死刑確定囚(2011年)



※2011年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑確定囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
土谷正実
事件当時年齢
 29歳
犯行日時
 1994年5月9日~1995年3月20日
罪 状
 殺人、殺人未遂、殺人ほう助、殺人未遂ほう助、麻薬及び向精神薬取締法違反
事件名
 弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、VX殺人事件及び同未遂2事件、地下鉄サリン事件他
事件概要
●弁護士サリン襲撃事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。

●松本サリン事件
 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。

●VX殺人事件及び同未遂2事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、教団信者の知人だった大阪市の会社員(当時28)を「警察のスパイ」と決めつけ、新実、中川らに「ポアしろ。サリンより強力なアレを使え」などと、VXガスによる殺害を指示。新実らは1994年12月12日、出勤途中の会社員にVXガスを吹き掛け、殺害した。他別の会社員2名にも吹きかけ、殺害しようとしたが失敗した。

●地下鉄サリン事件
 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。

●幻覚剤のPCP(フェンサイクリジン)製造
一 審
 2004年1月30日 東京地裁 服部悟裁判長 死刑判決
控訴審
 2006年8月18日 東京高裁 白木勇裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年2月15日 最高裁第三小法廷 那須弘平晴裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 土谷被告の弁護側は「サリンを地下鉄や長野県松本市でまいたり、殺人にVXを使うとは知らずに生成に関与させられただけ。殺意はなかった」と無罪を主張。土谷被告も「自分が製造に関与したサリンが本当に地下鉄でまかれたのか疑問」と述べていた。
 東京地裁、服部悟裁判長は松本事件について、土谷被告が捜査段階で「ほかの教団幹部らが不特定多数を殺害しようとしていることを認識していた」と供述している点などを重視し、「犯行を幇助する意思があった」と認定した。地下鉄事件についても、捜査段階の供述などから、自分が製造したサリンが近い将来に地下鉄を含む東京都内で使われることを被告が知っていたと判断。「松本事件とは異なり、共同正犯の責任を負う」と結論づけた。指名手配中の信者二人をかくまったとされる犯人蔵匿については「共謀を認める証拠が足りない」として無罪とした。

 控訴審で土谷被告は弁護人との接見を拒否し、4回開かれた公判ならびに判決には一度も出廷しなかった。
 弁護側は弁論で、土谷被告は犯行の具体的計画を知らされず、教団元幹部らに科学的知識を利用されたと主張。元代表松本智津夫被告らとの共謀は成立せず、地下鉄事件では殺人のほう助罪、松本事件では殺人予備罪にとどまると訴えた。
 白木勇裁判長は「教団随一の豊富な化学知識や経験を駆使し、被告の存在なくして犯行はなし得なかった。悪質かつ残虐極まりなく、死刑以外を選択する余地はない」と指摘した。無罪主張については「実行行為を行っておらず事前謀議にも参加していないが、教団が不特定多数の者を殺害しようとしていることを認識していた」などとして退けた。

 2010年12月21日の最高裁弁論で弁護側は、「共犯者として責任は免れないが、教祖で首謀者の松本智津夫死刑囚らに信仰の深さを利用され、犯行に加担させられた面がある。現在は教団と絶縁し、反省を深めている」と主張。地下鉄サリン事件と、猛毒の化学剤VXを使った三つの襲撃事件は殺人や殺人未遂の共犯ではなく犯行を手助けした『ほう助犯』にとどまるだけだとして、無期懲役に減刑するよう求めた。今まで一、二審では幻覚剤PCPの密造罪を除いて無罪を主張していたが今回、初めて6事件すべてへの加担を認めた。一方、検察側は「被告以外にサリンとVXの製造方法に詳しい化学の専門家はおらず、被告の存在なしに犯行は不可能だった」と反論し、上告棄却を求めた。
 判決で那須弘平裁判長は一連の事件について「教団の組織防衛を目的とした反社会的で悪質な犯行」と指摘。殺人の実行行為に直接かかわっておらず、具体的な計画も知らなかった土谷被告の責任については、土谷被告が松本事件で悲惨な結果が発生したことを認識しながら、その後もサリンやVXの開発・生成を続け、地下鉄事件などを引き起こしたと指摘。「各犯行で使われたサリンなどを開発、生成する作業の中心となっていた。被告の豊富な化学知識や経験がなくては犯行はなしえず、責任は極めて重い」と述べ、死刑の判断を変えなかった。
備 考
 土谷被告は一審で私選弁護人を2回解任した。東京地裁が国選弁護人を選任したが、判決まで8年以上かかる長期審理となった。控訴審でも選任していた私選弁護士を解任している。
執 行
 2018年7月6日執行、53歳没。
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氏 名
熊谷徳久
事件当時年齢
 64歳
犯行日時
 2004年5月29日/6月23日
罪 状
 強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、現住建造物等放火未遂、建造物侵入
事件名
 横浜中華街店主銃殺事件他
事件概要
 無職熊谷徳久(くまがい・とくひさ)被告は2004年4月に窃盗罪で服役していた刑務所を出所すると、ディスコの開店資金を得るために強盗を計画。
 2004年5月6日、熊谷被告は東京駅のキヨスク集金事務所を拳銃で襲撃するつもりだったが、目的の集金所を見つけることができず、腹いせのため午後5時頃、東京駅地下3階の機械室に灯油をまいてライターで放火。廃棄するため置いてあったエアコンやペンキ缶などを焼いた。この火事で、東京駅地下5階にある総武快速・横須賀線ホームに白煙が立ちこめ、乗客約300人が避難する騒ぎになった。なお、熊谷被告が思い込んでいたキヨスクの集金事務所というものは存在しない。
 5月27日、熊谷被告は現金を奪おうと横浜市内の警備会社事務所を襲ったが、何も奪うことはできなかった。
 5月29日深夜、熊谷被告は横浜中華街の中華レストラン経営者(当時77)を横浜市中区の自宅前で待ち伏せし、頭を拳銃で撃ち殺害。経営者が持っていた売上金約44万円入りのバックを奪った。
 6月23日朝、熊谷被告は東京メトロ渋谷駅構内で駅員(当時32)の腹を拳銃で撃ち、右足まひなどの後遺障害を残す重傷を負わせ、持っていた洗面用具などの入った紙袋を奪って逃走した。
 熊谷被告は6月26日、渋谷駅銃撃事件について警視庁に出頭。その後、横浜市の強盗殺人事件で家の周辺に残された指紋が一致したこと、銃弾に残された線条痕が酷似していることから神奈川県警が追求、犯行を自供した。出頭当時、所持金は数百円だった。
一 審
 2005年5月20日 東京地裁 毛利晴光裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2007年4月25日 東京高裁 高橋省吾裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2011年3月1日 最高裁第三小法廷 田原睦夫裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審、論告で検察側は論告で、「事業資金を得るという私欲のための極悪非道な犯行。わずかな期間に凶悪な事件を連続して引き起こし、自責の念も認められず、更生も期待できない」と述べ、死刑を求刑した。論告は「被告の犯罪傾向は根深く、反省のかけらも認められない。遺族や被害者も極刑を望み、社会に与えた影響も大きい」「反省の念は皆無で極刑をもって臨むしかない」と指摘した。
 弁護側は最終弁論で事実関係を認めた上で、「反省して自首しており、更生する可能性もある」と述べた。また、不遇な成育歴(出生後、間もなく母親が去り、父親とも2歳で死別。身を寄せた伯父の家は空襲で被災し、その後はたまたま知り合った人の家を転々とする生活だった)を強調し情状酌量を求めた。
 熊谷被告は被告人質問で、「自分は死刑に等しい人間。(被害者には)申し訳ないと思っている」と語っている。
 毛利裁判長は判決で、「刑務所出所後わずか1ヶ月半余りの間に立て続けに犯行に及んでおり、金に対する執着と、人の命を奪うことすら構わない危険な考えがみてとれる」と熊谷被告を断罪。「起訴事実を認めているが、金に執着して人命を奪うことも構わない危険な考え方が見られる。不遇な成育環境に対する恨みや性格の偏りがあり、更生意欲もない。被害者が死刑を望むのももっともだ」と指摘。「更生の可能性は低く、同様の犯行に及ぶことが大いに懸念される」と述べた。
 その一方、殺害された被害者が一人だったことや、殺人など重大事件の前科がない、自首をした、被害者の家族らに謝罪の手紙を送っていることなどを考慮し、「死刑はいささか躊躇を感じざるを得ない」と判断した。ただ、「仮出獄については、犯行に照らして慎重な運用がなされるべきだ」と付言した。

 検察側が死刑を求めて控訴した。
 弁護側は「死亡した被害者が1人の事件では死刑ではなく、無期懲役とするのが近時の裁判例の傾向」と主張した。
 判決で高橋裁判長は「拳銃が使用されて一般市民が標的になり、国民を恐怖に陥れた。他の凶器による犯行以上に危険かつ悪質で社会的な非難は強い」と指摘。「被害者の遺族らの憤激や悲嘆の念は計り知れない。また右ほおに拳銃を押し付けて発射した態様などから、死亡被害者一人だからといって死刑を回避するケースではない。一審は量刑判断を誤っており、破棄を免れない。10回懲役刑に処され、度重なる矯正教育にもかかわらず犯罪性向は深刻化しており、被害者が1人でも死刑をもって臨むほかない」と判決理由を述べた。また判決では、一部の事件について自首の成立を認めた。しかし、「事案の重大性にかんがみ、有利な事情を酌む程度には限度がある」と判断した。

 2011年2月1日の最高裁弁論で弁護側は、「殺人の被害者は1人で、計画性もないずさんな事件。判例基準からみても、死刑は重過ぎる」と死刑回避を主張した。検察側は「動機や態様、被害者の処罰感情を考慮すれば、極刑に処するしかない」と上告棄却を求めた。
 判決で田原睦夫裁判長は、料理店主殺害と地下鉄渋谷駅での駅員銃撃事件について、「至近距離から発砲するなど、いずれも確定的殺意に基づいており冷酷で残忍」と非難。弁護側の「殺人の被害者は1人で死刑は重過ぎる」という主張については、「撃たれた駅員は右足が完全にまひするなど後遺障害に一生苦しむことになり、結果は重大」と退けた。そして「事業を起こすために大金を得るという身勝手な動機で1人を殺害し、1人に重傷を負わせた人命軽視の態度は強い非難に値し、死刑を是認せざるを得ない」と述べた。
備 考
 熊谷被告は1996年1月、横浜市中区で銀行嘱託社員を工具で襲い、小切手を奪った強盗傷害事件で実刑判決を受け、2004年4月に出所したばかりだった。この事件を含め過去に10回、懲役刑を受けている。
 殺害された経営者の妻は検察官に、長男は公判でいずれも被告を死刑にしてほしいと求めた。また。駅員は心身に深い傷を負い、2010年時点でも通院を続けている。家に引きこもったままで、家族は検察官に「体は元に戻らない。死刑にしてほしい」「同じ苦痛を味わわせたい」と訴えた。
 熊谷死刑囚は2011年3月、脱走を企てたが、職員を傷つけたために懲罰を受けた。同年6月には、金属製の老眼鏡フレームで胸を突き、自殺を企てたが失敗した。
執 行
 2013年9月12日執行、73歳没。
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氏 名
鈴木泰徳
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 2004年12月12日~2005年1月18日
罪 状
 強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、強盗強姦、強盗強姦未遂
事件名
 福岡3女性連続強盗殺人事件
事件概要
 福岡県直方市のトラック運転手鈴木泰徳被告は以下の事件を起こした。
 2004年12月12日午後11時40分頃、飯塚市の公園で専門学校生の女性(当時18)を強姦したうえ、女性の首をマフラーで絞めて殺害した。さらに財布を奪おうとしたが通行人が現れたため何もとらずに逃走した。
 2004年12月31日午前7時頃、北九州市の路上でパート従業員の女性(当時62)の胸や背中を包丁で刺し殺害、約6,000円入りの財布などが入ったバッグを奪った。
 2005年1月18日午前5時半頃、福岡市の公園で会社員の女性(当時23)を強姦しようとしたが、通行人に目撃されることを恐れ断念。女性の腹などを包丁で刺して殺害し、携帯電話や財布(約1,000円)が入ったカバン(総額約45,000円)を奪った。
 2005年3月8日午前1時頃、捜査本部は福岡市で殺害した女性の携帯電話を持っていた鈴木被告を直方市内で見つけ、占有離脱物横領の現行犯で逮捕した。鈴木被告は携帯電話で出会い系サイトを利用していた。犯行を自供した鈴木被告を、3月10日に強盗殺人容疑で逮捕した。鈴木被告は自損事故を立て続けに起こして2月22日に運送会社を退職し、逮捕時は土木作業員をしていた。
 鈴木被告は事件当時、飲み代やパチンコ、携帯電話の出会い系サイト料金の支払いなどのため計800万円の借金を抱えており、結婚生活が破綻していた。
一 審
 2006年11月13日 福岡地裁 鈴木浩美裁判長 死刑判決
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控訴審
 2008年2月7日 福岡高裁 正木勝彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
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上告審
 2011年3月8日 最高裁第三小法廷 岡部喜代子裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 鈴木被告は飯塚市の事件では殺意を認めたが強盗目的を否認。北九州市の事件では「女性ともみ合ううちに転倒し刃物が刺さった」と殺意を否認。福岡市の事件では殺意や暴行、強盗目的を認めていない。
 2006年1月26日の公判で、検察官は「3人を殺して無期懲役になるのは虫が良すぎる。今から(死刑を)覚悟しておいた方がいい。こんな事件を社会は許さない」と語った。また鈴木被告は取り調べに対する不満を述べることに終始し「事件を防ぐにはどうするべきだったか今も分からない」などと述べた被告に対し、谷敏行裁判長は「君は事件に向き合っていない。被害者の立場で考えることが責任ではないか」「遺族は君の反省の言葉を望んでいる。君が殺したんだよ。遺族は『到底許せない』との気持ちを深めたと思わないか」と声を荒らげ約10分間説諭した。
 論告で検察側は事件の動機について「経済的な困窮状態と性的な欲求不満状態から、強盗と暴行目的で女性を物色していた」と指摘。いずれの事件も口封じのために殺害したとした。そのうえで「女性の性や生命に対する畏敬の念もなく、自らの欲望を満たすために女性を襲い殺害した、凶悪かつ残忍極まりない犯行」と厳しく非難した。
 また、飯塚市の事件については捜査段階の供述から強盗目的はあったと指摘。北九州市の事件での殺意については、包丁で刺した回数や傷の深さなどから強固な殺意があったとした。福岡市の事件についても傷の状況や犯行態様、当時の生活状況から暴行・強盗目的だったと指摘した。
 そして検察側は、「若い人に犯罪に走らないよう伝えたい」「命の大切さを伝えるためにも死刑にはなりたくない」などと死刑回避を求める鈴木被告の法廷での態度について、「醜悪極まりなく、常識はずれも甚だしい。遺族の怒り、悔しさを増幅させた」と厳しく指摘した。「何の落ち度もない女性を襲った凄惨、冷酷な犯行に酌量の余地は皆無。死刑の適用をためらう必要性など全くない」と述べ、死刑を求刑した。
 最終弁論で弁護側は、今までの公判で認めていた飯塚市の事件の殺意を否認し、「首は絞めたが、殺害目的はなかった」と強盗致死罪の適用を求めた。弁護人は「被害者3人に対して殺意はなかった。強盗殺人ではなく、傷害致死や強盗致死などに該当する」「被告は、被害者に謝罪し、反省しており、更生の可能性はある」と主張。さらに「自白の誘導などがあった」と捜査を批判し「ごく普通の会社員だった被告が短期間に犯行を重ねており、動機は未解明だ」と述べた。
 鈴木被告は最終意見陳述で、謝罪の言葉を述べる一方、「取り調べでは、捜査側の考えを押しつけられた」「裁判長の質問に、とげがあるように感じるのは私だけでしょうか」などと、約1時間にわたって捜査や裁判批判を展開。これまでの公判で、裁判長から事件と向き合うよう諭される場面もあったが、最後には「事件を起こした原因は、答えが出ません」などと述べて締めくくった。
 判決で鈴木裁判長は傷跡の状況や凶器の殺傷能力などから、いずれも「金品を奪い取る目的で、殺意もあった」と強盗殺人罪の成立を認定した。量刑理由では、「金銭欲などから3人もの女性を殺害した動機に酌量の余地はない」と指摘。1月18日の事件で、犯行後に女性の携帯電話で出会い系サイトを利用したことなどを挙げ、「被害者へのぼうとくで、犯行後の情状は劣悪」と断じた。
 さらに、「被害者の生命だけでなく、遺族らの幸福な生活をも奪った」と遺族感情に言及。鈴木被告が、公判で捜査官の取り調べに対する不平不満を述べることに終始したり、「正義の味方面した検察官は許せない」とする文書を福岡県警に送ったりした点を挙げ、「自分の行った行為を見つめ直しているとは言えず、遺族の感情をさらに害した。自己中心的かつ身勝手な考え方や犯罪性向は深まっている」「動機に酌量の余地はなく、殺害方法も凶悪で残忍。被告には反省の態度がなく、遺族の処罰感情は厳しい」「凶悪で残虐極まりない犯行。人間らしい理性もなく、生命をもって償うのが相当」と結論づけた。

 2007年7月10日の福岡高裁初公判で、弁護側は鈴木被告が犯行後、被害者の携帯電話を使い続け、凶器の刺し身包丁を捨てずに車中に置き、罪の意識もなく生活を送っていた点を指摘。「妄想性人格障害か妄想性障害の影響下だった」として、心神喪失か心神耗弱を主張した。そして弁護側は「犯行時、責任能力がないか、著しく欠いた状態だった」と主張、精神鑑定を申請した。検察側は「著しく不自然、不合理な主張で、到底信用できない」として、控訴棄却を求めた。正木裁判長は、精神鑑定の採否について、留保とした。
 11月6日の第3回公判で、正木裁判長は弁護側が請求していた鈴木被告への精神鑑定を却下し、結審した。この日の公判で、遺族は「被告には反省、悔悟が見られない。私の命と引き換えに被告を殺したい」と意見陳述で涙ながらに悲痛な思いを吐露した。これに対し、鈴木被告は被告人質問で「『罪を憎んで人を憎まず』と言う。権力が人を許さないと、更生への道を閉ざすことになる」「都合のいいことを言うな、と言われるでしょうが、生きて償う道を私に与えてほしい」などと死刑回避を訴えた。
 判決で正木裁判長は「被害者の人格を無視した強固な確定的殺意に基づく、非情かつ残酷な犯行」「性的欲求や金銭欲に始まり、人命軽視も甚だしく、身勝手極まりない」「目を覆いたくなるほど残虐で、通り魔的犯行として社会を震撼させた。刑事責任は極めて重大で、死刑はやむを得ない」と指摘した。
 極度のストレスで心神喪失か耗弱状態だったという弁護側の主張に対して、正木裁判長は「日常生活で被告の言動に異常を感じた者もいない」「軍手や包丁を用意して被害者を追跡するなど、その場の状況に即した対応をしており、不自然、不合理な点は一切認められない」とし、「妄想や意識障害を疑わせるような状況は存在せず、責任能力に疑問を差し挟む余地はない」と退けた。

