもいいから殺してやろうと思った」などと供述した。
 上部被告は九大工学部を出た秀才であったが、1級建築士の資格を取り開業したが失敗。新たに始めた運送業も、台風でトラックが壊れてしまい意欲を失った。さらに、妻に離婚を切り出され、犯行前には、「自分は世間から不当に冷遇されてきた」などと思い込んでいた。
 事件当時は精神病院に通っており、「回避性人格障害」との診断であった。
一 審
 2002年9月20日 山口地裁下関支部 並木正男裁判長 死刑判決
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控訴審
 2005年6月28日 広島高裁 大渕敏和裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
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上告審
 2008年7月11日 最高裁第二小法廷 今井功裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 広島拘置所
裁判焦点
 起訴前の簡易鑑定で「責任能力に欠けるところはない」とされた。しかし、山口地裁下関支部での公判に入り、裁判所の判断で行われた2回の精神鑑定のうち、福島章・上智大名誉教授(犯罪心理学)は「善悪の判断能力や判断に従って行動する能力は著しく減退していたが、完全に喪失していたとは言えない」として、責任能力を限定的に認める「心神耗弱」を示した。その後行われた保崎秀夫・慶応大名誉教授(精神医学)の鑑定は「著しい障害があったとまでは言えない」として、完全責任能力を示唆した。
 弁護側は「被告は犯行時に統合失調症(精神分裂病)による心神喪失か、少なくとも心神耗弱状態にあった」と主張し、無罪または刑の減軽を求めていたが、並木裁判長は完全責任能力を認めた。

 控訴審でも上部被告側は刑事責任能力の有無を争い、精神鑑定が行われたが、「被告は対人恐怖症だったが、善悪を判断する能力を著しく減退させるものではなかった」という結果であった。
 判決で大渕裁判長は、犯行に人通りの多い時間帯を選んだり、事前に包丁を購入したりしていた点をふまえ、周到な準備や計画性があったと判断。「責任能力に影響を及ぼすような異常性をうかがわせる兆候は皆無である」と述べた。