 2011年2月8日の最高裁弁論で、弁護側は「計画的な犯行とは言えない。責任能力に疑問があり、死刑は重過ぎる」などと死刑回避を求めた。検察側は「何の落ち度もない通り掛かりの女性3人を、1か月余りの間に次々と襲った執拗かつ残虐な犯行で、極刑で臨むほかない」として上告棄却を求めた。
 判決で岡部喜代子裁判長は「借金などで金銭に窮し、性的に欲求不満だったことから、わずか1カ月余りの間に犯行を重ねた動機や経緯に酌むべき点はない」と指摘。その上で「犯行は計画的で、非情、残忍。動機や経緯に酌むべき点はない。何の落ち度もない3人の命が奪われた結果も誠に重大で、通り魔的犯行として社会に与えた影響も大きく、死刑の適用はやむを得ない」とした。
備 考
 福岡地検は2005年6月の初公判以降、公判の度に、担当の検察官が遺族に公判内容を解説する異例の犯罪被害者支援の「説明会」を行ってきた。質問に応じ、感想を述べ合って公判内容の充実を図った。
執 行
 2019年8月2日執行、50歳没。
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氏 名
小林正人/大倉淳/芳我匡由
事件当時年齢
 小林正人、大倉淳被告:19歳 /芳我匡由被告:18歳
犯行日時
 1994年9月28日~10月7日
罪 状
 小林被告:強盗殺人、殺人、強盗致傷、監禁、死体遺棄、傷害、恐喝、暴力行為等処罰に関する法律違反
 大倉被告:強盗殺人、殺人、強盗致傷、監禁、死体遺棄、傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反
 芳我被告:強盗殺人、殺人、強盗致傷、監禁、死体遺棄、傷害
事件名
 大阪・木曽川・長良川連続リンチ殺人事件
事件概要
 少年集団10人が、集団リンチ事件を引き起こした。概要は以下。
【大阪事件】1994年9月28日午前3時ごろ、小林正人被告と河渕匡由(旧姓)被告が大阪市中央区の路上で通りがかった二人の若い男性とトラブルになった。小林被告と河渕被告は、そのうちの一人である大阪府柏原市の無職男性(当時26)を同区内のたまり場であるビル居室に連れ込み、両手足を緊縛するなどして身動きができない状態にして監禁した。小林被告と河渕被告は小森淳被告及び共犯者1名とともに激しい暴行を加えた後、男性を人夫出し業者に引き渡して金を得ようとしたが、業者から思わしい返事が来なかったのに腹を立て、男性にさらに暴行を加えた。そして29日午後8時ごろ、首に巻き付けたベルトの両端を力一杯引き合うなどして頸部を絞め付けて殺害した。兄貴分である暴力団組員と相談し、死体を高知県内の山中に運んで遺棄した。
 大阪事件後も4人はカツアゲなどをしつつ、パチンコやシンナーに興じていたが、根城としていた雑居ビルの一室に大阪府警が強制捜査。中にいた共犯者が逮捕された。たまたま外出中だった3被告は、小林被告の地元である愛知県に逃亡した。
【木曽川事件】同年10月6日夜、愛知県稲沢市の知人宅を訪れた同市の型枠解体工の男性(当時22)を、3人や共犯者らとビール瓶などで殴打し瀕死の重傷を負わせた。そして翌7日未明、同県尾西市の木曽川堤防でさらに暴行、河川敷に放置して殺害した。
【長良川事件】同7日夜、稲沢市のボウリング場でたまたま顔を合わせた男性3人に因縁をつけ、車で連れ回し暴行、11,000万円を強奪。翌8日未明、岐阜県輪之内町の長良川河川敷で3人のうち、尾西市の会社員(当時20)と同市のアルバイト(当時19)を金属パイプで殴り殺した。大学生(当時20)は大阪市の近鉄難波駅で交通費4,000円を渡され、解放されたが重傷。
 10月12日、小森被告が大阪府警に出頭し、逮捕された。14日、小林被告が一宮署に出頭して逮捕された。逃亡中だった河渕被告は1995年1月18日、大阪府警に逮捕された。
 一宮市生まれの小林正人被告(当時19)は地元で非行を繰り返し、津島市で引き起こした強盗事件で警察に追われ、1994年8月ごろに大坂へ逃亡していた。リーダー格である大阪府松原市生まれの小森淳被告(当時19)は、職を転々とする一方、暴力団組員の舎弟となっていた。二人は大阪のパチンコ店で偶然知り合い、大阪事件の共犯者1名とともに意気投合した。さらに9月には、大阪市西成区生まれの河渕匡由被告(当時18)が加わった。4人はカツアゲなどを繰り返していた。
 3事件で8人が起訴された。他に少女2人が少年院送致されている。
一 審
 2001年7月9日 名古屋地裁 石山容示裁判長 小林被告=死刑判決、小森被告・芳我被告=無期懲役判決
控訴審
 2005年10月14日 名古屋高裁 川原誠裁判長 一審破棄 3被告=死刑判決
上告審
 2011年3月10日 最高裁第一小法廷 桜井龍子裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 名古屋拘置所(小林正人死刑囚は東京拘置所へ移された)
裁判焦点
 検察側は公判で「少年犯罪史上、前代未聞の凶悪事件」と位置づけ、暴行の残虐性や執ようさを主張し「暴行や強盗の隠ぺいのためという殺害動機に酌量の余地はなく、矯正の可能性はない」と指弾した。
 これに対し弁護側は、非行臨床心理学者の心理鑑定を実施。3被告は不遇な環境で育ち、人格的に未成熟だったと指摘、「反省を深めており、更生は可能」と少年法の保護育成の精神に基づいて死刑を避けるよう主張した。
 また、検察側は「確定的殺意があり、事件で果たした役割に差はない」と3被告の刑事責任は同等と主張した。一方、被告側は4人を死亡させた責任は認めたが、確定的な殺意は否定。小林被告は木曽川、長良川両事件に関し「未必の故意を含め殺すつもりはなかった」と主張。小森被告は「大阪事件は暴行の途中で現場を去り、帰ったら被害者が死亡していた」と、起訴事実の一部を否認している。
 一審判決で木曽川事件については殺人ではなく、傷害致死を適用。小林被告は中心的な立場にあり、集団の方向性を決定づけていたとして死刑判決。小森被告は兄貴分でありながら小林被告に追従したとして、無期懲役判決。芳我被告はもっとも年下で格下であり、追従せざるを得なかったとして無期懲役判決が言い渡された。

 控訴審で検察側は、木曽川事件は殺人罪が成立すると主張。また、「3被告の果たした役割に差はない」として、改めて3被告に死刑判決を求めた。
 3被告の弁護側はいずれも各事件の殺意や強盗の犯意などを争うとともに、未成熟な少年たちが集団の中で虚勢を張り合い、犯行をエスカレートさせる少年事件特有の「強気の論理」や矯正可能性を重視するべきで、死刑は重すぎて不当だと訴えていた。
 また小林被告の弁護側は、「首謀者との評価は誤り。重要な場面では小森被告の役割が大きかった。未成年者が虚勢を張り合う中で起きた犯行で、中心的役割とした一審判決は誤りだ。死刑は重すぎて不当」と述べた。
 小森被告の弁護側は、「形式上は兄貴分だったが、小林被告に追従する立場だった。場当たり的な犯行で、殺意はなかった」と主張し、有期懲役刑を求めた。
 芳我被告の弁護側は、「集団の中で末端の従属者に過ぎない」などと述べ、有期懲役刑を求めた。
 判決で川原裁判長は、まず木曽川事件について死因を一審同様、明確に特定しなかったが「瀕死の重傷を負わせた事前の暴行を隠ぺいする動機で、約12メートルの堤防斜面を転がり落として河川敷まで運んだ。死期を著しく早める行為で、想定される死因のいずれでも、3被告の行為と死亡の因果関係は認められる」と述べた。大阪事件では、関与を否認していたK・J被告を含め、3被告の共謀を認めた。長良川事件については、強盗殺人罪が成立するとした。
 弁護側が殺意や共謀を争った点についても、3被告の言動や遺体の損傷状況などから「殺意と共謀は優に認められる」として退けた。
 小林被告について、「終始、主導的に犯行に及び、グループの推進力として、際立って重要な役割を果たした」と指摘。グループのリーダーである小森被告は、「小林被告が前面に出る場面もあったが、総合的にみて、小林被告とともに主導的に犯行にかかわった」とした。また、芳我被告も、「グループの中での序列は一番下だったとはいえ、強制された訳でもなく、かえって積極的に犯行に及んだ」と認定した。

 2011年2月10日の最高裁弁論で被告側は二審で殺人と認定された愛知県の事件について「傷害致死にとどまる」と主張。「二審は、恵まれない環境で育ち、健全な発達を阻害された少年の精神的未熟さを十分に考慮していない。精神的に未熟な少年による犯行で、最高裁が示した基準に照らしても死刑は重すぎる」などと述べた。またその上で、一、二審とも死刑だった小林被告の弁護側は「遺族に謝罪の手紙を送るなど反省しており、立ち直りは可能だ」と述べた。一審は無期懲役だった小森被告の弁護側は「積極的に暴力にかかわっておらず、従属的だった。死刑を望まない遺族もおり、生きて償う努力をさせるべきだ」と主張。同じく一審は無期懲役だった芳我被告の弁護側は「果たした役割は従属的で、主犯とは言えない。心の底から反省、後悔しており、死刑は重すぎる」と訴えた。
 検察側は「残虐なリンチで4人の命を奪った責任は誠に重大。被告はいずれも根深い犯罪性があり、結果の重大性や遺族の被害感情などを考えれば、犯行時少年だったことが、死刑を回避すべき特別な事情にはならない」と反論した。
 判決で桜井龍子裁判長は「無抵抗の被害者に集団で暴行を加え、その痕跡を消そうと殺害に及んだ理不尽な動機に酌量の余地はない。執拗かつ残虐な犯行で、わずか11日間で4人の命を奪った結果は誠に重大」と指摘した。争点となった3人の役割については、小林被告を「犯行を強力に推進し、最も中心的で重要な役割を果たした」と認定した。一審では従属的とみなされた他の2被告については、小森被告を「小林被告とともに主導的立場で犯行を推進した」とし、芳我被告も「進んで殺害行為に着手するなど主体的に関与し、従属的とは言えない」と指摘、いずれも積極的に関わったと認めた。そして「3人が少年だったことや場当たり的な犯行、遺族に謝罪の意を示していることなどを最大限に考慮しても、死刑はやむを得ない」と述べた。
他被告への判決
 大阪事件で被害者の遺体を高知県内の山中に捨てたとして死体遺棄の罪に問われた暴力団組員の男性(判決時46)は1995年4月21日、大阪地裁で懲役1年8月判決(求刑懲役2年6付)。控訴せず確定。
 木曽川事件で殺人に加わった一宮市の少年(事件当時19)は1995年7月6日、名古屋地裁で懲役4-8年の不定期刑判決(求刑懲役5-10年)。控訴せず確定。
 大阪事件で殺人、死体遺棄に加わった東大阪市の少年(判決時19)は1995年9月12日、大阪地裁で懲役4-8年の不定期刑判決(求刑懲役5-10年)。控訴せず確定。
 木曽川事件、長良川事件に関与した稲沢市の男性被告(判決時21)は傷害致死ほう助、監禁、強盗致傷の罪で起訴されたが、1996年3月20日、名古屋地裁で強盗致傷もほう助にとどめ、懲役3年執行猶予4年判決(求刑懲役7年)。判決では少年らに脅されていたと認定された。控訴せず確定。
 木曽川事件、長良川事件に関与した稲沢市の男性被告(判決時23)は殺人の罪で起訴されたが、1997年3月5日、名古屋地裁で殺人ほう助にとどまると認定され、懲役3年執行猶予4年判決(求刑懲役7年)。控訴せず確定。
備 考
 芳我匡由被告の旧姓は河渕。黒澤淳被告の旧姓は小森で、その後大倉と改姓していた。
 同一の少年事件で、複数の被告へ一度に死刑が言い渡されたのは、1961年12月16日に長崎地裁で2被告に死刑判決が出て以来(二審でともに無期懲役に減軽)で、複数の被告の死刑が確定するのは戦後初。犯行時18歳だった少年に対する死刑判決は、1969年10月2日に片桐操元死刑囚へ最高裁が二審死刑判決に対する上告を棄却して以来。
その他
 芳我匡由被告は、『週刊文春』に実名に似た仮名で記事を書かれたことについて「少年法に反する」と損害賠償請求訴訟を起こした。一審、二審では請求を認め、文春側に30万円の支払いを命じたが、最高裁は「記事によって一般読者が元少年を犯人と推測できるとはいえない」として、少年法に違反しないと判断。審理を名古屋高裁に差し戻し、同高裁は改めて元少年の請求を棄却。2004年11月2日、最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)は、この元少年の上告を棄却する決定をした。
 最高裁判決時、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、共同通信、時事通信、NHK、フジテレビ、テレビ東京などは実名で報道した。日弁連の宇都宮健児会長は「少年法に違反しており、極めて遺憾だ」とする声明を発表した。毎日新聞は匿名報道を続けるというコメントを発表している。
 週刊誌『FRIDAY』(講談社)は2011年5月12日発売号で、死刑確定前の3月11日に名古屋拘置所で大倉淳被告と面会した際に撮影したとする写真を掲載した。面会したジャーナリストの青木理氏の記事とともに、元少年がアクリル板越しに涙をぬぐう様子など3枚を掲載した。フライデー編集部は「報道に意義があると考え、編集部独自の判断で掲載した。撮影方法についてはコメントしない」と話している。名古屋拘置所によると、面会時の撮影を禁じる法律はないが、拘置所の規定で撮影や録音を禁じており、一般面会者のカメラや携帯電話などをロッカーに保管させる上、金属探知機でも確認し面会室への持ち込みを認めていない。大倉死刑囚は5月12日、弁護人の村上満宏弁護士に「記事の内容に不服はない」との感想を伝えた。拘置所で接見した弁護士が明らかにした。死刑囚は撮影や掲載を事前に知らされていなかったという。
現 在
 小林正人死刑囚は2011年12月16日付で、名古屋高裁に再審を請求した。弁護団は新たな証拠として、専門家に依頼し2008年春、小林死刑囚に対し独自に実施した精神鑑定の結果を高裁に提出した。申立書で「離人症を伴う解離性障害だったと診断された」と指摘しており、「事件当時は心神喪失状態で無罪だ」と主張している。
 名古屋拘置所は小林正人死刑囚(当時控訴中)から預かっていた大量の公判記録などを入れた段ボール10箱を預かって保管していたが、2005年4月、このうち3箱を廃棄した。中には少なくともA4用紙8400枚分の資料が入っていたという。拘置所によると、弁護人らから差し入れられた公判記録は収容者が所持できるが、大量の場合、預かることもあるという。拘置所は、死刑囚から記録の閲覧を求められて廃棄に気づき、同年5月に謝罪したという。
 小林正人死刑囚は2011年5月、「控訴審に臨むために必要不可欠だった資料を廃棄され、精神的苦痛を受けた」として、国を相手取り598万円の損害賠償を求める訴訟を名古屋地裁に起こした。
 名古屋高裁(柴田秀樹裁判長)は2013年2月4日付で、小林正人死刑囚の再審請求を棄却した。弁護側は精神鑑定を基に事件当時は責任能力がなかったと主張したが、柴田裁判長は「鑑定結果の信頼性には甚だ疑問がある。ささいな動機から殺人を繰り返しても精神障害とは疑われず、行動制御能力を失っていた疑いは生じない」と棄却を決定した理由を述べた。
 小林正人死刑囚が別事件の容疑者になっていた際、名古屋拘置所が弁護士との接見で職員を立ち会わせたのは違法として、小林死刑囚と弁護士2人が国を相手に計776万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、名古屋地裁は2014年8月28日、国に計63万円を支払うよう命じた。福井章代裁判長は判決理由で、小林死刑囚が2010年12月、拘置所職員に他の収容者に関する情報の漏えいをそそのかしたとして、国家公務員法違反の容疑者とされたと認定。「死刑囚を立件したり容疑者として取り扱う意思はなかった」と主張した国側の主張を退けた。そのうえで判決は、弁護士2人が2011年4~8月、小林容疑者に接見を8回、申し込んだ際、拘置所が接見を認めなかったり、職員を立ち会わせたりしたのは違法と判断し、1回の接見ごとに慰謝料3万~9万円ずつを支払うよう命じた。小林死刑囚は2011年8月、この容疑で不起訴となった。

 大倉淳死刑囚は2013年1月、名古屋高裁に再審を請求した。新証拠は大倉死刑囚の上申書と法医学者による遺体の鑑定書。上申書では自らの暴行と被害者の死亡に因果関係がないことなどを主張している。鑑定書は事件のうち1件について大倉死刑囚が暴行を加える前に「他の共犯者によって致命傷が与えられていた可能性がある」としている。新証拠は上告審でも提出されたが証拠調べはされなかった。
 名古屋高裁(柴田秀樹裁判長)は2013年8月19日付で、大倉淳死刑囚の再審請求を棄却した。柴田裁判長は、大倉死刑囚の殺意や共謀を打ち消す新証拠として提出された本人の上申書と鑑定書は「新規性を欠き、証拠価値についても信用性が乏しい」と判断。「確定判決は自白調書のみによって認定したものではない。自白調書の信用性を否定する理由は具体的根拠に乏しく、一般論にすぎない」などとして退けた。

 名古屋拘置所の職員2人が2008~2010年、面会者の氏名や手紙の宛先などのメモを収容中の共犯者に渡したのは違法だとして、芳我匡由死刑囚が国に慰謝料160万円の支払いを求めた訴訟で、名古屋地裁(堀内照美裁判長)は2014年4月18日、訴えの一部を認め、国に10万円の支払いを命じた。堀内裁判長は判決理由で、「原告は事件で共犯者と主従関係を争っており、情報提供を望まないことは容易に推測できる」とし、「職員の行為は精神的苦痛を与えるものであると言わざるを得ない」と指摘した。
 支払いを命じた1人分については判決が確定。訴えを退けられた残り1人分(100万円分の損害賠償)について、芳我死刑囚は名古屋高裁に控訴した。2015年2月5日、名古屋高裁の木下秀樹裁判長は「(芳我死刑囚が)事件当時、少年だったことに照らすと、漏えいの違法性は重大」などと述べ、請求を退けた一審判決を変更し、国に30万円の支払いを命じた。職員2008年8~9月、芳我死刑囚の旧姓や事件の内容などを別の収容者に漏らした。一審では漏えいの事実を認めたが、「名誉やプライバシーが侵害されたとはいえない」などと判断していた。

 名古屋高裁(石山容示裁判長)は2015年12月24日付で、請求を退けた同高裁の別の裁判部による決定に対し、小林正人死刑囚と黒澤淳(旧姓大倉)死刑囚が申し立てた異議を棄却した。決定理由で石山裁判長は「証拠は新規性を欠き、価値も乏しい。再審請求の棄却決定に事実誤認や判断の誤りはない」と指摘した。
 2016年12月、最高裁で両死刑囚の特別抗告が棄却された。

 小林正人死刑囚、黒澤淳死刑囚、芳我匡由死刑囚はいずれも2016年12月、名古屋高裁に再審請求を別々に提出した。小林、黒澤死刑囚は第二次再審請求となる。
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氏 名
片岡清
事件当時年齢
 72歳
犯行日時
 2003年9月28日/2004年12月10日
罪 状
 住居侵入、強盗殺人、道路交通法違反、道路運送車両法違反、自動車損害賠償保障法違反
事件名
 広島・岡山独居老人強盗殺人事件
事件概要
 無職片岡清被告は2003年9月28日夜、広島県東城町に住む一人暮らしの女性(当時91)宅の物置部屋の窓を、ドライバーなどでこじ開けて侵入。寝室にいた女性が驚いて逃げようとしたため、首を手で絞めて殺害した。室内を物色したが、何も見つからず逃走した。片岡被告は「裕福なお年寄りがいる」という情報を得たため、殺害して現金を奪うことを計画したが、名前を忘れたため、お年寄りが住んでいた東城町で人違いをして女性を殺害していた。
 また片岡被告は、岡山県井原市のそば店店主の男性(当時76)方で2004年12月10日深夜、男性の頭部などをバールで殴って殺害し、現金約5万円などを奪った。
 片岡被告は12月14日、広島県内で無免許運転の現行犯で逮捕。その後岡山の事件を自供し、12月24日に強盗殺人容疑で再逮捕。さらに2005年2月2日、広島の事件で再逮捕された。
一 審
 2006年3月24日 岡山地裁 松野勉裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2008年2月27日 広島高裁岡山支部 小川正明裁判長 一審破棄 死刑判決
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
上告審
 2011年3月24日 最高裁第一小法廷 桜井龍子裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 広島拘置所
裁判焦点
 片岡被告は捜査段階で殺意を認めた。
 2005年4月18日の初公判で、片岡被告は岡山の事件の起訴事実を認めた。
 検察側は冒頭陳述で「被告は広島での強盗殺人事件で警察に逮捕されるのを恐れ車で放浪生活をしていた。事件当日、タイヤがパンクし、修理代などを得て放浪生活を続けるため犯行を決意した」と指摘した。
 6月10日の公判で、片岡被告は広島の事件の起訴事実を大筋で認めた。
 検察側は冒頭陳述で「同居していた元妻の実母の介護のため外出できず収入が無くなり、借金して生活費に充てるようになった。2003年9月末の支払資金が無くなり、被害者を殺害し金を奪うことを決意した」と動機を明らかにした。
 片岡被告はその後の公判で、広島の事件について「被害者を脅して金を借りようと思っただけで、殺すつもりはなかった」「首を絞めた後、『落ちた(気を失った)』と思い、すぐ手を離した」と主張を変更、殺意を否定した。
 2006年1月25日の論告求刑で検察側は、広島の事件について、内妻が購入した健康器具の支払いができず、金を奪おうとした犯行動機を明かし、「被害者の首を絞めた後、ビニールひもでしばり、布団をかけて発見されるのを防いだ」など確定的な殺意があったことを強調。さらに岡山の事件では、犯行後にもバールなどを購入していたことを挙げ、「人命軽視の傾向が見られ、第3、4の事件が起きていたかもしれない」と再犯可能性を示した。そして「犯罪史上まれに見る凶悪事件」などと約30分にわたり、犯行の残忍性を指摘。「人命軽視の傾向が強く、矯正は不可能」と述べ、死刑を求刑した。
 弁護側は同日の最終弁論で、広島事件の殺意を否認した上で、極刑回避を求めた。
 松野裁判長は広島での事件について「被害者を一時的に気絶させるつもりだった」などとして殺意を否定し、強盗致死罪を適用。「金銭目当ての自己中心的な動機で二人の命を奪い、広島、岡山両県の高齢者を不安に陥れるなど社会的影響も大きい」としながらも「責任は極めて重大で死刑の求刑にも相当な根拠があるが、被害者の遺族に謝罪の手紙を送るなど、参酌すべき事情もある。矯正措置が全く不可能とまでは言えない」と理由を述べた。

 量刑不当を理由に検察側が控訴。
 控訴審で検察側は、「犯行の下見をした際に被害者に顔を見られており、殺すつもりで1分以上、両手で首を絞めた」と改めて強盗殺人罪が成立すると指摘。これに対し、弁護側は「当初は被害者を脅して金を借りようと思っていた。騒いだ被害者を黙らせようと思い、片手の指で数秒間、首を絞めただけだ」として殺意や計画性を否定していた。
 判決で、小川裁判長は「被告は自己に有利なように供述を変遷させており、一審での供述は信用性に欠ける」と指摘。殺害状況について「被告は被害者が抵抗しても、2~3分にわたり首を両手で強い力で絞め続けた。その後も救命救護の措置を取らず、毛布を頭からかぶせ金品を物色した」と明確な殺意を認め、「強盗致死とした一審判決には事実誤認があった」とした。そして2件の事件は「いずれも経済的窮境を脱するために他人の生命までも踏みにじったもので、動機は理不尽で極めて身勝手かつ自己中心的。同情すべき点はいささかもない」と指弾した。そして「極刑をもって臨むほかない」とし、一審を破棄した。

 2011年2月28日の最高裁弁論で弁護側は一審が強盗致死、二審が強盗殺人と認定した広島の事件について「確定的殺意どころか未必的故意さえも認められず、著しい事実誤認がある」として無期懲役が相当と主張。検察側は上告棄却を求めた。
 判決理由で桜井龍子裁判長は「金品目当ての犯行動機に酌量すべき点はなく、人命軽視の態度は強い非難に値する。犯行態様も執拗、残虐で、落ち度のない2人の命を奪った結果は誠に重大だ」と指摘、「高齢で、反省や謝罪の態度を示している点などを考慮しても、死刑はやむを得ない」と述べた。
備 考
 2003年9月の広島の殺人事件で、広島県警は当時片岡被告を二度にわたって事情聴取したが、自供を得られず、証拠も無かったため立件を見送っていた。
 死刑確定時年齢79歳。死刑確定時の年齢としては、戦後史上最高齢と思われる。
 判決訂正申立が棄却されたのは2011年4月18日付であり、小林竜司死刑囚より遅い。
その後
 再審準備のため拘置所で面会した際、職員が立ち会ったのは秘密交通権の侵害にあたるなどとして、片岡清死刑囚に接見した杉山雄一弁護士ら3人が2013年6月21日、国を相手取り、計360万円の損害賠償を求める訴訟を岡山地裁に起こした。杉山弁護士らは、再審請求手続きの弁護人に選任され、2012年6月と9月の2回、手続き打ち合わせのために広島拘置所を訪問。接見に職員が立ち会わないよう拘置所に要請したが、拘置所は「拘置所長の判断」として認めず、接見時間も30分に制限された。弁護士らは「接見中、立会人にメモを取られるなどした。再審請求の中身が漏れる危険があり、具体的な話し合いができなかった」と主張している。
 2015年8月25日、岡山地裁は原告側の請求を棄却した。北沢裁判長は「死刑囚は認知症を患い、立ち会いで心情の安定を把握する必要性が高かった」と指摘した。原告側は控訴した。しかし2016年3月18日、広島高裁岡山支部(大泉一夫裁判長)は、原告側の主張を一部認めて国に計18万円の支払いを命じた。大泉裁判長は「面会で心情の安定が害される恐れがあったとはいえない」などと拘置所側の裁量権の逸脱を指摘。また、拘置所側が面会時間を30分に制限したことの違法性も認めた。
 2014?年、広島高裁岡山支部へ再審請求。広島事件で強盗致死罪を主張。2016年1月5日、広島高裁岡山支部で請求棄却。おそらく即時抗告中。
 2016年2月14日午前、アルツハイマー病に伴う摂食障害、衰弱で死亡。84歳没。片岡死刑囚は2008年10月にアルツハイマー病と診断された。2016年1月14日、収容先の広島拘置所でアルツハイマー病や嚥下性肺炎などのため意識不明となり、拘置所外の病院に入院していた。
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氏 名
小林竜司
事件当時年齢
 21歳
犯行日時
 2006年6月19日~20日
罪 状
 殺人、強盗、監禁、暴力行為等処罰に関する法律違反(集団暴行)、傷害
事件名
 東大阪大生リンチ殺人事件
事件概要
 東大阪大学4年の男子学生Fさん(当時21)は、同じ大学サークル内にいた東大阪大学の女性(当時18)と交際していたが、同じサークルにいた東大阪大短期大学の卒業生でアルバイト従業員TY被告(当時21)が女性に携帯メールを送ったことを知り激怒。相談を受けた無職Iさん(当時21)は仲間2人とともにTY被告から金を脅し取ろうと計画。
 2006年6月16日夜、Fさん、Iさん、男性会社員(当時21)、同大3年の男子学生(当時20)の4人は、TY被告、同じサークルにいる東大阪大3年のSY被告(当時21)を東大阪市の公園に呼び出し、顔などを殴って打撲の怪我を負わせた後、約1時間に渡り車内に監禁。Iさんは実在する暴力団の名前を出し、女性トラブルの慰謝料の名目で、計40万円を要求するなどした。
 SY被告は事件後、中学校時代の同級生だった岡山県玉野市の無職小林竜司被告(当時21)に電話で相談。小林被告は同じく同級生であった大阪府立大3年のHT被告(当時21)に相談するよう指示した。相談に乗ったHT被告は仕返し方法を計画。17日、SY被告らは大阪府警に恐喝容疑などで被害届を提出した。また小林被告は、同県内の風俗店で働いていた際の知り合いで岡山市に住むも都暴力団員で無職OK被告(当時31)に電話で対応を相談した。OK被告は相談に対し、「相手を拉致し、暴行して金を取ってやれ」と指示。さらに、山口組関係者と称していたというIさんに関しては「ヤミ金融や消費者金融で借金漬けにしてやるから、連れてこい」と命じた。
 18日、HT被告は大阪府に住む大阪商業大4年のSS被告(当時22)、SY被告、無職SH被告(当時21)を連れ、岡山県に行き、小林被告、小林被告の元アルバイト先の後輩だった岡山県玉野市の少年(当時16)と合流。HT被告はここで、男子学生らへのリンチ計画を明かし、それぞれの役割を決めた。小林被告には凶器を準備するよう指示し、少年が特殊警棒などを事前に購入していた。 ただしこのときは、殺人までは計画していなかった。同日、小林被告の指示で後輩少年被告が仲間として、玉野市の派遣社員の少年(当時16)とアルバイトの少年(当時17)を連れてきた。
 18日夜、SY被告、TY被告は「被害届を取り下げる」「神戸で慰謝料を払う」という口実で男性会社員の車にFさん、Iさんとともに同乗。途中で「岡山なら払える」と偽り、岡山市に誘い出した。
 19日午前3時過ぎ、山陽自動車道岡山インターチェンジで、待ち伏せしていた小林被告は仲間と一緒にFさん、Iさん、男性会社員の3人を取り囲み、仲間と交代で特殊警棒やゴルフクラブなどで殴るなどの暴行を加えた。このとき、携帯電話と現金約98,000円を奪った。Iさんが「知り合いのやくざを呼ぶぞ」という言葉に小林被告らが激怒。さらに岡山県玉野市内の公園に場所を移し、執拗に暴行を続けた。現場で直接、暴行したのは小林、SY、TY各被告と後輩少年被告であり、HT被告は指示役、他の被告は見張りなどをしていた。Fさんがぐったりしたため「やりすぎた」と後悔したが、警察への発覚を恐れ殺害を決意。そして小林被告が以前働いたことのある岡山市内の資材置き場に移動した。午前4時50分ごろ、Fさんを資材置場で生き埋めにし、窒息死させた。このとき、小林被告が自らパワーショベルを操作して穴を掘り、小林、SY、TY各被告と後輩少年被告がコンクリート片や石を投げつけた上、小林被告が後輩少年に重機で土をかぶせるよう指示。少年がショベル部分で何度も地面をたたいて土を固めた。パワーショベルは、小林被告と少年が以前働いていた解体会社の持ち物で、小林被告の指示で少年が事前に鍵を持ち出していた。廣畑被告はSS被告、SH被告に、資材置き場の入り口付近とふもとの道路で人の出入りや車の通行などの見張りをするよう指示。少年2人やSY被告とTY被告にも、Fさんや一緒に拉致した男性会社員、車のトランクで監禁したIさんが逃げ出さないように監視を指示した。
 その後、男性会社員は最初の暴行に余り関与していないとSY被告やFさん、Iさんが話したことで解放した。男性会社員はHT被告、SS被告をマイカーに乗せて大阪に戻り、19日朝、2人を降ろして解放された。「途中、HT被告に口止めされた」と証言している。またSY被告らも帰った。
 小林被告と後輩少年被告はHT被告にIさんを連れていくことを伝え、了承を得た。小林被告は、Iさんを車のトランクに入れ、自宅マンションに連れ帰ったが、歩行困難なほど衰弱していたため、改めてOK被告に電話で相談。OK被告は「それでは金を取れないから、連れて来なくていい」と言ったうえで、「事件を知られた以上、警察に通報されるので、帰さずに処分するしかないだろう」と、暗に殺害するようほのめかした。小林被告はHT被告、SS被告に電話で処置を相談。2被告は「埋めたらいい」と殺害を了承した。小林被告は後輩少年被告とともに20日未明、資材置き場に戻り、パワーショベルで掘った穴にIさんを生き埋めにして窒息死させた。
 翌日の21日、HT被告は小林、SY、TY、SH各被告らと岡山県内で会い、「小林と後輩の少年の2人でやったことにしよう」と口裏合わせをした。また小林被告は、暴行後に解放した男性会社員に電話で脅し数10万円を要求した。
 22日、解放された男性会社員が大阪府警に届け出たことから事件が発覚した。
 24日、SY、TY、SH各被告が岡山県警に出頭、逮捕された。
 25日、小林被告が同県警に出頭、逮捕された。
 26日、小林被告の元アルバイト先の後輩の無職少年が同県警に出頭、逮捕された。
 27日、資材置場から2遺体が発見された。また別の少年2人が同県警に出頭、逮捕された。
 28日、大阪府立大3年のHT被告、大阪商業大4年のSS被告が逮捕された。
 8月10日、大阪、岡山両府県警合同捜査本部はOK被告を逮捕した。
 TY被告、SH被告は東大阪大短期大学部の卒業生で、SY被告と同じサッカーサークル内にいた。HT、SS、小林、SY各被告は中学時代の同級生。HT、SS、SYの3被告は小学時代、同じサッカー少年団のチームメートでもあった。
一 審
 2007年5月22日 大阪地裁 和田真裁判長 死刑判決
控訴審
 2008年5月20日 大阪高裁 若原正樹裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年3月25日 最高裁第二小法廷 千葉勝美裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 公判前整理手続きを採用。弁護側は精神鑑定を求めたが、後に却下されている。
 2007年1月23日の初公判で、小林被告は被害者から財布を奪ったことについて強盗目的ではなかったとしたが、殺人や監禁などについては起訴事実を全面的に認めた。弁護側は「Fさん殺害を持ちかけたのはHT被告で、小林被告が明確に殺意を抱いたのは、資材置き場でパワーショベルのかぎを見つけた時点」と主張した。
 3月27日の論告求刑で、検察側は小林被告が事件を主導したとし「人間の所業とは思えない。更生の可能性は乏しく、年齢は若いが極刑で臨むほかない」と主張。同日の最終弁論で弁護側は「責任は重いが、反省を深めており更生は期待できる」として死刑回避を求めていた。被害者2人の両親ら遺族も意見陳述し、「全員を死刑にしてほしい」などと述べた。
 判決理由で和田裁判長は「犯行を主導し、集団で暴行を加えたうえ、生き埋めという冷酷かつ残虐な方法で2人の前途ある若者の命を奪った。まれに見る凶悪な犯行で、被害者を物のように扱い生きたまま土中に埋めたのは、人として絶対に許されない行為。人間としての優しさが欠如していると言われても仕方ない」と断罪。和田裁判長は強盗罪の成立も認定したうえで、「一方的に激しい暴行を加えるなど粗暴性が如実だ」などと小林被告を指弾した。そして「2人の若い命を奪った結果は重大で、犯行に至る経過や態様もむごすぎる」「これ以上残忍な殺し方がないという冷酷で凶悪な犯行。反省しており更生の可能性も認められるが、極刑は免れない」「共犯者の中でも責任は特に重く、極刑を選択するほかない」と述べた。

 被告側は量刑不当を理由に控訴した。
 2008年1月22日の控訴審初公判で、被告側は控訴趣意書で「犯行当時は人格が未熟で集団心理に支配されていた。犯行当時21歳と若く、更生は十分可能。死刑を科すのは誤り」と死刑の回避を訴えた。検察側は控訴棄却を求めた。
 以後も一審の認定事実について争いはなく、弁護側は「多数の共犯者に後押しされる集団心理に支配された犯行。拘置所で写経するなど内省を深めており、命を絶つのは酷」と死刑回避を訴えた。
 判決で若原裁判長は、「前途ある若者2人の命が奪われた結果は重大。用意周到に計画されたわけではないが、偶発的ともいえず、逮捕を恐れるなど、自己保身のための冷徹な犯行」と指摘。さらに、被告側が「遺族に謝罪の手紙を書き、冥福を祈って写経も続けるなど反省を深めている」として死刑回避を訴えたことについて、「犯行当時21歳で、更生の可能性は否定できない」としつつも、「残虐非道で人間性を欠く冷酷な犯行。犯行の態様や結果の重大さに照らすと、死刑が重すぎて不当とはいえない」と断じた。

 2011年2月25日の最高裁弁論で、被告側の弁護人は「幼児期に両親から受けた虐待などの影響があり、現在は心から反省している。若く、更生も期待できる」などと主張し、死刑回避を求めた。検察側は上告棄却を求めた。
 判決で千葉裁判長は「暴力を肯定する発想から共犯者のトラブルに介入して安易に殺害に及び、動機や経緯に酌量すべき点はない。2人に執拗な暴行を加え、生き埋めにした犯行態様も残虐非道。率先して実行し、果たした役割は大きく、結果も重大だ」と指摘。「責任は誠に重く、死刑はやむを得ない」と述べた。
備 考
 殺害されたFさん、Iさん、解放された男性会社員、知人大学生は、SY被告らに慰謝料名目で金を要求したなどとして、恐喝や監禁などの疑いで、2006年9月15日、書類送検されている。
 2006年8月8日、少年2人は殺人の非行事実で家裁送致された。
 後輩少年被告は、2007年5月11日、大阪地裁(宮崎英一裁判長)で懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡された。2008年1月23日、大阪高裁(森岡安広裁判長)で被告側控訴棄却。そのまま確定。
 TY被告、SY被告は2007年5月31日、大阪地裁(和田真裁判長)でともに懲役9年(求刑懲役18年)が、SH被告には懲役7年(求刑懲役15年)が言い渡された。判決では、殺意を認めたものの、関与は従属的だったとした。2008年4月15日、大阪高裁(古川博裁判長)はTY被告の一審判決を破棄、「自ら犯した罪を反省する真摯な態度が見受けられない」として懲役11年を言い渡した(検察・被告側控訴)。またSY被告に対する検察・被告側控訴を棄却、SH被告に対する検察側控訴を棄却した。2被告の一審判決も「軽すぎる」と指摘したが、判決後の遺族への謝罪や慰謝料支払いなどの情状酌量を認め、一審判決を支持した。SY被告、SH被告はそのまま確定。TY被告は上告した。2008年9月16日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)はTY被告の上告を棄却した。二審懲役11年判決が確定した。
 OK被告は2007年6月1日、大阪地裁(水島和男裁判長)で懲役17年(求刑懲役20年)が言い渡された。控訴審判決日不明。2009年3月17日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は被告側の上告を棄却し、一審判決が確定した。
 HT被告は2007年10月2日、大阪地裁(和田真裁判長)で求刑通り無期懲役が言い渡された。2009年3月26日、大阪高裁(小倉正三裁判長)で被告側控訴棄却。2009年10月27日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)で被告側上告棄却、確定。
 SS被告は2007年10月2日、大阪地裁(和田真裁判長)で懲役20年(求刑懲役25年)が言い渡された。2009年3月26日、大阪高裁(小倉正三裁判長)で一審破棄、懲役18年判決。SS被告が一審判決後、遺族に計450万円の被害弁償をしたとして減軽した。弁護側によると、SS被告は両親の援助で2人の遺族に1200万円ずつ支払い、受け取りを了承した1遺族には月額2万円の支払いを続けているという。2009年10月27日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)で被告側上告棄却、確定。
備 考
 判決訂正申立が棄却されたのは2011年4月15日付であり、片岡清元死刑囚より早い。
現 在
 2013年4月1日付で、再審請求申立。
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氏 名
大倉修
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 2004年9月16日/2005年9月9日
罪 状
 殺人、死体遺棄、死体損壊
事件名
 同僚・妻連続殺人事件
事件概要
 静岡県焼津市の生協職員大倉修(当時の姓は滝)被告は2004年9月16日、ワゴン車内で、同僚の生協職員男性(当時37)が不倫相手を中傷したことに腹を立て包丁で胸や腹を刺し殺害。翌日、死体を静岡市の茶畑に遺棄した。遺体は2004年10月24日に発見された。
 2005年9月9日、不倫がばれ離婚を迫った妻(当時36)を自宅にてネクタイで絞殺。翌日、自宅浴室で遺体を電気丸のこで切断し、同県由比町の山林など3箇所に遺棄した。9月18日、大倉被告は焼津署に「勤務先の研修から11日に帰ったら、妻がいなくなっていた」と捜索願を出していた。県警が自宅に残っていた指紋を照合した結果、遺体の身元が26日に判明。同日夕から大倉被告に事情を聞いたところ、容疑を認めたため、9月27日、妻の死体遺棄容疑で逮捕した。
 2005年12月22日の初公判後、大倉被告の乗用車を再度鑑定したところ、助手席から同僚男性を殺害した時に付着したとみられる血液が検出されたことから、2006年5月、死体遺棄容疑で再逮捕した。
一 審
 2007年2月26日 静岡地裁 竹花俊徳裁判長 死刑判決
控訴審
 2008年3月25日 東京高裁 安広文夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年4月11日 最高裁第二小法廷 古田佑紀裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 2005年12月22日の初公判(このときは、妻殺害事件のみ)で、大倉被告は起訴事実を認めたが、弁護側は「犯行当時大倉被告は心神喪失または心神耗弱だった」と主張した。
 弁護側はうつ病の影響を理由に精神鑑定を請求したが、2006年5月17日の公判で、竹花裁判長は却下した。
 その後、男性殺害の事件で大倉被告が逮捕されたため、6月26日に予定されていた論告求刑公判は中止された。7月10日に大倉被告は男性殺害の事件で追起訴。期日間整理手続きにより双方が年内結審で合意し、弁護側は精神鑑定を改めて請求した。
 10月26日の公判で、大倉被告は男性殺害の起訴事実を認めたが、弁護側は当時被告が心神喪失・耗弱状態にあったとして責任能力を争う構えを見せた。
 11月25日の公判で、竹花裁判長は弁護側の精神鑑定請求を再び棄却した。
 2006年12月11日の求刑論告で検察側は、これまで被告を診た医師がいずれもうつ病は軽度で責任能力はあったと判断したと指摘し、周到な証拠隠滅を図った点などから完全責任能力があったと断じた。また1年間に2人も殺害したことについて「(同僚殺害の)大罪を犯していながら何ら反省せず妻を殺害した。遺体をゴミでも捨てるように遺棄した」と厳しく批判した。そして「自己中心的で短絡的な動機に酌量の余地はなく、犯行は残虐」として死刑を求刑した。
 最終弁論で弁護側は「うつ病により少なくとも責任能力は減少していた」と主張。「動機など事件の原因が何ら明らかになっていない」とあらためて精神鑑定を求め「鑑定がなされないなら大幅な減刑がされるべきだ」と訴えた。
 大倉被告は真っすぐ前を見つめ、求刑の際も表情は変わらなかった。最後に発言を許されると「裁判所には、私は存在してはならないとお伝えしたい」と自ら極刑を求め「申し訳ありませんでした」と傍聴席に土下座した。そのまま一分ほど動かず、最後は弁護人に起こされた。
 竹花裁判長は、被告が不倫を続けるため殺人を重ねたと指摘し、同僚殺害の計画性はないとした。しかし「計画性のなさは死刑選択をしない理由にならない」と酌量を認めなかった。被告が「同じ状況になったら、きっと同じことをする」と述べるなど反省がみられないことも厳しく指弾した。一方妻殺害について「一緒に死のうと思った」という被告側の主張は周到な証拠隠滅を図っていることを理由に退けた。そして「一年間に二人の命を奪った冷酷無残な犯行」と述べた。