 2008年6月13日の最高裁弁論で、弁護側は「社会に迫害されてきたとの妄想に支配されたための犯行で、当時は自己制御能力が喪失状態だった」と主張し、死刑判決の破棄を求めた。検察側は「実生活上の行き詰まりから自暴自棄となった末の犯行で、比類のない極めて凶悪な無差別殺傷事件」と反論し、改めて死刑を求めた。
 今井裁判長は「記録を調査しても、被告が犯行当時、心神喪失、心神耗弱ではなかったとした高裁の判断は相当だと認められる」と述べ、弁護側の主張を退けた。
 その上で、「将来に失望して自暴自棄になり、自分をそのような状況に陥れたのは社会のせいなどとして、社会などに衝撃を与えるために多数を道連れにする無差別大量殺人を企てた」と指摘。「何一つ落ち度のない駅利用者らを襲った犯行は極めて悪質」「動機に酌量の余地は見いだし得ず、犯行態様も残虐、非道というほかない」と述べ、一、二審の死刑判決を追認した。
備 考
 2001年9月29日、被害者・遺族4人が被告や被告の両親、JR西日本を相手に民事提訴。総額1億8,500万円の損害賠償を求めた。2002年9月26日、別の被害者5人が被告や被告の両親(一部原告はJR西日本を含む)に総額1,700万円の損害賠償を求める訴えを山口地裁下関支部に起こした。両者の裁判は併合された。
 2004年11月1日、山口地裁下関支部は、上部被告へ1億6,191万円の支払いを命じた。しかし被告の両親、JR西日本への賠償請求は却下した。原告側は、同被告に支払い能力がないこともあり、両親やJR西日本の連帯責任を求めて控訴した。
 2006年3月13日、広島高裁は「JRと両親に特段の過失はなかった」と上部被告だけに賠償を命じた一審判決を支持した。遺族と被害者各1人への賠償金額を、それぞれ約790万円と250万円上乗せするよう命じた。上部被告側は計約1億7200万円の支払いを命じた判決について上告せず確定。原告のうち7人がJR西日本についてのみ上告した。
 2007年1月25日、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は遺族側の上告を棄却し、確定した。
その後
 上部康明死刑囚と広島弁護士会所属の弁護士2人は2009年4月30日、再審請求に向けた打ち合わせの際、広島拘置所が職員の立会なしで接見を認めなかったのは秘密交通権の侵害だとして、慰謝料など計495万円の国会賠償を求める訴訟を広島地裁に起こした。2弁護士は2009年2月24日~3月25日に広島拘置所を3回訪れ、職員の立会なしの接見を求めたが、いずれも拒否され、職員が同席した。再審準備中の確定死刑囚にも、刑事裁判の被告同様、刑事訴訟法の秘密交通権が保証されるべきだと主張している。
 広島地裁における2010年1月21日の第1回口頭弁論で、原告の弁護士2人は「なぜ依頼者の判決の不当性を協議する場に、判決を下した国側の人間を同席させなければならないのか」などと述べた。国側は「立ち会いをさせない適当な事情はなく、広島拘置所長の判断は正当」などとして請求棄却を求めた。
 2013年1月30日、広島地裁(梅本圭一郎裁判長)は3回の接見のうち2回について接見交通権の侵害を認め、国に計48万円の支払いを命じた。2013年10月25日、広島高裁(小林正明裁判長)は双方の控訴を棄却した。
執 行
 2012年3月29日執行、48歳没。
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氏 名
八木茂
事件当時年齢
 50歳
犯行日時
 1995年6月~1999年5月
罪 状
 殺人、殺人未遂、詐欺、傷害、公正証書原本不実記載・行使
事件名
 本庄保険金殺人事件
事件概要
 埼玉県本庄市の金融会社経営八木茂被告は、小料理店店長T服役囚(一審無期懲役判決がそのまま確定)、フィリピン国籍のパブ店長K服役囚(一審懲役15年判決、控訴取下げ、確定)、小料理店店員M服役囚(一審懲役12年判決確定)と共謀。以下の事件を引き起こした。
  • 保険金目当てで工員Sさん(当時45)とK服役囚を偽装結婚させ、1995年6月、トリカブト入りあんパンを食べさせることをTに指示して殺害。生命保険金約3億2,000万円をだまし取った。
  • 1997年5月にパチンコ店従業員MさんをMと偽装結婚させ、1999年5月頃、風邪薬などの大量投与でMさん(当時61)を殺害。Mさんは八木被告に多額の借金があった。生命保険金約1億8,000万円は捜査が開始されたため支払われていない。
  • 1998年7月に塗装工Kさん(当時38)をK服役囚と偽装結婚させ、虚偽の婚姻届を出した。Kさんは八木被告に多額の借金があり、「結婚すれば、借金を棒引きにする」と持ちかけられていた。Mさんが死んだ翌日、Kさんは「このままでは殺される」と病院に駆け込み、またMさんの遺体も火葬直前に差し押さえられ、事件は明るみになった。Kさんは長期間にわたり風邪薬を服用させられたことによる「急性肝傷害」などにより入院した。
一 審
 2002年10月1日 さいたま地裁 若原正樹裁判長 死刑判決
控訴審
 2005年1月13日 東京高裁 須田賢裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年7月17日 最高裁第一小法廷 泉徳治裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 地裁公判は女性3人を分離。週に3~4回のペースで進める集中審理方式が採られ、初公判から約1年7カ月で判決を迎えた。
 検察側は、株取引で失敗するなどした八木被告が保険金目当てで犯行を計画・主導したと指摘。被告・弁護側は「殺害の計画も指示もしておらず、事件はでっち上げだ」と無罪を主張していた。
 量刑理由で若原裁判長は「冷酷で残忍極まりなく、犯罪史上に例を見ない巧妙、悪らつな犯行」と指摘。八木被告が度重なる有料の記者会見で無実を訴えたことにも触れ「虚言をろうして責任を回避し、反省、悔悟の情はみじんもうかがえない」と厳しく断じた。検察側が立証の柱としたT服役囚の証言について、「客観証拠や他の共犯者の証言とも合致する」として、信用性を認めた。

 控訴趣意書で弁護側は、被害者3人のうち死亡した2人について「トリカブトの毒による殺人とされた事件は水死の可能性を否定できず、もう1人も風邪薬の大量投与による殺人は不可能」とし「客観証拠の評価を誤り、共犯者の女3人の証言を過大評価した一審判決は誤り」と述べた。
 2004年10月11日の控訴審初公判で、弁護側は「冤罪事件であり一審判決は誤判。被告が殺害したという証明はない」とあらためて無罪を主張した。須田裁判長は共犯とされた女性受刑者の手紙など、弁護側が提出しようとした証拠のほとんどを却下。裁判官忌避の申し立ても却下したため、弁護側は即時抗告する。しかし、抗告も却下されたため、弁護側は「主張を展開できない」として、2004年12月9日に予定されていた弁論を行わず結審した。
 判決理由で須田裁判長は、八木被告が被害者に多額の生命保険をかけ、3億円以上の保険金の大半を得たことなど客観的状況を挙げ「被告が保険金殺人に及んだのではないかという一定の推定が可能」と指摘。共犯者の供述について、弁護側は「検事に『自白すれば死刑を求刑しない』と言われた後に話しており、信用性がない」と主張したが、判決は「仮にそうだとしても、実際に関与したから自白したと考えるのが合理的だ」と退けた。
 八木被告は弁論、判決ともに欠席した。