 大倉被告は、死刑自体は「率直に受け入れる」としたが、妻殺害の動機を「不倫相手との関係を維持するため」とした判決について「真実を知ってもらうためにも是正しなければ」と控訴した。
 2007年10月30日に初公判が開かれた。弁護側は控訴趣意書などで、大倉被告がうつ病を発症し、「犯行時は責任能力がなかった。仮に責任能力が認められたとしても、有期懲役刑が適切」と主張。これに対し、検察側は答弁書で、「うつ病に関する弁護側の主張は、精神医学の文献を根拠としているだけで薄弱」と反論し、控訴棄却を求めた。
 2007年11月29日の第2回公判における被告人質問で大倉被告は、一審で認定された「不倫相手との関係を維持するため」という妻の殺害動機を否定。「妻に離婚届を書かされたことで絶望的になり、2人で死のうと思い殺した」などと供述した。
 弁護側は「被告の精神状況を確認するために鑑定の実施が必要」とする医師の意見書を提出。2008年1月24日の第3回公判で、安広裁判長は「精神鑑定を行うとすれば、高裁ではなく、差し戻し審として地裁が実施すべき事柄だ。高裁は、被告の審理を進める上で鑑定が必要だったかどうか判断するが、鑑定そのものを行う立場にない」と述べ、精神鑑定請求をあらためて却下。弁護側は被告が妻を殺害後、自分も自殺しようと考えていたことを裏付ける証言として、今月9日に静岡地裁で行われた被告の父親の証人尋問の記録なども証拠として提出した。
 同日の最終弁論で弁護側は「一審の動機認定は誤りがある。原判決は明らかに被告の行動を説明できていない。破棄し、地裁に差し戻して精神鑑定を実施するべきだ」などと主張して結審した。
 判決で安広裁判長は争点となった責任能力について、判決は「被告が入通院していた精神科医の意見をみても、うつ病が影響を与えたとはいえない」「合理的に犯行を遂行し、罪証隠滅工作を行っている」「被告の記憶の状況が取り調べ段階からこれまで終始一貫している」などとして、完全責任能力を認めた。
 妻殺害事件の動機を「不倫相手との関係維持のため」と認定した一審・静岡地裁判決について、弁護側は「離婚届を書いて絶望的になり、2人で死んだ方が楽と考えた」と否定していたが、安広裁判長は「不倫相手を中傷したことに立腹した」とした男性殺害事件の動機も含め、「いずれも了解可能」と判断した。その上で、「不倫相手に対する思慕の情を汚す相手に対し、制裁を加えるという両事件共通の基盤がある」との見方を示した。
 被告に前科前歴がなく、まじめに仕事をしていたことなどを酌むべき事情としたが、遺族の処罰感情や自己中心的で身勝手な動機などを挙げ、「死刑は極めて慎重に適用すべきことを考慮しても、被告を死刑に処した一審判決の量刑はやむを得ない」と結論づけた。

 2011年3月4日の最高裁弁論で、弁護側は「被告は当時うつ病で、責任能力に影響した。鑑定をせずに死刑としたのは違法だ」と主張。検察側は「専門家の意見も十分に尊重し、責任能力について判断した」と述べ、上告棄却を求めた。
 古田裁判長は責任能力について認めた一・二審判決について「完全責任能力を認めた判断は妥当だ」と指摘。そして「いずれの犯行も自身の不貞行為に起因しており、動機に酌むべき点はない。執拗で冷酷、残虐な犯行で、落ち度のない2人の生命を奪った結果は重大。不合理な弁解を述べるなど反省もうかがえず、死刑はやむを得ない」とした。
その他
 静岡県内では1971年7月、地裁沼津支部が質商強盗殺人事件で主犯に言い渡して以来の地裁死刑判決。
その後
 大倉修被告とその弁護士は、警察が報道機関へ配布した資料の交付を拒否されたのは違法などとして、県に500万円の損害賠償を求める訴訟を2006年10月3日、静岡地裁に起こした。
 確定後大倉死刑囚は、元交際相手の女性が2005-06年に行われた警察と検察の取り調べや島田簡裁での証人尋問の際、同死刑囚との交際や精神状態などについて食い違う内容を供述し、公判の適正運用を害した―と主張し、精神的苦痛を受けたとして500万円の損害賠償を求めた。静岡地裁(大久保俊策裁判官)で開かれた2012年9月5日の第1回口頭弁論で女性は、「うそを言ったわけでなく、記憶をたどって話したにすぎない」と反論。これを受けて大久保裁判官は直ちに弁論終結を宣告し、訴訟は結審した。
 10月31日、静岡地裁(大久保俊策裁判官)は訴えを却下する判決を言い渡した。判決理由で大久保裁判官は「判決などの根拠となった証人への責任追及を無制限に認めると、刑事司法の安定性を阻害し、証人に過度の負担を課す」と指摘、「虚偽の証言が明白な事実がある場合のみ、民事責任を問える」とした。
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氏 名
渕上幸春
事件当時年齢
 30歳
犯行日時
 1999年3月25日~9月20日
罪 状
 詐欺、殺人、死体遺棄、電磁的公正証書原本不実記録・同供用、威力業務妨害、詐欺未遂
事件名
 宮崎の口封じ連続殺人事件
事件概要
 1999年3月15日、宮崎市の産業廃棄物処分会社統括営業部長だった渕上幸春被告は社員3人や他2人と共謀し、宮崎市内で故意に追突事故を起こし、保険会社2社などから総額約1,440万円を受け取った。しかし分け前を巡るトラブルから、3月25日、追突した車を運転していた土木作業員Yさん(当時47)の首を絞めて殺害、外車のトランクに詰めたまま事情を知らない会社の部下に、宮崎県西都市の山中にある産業廃棄物最終処分に埋めさせた。
 さらに9月18日、詐欺事件の事情を知っていた同社監査役の税理士(当時47)を口封じと保険金目的などで殺害を指示、渕上被告の指示で、同社営業主任(懲役12年確定)が車で引くなどして殺害、宮崎県西都市の産廃処分場に埋めた。
 このほか偽装交通事故による保険金詐欺など11件(うち1件は未遂)の罪にも関与した。
一 審
 2003年5月26日 宮崎地裁 小松平内裁判長 死刑+懲役10月(1993年の詐欺事件)判決
控訴審
 2007年1月23日 福岡高裁宮崎支部 竹田隆裁判長 控訴棄却 死刑+懲役10月判決支持
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上告審
 2011年4月19日 最高裁第三小法廷 田原睦夫裁判長 上告棄却 死刑+懲役10月確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 弁護側は、絞殺された土木作業員の事件については「殺意はなく、首も絞めていない」「被告は筋ジストロフィーにかかり、人の首を絞める力はなかった」などと事実関係の誤りを指摘して無罪を主張したが、判決は検察側が提出した検査結果などを採用し「人の首を圧迫する筋力があった」と退けた。
 弁護側は他の罪についてほぼ起訴事実を認めたうえで、被告は難病の筋ジストロフィーを患っていて再犯性は低いなどと刑の減軽を求めていた。

 控訴審でも弁護側は土木作業員の事件について「被告は筋ジストロフィーで、絞殺できる体力があるとは思えない」などとして殺害を否定し、量刑不当を主張していた。
 判決理由で、竹田裁判長は「自らの保険金詐欺事件の発覚を免れるため2人の命を奪った。人命軽視の態度は甚だしく、改善更生は望めない」と述べた。弁護側の殺害否定主張については、「一審判決に事実誤認はない」と退けた。

 2011年3月15日の上告審弁論で、被告側は死刑回避を求めた。
 判決で田原睦夫裁判長は「偽装交通事故による保険金詐欺の口封じを図った動機や経緯に酌量の余地はない。車でひいた上、ごみ収集車の積み込み装置に入れて殺害するなど犯行の態様も残忍、冷酷で2人の命を奪った結果も重大」と指摘。筋ジストロフィーを患う被告の病状を考慮しても「死刑+はやむを得ない」として一審宮崎地裁、二審福岡高裁宮崎支部の判断を支持した。
備 考
 渕上被告は、1995年2月15日に恐喝未遂、横領、詐欺の罪により懲役3年10月に処せられ、同年3月2日にその裁判が確定して受刑、1998年7月に仮出所していた。それ以前にも窃盗や詐欺で二度懲役刑を受けている。
その他
 渕上幸春被告は2000年11月から2007年10月までの計2,336通の手紙を刑務所に検査され、内容を記録されたとして2009年4月、宮崎県弁護士会に救済を申し立てた。さらに2010年6月、記録されて精神的な苦痛を受けた、などとして国を相手取り550万円の損害賠償を求める裁判を東京地裁に起こした。刑事訴訟法では、弁護人と被告は拘置所の検査を経ずに手紙などのやりとりができると定めている。2011年4月14日、宮崎県弁護士会は「接見交通権の侵害」に当たるとして、再発防止を求め同刑務所に警告した。宮崎刑務所の北御門宏総務部長は「記録を取ったことは事実だが、当時は必要があったと判断している。裁判中でもあるのでコメントは差し控える」としている。
 2012年11月14日、東京地裁(始関正光裁判長)は55万円の賠償を命じる判決を言い渡した。判決は、証拠隠滅を防ぐため手紙の確認が許されるとした最高裁判決を踏まえ、多くは適法だと認定。しかし、公判に臨む方針などを詳細に記録した部分については、「本来は秘密である接見内容を記載したに等しい」として違法だと結論づけた。
 2014年4月16日、東京高裁(大竹たかし裁判長)は一審判決を支持した上で、検査が過剰だったとする手紙の数を一審よりも多い90通と認定。損害賠償額を55万円から88万円に増額した。
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氏 名
大山清隆
事件当時年齢
 37歳
犯行日時
 1998年10月11日/2000年3月1日
罪 状
 詐欺、窃盗、有印私文書偽造、同行使、殺人、死体遺棄
事件名
 広島連続保険金殺人事件
事件概要
 元生コン商社役員大山清隆被告は1998年10月11日午後9時ごろ、広島市佐伯区内の駐車場で社長だった養父(当時66)を鈍器で頭を強打した後、車の助手席に乗せて壁に衝突させ、交通事故を装って意識不明の重体にさせた。養父は1999年1月20日に死亡。大山被告は死亡保険金約7,000万円をだまし取った。大山被告は業務上過失致傷容疑で書類送検され、起訴猶予処分になった。
 大山被告は養父に数千万円の借金があったほか、会社名義でも数億円の負債があった。会社は経営破綻しており、精算方針で養父と対立していた。大山被告は養父のおいで、中学生の時に養子になった。
 養父殺害や保険金を得たことについて妻にうそをつき通せなくなり、殺害を決意。2000年3月1日午後11時40分頃、同区内の自宅で睡眠導入剤入りの茶を飲ませて妻(当時38)を浴槽につけて殺害。翌日、南区宇品海岸の岸壁から海中に遺棄。事故死と偽って死亡保険金299万円を詐取した。
 広島県警は2002年1月、市内の給油所からガソリンを詐取したとして詐欺容疑で逮捕。さらに他人のクレジットカードを使ってゲーム機9台(305,000円相当)を購入した詐欺容疑でも逮捕、起訴された。広島県警は捜査を進め、6月17日、養父殺人容疑で大山被告を逮捕。大山被告は詐欺罪により広島地裁で公判中だった。7月8日、養父の保険金の詐欺容疑で再逮捕。10月22日、妻の殺人と死体遺棄容疑で再逮捕。
 合計すると殺人2件、死体遺棄1件、詐欺14件(うち4件は保険金詐欺)、窃盗1件および有印私文書偽造・同行使3件で起訴されている。
一 審
 2005年4月27日 広島地裁 岩倉広修裁判長 死刑判決
控訴審
 2007年10月16日 広島高裁 楢崎康英裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
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上告審
 2011年6月7日 最高裁第三小法廷 大谷剛彦裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 広島拘置所
裁判焦点
 論告で検察側は「養父とは経営する会社の経営をめぐって意見の対立があった。妻からは離婚を迫られていた」と動機を指摘。その上で「完全犯罪をもくろみ、最も身近な存在を殺害するなどの犯行は、冷酷非情で人間性が欠如している」と厳しく非難した。
 大山被告は公判で2人の殺害と保険金を請求したことは認め、養父殺害の動機は「会社の清算方法を巡る意見対立で、保険金は結果でしかない。保険金も第三者の口座に振り込まれ、手にしていない」と主張した。
 弁護側は最終弁論で「養父殺害は保険金目的ではなく、妻殺害も完全犯罪とは言い得ない」とし、無期懲役を求めた。また二件の殺人はいずれも広島県警の捜査の甘さがあって発覚が遅れたと批判した。交通事故を装って養父を殺害し保険金を詐取した事件を、県警は当初、交通事故として処理していた点を疑問視。「現場には大量の血痕や骨片が残り、従業員も気付いたのに、聞き込みや捜査を怠った」とした。二年後に妻を自宅の浴槽に漬けて窒息死させ、南区の海に遺棄して事故死と偽った事件は、遺体の肺から淡水が検出されたのに、海水と成分を照合する捜査を怠り、遺族が告訴するまで県警は海中で水死したとみていたと指摘し、「初歩的な捜査が足りなかった」と強調した。特に、養父を殺害した事件が早く発覚していたら、妻の殺害事件は起きなかった」として情状酌量を求めた。大山被告は「遺族に深い苦しみと悲しみを与え、子どもを不幸な境遇に追いやってしまった。己の命をもってしても償いきれない」と手紙を読んだ。
 判決理由で岩倉広修裁判長は「養父殺害の1週間後に保険金請求手続きをしており、殺害動機の一つだ」と、養父殺害が保険金目的だったと認定。「実の親同様の養父と最愛の妻を殺した犯行の社会的影響は大きい。2人の命を奪う冷酷な犯行で、慎重に検討しても死刑は回避できない」と述べた。
 弁護側の捜査非難について岩倉裁判長は、「発覚の遅れは大山被告の綿密な準備のためで、捜査機関に責任転嫁は出来ない。責められるべきは、恩義ある養父や妻を殺害するという人間としてあるまじき重罪を犯した被告人自身だ」と非難した。

 2006年6月15日の控訴審初公判で弁護側は、養父の殺害について保険金目的ではないと主張、また、犯行の計画性は乏しかったなどとして減軽を求めた。また死刑は憲法違反であると主張した。
 2007年4月17日の最終弁論で弁護側は、「養父の殺害に関しては、養父が大山被告の最愛の養母を殺したかもしれないという疑惑が影響。また大山被告の息子も死刑を望んでいない」として懲役刑を主張。検察側は「死刑を言い渡した原判決の量刑は相当で控訴は棄却されるべき」と述べた。
 楢崎裁判長は被告側が養父殺害は保険金目的ではなくて恨みからだという発言について、「被告の供述は信用できない」と退けた。また、大山被告の長男が「大山被告が社会復帰した後は共に支え合いたい」と話しているなどとして、情状酌量を求めていた点については、「ほかの遺族の気持ちを代弁しているわけではない」とした。
 そのうえで、養父殺害の動機については、借金返済のための保険金目的だったと認定。妻については、養父殺害が露見するのを恐れたため殺害したと認めた。
 そして、「2件の殺人は計画性が高く、証拠隠滅を図るなど犯行後の情状も悪質」と述べた。また死刑制度は憲法違反ではないとした。

 2011年4月26日の上告審弁論で弁護側は「被告は心から反省しており、無期懲役が相当だ」と死刑回避を求めた。検察側は上告棄却を求めた。
 判決で大谷剛彦裁判長は「利欲性の高い悪質、身勝手な動機に酌量すべき点はない。事故死に見せ掛けて計画性も高く、犯行態様も冷酷、非道だ。2人の生命を奪った結果は重大で、死刑はやむを得ない」と指摘した。
 被告と殺害された妻の長男が死刑回避を求めたことに対し、田原睦夫裁判官が補足意見を述べ「最大の被害者でもある長男が『残る唯一の親までを奪わないでほしい』という訴えは誠に重いが、犯行態様などを考慮すれば、死刑を破棄しなければ著しく正義に反するとはいえない」とした。
備 考
 
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氏 名
池田容之
事件当時年齢
 31歳
犯行日時
 2009年6月18日~19日他
罪 状
 強盗殺人、殺人、死体損壊、死体遺棄、逮捕監禁、覚せい剤取締法違反、関税法違反、公務執行妨害、傷害
事件名
 横浜沖バラバラ強殺事件
事件概要
 住所不定無職池田容之(ひろゆき)被告は以下の事件を起こした。
  • 池田容之被告は神奈川県厚木市に住む無職NR被告に覚せい剤密輸を指示。NR被告は厚木市に住む無職GT被告に仕事を紹介。GT被告は2009年2月17日、シンガポールでビニール袋4袋に分けられた覚せい剤計942.2g(当時末端価格約1億円)入りのスーツケースを受け取り、韓国の仁川空港経由で福島空港に密輸入しようとした。横浜税関小名浜税関支署福島空港出張所の職員が、手荷物検査で覚せい剤を発見してGT被告を逮捕。福島空港での禁止薬物密輸入を摘発したのは1993年の開港以来初めて。
  • 池田容之被告は、知人のコンサル担当業者IT被告を通し、岩見沢市の理容師UN被告や愛知県刈谷市の探偵NK被告に覚せい剤密輸を指示。U被告が手配した札幌市の無職IK被告と岩見沢市の派遣社員TS被告は2009年6月14日、ベトナム発韓国経由の大韓航空機で覚せい剤計約6.7kg(当時末端価格約6億7,000万円)を二重底に加工したスーツケース2個に隠して新千歳空港に密輸入しようとした。押収量は道内の空港や港で過去最大。
  • 港区のIR被告と元早大生近藤剛郎容疑者は2008年10月頃から東京都新宿区歌舞伎町で麻雀店を経営していたが、2009年3月頃から、世田谷区のMDさん、大和市の会社員TJさんに経営権を握られた。IR被告は知人のコンサル担当業者IT被告に店の出資金などを回収しようとする相談を持ちかけた。IT被告は知人の滋賀県東近江市に住む無職NT被告に金になる仕事の相談を受けており、5月上旬に計画へ加わるよう持ちかけた。5月下旬、近藤容疑者は池田容之被告へ計画に加わるよう指示するとともに殺害を依頼した。NT被告は地元の後輩である無職MN被告、無職MK被告、会社員IS被告の3人に監禁を指示。池田被告は足立区の鉄筋工OS被告に死体遺棄を依頼した。
    2009年6月18日午後9時頃、NT被告、MN被告、MK被告、IS被告の4人は東京都内でMDさん(当時28)をレンタカーに乗せ、千葉県船橋市内のホテルに入った。翌日午前5時頃、TJさん(当時36)がホテルに呼び出された。そして4人に池田、IR被告が加わって2人の手足を縛って監禁。MDさんの自宅などから現金約1,340万円を奪った。その後、池田被告がTJさんをナイフで殺害、MDさんの首を電動のこぎりで生きたまま切断して殺害し、遺体をバラバラにした。NT被告はMDさんの殺害に関わった。
    その後、遺体をスーツケースに入れて車で運び翌日、金沢区の海や山梨県鳴沢村の富士山5合目付近の山林に捨てた。盗んだ現金は池田、IR、NTの3被告に渡ったとされる。
    池田被告は福島の覚せい剤密輸事件で2009年7月20日に逮捕された際、「(遺棄した2人が)夢に出てくる」と話し、関与を認める上申書を書いたことが事件発覚のきっかけとなった。
    近藤剛郎容疑者はタイに逃亡したとされる。2009年12月15日、インターポールに国際指名手配された。
  • 2010年2月、池田被告は覚せい剤密輸事件で逮捕された後の神奈川県警の留置所で、以前から被告が騒々しいと思っていた別の拘置人に被告が注意した際、制止した警察官の脇腹を蹴って約1週間のけがをさせた。
 2009年7月?日、福島空港の密輸事件で再逮捕。9月9日、新千歳空港での密輸事件で再逮捕。10月15日、横浜事件の死体遺棄・損壊容疑で再逮捕。11月11日、強盗殺人容疑で再逮捕。
一 審
 2010年11月16日 横浜地裁 朝山芳史裁判長 死刑判決
控訴審
 2011年6月16日 本人控訴取り下げ、確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 裁判員裁判。公判前整理手続により、別々の裁判員裁判で審理する「区分審理」が適用された。2010年10月12日~14日で密輸事件を審理して有罪か無罪を判断。11月1日~10日の休日を除く6日間で強盗殺人・死体遺棄事件の審理を行う。11日から計3日間の評議を経て、16日に最終的な判決が言い渡された。
 10月12日の密輸事件、警察官傷害事件における初公判で、池田被告は「(誤りは)ないです」と起訴内容を認めた。検察側は冒頭陳述で、池田被告は近藤剛郎容疑者から「日本国内のトップとして運び屋をまとめてほしい」と言われ、2009年2月からの半年間で延べ約30人もの「運び屋」を使い、組織的に覚せい剤を密輸、「グループの要で、密輸の報酬で生活していた」と主張した。起訴事実について争わなかった弁護側は「(検察側ストーリーは)余罪も含めたもので、事実認定には用いられない」と、裁判員が心理的に影響を受けないようクギを刺した。そのうえで「近藤(容疑者)の指示を伝える従属的な立場に過ぎなかった」と強調。起訴された密輸事件2件はいずれも税関に覚せい剤を押収されて失敗し、薬物は流通していないと述べた。
 10月14日、密輸事件他で池田被告に有罪が言い渡された。朝山裁判長は「密輸に成功して巨額の利益を得て、将来的にステップアップしたいという思惑から承諾した」と指摘。「(覚せい剤の『運び屋』ら)素人集団を束ねキーマンとして重要な役割を果たした」と断じた。