 2008年6月16日の最高裁弁論で、弁護側は、八木被告が犯行を指示したとされる共犯のT受刑者の証言が、「受刑者は、取り調べの女性検察官が言った『このままだとあなたは死刑。自白すれば命は助かる』の言葉にすがった。彼女は死刑で威嚇されるなどして、検察側の考えに沿った証言をすることを約束した。このような状況下でなされた証言に証拠能力はない」と述べた。
 さらに、T受刑者の記憶は、検察側の巧みな誘導によって形成された「偽りの記憶だ」とし、証言についても「動かぬ証拠を突き付けられると場当たり的に証言を変える。T受刑者は現場に立ち会っていなかった」とした。
 また、利根川で遺体で発見された男性は、入水自殺ではなく八木被告らがトリカブトで毒殺したとされた点については、「男性の肺と腎臓から発見されたプランクトンの構成が全く違った」と説明。腎臓に到達したのは肺胞を通過できた小さくて細長いものばかりで、「これは生きている人が水を大量に飲んだからこそ。溺死を雄弁に物語っている」と主張した。
 検察側は「弁護側の主張は一、二審の繰り返しに過ぎず、上告の理由にあたらない」と指摘した上で、「一審、二審の判決は、この受刑者だけでなく、他の共犯受刑者の証言などの各証拠で認定されて、疑念を抱く余地はなく、極刑以外にはない」と述べた。
 泉裁判長は「八木被告が共犯者と各犯行に及んだと認定した二審判決は正当として是認できる」とした。そして「計画性の高い巧妙かつ悪質な犯行。2人の人命を奪い、巨額の保険金をだまし取ったのに、全く反省しておらず、死刑はやむを得ない」と述べた。
その他
 フィリピン国籍のパブ店長Kさんは2015年夏に出所し、フィリピンに帰国した。2016年5月17日付でKさんは、被害者の男性2人を「殺害していない」として、さいたま地裁に再審請求を申し立てた。弁護団によると、トリカブトを使って毒殺したとされた男性の死因は溺死だと主張。風邪薬と酒を飲ませ殺害したとされた別の男性についても、認定と異なる死因が考えられるとした。法医学の専門家が作成した鑑定書や意見書のほか、捜査段階の自白の任意性に疑問があるとするKさんの説明をまとめた書面など、新証拠として計約30点を提出した。
その後
 2009年1月30日、さいたま地裁へ再審請求。八木死刑囚は、起訴事実を認め無期懲役の判決が確定したT受刑囚が「認めないと死刑になる」などと検事から偽証を強いられたと主張。T受刑囚が逮捕後に家族にあてて「このままでは死刑になる。とにかく思いださなければいけない」と記した手紙が、新証拠にあたるなどとしている。この手紙は、東京高裁で提出されたが証拠として採用されなかった。
 2010年2月1日、再審請求の弁護団は、1995年に殺害したとするSさんの死因は水死とする新たな鑑定書を提出した。鑑定書は日本医大の大野曜吉教授が作成。男性の腎臓と肺から大量の植物プランクトンが検出されたとして、男性は水を飲んでおぼれ死んだと指摘している。弁護団は「毒殺説を覆す新証拠。男性は自殺と考えられる」としている。
 さいたま地裁は2010年3月18日付で請求棄却の決定をした。地裁は弁護団が提出した証拠について、明白性を欠くと退けた。弁護団が23日付で東京高裁に即時抗告を申し立てた。

 2009年2月3日、八木茂死刑囚と弁護団(後に6人)は再審準備に向けた接見で東京拘置所が職員の立ち会いなしの接見を認めなかったのは違法として、600万円(後に計1,260万円)の国家賠償を求めさいたま地裁に提訴した。訴状によると、弁護団は2008年9月から12月にかけ、八木死刑囚に計16回接見。東京拘置所は職員を立ち会わせて内容を記録した上、面会時間を30分に制限した。八木死刑囚らは、再審準備中の死刑確定者は刑事裁判の被告と同様に、刑事訴訟法の秘密交通権が保障されると主張。「接見制限で再審の準備活動が十分にできなかった」としている。2009年4月15日に第1回口頭弁論が開かれた。2013年11月27日、さいたま地裁は請求を棄却した。堀内明裁判長は「八木死刑囚は精神状態の悪化がうかがわれ、面会に立ち会って心情を把握する必要があった」と主張を退けた。弁護側は控訴した。
 2014年9月10日、東京高裁は請求を棄却した一審判決を変更し、国に計116万円の支払いを命じる判決を言い渡した。滝沢泉裁判長は「心情の安定は内心の問題で、死刑囚と弁護人との秘密面会の利益を制約する理由とすべきではない。死刑囚の心情の安定を把握するという理由で職員が立ち会うのは許されない」と述べた。
 2015年8月26日付で最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は弁護団の上告を棄却した。二審判決が確定した。

 再審請求の控訴審で弁護団が検察側に証拠開示を求めたところ、さいたま地検に工員Sさんの臓器が保管されていることが判明。肺や腎臓に含まれるプランクトンを検査し、溺死かを判断する鑑定の実施を高裁に求めた。東京高裁(村瀬均裁判長)は2013年12月11日付で、保管されている被害者の臓器を鑑定し、死因を調べると決めた。2014年8月6日に高裁に提出された鑑定書は、プランクトン検査により被害者の心臓や肝臓からプランクトンが検出されたとし、「プランクトンが血液を通じて肺以外の臓器に循環した」として川で溺れ死んだと結論づけた。

 2015年7月31日、東京高裁(村瀬均裁判長)はさいたま地裁の再審請求棄却判決に対する八木死刑囚側の即時抗告を棄却した。臓器から検出されたプランクトンが少数だったことなどを踏まえ「血液によりプランクトンが循環したと断定できる根拠はない」と指摘。遺体を解剖した医師が「細心の注意で臓器を摘出、保存していなかった」として、「鑑定試料の臓器にプランクトンが混入した可能性が払拭できず、鑑定結果に依拠できない」と退け、「再審を開始すべき明白な証拠とは言えない」として、再審開始を認めなかった。
 八木被告側は8月5日付で最高裁へ特別抗告した。2016年11月28日付で最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は、八木死刑囚の特別抗告を棄却する決定を出した。再審請求棄却が確定した。

 2016年12月6日、さいたま裁地に第二次再審請求をした。
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氏 名
江藤幸子
事件当時年齢
 47歳
犯行日時
 1995年1月~1995年6月
罪 状
 殺人(6人中4人)、傷害致死、殺人未遂
事件名
 須賀川祈祷による信者殺人事件
事件概要
 福島県須賀川市の祈祷師、江藤幸子被告は、元自衛官で幸子被告の愛人だったN被告、幸子被告の長女EY被告、重機オペレータS被告とともに、幸子被告宅に同居する信者7人に対し、動物の霊を追い払う「御用」と称して太鼓ばちで全身をなぐるなどした。無数の打撲などで死に至る挫滅症候群で、S被告の妻(当時45)、男性Mさん(当時49)を死に追いやり(傷害致死)、さらにMさんの長女(当時18)、Mさんの妻(当時42、S被告の妻の実妹)、Yさん(当時42)、Sさん(当時27)を殺害し、Yさんの元妻Zさん(当時33)に重傷を負わせた。暴行は信者1人当たり約10~20日以上続き、長時間正座させたり飲食やトイレを制限するなどもした。
 Yさんの父親が1995年7月1日、「息子が6月ごろから行方不明になっている」と福島県警須賀川署に届け出。同署で調べたところ、親類に救出されたZさんが数人の者から暴行を受けて入院していることが判明。7月5日、傷害容疑で江藤被告宅を訪れ、遺体を発見。4被告を傷害容疑で逮捕した。
 江藤被告は夫婦で入信していた新興宗教団体を1990年ごろ、金銭トラブルで破門となり、夫が祈祷師となった。翌年、夫の後を継ぎ自宅で祈祷師を始めた。病気や借金に苦しむ人たちが、口コミで江藤被告に接近するようになった。S被告、Mさんの家族は信者として江藤被告の家に住み込んでいた。1995年1月ごろから、「霊をはらうため」と命じられるまま、夫婦、親子、友人同士で棒でたたき合うようになった。
一 審
 2002年5月10日 福島地裁 原啓(あきら)裁判長 死刑判決
控訴審
 2005年11月22日 仙台高裁 田中亮一裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2008年9月16日 最高裁第三小法廷 藤田宙靖裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 仙台拘置支所
裁判焦点
 1995年10月27日の初公判で、江藤被告は暴行の事実は認めたが、共謀と殺意を否認、「かっとなるたちで、死ぬという意識はなかった」と述べた。
 弁護側は(1)魂が清められているという宗教的確信から、信者が死んだという認識はなかった(2)心神耗弱状態で正常な判断能力を欠いていた――と主張、殺意を否認した。これに対し、検察側は「最初の2人が死んだことを認識しながら、5人に対して『御用』を続けており、未必の故意があった」と反論していた。
 1996年10月、地裁は4被告の精神鑑定を命じ、11月から約3年間、公判は中断した。
 一審判決は争点の一つだった殺意の有無について、「幸子被告は自分の神格的権威を保つため、邪魔者を排除しようと『御用』を始めた」と認定し、4被告とも「はじめの信者2人を死亡させた後は、(悪霊払いの名目で太鼓のばちなどでたたく)『御用』を続ければ死ぬと分かっていた」と未必の故意を認めた。また精神鑑定の結果より、判決は演技的で自己顕示欲が強い「演技性人格障害」があることを認めたものの、「このこと自体が認識能力に影響を与えるものではない」と断じ、江藤被告には善悪を認識し行動する能力は十分にあったとして責任能力を認めた。さらに今回の事件について、幸子被告は愛人だったN被告を独占したいなどという「個人的な嫉妬心、憎しみなどから『御用』を行ったという面も否定できない」とし、幸子被告の個人的な動機による犯行と位置づけ、宗教とのかかわりを否定した。