 11月1日の強殺事件における初公判で、池田被告は起訴内容を認めた。冒頭陳述で検察側は密輸容疑で逮捕後の自首について「いずれ強盗殺人も発覚してしまうというあきらめの気持ちで、誠実な自首ではない」と指摘。2人の殺害状況については、生きたまま首を電動切断機で切った、と残虐さを強調し「遺族の処罰感情も激しい」と述べた。動機については、マージャン店前経営者の近藤剛郎容疑者が持つ覚せい剤密売の利権を手に入れたいためだったとした。弁護側は「すべてを正直に話し、事件の真相解明につなげた」と主張。近藤容疑者から「殺害についてもすべて指示、了承を受けた」と従属的立場を強調した。
 11月10日、検察側は論告で「生きたまま首を切断するなど殺害方法は冷酷非情。2人殺害の結果は重大で、遺族の処罰感情も激しい」と述べ、事件の客観的内容の悪質性や遺族感情を強調。最高裁判例が死刑選択が許される基準として示した「永山基準」に照らしても、死刑判決は免れない、とした。そして「寛大な刑で済まされれば、社会に誤ったメッセージを送ることになる」との表現で、犯罪抑止につながる刑事裁判の役割を強調。裁判員に向けて「このような被告が死刑にならないなら、今後わが国で死刑判決はあるのか」と異例の問いかけで論告を結んだ。
 弁護側は最終弁論で、事件の悪質性よりも被告本人の事情を重視すべきと主張。「自首が事件の全容解明に寄与した。被告は罪に向き合って反省し、公判で態度が劇的に変わった。被告に人間性が残ると感じ、少しでもためらいを覚えるなら、死刑にしてはいけない」として、死刑回避を求めた。
 判決は、死刑選択の基準「永山基準」に沿って▽殺害方法の残虐性▽動機▽被害感情--などを検討。二人の命ごいを無視し、電動のこぎりや果物ナイフで首を切った殺害状況に関し「極めて猟奇性が高い。想像しうる殺害方法の中で最も残虐で苦痛は想像に絶する。(家族に電話をという被害者の)最後の望みを聞き入れなかったことは冷酷この上ない」などと非難した。 動機では、店の経営権などを巡り被害者ともめた元経営者で、覚せい剤密輸を指示したとされる近藤剛郎容疑者の依頼がきっかけだが「(殺害で)自己の力を誇示し、覚せい剤の利権を手に入れようと考えた。身勝手で悪質」と指摘。被害感情についても「家族の受けた衝撃や悲しみは甚大」と述べ、「残虐性、悪質さ、計画性、結果の重大性などを考えると極刑を選択するほかはない」と結論付けた。
 最後に朝山裁判長は「あなたは法廷ではいかなる刑にも服すると述べているが、重大な結論ですから、裁判所としては控訴することを勧めます」と最後につけ加えた。

 池田被告は判決後の接見で控訴しない考えを接見で弁護団に伝えていたが、弁護団が控訴した。
 2011年6月16日付で池田容之被告は東京高裁への控訴を取り下げた。
共犯者の判決
 福島空港の覚せい剤密輸事件で密輸を仲介したとされたNR被告は2009年7月1日、福島地裁郡山支部(竹下雄裁判長)で懲役6年、罰金250万円(求刑懲役10年、罰金500万円)判決。犯行による直接的な利益を受けていない点が考慮された。2010年1月20日、仙台高裁(志田洋裁判長)で量刑不当を主張した検察側の控訴を棄却。そのまま確定か。
 同事件の実行役であるGT被告は2009年12月8日、福島地裁郡山支部(竹下雄裁判長)で懲役8年、罰金300万円(求刑懲役10年、罰金500万円)判決。覚せい剤とは知らなかったと無罪を主張したが、退けられた。被告側控訴中。
 新千歳空港の覚せい剤密輸事件で実行役のTS被告は2009年12月3日、札幌地裁(辻川靖夫裁判長)の裁判員裁判で懲役7年、罰金100万円(求刑懲役11年、罰金500万円)判決。被告に軽度の精神発達遅滞が疑われる点が情状面としてくみ取られた。控訴せず確定か。
 同事件で運び役の確保や渡航の指示などを与えたとされたUN被告は2010年7月29日、札幌地裁(辻川靖夫裁判長)の裁判員裁判で懲役13年、罰金700万円(求刑懲役16年、罰金700万円)判決。覚せい剤とは知らなかったと無罪を主張したが、退けられた。2011年3月22日、札幌高裁(小川育央裁判長)で被告側控訴棄却。
 同事件で実行役のIK被告は2010年9月8日、札幌地裁(辻川靖夫裁判長)の裁判員裁判で懲役9年、罰金300万円(求刑懲役12年、罰金500万円)判決。覚せい剤とは知らなかったと無罪を主張したが、退けられた。2011年3月22日、札幌高裁(小川育央裁判長)で被告側控訴棄却。
 同事件で運び役の確保や渡航の指示などを与えたとされたNK被告は2010年11月19日、札幌地裁(渡辺康裁判長)の裁判員裁判で懲役13年、罰金700万円(求刑懲役16年、罰金700万円)判決。
 横浜の事件で死体遺棄罪に問われたOS被告は2010年3月5日、横浜地裁(佐脇有紀裁判官)で懲役2年(求刑懲役2年6月)が言い渡された。現金200万円を報酬として受け取り、遺体を金沢区沖などに捨てた。すでに確定。
 同事件で監禁、死体遺棄罪に問われたIR被告は2010年3月11日、横浜地裁(佐脇有紀裁判官)で懲役2年10月(求刑懲役4年)が言い渡された。すでに確定。
 同事件で逮捕監禁、死体遺棄罪などに問われたMN被告、MK被告、IS被告は2010年5月17日、横浜地裁(佐脇有紀裁判官)で懲役3年執行猶予5年(求刑懲役3年)が言い渡された。犯行の背景は知らず、従属的かつ追随的であったとされた。すでに確定。
 同事件で監禁及び恐喝罪などに問われたIT被告は2010年5月27日、横浜地裁(佐脇有紀裁判官)で懲役3年(求刑懲役4年)が言い渡された。すでに確定。またIT被告は新千歳空港の覚せい剤密輸事件について、2011年9月6日、札幌地裁(園原敏彦裁判長)で懲役15年、罰金700万円(求刑懲役16年、罰金700万円)が言い渡された。
 同事件で男性1人への強盗致死、死体遺棄、逮捕監禁の罪に問われたNT被告は2011年1月27日、横浜地裁(小池勝雅裁判長)で懲役12年(求刑懲役15年)が言い渡された。NT被告は「強盗するつもりはなかった」と強盗致死罪の起訴内容を否認したが、小池裁判長は退けた。しかし、池田容之被告と比べるとはるかに従属的立場であると情状酌量し、法定刑である死刑または無期懲役から減軽した。裁判で裁判員と補充裁判員の9人全員は横浜刑務所(横浜市)での池田被告の証人尋問に参加した。2011年6月9日、東京高裁(井上弘通裁判長)で被告側控訴棄却。
備 考
 裁判員裁判で2件目の求刑死刑、かつ初めての死刑判決。裁判員裁判で初めての死刑確定。
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氏 名
津田寿美年
事件当時年齢
 57歳
犯行日時
 2009年5月30日
罪 状
 殺人
事件名
 川崎アパート3人殺害事件
事件概要
 川崎市のアパート1Fに住む津田寿美年(すみとし)被告は2009年5月30日午前6時40~45分ごろ、アパートで隣室に住む男性(当時71)とその妻(当時68)の胸や腹を包丁(刃渡り約20cm)で数回刺し、失血死させた。さらに玄関先で、男性の実兄であるアパートの大家(当時73)の胸を刺し失血死させた。110番通報で駆け付けた神奈川県警幸署の署員が、自室であぐらをかいて座っていた津田被告を現行犯逮捕した。
 津田被告は約5年前にアパートに入居。無職で、生活保護を受けていた。4年前から男性らに、部屋の掃除やドアの開閉、洗濯などの生活音について文句を言っていた(ただし、同階に住む他の住人は、気にしたことがなかったと新聞記者に語っている)。事件前日の夕方から酒を飲んでおり、逮捕時の呼気1L当たりアルコール分0.35㎎が検出されている。
 津田被告は事件前に不眠症で通院治療を受けていた。簡易鑑定では「刑事責任能力に問題ない」との結果が出ていたが、横浜地検川崎支部は「(生活音という)動機と殺害に至るまでが飛躍しすぎている」「裁判員裁判に向けて捜査に万全を期すべきだと判断した」として6月16日から9月15日まで3カ月間鑑定留置し、専門医が事件当時の精神状態を調べていた。その結果、刑事責任を問えると判断し、9月17日に起訴した。
一 審
 2011年6月17日 横浜地裁 秋山敬裁判長 死刑判決
控訴審
 2011年7月4日 本人控訴取り下げ、確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 裁判員裁判。公判前整理手続きで、争点は殺意の発生時期と量刑に絞られた。
 弁護側は起訴後に精神鑑定を再度実施することを求めており、公判前整理手続きの第1回で横浜地裁は実施を決めた。その鑑定結果により、被告に刑事責任を問うための責任能力があることに、検察、弁護側の双方で争いはない。
 2011年6月2日の初公判で、津田寿美年被告は起訴事実について「(間違いは)ないです」と認めた。
 検察側冒頭陳述によると、津田被告は以前から被害者の部屋の戸の開け閉めの音に不満を抱いており、事件当日、酒を飲んで帰宅後、怒りが限界に達して殺害を決意したとされる。弁護側は冒頭陳述で、脅すつもりで被害者の部屋に入ったが、もみ合ううちに夫を刺し、その後に殺意を覚えたと主張した。
 冒頭陳述で検察側は、津田被告が隣室に住んでいた男性のドアの開閉音に不満を抱き、怒りを爆発させて殺害を決意したとし、「殺傷能力がある刃渡り約20cmの包丁で、最初から強い殺意をもって刺した」と主張した。
 これに対し弁護側は、「男性を脅そうとしただけ」として、最初から殺意を抱いてはいなかったと主張。「男性ともみ合いになって、包丁が胸に刺さった」とし、その後は異常な興奮状態に陥って、妻と兄を刺したと訴えた。ドアの開閉音については、「わざとうるさくする嫌がらせだった。4年以上続き、精神的に極限まで追いつめられていた」と述べた。
 7日の公判で津田被告は、最初に男性を刺した際の状況について「分からない」と語った。一方、妻については「(男性殺害後)目と目が合ったから追いかけた」と話し、駆け付けた兄に関しては「目が合い何か言われ突進して刺した」と明かした。そして「命で償うしかない。拘置所に入った時点で死刑囚と思って生活している」と心境を明かした。また、「やってはいけないことをやってしまった。申し訳ございません」と頭を下げ、公判で初めて遺族に謝罪した。
 8日の公判で津田被告を精神鑑定した大学教授は、教授は津田被告の責任能力を認めたものの「被告には性格の偏りが著しい『非社会性パーソナリティー障害』が見られるものの、精神病の状態ではない。違法性の認識は十分にあったが、障害で(自分を)抑えられなかった」と述べた。犯行時に酒に酔っていたことについては、「軽度の二日酔い程度」とした。津田被告は教授にも、犯行の直接のきっかけについては話していないといい、教授は「動機は(隣室の)男性との積年の確執により形成され、衝動的に犯行に及んだ。妻と兄については、男性を殺害した直後の興奮状態の勢いから、半ば偶発的な犯行と推察できる」と述べた。
 10日の論告で検察側は、遺族の厳しい処罰感情や残虐性を強調。3人に心臓に達する傷を負わせたことから「強い殺意」があったと指摘した。男性のドアの開け閉めの音が不満で事件を起こしたとして、「引っ越すなどの方法があった。短絡的で身勝手。(殺害前にも)男性を殴って失明させるなど耐えていたわけではなく、酌量すべき点はない」と批判。「男性の寝起きを襲い、包丁を3回突き刺すなど、卑劣で執拗な行為」と指摘した。駆け付けた男性の妻や大家については「目が合っただけで敵と考え躊躇せず殺害した」などと述べ、「3人殺害に相応した刑を受けなければならない。3人の命を奪っても命で償うほどではないという人命軽視のメッセージを社会に送るわけにはいかない」と永山基準に照らしても、死刑が相当とした。
 同日の最終弁論で弁護側は「津田被告は県営住宅への申し込みを検討し、男性と顔を合わせないように、近くの公園やスナックに出かけるなど、トラブル回避のため必死に努力していた。大きな音をたててドアを閉める(男性の)いやがらせが約4年間続き、(被告の)ストレスが極限まで蓄積され、爆発した」と情状酌量の余地があると指摘した。脅すつもりで男性の部屋に入り、もみ合う中で偶然包丁が刺さり、異常な興奮状態だったとして、「計画性は全くない」と主張した。そして「衝動的な犯行で深く反省もしている。社会的影響や反省状況も永山基準を満たさない。無期懲役が相当。現在59歳で、無期懲役刑となっても社会復帰は事実上あり得ない」と述べた。
 被害者参加制度に基づき、遺族の代理人弁護士が「反省の形跡がなく、公判前よりも強く極刑を望んでいる」とする求刑意見を読み上げた。
 最終意見陳述で津田被告は「極刑は自分で覚悟してますので。それだけです」と述べた。
 秋山裁判長は判決で、被告はアパートの隣室に住む男性が開け閉めするドアの音に一方的な不満を募らせ、悪感情を爆発させ殺害したと認定。音自体悪質ではなく、どこにでもある騒音トラブルとし、「主たる要因は、粗暴で人命を軽視するような身勝手な被告の人格にある」と批判した。また「刃物を胸に向けた時に殺意があったのは明らか」と殺意を認定し、弁護側の主張を退けた。そして現場にいた大家と妻の殺害については「動機らしい動機もなく、経緯に酌むべき余地はない。無防備な人を次々と突き刺し、執拗かつ残虐」と厳しく非難した。そして「全くためらいなく、次々と3人を殺害した執拗で残虐な犯行。3人が受けた恐怖や苦痛は想像を絶する。死刑に処するのはやむを得ない」と述べた。

 弁護団は判決当時と6月28日に津田被告と接見。津田被告は一審判決後、「(死刑判決を)受け入れたい」と控訴しない意向を示していたが、弁護団が「一審の弁護人として控訴する。(控訴審を通じて)ほかの弁護士と判決を検討する時間があってもいいのでは」と話すと、同被告は「分かりました」と述べたと。そして6月29日、津田被告の弁護団が東京高裁へ控訴した。弁護団は「量刑や犯行に至る経緯の事実認定で、主張が受けいれられなかったため」と控訴理由を説明した。
 津田被告は7月4日付で東京高裁への控訴を取り下げ。死刑判決が確定した。
執 行
 2015年12月18日執行、63歳没。
 2009年に始まった裁判員裁判で死刑を言い渡された死刑囚の執行は初めて。
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氏 名
北村真美/井上孝紘
事件当時年齢
 北村真美被告45歳/北村孝紘被告20歳
犯行日時
 2004年9月16日~17日
罪 状
 強盗殺人、殺人、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 大牟田市4人連続殺害事件
事件概要
 福岡県大牟田市の暴力団北村組は福岡県下に本拠を置く指定暴力団の下部団体で、構成員10人にも満たない小規模な組だった。組長の北村実雄被告、妻北村真美被告は6,600万円以上の借金を抱え、暴力団上部団体への上納金や生活費に困窮するなどしていたため、ヤミ貸金業を営んでいる友人の女性(当時58)にうその土地購入話を持ちかけて約2,600万円の現金を用意させたうえで殺害しようと計画。北村孝被告も加えて殺害の機会をうかがったが、真美被告がためらっている間に、孝被告が、両親を出し抜いて女性の家の金品を奪うために二男殺害を計画。500万円の報酬を条件に北村孝紘被告(旧姓)を誘い込んだ。
 孝、孝紘両被告は実雄被告らには内緒で2004年9月16日午後10時40分ごろ、女性宅に踏み込み、居間に居た二男(当時15)の背後からタオルで首を絞めて仮死状態にした。女性宅から指輪などの貴金属数十点(398万円相当)が入った金庫を強奪した。ただし、金庫の中に現金はなかった。二男が死んだと勘違いした二人は、次男を車のトランクに詰め込んで市内の川へと向かい、息を吹き返して命乞いする次男の首にロープを巻きつけて絞殺。遺体に重しをつけて川に遺棄した。孝紘被告は17日午後、自分の身分証明書を用いて指輪6個を計10万8,000円で質入れし、現金を孝被告に渡した。孝被告は4万円を孝紘被告に分配した。

 真美被告は16日午後から、債務者の居所を探すことを口実に女性を呼び出していた。真美被告は女性を殺害するつもりだったが手を掛けることができなかった。17日午後、孝被告に殺害協力を依頼。金庫に現金が入っていなかったため、孝被告は依頼を受け、孝紘被告を誘った。
 4被告は9月17日深夜、北村組の事務所がある大牟田市のアパートで女性に睡眠導入剤入りの弁当を食べさせて眠らせた後、ワゴン車に乗せて大牟田港まで移動。翌18日午前0時半ごろ、三人に見守られた孝紘被告はひも状のもので首を絞めて殺害し、4人は現金26万円などが入ったバッグを奪った。
 犯行後、実雄被告は口封じのため女性の長男殺害を指示。女性の軽乗用車に乗って行方不明の二男を捜していた女性の長男(当時18)と友人男性(当時17)を自宅近くで呼び止め、大牟田港から約1キロ離れた埋め立て地に連れて行き、午前2時20分頃、実雄被告の拳銃を使って孝紘被告が二人を撃った。さらに孝紘被告は死ななかった友人の胸にアイスピックを刺して殺害した。
 4被告は女性宅を探したが現金は見つからなかった。4被告は同日午前3時半頃、3人の遺体を乗せた女性の軽乗用車を同市の諏訪川に沈めた。
 21日午前、通りがかった人が川に少年の遺体が浮いているのを見つけ、110番通報。消防署員らが同11時ごろ、二男の遺体を引き揚げた。福岡県警は21日、参考人として真美被告を事情聴取。22日午前1時前、死体遺棄容疑で真美被告を逮捕。同日午前9時過ぎ、実雄被告は大牟田署へ「妻が逮捕されたので様子を聞きに来た」と出向いた。同署の取調室で、捜査員が対応していたところ、持っていた拳銃で自殺を図った。23日午後6時すぎ、二男が見つかった現場近くの川底から、女性の軽乗用車を発見、車内から男女三人の遺体を収容した。
 9月25日、死体遺棄容疑で孝紘被告を逮捕。10月2日、孝被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月8日、回復した実雄被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月26日、女性強殺容疑で4人を再逮捕。11月17日、長男と友人殺害で4人を再逮捕。12月7日、二男強盗殺害容疑で孝被告、孝紘被告を再逮捕した。
 殺害された女性は違法な高利で金を貸しており、真美被告は取り立て役を担当する一方、女性に数百万円の借金があった。さらに依頼されて取り立てた金を着服するなどのトラブルになっていた。
 犠牲となった長男や二男、友人男性はもともと孝紘被告と親しい間柄だった。しかし長男の女友達をめぐり孝紘被告との関係が悪化するなど、複数のトラブルが起きていた。
一 審
 2006年10月17日 福岡地裁久留米支部 高原正良裁判長 死刑判決
控訴審
 2007年12月25日 福岡高裁 正木勝彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
上告審
 2011年10月3日 最高裁第二小法廷 須藤正彦裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 真美被告と孝紘被告は起訴事実を認めた。北村実雄被告は単独犯行を主張。孝被告は起訴事実を否認している。
 検察側は「史上まれに見る凶悪な事案。犯罪性向や観念、発想は人格の本質にまで深化し、矯正不可能」として、両被告に死刑を求刑した。真美被告について「動機面で犯行の中心的存在。(息子を)事件に引き込み殺人行為をさせ、人間の所業とは思えない」と指摘。さらに性向にも言及し、「強固な金銭欲、自己保身欲、生命に対する冒涜をためらわない凶悪さ」と述べた。孝紘被告についても「犯行の実行行為者で4人の生命を次々と奪った。殺人鬼としか言いようがない」と指摘。法廷で殺害行為を「やくざ論としては名誉」と述べたことにも触れ「暴力団特有のゆがんだ観念から抜け出す可能性は見いだせない。再犯に及ぶ可能性は極めて大きい」とした。
 その上で、両被告が犯行を認め、法廷で遺族に謝罪したことを考慮しても「極刑しかあり得ない」と断じた。
 判決で高原裁判長は、真美被告を「動機面の中心的存在」、孝紘被告を「4人全員の殺害を実行した」とそれぞれの役割を認定。真美被告について、被害者殺害を考えながら自ら踏み切れずに息子2人を引き入れた点を指摘。「反省が深いことなどを考慮しても刑事責任はあまりに重く、極刑で臨むほかない」と述べた。
 孝紘被告についても「人命軽視の反社会的な価値観が強く、矯正は困難」と指弾。「当時20歳3ヶ月と若かったことなどを考慮しても刑事責任は重い」と述べた。
 殺害の共謀については、実雄被告は被害者3人、長男孝被告は4人についてそれぞれ認定した。