 2003年7月に始まった控訴審で、弁護側は1回目の鑑定が極めてずさんだったとして再鑑定を求め、同年9月、実施が決まった。再鑑定は2005年3月に終了した。2回目の鑑定の鑑定人は朝日新聞の取材に「犯行はきわめて閉鎖的な空間の中で長期間行われていた」とし、「被害者と加害者を包括した相互作用を考慮しないといけない。犯行は、被害者が動物、加害者が神という、完全に憑き物の状態でエスカレートしていった側面もある」と話す。
 二審の判決理由で田中裁判長は「憑依トランスに陥ったとしても短時間の一時的なことにすぎない」と指摘、責任能力を認めた一審判決に「事実誤認はない」とした。

 2008年7月15日の弁論で、弁護側は「当時は健忘が多く、通常の生活を送るのも困難な心神喪失状態だった」と主張。二審での精神鑑定が「一時的に心神耗弱状態だった」と判断したことを挙げ、「少なくとも殺人罪でなく過失致死罪に当たる」とした。また「被害者は宗教的理由から自分のためと認識しており、御用を受けることに同意していた」と述べた。一方、検察側は「犯行は被害者が心服していたことに乗じたもので悪質。動機は同居男性への独占欲と、神という自分の体面を保つための自己中心的なもの。一時的に憑依トランスになったとしても、正常時に被害者を選んでおり完全責任能力があった」と述べ、上告棄却を求めた。
 藤田裁判長は「執拗な暴行を加え続けた犯行は、なぶり殺しともいえる陰惨な犯行で、6人の命を奪った結果は重大。自らを神の使いとする宗教的集団を形成し、絶対的な力を背景に、信者に暴行を加え死亡させたもので、宗教的集団による事件として社会に与えた影響も大きい」と指摘した。そして「自らを神などとする宗教集団をつくり、その絶対的な力を背景に、自ら、あるいは信者に命令して暴行を加えており、宗教的影響は否定できないが、刑事責任は共犯者に比べて際立って重い」などとして、「死刑は追認せざるを得ない」と結論付けた。弁護側は「憑依状態で心神喪失のため無罪。少なくとも心神耗弱で減刑すべきだ」と主張していたが、藤田裁判長は「完全な責任能力を認めた高裁の判断は是認できる」として退けた。
備 考
 N被告は求刑通り一審無期懲役判決。控訴するも、2002年9月20日、控訴取り下げ、確定。
 EY被告は求刑通り一審無期懲役判決。控訴せず確定。
 S被告は一審懲役18年判決(求刑懲役20年)。2003年11月11日、仙台高裁で被告側控訴棄却、確定。
 Zさんは、Yさんの傷害致死容疑とSさんの殺人容疑で起訴された。1996年3月29日、福島地裁(穴沢成巳裁判長)で懲役3年(求刑懲役5年)判決。1997年3月、仙台高裁で懲役3年・執行猶予5年の判決が言い渡され、確定した。
執 行
 2012年9月27日執行、65歳没。
 江藤幸子死刑囚の弁護人を務めていた阿部潔弁護士(仙台弁護士会)は、2008年に江藤死刑囚の死刑が確定した直後から、再審請求の手続きを依頼されていたといい、「責任能力か殺意の有無という観点での再審請求の検討を進めていた。年末までに手続きをしたいと思っていたのだが」と悔しさをにじませた。
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