 2007年6月5日の控訴審初公判で、真美被告側は「関与は従属的で消極的。犯行の全容を正直に供述し、解明に貢献。改悛の情は顕著」と主張。孝紘被告側は「実行犯だが、絶対的立場の父母、兄の命令を受けたもので本質は従属的。強盗への関与も消極的」と情状酌量を訴えた。検察側は、両被告の控訴棄却を求めた。
 9月27日の最終弁論で、真美被告の弁護人は「改悛の情が顕著で、分離公判中の残る2被告が事実を認めていないことに心を痛めている」とした。孝紘被告の弁護人は「一家の手足として行動した従属的な立場だった。事件を後悔し、被害者に謝罪の意思も表明している」と述べ、いずれも無期懲役刑への減刑を訴えた。
 判決で正木裁判長は「人命軽視も甚だしく、死刑が重すぎて不当とはいえない」と述べた。両被告の量刑不当について正木裁判長は、「真美被告の言動が一連の犯行の契機となっているほか、2人の息子を犯行に引き入れるなど、重要な役割を果たしており、従属的とは評価できない」と指摘。孝紘被告についても「4人をわずか2日間のうちに殺害した実行犯で、刑事責任が特に重いことは明らかだ」「極端な暴力肯定の態度が認められる」と断じた。また一審同様、実雄被告は被害者3人、長男孝被告は4人についての共謀をそれぞれ認定した。

 2011年9月9日の最高裁弁論で、真美被告側は「首謀者ではなく、果たした役割も小さい。役割は従属的で真摯に反省している」、孝紘被告側は「家族への忠誠心で加担したに過ぎない。事件と向き合いながら生きて償わせるべきだ」といずれも死刑回避を主張した。検察側は、「強い金銭欲で、執拗で残虐な犯行に及び酌量の余地は全くない。責任は重大で、死刑をもって臨むしかない」と上告棄却を求めた。
 判決理由で須藤正彦裁判長は「現金奪取や犯行隠蔽の目的に酌量の余地はない。犯行態様も強固な殺意に基づく冷酷、非情、残忍なもので、複数の被害者が出た結果も重大だ。刑事責任は極めて重い」と判断。死刑とした一、二審の結論は妥当だと結論付けた。
備 考
 2004年10月4日、北村孝紘被告は拘置先の県警筑紫野署の留置場でトイレットペーパーを大量に飲み込み、自殺を図ったが未遂に終わっている。
 井上孝紘の旧姓北村。最高裁弁論前に姓が変わっている。
 共犯の北村実雄北村孝死刑囚も2011年10月17日に死刑が確定。
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氏 名
北村實雄/北村孝
事件当時年齢
 北村實雄被告60歳/北村孝被告23歳
犯行日時
 2004年9月16日~17日
罪 状
 強盗殺人、殺人、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反、逃走(孝被告のみ)
事件名
 大牟田市4人連続殺害事件
事件概要
 福岡県大牟田市の暴力団北村組は福岡県下に本拠を置く指定暴力団の下部団体で、構成員10人にも満たない小規模な組だった。組長の北村実雄被告、妻北村真美被告は6,600万円以上の借金を抱え、暴力団上部団体への上納金や生活費に困窮するなどしていたため、ヤミ貸金業を営んでいる友人の女性(当時58)にうその土地購入話を持ちかけて約2,600万円の現金を用意させたうえで殺害しようと計画。北村孝被告も加えて殺害の機会をうかがったが、真美被告がためらっている間に、孝被告が、両親を出し抜いて女性の家の金品を奪うために二男殺害を計画。500万円の報酬を条件に北村孝紘被告(旧姓)を誘い込んだ。
 孝、孝紘両被告は実雄被告らには内緒で2004年9月16日午後10時40分ごろ、女性宅に踏み込み、居間に居た二男(当時15)の背後からタオルで首を絞めて仮死状態にした。女性宅から指輪などの貴金属数十点(398万円相当)が入った金庫を強奪した。ただし、金庫の中に現金はなかった。二男が死んだと勘違いした二人は、次男を車のトランクに詰め込んで市内の川へと向かい、息を吹き返して命乞いする次男の首にロープを巻きつけて絞殺。遺体に重しをつけて川に遺棄した。孝紘被告は17日午後、自分の身分証明書を用いて指輪6個を計10万8,000円で質入れし、現金を孝被告に渡した。孝被告は4万円を孝紘被告に分配した。

 真美被告は16日午後から、債務者の居所を探すことを口実に女性を呼び出していた。真美被告は女性を殺害するつもりだったが手を掛けることができなかった。17日午後、孝被告に殺害協力を依頼。金庫に現金が入っていなかったため、孝被告は依頼を受け、孝紘被告を誘った。
 4被告は9月17日深夜、北村組の事務所がある大牟田市のアパートで女性に睡眠導入剤入りの弁当を食べさせて眠らせた後、ワゴン車に乗せて大牟田港まで移動。翌18日午前0時半ごろ、三人に見守られた孝紘被告はひも状のもので首を絞めて殺害し、4人は現金26万円などが入ったバッグを奪った。
 犯行後、実雄被告は口封じのため女性の長男殺害を指示。女性の軽乗用車に乗って行方不明の二男を捜していた女性の長男(当時18)と友人男性(当時17)を自宅近くで呼び止め、大牟田港から約1キロ離れた埋め立て地に連れて行き、午前2時20分頃、実雄被告の拳銃を使って孝紘被告が二人を撃った。さらに孝紘被告は死ななかった友人の胸にアイスピックを刺して殺害した。
 4被告は女性宅を探したが現金は見つからなかった。4被告は同日午前3時半頃、3人の遺体を乗せた女性の軽乗用車を同市の諏訪川に沈めた。
 21日午前、通りがかった人が川に少年の遺体が浮いているのを見つけ、110番通報。消防署員らが同11時ごろ、二男の遺体を引き揚げた。福岡県警は21日、参考人として真美被告を事情聴取。22日午前1時前、死体遺棄容疑で真美被告を逮捕。同日午前9時過ぎ、実雄被告は大牟田署へ「妻が逮捕されたので様子を聞きに来た」と出向いた。同署の取調室で、捜査員が対応していたところ、持っていた拳銃で自殺を図った。23日午後6時すぎ、二男が見つかった現場近くの川底から、女性の軽乗用車を発見、車内から男女三人の遺体を収容した。
 9月25日、死体遺棄容疑で孝紘被告を逮捕。10月2日、孝被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月8日、回復した実雄被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月26日、女性強殺容疑で4人を再逮捕。11月17日、長男と友人殺害で4人を再逮捕。12月7日、二男強盗殺害容疑で孝被告、孝紘被告を再逮捕した。
 殺害された女性は違法な高利で金を貸しており、真美被告は取り立て役を担当する一方、女性に数百万円の借金があった。さらに依頼されて取り立てた金を着服するなどのトラブルになっていた。
 犠牲となった長男や次男、友人男性はもともと孝紘被告と親しい間柄だった。しかし、長男の女友達をめぐり孝紘被告との関係が悪化するなど複数のトラブルが起きていた。
一 審
 2007年2月27日 福岡地裁久留米支部 高原正良裁判長 死刑判決
控訴審
 2008年3月27日 福岡高裁 正木勝彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年10月17日 最高裁第一小法廷 白木勇裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 北村実雄死刑囚:広島拘置所 北村孝死刑囚:大阪拘置所
裁判焦点
 北村実雄被告は一審初公判で単独犯行を主張。孝被告は地検支部から逃走した以外の罪を全面否認した。真美被告と孝紘被告は起訴事実を認めている。
 論告で検察は、すべての事件で自らの単独犯行を主張する実雄被告を「家族に刑事責任を免れさせようとする独善的な発想」と批判。事件への関与を否認する孝被告については「卑劣な人間性が際立っており、邪悪としか言いようがない」と非難した。
 最終弁論で孝被告の弁護人は、実雄被告の妻の真美、息子の孝紘両被告の供述調書に加え、孝被告の捜査段階での自白調書も含めて非合理や任意性がないなどを理由に「信用性が認められない」と無罪を主張。孝被告も泣きながら「天地神明に誓って事件に関与していません」と述べた。
 実雄被告の弁護人は、事件の動機を「感情のもつれ」とし強盗目的を否定して、死刑回避を求めた。同被告は、従来通り「私1人が4人を殺した」と単独犯を強調した。
 高原裁判長は判決で「人命より金銭欲を優先させた自己中心的な行為で、情状酌量の余地はない」「人命を軽視した冷酷、残虐な犯行で、両被告の責任はあまりに重く、極刑をもって臨むほかはない」などと述べた。
 判決は北村被告を「犯行の中心的存在」、孝被告は「現金への強い欲求から、殺害の計画や実行に積極的に関与した」と認定した。
 北村被告は自身の単独犯行を主張してきたが、判決は同被告が逮捕前に拳銃自殺を図ったことを挙げ「自らの死で真相を隠そうとしたのは、暴力団特有の価値観。真美、孝紘両被告の供述や関係証拠から、単独犯行はあり得ない」と退けた。

 2007年10月11日の控訴審初公判で、実雄被告は一転、ほかの被告との共謀を認めた上で、強盗目的を否定し、死刑回避を訴えた。女性殺害では真美、孝紘両被告との共謀を認め、孝被告との共謀、強盗目的を否認。別の2人殺害では4人の共謀を認め、もう1人の殺害については関与を否定した。
 孝被告は一審同様、「犯行に関与していない」「犯行を裏付ける客観的証拠は存在しない」と無罪を主張した。
 12月20日の最終弁論で、孝被告の弁護側は「共犯者の供述は信用できるとは言い難く、犯行時にアリバイもある」とあらためて無罪を訴えた。
 正木裁判長は実雄被告について、真美被告に指示して孝被告らを犯行に引き入れ、殺害方法も示唆したとし、「殺害行為こそ担当しなかったが、北村家の中心または暴力団組長として各犯罪の遂行に向け主導的な役割を果たした」と認定。孝被告については「実行役を孝紘被告に押し付け、自分は脇役を装うなどできるだけ自分の手を汚さずに済まそうとし、自己中心的」とした。そして「利欲的で人命軽視も甚だしく、死刑はやむを得ない」と述べた。

 2011年9月12日の最高裁弁論で、実雄被告側は「金品を奪う目的はなかった。心から反省しており、死刑は重すぎる」と死刑回避を主張した。孝被告側は「殺害の謀議と実行行為に関わっていない」などと無罪を主張した。検察側は「資産家から金品を奪う目的で周到に計画された。悔いている様子も認められない。責任は重大で更生の可能性はない」と上告棄却を求めた。
 判決理由で白川裁判長は、「現金奪取や犯行隠蔽の目的に酌量の余地はない。強固な殺意に基づく冷酷、非情、残忍な犯行。実雄被告は3人、孝被告は4人の殺害に関与しており、複数の被害者が出た結果も重大だ」と指摘。「実雄被告は殺害方法の指示を出すなど一家の中心として犯行を主導し、孝被告も積極的に関与した」として、「刑事責任はいずれも重大で、死刑はやむを得ない」と結論付けた。
備 考
 北村実雄被告は真美被告が逮捕された2004年9月22日午前9時過ぎに大牟田署へ「妻が逮捕されたので様子を聞きに来た」と出向いた。同署の取調室で、捜査員が対応していたところ、持っていた拳銃で自殺を図った。
 2004年10月13日午後5時40分ごろ、福岡地検久留米支部で、取調中の北村孝被告が夕食中に逃走。北村被告は客を装ってタクシーに乗り熊本県方面に向かったが、福岡県警は緊急配備を敷いて行方を追い、約3時間後の同8時55分ごろ、南に約35キロ離れた熊本県荒尾市の駐車場内で、タクシー車内にいた北村被告の身柄を確保した。
 孝被告は2000年6月、友人ら6人とともに、同県城島町中牟田の路上で、大牟田市の元建設作業員の少年(当時18)に木刀で殴るなどの暴行を加えて、水路に転落死させる傷害致死事件を起こし、懲役3年6月の判決を受け、出所していた。
 孝被告は、真美被告と前夫の息子。実雄被告との間で、養子縁組を結んでいる。
 共犯の北村真美井上孝紘死刑囚も2011年10月3日に死刑が確定。
現 在
 北村孝被告は無罪を主張し、2015年時点で、再審請求中。
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氏 名
魏巍
事件当時年齢
 23歳
犯行日時
 2003年6月20日
罪 状
 傷害、詐欺、住居侵入、強盗、建造物侵入、窃盗、強盗殺人、死体遺棄
事件名
 中国人留学生による福岡一家4人殺害事件
事件概要
 中国・河南省出身の元専門学校生魏巍(ぎ・ぎ/ウェイ・ウェイ)被告は、吉林省出身の中国人元日本語学校生王亮(おう・りょう/ワン・リアン)容疑者(当時21)、元私立大留学生楊寧(よう・ねい/ヤン・ニン)容疑者(当時23)とともに、2003年6月20日未明、福岡市東区の衣料品販売業者の男性(41)が外出するのを確認して男性宅に侵入。妻(40)、長男(11)、長女(8)の首を次々と絞めた。長男と長女はそのまま窒息死、妻は仮死状態になった。さらに帰宅した男性も首を絞めて仮死状態にした。現金37,000円などを強奪した後、4人に手錠をかけ、男性の車を使って遺体を博多港内の海中に投げ入れた。男性と妻は水死した。
 王亮容疑者と楊寧容疑者は6月24日に帰国。中国公安省は8月15日、北京の日本大使館を通じて事件の状況について聴き、海外で重要犯罪を犯した自国民への刑事処分を定める「国民の国外犯規定」に基づいて8月19日に遼寧省瀋陽市で王被告、27日に北京市内で楊被告の身柄を拘束した。
 魏巍被告は9月13日、別件の傷害容疑で逮捕された。
 魏被告らは男性がベンツを運転していることから一家に数千万円の預金があると考え、一家をロープで殺し遺体を山に捨てるため、ツルハシや作業服を購入。翌朝にキャッシュカードで金を引き出すことを計画していたことを明らかにした。事件を提案したのは楊被告である。

 その他の余罪として以下がある。
 ・楊被告らと共謀の上、来日直後の中国人留学生の居室に押し入り、中国人留学生2人から現金等を強奪した。
 ・楊被告らと共謀の上、日本語学校の校舎内に侵入して現金等を盗んだ。
 ・楊被告らと共謀の上、中国人留学生の居室に侵入して現金等を盗んだ。
 ・楊被告らと共謀の上、他の中国人になりすまして、電器店から携帯電話機1台等をだまし取った。
 ・交際していた中国人女性に対し、暴行を加えて負傷させた。
一 審
 2005年5月20日 福岡地裁 川口宰護裁判長 死刑判決
控訴審
 2007年3月8日 福岡高裁 浜崎裕裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年10月20日 最高裁第一小法廷 白木勇裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 魏被告は他の実行グループの殺害行為や死因については「知らない」とした上で、「妻を浴槽に押し付けたり、子供の顔に枕を押しあてたりした。そのほかは間違いありません」と述べ、起訴事実を大筋で認めた。ただ、誰が首謀者かはお互いになすりあっている。
 川口裁判長は従属的立場だったという弁護側の主張に対して、「王、楊両被告の指示を受けて行動していた面はあるが、殺害行為や死体遺棄行為に重要かつ不可欠な役割を果たした。他の2人より従属的だったとは言えない」と認定した。
 そのうえで、川口裁判長は「何が起きたか分からないまま苦もんの中で絶命した被害者の心情を思うと、憐憫の情を禁じ得ない。本件犯行の結果はもはや取り返しのつかない重大かつ深刻なもの」と指摘。「まだ若く、事件を認めて反省していることや、王被告が中国で無期懲役判決を受けたことなどを最大限考慮しても、事件の残虐性や結果の重大性などを考えると、生命をもって償わせるのが相当だ」と述べた。

 2006年7月4日の控訴審初公判で、弁護側は魏被告について「強い犯罪傾向はなく、共犯が発案した犯罪に巻き込まれた。被告は真摯に反省している」などとして従属的立場を強調し、死刑回避を主張した。
 弁護側は2006年12月14日、魏被告が初めて遺族あてに書いた謝罪文を証拠として提出。「愚かな行為で4人の命を奪ってしまい、きっと憤慨していることでしょう」「どんな言葉も無力でしょうが、心からおわび申し上げます」などと書かれており、遺族にも郵送したという。
 続いて最終弁論があり、弁護側は「(被告を含む)3人の共犯者の中で、被告は従属的な立場だった。真摯に反省しており、生きて償うのが相当」と死刑回避を主張。検察側は「死刑が適当」として、魏被告の控訴棄却を求めた。
 浜崎裁判長は判決で魏被告の従属的立場を指摘。その上で「自己の利益のために犯行に加わることを決意し、極めて重要、不可欠な役割を果たしている。共犯の2人と特段の差異があるとは言えない」「非業の死を遂げた4人の無念さは察するに余りあり、残虐で冷酷な所業としか言えない」と述べた。

 2011年9月15日、最高裁弁論で弁護側は、「魏被告の関与の度合いは従属的で、殺害行為も他の2人の指示だった」と主張し、「反省しており、更生可能性がある」と訴えた。検察側は「まとまった金ほしさに積極的に関わった。死刑を回避する理由は全くない」と上告棄却を求めた。
 判決で白木勇裁判長は「金品目的のためには生命の尊さを意に介さない極めて冷酷、残忍な犯行で、結果も重大だ。何の落ち度もないのに突如非業の死を遂げた被害者らの無念は察するに余りある。魏被告は準備段階から深く関与し、実行行為も担当しており、刑事責任は極めて重い。さまざまな事情を考慮しても、死刑判決を是認せざるを得ない」と述べた。国際捜査共助要請を受けた中国当局が犯行後に帰国した共犯者2人を取り調べた供述調書について、一、二審が「肉体的、精神的強制が加えられた形跡がない」として証拠能力を認めた判断にも誤りはないとした。中国で作られた調書の証拠能力を最高裁が認めたのは初めてとみられる。
備 考
 殺害された男性は昨年まで福岡市中央区で韓国料理店を経営、事件当時は無店舗で衣料品販売業を営んでいた。男性は借金などで複数の金銭トラブルがあり、また中央区のマンションで大量の大麻草を栽培していた。そのため、犯行を依頼した人物がいると見られていたが、3被告ともそれを否定した。大きな疑問点として、以下が挙げられている。
(1)強盗目的なのに事前に死体遺棄の準備をし、危険を冒して遺体を海に捨てている(2)家中を物色した痕跡がない(3)トランクが荷物でいっぱいの被害者の車で4人分の遺体を乗せ、3容疑者も乗って1回で運ぶのは不可能(4)被害者宅は車がベンツであること以外はごく普通の民家で、なぜ目標にしたのか不明――など。
 中国公安当局は王亮被告、楊寧被告を2004年7月27日付で殺人罪などで起訴。2005年1月24日、中国遼寧省遼陽市の中級人民法院(日本の地裁に相当)で判決公判が開かれた。同法院は「残虐な犯行で、証拠は明白」として、楊被告に死刑、王被告に無期懲役を言い渡した。王被告については「自首」を認定、刑を軽減した。楊被告は控訴、王被告は控訴せず。
 2005年7月12日、楊被告の控訴棄却、執行。王被告の無期懲役も最終的に確定した。
その他
 『週刊新潮』は、被害者の妻の兄である会社役員の男性を真犯人であるかのような記事を掲載。名誉を傷つけられたとして、男性は新潮社と発行人を相手に5,500万円の損害賠償を求めた。東京高裁は新潮社に、770万円の賠償を命じる判決を出した。新潮社側は上告したが、2006年8月30日、最高裁は上告を退け、判決が確定した。
 男性は同様に『フライデー』に対しても3,300万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしており、2005年8月29日、東京地裁は出版元の講談社に880万円の賠償を命じた。11月30日、東京高裁の宮崎公男裁判長は一審判決を破棄し、賠償額を660万円に減額する判決を言い渡した。宮崎裁判長は「一切の事情を総合的に判断すると精神的苦痛の慰謝には600万円(弁護士費用除く)が相当」と指摘。一審が命じた「判決内容を伝える広告の掲載」も取り消した。上告せず確定か?
 男性は『週刊文春』にも、中国人の容疑者逮捕後を含め2003年10月まで6回掲載された記事で、夫妻側が被害者とトラブルを抱え、事件当夜に被害者宅を訪問したかのように報じて犯人扱いされたとして、2,000万円の賠償を求めた。2006年9月28日、東京地裁は1,100万円の支払いを命じた。金子順一裁判長は「ずさんな取材で主要部分が真実でない記事を6回も掲載され多大な精神的苦痛を被った」と述べた。2007年8月6日、東京高裁は双方の控訴を棄却した。一宮なほみ裁判長は「取材が十分とは言えず、記事内容が真実と信じる相当な理由は認められない」と述べた。
その後
 2014年時点で再審請求中。
執 行
 2019年12月26日執行、40歳没。
 再審請求中の執行。
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氏 名
中川智正
事件当時年齢
 27歳
犯行日時
 1989年11月4日~1995年3月20日
罪 状
 殺人、殺人未遂、逮捕監禁致死、死体損壊、爆発物取締罰則違反
事件名
 坂本弁護士一家殺人事件、元信者殺人事件、弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、VX殺人事件及び同未遂2事件、目黒公証役場事務長拉致監禁事件、地下鉄サリン事件、新宿青酸ガス発生事件、都知事爆破物郵送事件他
事件概要
●坂本弁護士一家殺人事件
 横浜市の坂本弁護士(当時33)は、オウム真理教に入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。TBSの取材でも坂本弁護士は教団を徹底追及していくことを発言。オウム真理教の幹部たちはTBSに乗り込み収録テープの内容を見て殺害を決意。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)は早川紀代秀、村井秀夫、新実智光、中川智正、佐伯(現姓岡崎)一明、端本悟に殺害を命じた。実行犯6名は1989年11月4日、横浜市の坂本弁護士宅のアパートに押し入り、坂本弁護士、妻(当時29)、長男(当時1)の首を絞めるなどして殺害。遺体をそれぞれ新潟、富山、長野の山中に埋めた。
 坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が関わっていると主張。坂本弁護士がオウム批判をしていることと、坂本弁護士宅にオウムのバッジが落ちていたことなどが理由である。オウム真理教側は、被害者の会や対立する宗教団体が仕組んだ罠だと反論した。

●元信者殺人事件
 1994年1月30日、元オウム真理教信者だったOさん(当時29)は教団付属病院に入院している女性信徒を救助しようと、女性の親族であり脱会の意志を示しているY被告とともに救い出そうとしたが、警備の信徒に取り押さえられた。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)はY被告に処刑をほのめかしつつ、Oさんと親族のどちらが大切かを迫り、幹部10数名らにOさんを押さえつけさせ、Y被告に絞殺させた。遺体は教団施設内にて焼却した。

●弁護士サリン襲撃事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。

●松本サリン事件
 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。

●元信者リンチ殺人事件
 1994年7月10日 元信者のTさんをリンチの末、首をロープで絞めて殺害。遺体を教団施設内にて焼却した。

●VX殺人事件及び同未遂2事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、教団信者の知人だった大阪市の会社員(当時28)を「警察のスパイ」と決めつけ、新実、中川らに「ポアしろ。サリンより強力なアレを使え」などと、VXガスによる殺害を指示。新実らは1994年12月12日、出勤途中の会社員にVXガスを吹き掛け、殺害した。他別の会社員2名にも吹きかけ、殺害しようとしたが失敗した。

●目黒公証役場事務長拉致監禁事件
 1995年2月28日、逃亡した女性信者の所在を聞き出すために信者の実兄である目黒公証役場事務長を逮捕監禁、死亡させ、遺体を焼却した。

●地下鉄サリン事件
 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5,500人の被害者を出した。

●新宿青酸ガス発生事件
 1995年5月、新宿駅で青酸ガスを発生させた。

●都知事爆破物郵送事件
 1995年5月、東京都知事に爆発物を郵送し、都職員に重傷を負わせた。

 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫元幹部は1995年4月に刺殺された。
 罪に問われている事件では、松本被告の13事件に次いで多い。中川被告が関与した事件では計25人が死亡しており、松本被告、新実被告に次ぐ。
一 審
 2003年10月29日 東京地裁 岡田雄一裁判長 死刑判決
控訴審
 2007年7月13日 東京高裁 植村立郎裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年11月18日 最高裁第二小法廷 古田佑紀裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 広島拘置所
裁判焦点
 中川被告は、弁護士一家殺害事件の実行行為に加わったことは認めたが、多くの事件で殺意や共謀を否認。松本サリン事件では「殺意はなく、傷害致死の幇助にとどまる」と主張。地下鉄サリン事件では、サリン製造にかかわったことは認めたが、「何に使われるか知らなかった」として無罪を主張した。また、「心神喪失に準じる精神状態で、全事件で責任能力を欠いていた」とも訴えた。弁護側は無罪やほう助罪などの適用を主張している。
 判決は、坂本弁護士らの殺害について「それまで坂本弁護士の名前を聞いたこともなかったが、出家した以上は松本被告の指示に従わなければと思い犯行に加わった」と指摘。被告が坂本弁護士の妻の首を着衣で締め付けて殺害し、長男の顔にタオルケットを強く押し付けたと認定した。
 地下鉄、松本両サリン事件については、中川被告らが生成したサリンが使われたと認定した。

 控訴審で弁護側は最終弁論で「教組で特異な存在だった松本智津夫死刑囚(教祖名麻原彰晃)の指示であったからこそ従った」と死刑を回避するよう求めた。
 判決は、罪に問われた11事件のすべてについて、中川被告の関与を認定した。植村裁判長は、「医学の知識を犯行に悪用し厳しい非難を免れない、刑事責任能力もあった」「松本死刑囚がそばにいるような神秘体験が犯行を促す方向に作用した可能性があるとしても責任能力に疑念は生じない。サリンが悲惨極まりない結果を引き起こす毒物と熟知しながら積極的に関与した」「死者が計25人に上るなど事件の極限的な悪さに照らせば、反省や謝罪を前提にしても死刑選択を妨げる特段の事情はない」と述べた。

 2011年9月16日の最高裁弁論で、弁護側は「被告は精神病と同レベルの解離性障害か祈祷性精神病を患っており、完全責任能力はなかった。地下鉄サリン事件については計画を知らず、果たした役割も大きくなかった。被告が犯行に関わったのは精神的な障害が影響しており、死刑は重すぎる」と主張。また絞首刑は残虐性で意見であると訴え、死刑回避を訴えた。検察側は医師の鑑定も考慮に入れたうえで、完全責任能力を認めた二審に間違いはない」と反論。「共犯者が無差別大量殺人を実行すると認識しながらサリンを製造するなど犯行に積極的に関与しており、死刑を当然適用すべき事案」と述べた。
 判決で古田裁判長は、被告側の主張を「上告理由に当たらない」と退け、「法治国家に対する挑戦として組織的、計画的に行われた犯行で、人命軽視も甚だしい。中川被告は一家殺害事件では自ら弁護士の妻や子供の首を絞めて窒息死させ、地下鉄サリン事件では共犯者とともにサリンを合成するなど、重要な役割を積極的に果たした。命を失った被害者は25人に及び、残虐で非人道的な犯行態様と結果の重大性は比べるべき例がない」と述べた。
その後
 2017年3月9日、東京地裁に再審請求。2018年5月30日、東京地裁は請求を棄却。即時抗告中。
 2018年3月14日、東京拘置所から広島拘置所へ移送された。
 2018年8月15日付で東京高裁は、即時抗告審の手続きを終了する決定をした。
執 行
 2018年7月6日執行、55歳没。
 再審請求中の執行。
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氏 名
遠藤誠一
事件当時年齢
 34歳
犯行日時
 1994年6月27日~1995年3月20日
罪 状
 殺人、殺人未遂
事件名
 松本サリン事件、地下鉄サリン事件、VX襲撃事件、弁護士サリン襲撃事件他
事件概要
●松本サリン事件
 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。

●地下鉄サリン事件
 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。

●VX襲撃事件
 1994年12月2日、信者の脱会を手助けした都内の駐車場経営者(84)をVXガスで殺害しようとして傷害を負わせた。

●弁護士サリン襲撃事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。

●池田氏サリン事件
 村井秀夫は、1993年11月中旬頃、遠藤誠一、新實智光、中川智正、滝澤和義らに対して、創価学会名誉会長池田大作に、教団で生成したサリンをかけるよう指示した。池田氏が対象となったのは、創価学会信者による被告人の説法会の妨害行為や1990年の総選挙の際の選挙活動妨害行為があり、また、教団を攻撃した『サンデー毎目』を発刊している毎目新聞杜と創価学会とが緊密な関係にあると考えたこと等から、村井が噴霧実験の対象としたのであった。
 村井らは、農薬用噴霧器を普通乗用自動車に取り付けて噴霧する方法を考え、同月中旬頃、村井、新實、中川及び滝澤は、噴霧するため、八王子市内の創価学会施設付近まで赴き、上記普通乗用自動車で創価学会施設周辺を走行しつつ、車の後方から外に向けて噴霧した。車の真後ろにはバイクでついて来る者がいて、この者が噴霧したサリンを浴びたのは明らかであり、また、創価学会施設の警備員らも噴霧したサリンを浴びたのは明らかであったが、何らの影響も現れなかった。
 この第一次池田事件に際して、サリン注入や噴霧中に噴霧したものが車内に逆流して来たことが原因となってか、村井、中川、新實及び滝澤らは、「手が震える、息が苦しい、目の前が暗くなる」という症状が出た。
 なお、第一次池田事件の際、遠藤が生成を担当していたボツリヌス菌も同じ噴霧車に備えた別の噴霧器(霧どんどん)で撤こうとしたが、噴霧器が途中で動かなくなり、ほとんど撒くことができなかった。
 さらに村井は、1993年11月末ないしは12月初旬頃、土谷及び中川に対し、サリンを5キロ造れと指示し、土谷らは、同月中旬頃、サリン約3キログラムの生成を完成した。このサリンを、八王子の創価学会施設で池田氏の講演会があるということで、その付近で噴霧することとなった。村井らは、サリンを加熱して気化させ噴霧する方法を考案し、この方式の噴霧装置を製作して2トンの幌つきトラックに搭載する準備をした。噴霧を予定していた当日に、講演会は中止となったことがわかったが、村井及び新實は、同月中旬頃、上記サリン3キログラムを噴霧装置に注入した噴霧車に乗車し、中川、遠藤、滝澤はワゴン車に乗車し、八王子市まで行った。
 噴霧する前に、中川らにおいて、噴霧車が火を噴くんではないかという話が出ていた。そして、実際にサリンを噴霧しようとしたところ、ガスバーナーの火が噴霧装置に燃え移ってトラックの荷台が発火してしまった。創価学会の警備員に察知されて追いかけられ、噴霧は中止した。トラックを運転していた新實は、かなりの量のサリンを直接浴びてしまい、重体に陥った。

 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫容疑者は1995年4月23日、東京・南青山の教団総本部前で殺害されたため不起訴。殺人犯は一審懲役12年が確定している。
一 審
 2002年10月11日 東京地裁 服部悟裁判長 死刑判決
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控訴審
 2007年5月31日 東京高裁 池田修裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年11月21日 最高裁第一小法廷 金築誠志裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 「人が死ぬとは思わなかった」(松本サリン事件)、「サリンを作ったが、何に使うか知らなかった」(地下鉄サリン事件)。1996年の第4回公判まで起訴事実を全面的に認めていた遠藤被告は、弁護人を解任して無罪主張に転じ、こんな釈明を続けてきた。
 弁護側は公判で犯意や共謀を争うとともに、事件当時はマインドコントロールの影響で心神喪失か心神耗弱状態だったと主張している。
 一審で服部裁判長は、遠藤被告が松本智津夫被告らと共謀して、4事件に正犯として関与したと認定し、「教団内で名誉ある地位を得たいといった利己的な動機も含め、自らの判断で犯行に及んだ」と述べた。
 一方、監禁事件などで指名手配中の信者2人を教団施設内にかくまったとされる犯人蔵匿罪については、無罪とした。
 判決理由の中で、服部裁判長は、地下鉄サリン事件について「サリンが地下鉄などの閉鎖空間で殺人に使われることを認識しており、犯行実現のため極めて重要な役割を担った」と述べ、「何に使うか分からなかった」とする弁護側の主張を退けた。
 松本サリン事件についても「サリンの毒性を十分認識しており、不特定多数の住民に対する確定的殺意があった」と認定した。

 遠藤被告は一審では松本死刑囚との決別を口にしたが、控訴審では「尊師に帰依しており、尊師の弟子である」と翻し、「死刑は弟子12人だけでいい。尊師は未来仏なので(死刑)執行しないでください」と擁護した。
 控訴審の最終弁論で、弁護側は「遠藤被告は松本智津夫死刑囚(教祖名麻原彰晃)のマインドコントロール下にあり、事件当時は心神喪失か心神耗弱の状態で、責任能力がなかったか、減退していた」「サリンが地下鉄でまかれるとは思っていなかった」と主張。また「実行行為に関与しておらず、過剰な制裁は正義に反する」として死刑の見直しを訴えた。
 検察側は「関与した地下鉄、松本両サリン事件で計19人が死亡した結果は重大。犯行に不可欠な役割を果たした」として控訴棄却を求めた。
 判決で池田裁判長は「自らの判断で加担した」と認定。その上で「松本事件でサリンの威力を痛感したのに、地下鉄事件でサリン生成に主体的に関与した。刑事責任は実行役に勝るとも劣らない」と指摘した。そして無差別大量殺人を企てた犯罪史上例をみない残虐卑劣な暴挙。極刑で臨むほかない」と述べた。

 2011年9月29日の最高裁弁論で、弁護側は「教義や修行による強い心理的拘束力で、完全な責任能力はなかった。両サリン事件とも共謀の事実はなく、殺意もなかった」と述べ死刑回避を主張した。検察側は「精神障害もなく、サリンの致死性を認識しながら犯行に及んでいる。共謀を認めた一、二審判決に誤りはない」と上告棄却を求めた。
 判決で金築裁判長は、は「教団の組織防衛などを目的とし、法治国家に対する挑戦として組織的かつ計画的に行われた犯行で、人命軽視も甚だしい」と批判。「実行犯ではないものの、科学的知識を利用してそれぞれの犯行に関与し、重要な役割を果たしており、刑事責任は極めて重大。捜査の早い段階でサリン生成に関与したことを告げるなど酌むべき事情を考慮しても、死刑判決はやむを得ない」と結論づけた。
備 考
 薬物密造4事件は、検察側が審理迅速化のため起訴を取り消した。
その後
 2016年9月23日、東京地裁に再審請求。時期不明だが、東京地裁は請求を棄却。遠藤死刑囚は即時抗告した。
執 行
 2018年7月6日執行、58歳没。
 再審請求中の執行。8月2日付で東京高裁は、手続きを終了する決定をした。
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氏 名
守田克実
事件当時年齢
 54歳
犯行日時
 2002年8月5日~11月22日
罪 状
 住居侵入、強盗殺人、現住建造物等放火、電磁的公正証書原本不実記録、同供用、電磁的公正証書原本不実記録幇助、同供用幇助、有印私文書偽造幇助、同行使幇助、旅券法違反幇助
事件名
 警察庁指定124号事件(マブチモーター社長妻子強殺事件他)
事件概要
 無職小田島鉄男(旧姓)被告と、無職守田克実被告は共謀して以下の事件を犯した。
(1)2002年8月5日午後3時ごろ、千葉県松戸市にある小型モーターの世界的トップメーカー・マブチモーター社長方で、社長の妻(当時66)と長女(当時40)を絞殺。現金数10万円と高級腕時計や指輪など966万円相当を奪った上、2部屋に混合ガソリンをまいて放火し、木造2階建て住宅延べ約170平方メートルを半焼させた。小田島被告は宝石を東京都内の宝石商に偽名で売却していた。
(2)2002年9月24日、二人は東京都目黒区に住む歯科医師の男性(当時71)宅に侵入。自宅1階居間で男性を電気コードで縛ったうえ、ナイフで胸部や腹部などを突き刺し、タオルなどで首を絞めて殺害。現金約35万円や指輪を奪った。
(3)2002年11月21日、二人は千葉県我孫子市の金券ショップ社長(当時69)方に警官を装って押し入り、侵入。社長の妻(当時64)を殺害し、現金100万円を奪った。

 2人は共謀して2002年7月、本籍北海道の男性の住所を勝手に伊勢崎市に移した上、男性名義の旅券を不正に取得。マブチ事件後に複数回、この旅券などを使い、成田空港からフィリピンに出国していた。二人は旅券法違反で2005年9月30日に逮捕された。
 2人は刑務所で服役中に知り合った。守田被告が小田島被告から何度も誘われたことが、事件のきっかけだったとされる。マブチ事件後、フィリピン旅行などで金を使い果たしたため、第二、第三の犯行に手を染めた。
 二人は一時、群馬県内で同居。二人は新聞のお悔やみ欄を見て葬式で留守中の家を狙い、群馬県などで空き巣を繰り返していた。2005年1月、前橋市内の無職女性宅から現金などを盗んだとして群馬県警に窃盗容疑で逮捕され、小田島被告は前橋地裁で懲役4年の判決(控訴中)を、守田被告は前橋簡裁で懲役2年8月の判決(服役中)を受けていた。
一 審
 2006年12月19日 千葉地裁 根本渉裁判長 死刑判決
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控訴審
 2008年3月3日 東京高裁 中川武隆裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年11月22日 最高裁第三小法廷 寺田逸郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 守田被告は逮捕段階で犯行を全面的に認めた。また、マブチ事件で逮捕後、2件の犯行を認める上申書を提出した。
 2006年2月23日の初公判で、守田被告は起訴事実を全面的に認めた。
 検察側は論告で「4か月で4人を殺害するなど犯罪史上まれにみる重大かつ凶悪な犯行」などとして、死刑を求刑した。
 弁護側は「いずれの事件も小田島鉄男被告が計画、主導したもので、守田被告の関与は従属的だった」とし酌量を求めた。
 守田被告は公判で「極刑でも罪を償うことはできない」と発言する一方で、遺族らへの気持ちについては「表現できない」などと謝罪の言葉は述べていない。最終意見陳述でも「ありません」と答えた。
 根本渉裁判長は「4ヶ月足らずの間に連続して行われた凶悪事件で、社会に与えた衝撃も大きい。罪責はあまりにも重く、極刑をもって臨むほかない」と述べ、求刑通り死刑を言い渡した。
 根本裁判長は、共犯の小田島鉄男被告について、「対象の選定、計画立案など寄与度は大きい」としながらも、「マブチ以外の2事件は守田被告が持ち掛け、現場でも小田島被告と役割分担をしており、主従関係があったとはいえない」と指摘。弁護側の主張を退けた。

 2007年10月29日の控訴審で、弁護側は控訴趣意書で▽共謀とされた長女の殺害は、監禁して金品を奪う当初の計画を、小田島被告が勝手に変更しており事実誤認▽守田被告の精神鑑定を却下した一審は、訴訟手続きの法令違反▽死刑判決の量刑不当――などと主張。計画のほとんどを共犯の小田島鉄男被告が計画したとして、「守田被告は小田島被告の指示で動いていた」「従属的な立場の犯行だった」と主張した。また、「一審は必要不可欠だった精神鑑定を却下した。4人のうち2人の殺害は共犯者による独断で、共謀は成立しない」などと訴えた。一方、検察側は「小田島被告の誘いに乗って積極的に犯行に加担した」として従属的立場だったとの主張を否定。控訴棄却を求めた。
 判決で中川裁判長は「具体的な計画を立てたのは小田島死刑囚だが、被告は大金の魅力に惹かれ、積極的に小田島死刑囚に働きかけるなど、互いに利用し合う関係が成立していた」と指摘。「利欲目的で何の落ち度もない4人の命を奪うなど刑事責任は重く、小田島死刑囚と大きな差を見つけることはできず、極刑はやむを得ない」と述べた。

 2011年10月18日の最高裁弁論で、弁護側は「死刑制度は憲法違反だ」と述べた上で、犯行は共犯として死刑が確定した小田島鉄男死刑囚が主導し、殺害の一部も「事前の共謀範囲を超え、小田島死刑囚の単独犯行だ」と主張。深く反省しているとして無期懲役を適用するべきだとした。検察側は「大金を手に入れようとした動機に酌量の余地はなく、死刑で臨むほかない」と上告棄却を求めた。
 判決で寺田裁判長は、「大金を得て遊んで暮らすため、資産家宅に侵入して全員を殺害する計画を立て、4カ月の間に相次いで事件を起こし、犯行態様も残虐、冷酷だ。4人の命を奪った結果は重大で遺族の被害感情も厳しい」と指摘。さらに、「マブチ事件は小田島死刑囚から誘われたものの、殺害など実行行為の重要な部分を担い、同等の分け前を得ている」として小田島死刑囚との役割にも差はないと判断。「人の生命を軽んじる犯罪性向が顕著。死刑はやむを得ない」と結論付けた。
備 考
 小田島被告は1990年、2人組で東京都内の社長一家7人を2昼夜監禁し、現金3億円と貴金属を奪った。約3カ月後に香港から帰国したところを逮捕され、懲役12年の実刑判決を受け、2002年6月に仮出所していた。
 守田被告はタイ人女性殺人事件で懲役12年の判決を受け、89年に入所していた。
 小田島鉄男(現姓・畠山)被告は分離公判。2007年3月22日、東京地裁で一審死刑判決。11月1日、本人控訴取り下げで確定。
現 在
 2013年5月時点で再審請求中。
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氏 名
兼岩幸男
事件当時年齢
 41歳
犯行日時
 1999年8月15日/2003年5月25日
罪 状
 殺人、死体損壊、死体遺棄
事件名
 交際2女性バラバラ殺人事件
事件概要
 すしチェーン店職員の兼岩幸男被告は1999年8月15日、愛知県蟹江町のアパートに住んでいる、同じ店で働いていたパート店員の女性(当時43)の部屋で、女性の首を手で絞めて殺害した。兼岩被告は部屋の浴室で女性の遺体をカッターナイフなどで切断。ポリ袋に入れて頭部を愛知県小牧市の焼却炉に、胴体と両脚を名古屋市中川区の河川敷近くの草むらに捨てた。見つかっていない両手首は同市中川区のアパートのごみ捨て場に捨てたという。
 女性は1988年に損害保険の仕事を通して兼岩被告と知り合い、当時の夫と別居後も交際を続けていた。兼岩被告は「生活苦で借金を返せずなじられた」と供述している。
 遺体は1999年8月、小牧市の造園業者の焼却炉の中から、女性の頭部が燃えて白骨化した状態で見つかり、愛知県警が死体損壊・遺棄容疑で捜査したが、身元は分かっていなかった。女性は1999年、家族が警察に捜索願を出していた。死体損壊・遺棄容疑については時効が成立している。
 当時名古屋市の焼肉チェーン店部長だった兼岩幸男被告は、愛知県一宮市に住む女性と2002年3月から交際し、9月に一宮市にて共同で清掃管理会社を設立。女性が社長となり、兼岩被告が実質的に経営した。しかし兼岩被告は女性から結婚を迫られたため疎ましくなり、犯行を決意。
 2003年5月25日午前1時半頃、女性(当時49)方で、女性の首を手で絞めて窒息死させた。その後、女性方の浴室で、工作用カッターナイフを使って女性の遺体を切断した。さらに黒いごみ袋に入れ、26日未明に岐阜県柳津町の境川に捨てた。
 兼岩被告は一宮市の事件で2003年7月16日、死体損壊・遺棄容疑で逮捕。後に殺人で再逮捕された。一宮市の事件の初公判後、1999年の事件を自供した。
一 審
 2007年2月23日 岐阜地裁 土屋哲夫裁判長 死刑判決
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控訴審
 2008年9月12日 名古屋高裁 片山俊雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年11月29日 最高裁第三小法廷 那須弘平裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 被告は2003年10月の初公判で一宮市における殺人事件の起訴事実を全面的に認めている。しかし2004年11月8日の公判で1999年の事件の殺人を否認、死体遺棄は認めた。12月13日の公判で、女性は自殺していたと主張した。さらに「警察官による自白の強要など黙秘権の侵害があった」と訴えた。
 弁護側は2006年3月24日の公判で、情状鑑定の実施を申請したが、岐阜地裁は却下した。
 検察側は「二人の殺害は確定的殺意に基づく計画的かつ残虐な犯行」「執拗かつ残虐な犯行で反省の態度も認められない」と断じた。
 最終弁論で弁護側は、「パート従業員は自殺。事前に殺害や遺体の解体、遺棄を計画したこともない」と改めて無罪を主張した。共同経営者殺害については「衝動的、突発的犯行で、犯罪の発覚を恐れて慌てて遺体を処理した」と計画性を否定した。
 兼岩被告は最終意見陳述で「いかなる事情があっても、人をあやめたり自殺をさせたりする状況になってしまったことについて釈明はない」と述べた。
 土屋裁判長は「短絡的、自己中心的で身勝手な犯行で、情状酌量の余地はない」「確定的殺意に基づく残酷かつ冷酷な犯行。社会に与えた影響は大きく、極刑をもって償うしかない」と述べた。被告側の自殺主張に対しては、「遺体を切断して遺棄し、誰にも言わないことが、自らの行為を隠ぺいするためであるのは社会通念上明らか。捜査は供述を強制するものではなく、信用性に疑いを生じさせない」と起訴事実を認定した。また「黙秘権の告知も受けず、警察官に自白を強要された」として争っていた捜査手法については、「黙秘権の告知がなくても任意性に問題はない」とした。

 2008年2月20日の控訴審初公判で、弁護側は、被害者の女性のうち1人は自殺で、犯行時間などから被告に殺害は無理だったなどとして「一審判決は事実誤認」と主張、量刑も不当と訴えた。検察側は控訴棄却を求めた。
 7月9日の弁論で、弁護側は1人目の殺害時間について、「認定があいまいで、殺害に合理的疑いがある。自殺をうかがわせる客観的証拠もある」と主張。2人目の殺害も「相手が包丁に手をかけたので、やむなく首を絞めた。正当防衛か過剰防衛だ」「被害者は包丁を持ったまま体当たりしており、殺害行為を招いた落ち度があった」と訴えた。また取り調べの違法性を指摘し、「自白の証拠能力は認められない」と述べた。
 一方、検察側は自殺だったとする供述に、「自然な供述変遷ではない。罪を免れるための虚偽」と反論。2人目の殺害も、「包丁を持っていたとは控訴審まで言わなかった。卑劣、狡猾で、更生の可能性はない」と主張した。「刑事責任を免れるために虚偽の供述を繰り返しており、一審の時よりも反省心が欠如した」と控訴棄却を訴えた。
 片山裁判長は判決理由で「3年9カ月の時を経て1度ならず2度までも交際中の女性を殺害しており、自己保身のためには手段を選ばず、他人の生命を軽く見る態度が顕著。社会にとって極めて危険な犯罪的傾向を有している」と指摘した。そして「遺体の損壊にまで及ぶなど、その態様は確定的殺意に基づき冷酷かつ残忍」と述べた。2003年の事件における正当防衛主張に対して片山裁判長は「重要な事柄を控訴審でようやく主張し始めること自体不自然極まりない」と退け、捜査段階の自白調書も「任意性が認められる」とした。被告側の無罪主張に対しては、信用できないと退けた。

 2011年11月1日の上告審弁論で、兼岩被告の弁護側は蟹江町の女性について「殺害ではなく自殺だ」と主張。一宮市の女性についても「刃物を持って襲ってきたため首を絞めた。正当防衛か過剰防衛が成立する」と訴え、無期懲役が相当とした。検察側は上告棄却を求めた。
 判決で那須裁判長は「不倫関係にあった女性を殺害し、3年9カ月後に再び同様の事件を起こしており、犯罪傾向は顕著だ。いずれも冷酷、残忍な犯行で動機に酌量の余地はなく、2人の命を奪った結果も重大。被害者に特段の落ち度もなく、死刑はやむを得ない」と指摘した。
備 考
 兼岩被告は2006年8月22日に同地裁で開かれた公判で、警察官による自白の強要など黙秘権の侵害があったほか、真実を求めて3月24日に申請した情状鑑定を却下されたと主張。「裁判は推定有罪で進んでいる」として忌避を申し立てたが、土屋裁判長は「訴訟の遅延が目的」として簡易却下した。さらに名古屋高裁へも即時抗告しているが、こちらも却下されている。
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氏 名
松永太
事件当時年齢
 34歳
犯行日時
 1996年2月26日~2002年3月6日
罪 状
 殺人、傷害致死、監禁致傷、詐欺、強盗
事件名
 小倉監禁連続殺人事件
事件概要
 布団販売会社経営松永太被告と元幼稚園教諭の緒方純子被告は1982年頃から交際を始め、事実上の夫婦関係にあったが、1992年に会社が多額の負債を抱えたため逃亡。指名手配されたため、マンションなどに隠れ住むようになった。
 1994年10月、北九州市のマンションで松永被告と緒方被告は不動産会社員だった男性・娘と同居を開始。1996年2月26日ごろ、マンションから逃げ出そうとした男性(当時34)を風呂場に何日も閉じ込め、食事もろくに与えず体に電気を通して衰弱させ、多臓器不全で死亡させた。松永被告はノコギリやミキサーで遺体を解体し、公衆便所や海に捨てさせた。男性の娘はその後、ずっと監禁された。
 1997年から同じマンションで緒方被告の親族6人が両被告と同居を開始。緒方家は財産のほとんどを松永被告に吸い取られていた。松永被告は家族全員に通電による虐待を繰り返し、食事も満足に与えなかった。松永被告は緒方被告にも通電虐待を繰り返していた。
 1997年12月21日、両被告は緒方被告の父親(当時61)の発言をきっかけに通電行為を行い、死亡させた(この事件のみ、傷害致死)。
 1998年1月20日、両被告は逃亡生活や父の死が露見することを恐れ、緒方被告の母(当時58)を絞殺した。手をかけたのは妹の夫、足を押さえたのは妹とされる。
 2月10日頃、両被告は緒方被告の妹(当時33)を殺害した。手をかけたのは妹の夫、足を押さえたのは娘とされる。
 4月8日頃、虐待と不十分な食事で栄養失調の状態にあった妹の夫(当時38)は、高度の飢餓状態に基づく胃腸障害を発症した。しかし両被告は暴行、虐待を加えた事実が発覚することを恐れ、医師の適切な治療を受けさせず、同マンション浴室内に閉じ込めたまま放置して衰弱させ、同月13日ごろ、胃腸障害による腹膜炎で死亡させた。
 5月17日頃、両被告は妹の息子(当時5)を殺害した。両被告はすでに殺害されていた母親に合わせるとだました上に、妹の娘に息子を絞殺させた。足を押さえたのは監禁されていた少女、手を押さえたのは緒方被告とされる。
 6月7日頃、両被告は妹の娘(当時10)を縛り上げ、電気コードの先端にクリップで体にはさみ10分間通電させ、また監禁されていた少女に首を絞めさせ、感電死もしくは窒息死させた
 死体はいずれもバラバラにされた上、海などに投げられたため、見つかっていない。
 また松永被告は1995年8月ごろ、学歴などを詐称して女性(当時34)と交際。女性をだまして結婚の約束をし、借金をしているので貸してほしいなどとだまし、合計360万円をだまし取った。さらに緒方被告と共謀して1996年12月30日から1997年3月16日にかけ、女性と二女(当時3)を同市小倉南区のアパート二階の四畳半和室に閉じこめ、入り口には南京錠をかけて監禁。女性に対し、「母親から金を引き出せ」などと脅迫し、現金合計198万9,000円を奪った。さらに電気コードに取り付けた金属製クリップで女性の腕などを挟み通電させるなど、連日暴行を続け「逃げようとしたら捕まえて電気を通す」などと脅迫した。女性は3月16日未明、すきを見て部屋の窓から路上に飛び降り脱出したが、その際、腰の骨折や肺挫傷などの重傷を負った。
 両被告は2002年、北九州市の別のマンションで少女を感電させるなどして虐待し、約1ヶ月のけがを負わせた。
 2002年3月6日早朝、マンションで監禁されていた少女(当時17)が脱出したため、犯行が発覚。翌日、両被告は逮捕された。二人は別の部屋で男児4人を監禁していた。男児(当時9、6)は両被告の息子であった。双子(当時6)は別の女性(当時35)の家庭の不和につけ込んで預かった子供で、女性から約2500万円を貢がせていた。
一 審
 2005年9月28日 福岡地裁小倉支部 若宮利信裁判長 死刑判決
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控訴審
 2007年9月26日 福岡高裁 虎井寧夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年12月12日 最高裁第一小法廷 宮川光治裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 遺体などの物的証拠は見つかっていないため、検察側は緒方純子被告や監禁されていた少女の証言を元に二人を起訴。
 検察側はすべての事件について殺人で起訴。論告で、松永太被告を「善悪のたがが外れた首謀者」、緒方被告を「愚直な実行者」と位置づけた。その上で、一連の事件は被害者に虐待や生活制限を加えて支配し、金づるとしての利用価値がなくなると口封じのため殺害を繰り返した計画的犯行と指摘。「被害者に家族の殺害、死体処理を手伝わせ、揚げ句に殺害するという鬼畜の所業」と指弾した。
 緒方被告が公判で「松永被告の指示がなければ殺さなかった」と供述している点については「二人は車の両輪のような関係。松永被告の指示に忠実でなければ、これほどの大量殺人を遂行し得たかは疑問。刑事責任は松永被告に劣らず重い」として、共同正犯の成立を主張した。
 また、「緒方被告が勝手にやった」と全面否認する松永被告の供述も「不合理な虚偽弁解。救いようのないほど反省の情が欠如している」と批判した。
 緒方被告が公判段階で殺意を否認し、傷害致死罪の適用を主張した被害少女(保護当時17)の父親(当時34)殺害については「虐待を続ければ死に至ることは予見できた」と指摘。両被告が殺意を否認する緒方被告の父(当時61)殺害は「両乳首と唇への通電は死の危険が大きいことを認識していた」と述べ、両被告の主張を退けた。
 緒方被告は緒方被告の父(当時61)と監禁被害女性の父(当時34)については傷害致死罪の適用を主張したが、その他については起訴事実を大筋で認めており、一連の犯行は松永被告の主導と主張。弁護側は「松永被告の支配下での犯行だった」と強調するとともに、事件の全容解明に貢献したとして情状面から死刑回避を求めていた。
 松永被告は、緒方被告の父(当時61)については一部関与を認めたうえで傷害致死罪を主張。監禁被害女性の父(当時34)については「浴室で転んで頭を打った事故死」、緒方被告のほかの親族5人については「家庭内の不和などが原因で、緒方一家で殺害し合った」として関与を否定している。松永被告の弁護側は、緒方被告の供述の信用性に疑問を呈し、「緒方被告は死刑を免れるため、『いずれの事件も松永被告から指示された』と主張している可能性がある」と反論した。検察側が緒方被告の供述と共に立証の柱にした監禁被害少女の証言について「当時は年少であるうえ、極めて特異な環境で育ったことによる認識能力へのマイナス影響もあり、信用性に問題がある」と主張した。
 一審若宮裁判長は、緒方被告の供述について「自己に不利益な事実も含めて一貫しており、事件の核心部分においても女性の証言と一致している」と信用性を高く評価し、「真相解明を前進させた」と述べた。松永被告の供述については「事実をわい曲している」として退けた。
 そのうえで、監禁された女性の父の殺害について「金づるとしての価値が無くなり、疎ましくなったため、松永被告が主導して緒方被告と黙示的に通じ合い、連日の暴行、虐待で死亡させた」と判断。緒方一家殺害については「生き地獄のように過酷で、松永被告は支配しただけでなく、家族を疑心暗鬼、相互不信に陥らせ、孤立させた」と述べた。
 父の事件は「通電行為により死亡させたが、死後に蘇生行為をしていることなどから、殺意の認定には合理的疑いが残る」とし、殺人罪ではなく傷害致死罪を適用した。
 しかし、母については、夫の死後、精神的に変調をきたして大声を上げるようになったため、「松永被告が緒方被告らに示唆し、絞殺させた」とした。他の4人殺害についても、同様に松永被告の指示がなければ、殺害は実行されなかったと指摘した。
 そして松永被告を事件の首謀者と位置づけ、緒方被告は「松永被告の意図をいち早く察知し、積極的かつ主体的に動いた」と判断し、二人に死刑判決を言い渡した。

 2007年1月24日の控訴審初公判で緒方被告は一審と異なり、「過酷な虐待で精神的に支配され、松永被告の『道具』として殺害行為を行った」と述べ、利用された側は罪に問われない「間接正犯」にあたるとして無罪を主張した。また「松永被告からの暴行で行動を制御できない状態で、責任能力は喪失か減弱していた」と精神鑑定を申請した。
 松永被告側は一審同様、無罪を訴えた。さらに、「緒方被告は一連の犯行前、別の殺人事件を起こしており、それを知った親族の口を封じたいという動機があった」と新たな事件の構図を主張した。
 7月2日の最終弁論で松永被告の弁護人は「緒方被告は一連の事件前、別の殺人事件を起こし、それを知った親族を口封じする殺害動機があったが、松永被告にはなかった」と改めて主張し、緒方被告側は「松永被告の暴力で責任能力が喪失、減弱し、道具として利用されたに過ぎない」として、ともに無罪を訴えた。
 被告人質問で、緒方被告は、事件で犠牲となった父らの名を挙げ、「取り返しのつかないことをしてしまった」と涙声で謝罪。松永被告は「(緒方被告らに)殺人するほどの影響を与えていない」と大声で関与を否定した。
 緒方被告側が申請していた精神鑑定請求は却下された。
 検察側は「松永被告の供述は全く信用できない」と主張した。緒方被告については「松永被告の強い影響下で、判断力、批判力が低下したとしても、喪失したとまでは言えない。一連の犯行は緒方被告の存在がなければ実現できなかった」と指摘。両被告の控訴棄却を求めた。
 判決は、緒方被告に対し死刑の一審福岡地裁小倉支部判決を破棄、無期懲役を言い渡した。松永被告は一審に続いて死刑とした。判決理由で虎井寧夫裁判長は、緒方被告は犯行当時、松永被告に暴力で支配されていたと指摘。「ドメスティックバイオレンス(DV)の被害者特有の心理状態に陥っていたことは否定できない。適法な行為を行う可能性は限定されていた」と述べ、殺害の実行行為の中心だったが立場は従属的だったと判断した。松永被告については一審判決と同様に「事件の首謀者」と認定。「不合理、不自然な弁解に終始し、反省の態度もみられない」と批判し、「犯罪史上まれに見る冷酷、残忍な事件であり、刑事責任は極めて重大で、死刑の選択は当然だ」とした。

 2011年11月21日の最高裁弁論で、弁護側は「松永被告は一連の犯行に関与していない」として無罪を主張した。一方、検察側は、松永被告は、内縁関係にあった緒方純子被告(検察側が上告中)に暴行を繰り返して言いなりになるよう仕向け、「自らの手を汚すことなく、全ての犯行を緒方被告らに実行させた」と述べ、上告を棄却するよう求めた。
 判決で宮川光治裁判長は、詐欺容疑などで指名手配中だった松永被告が生活資金を得るため、緒方被告の両親や妹をだまして同居した上、松永被告が被害者に通電などの虐待を加えて多額の現金を受領したのをきっかけに、犯行の発覚を避けるため被害者を順次殺害したと言及。「緒方被告が重罪を犯したと信じ込ませた上、警察からかくまって面倒を見る対価として一家に金を払わせ、暴行や虐待を通じて支配を強めた」と指摘。「人を利用した上で足手まといになると次々と殺害するなど、理不尽な動機で、態様も残虐極まりない」と非難した。そして「残虐極まりない犯行で何の落ち度もない被害者6人を殺害、1人を死亡させたうえ、共犯者に遺体を解体・遺棄させるなど犯行後の行動も非道だ。自ら実行したのは2件だが、被告の指示に逆らえない一家の心理状態を利用して各犯行を首謀し、主導した。刑事責任は重大極まりない」と述べた。
備 考
 共犯の緒方純子被告は、2005年9月28日、福岡地裁小倉支部で松永被告とともに一審死刑判決。2007年9月26日、福岡高裁で一審破棄、無期懲役判決。2011年12月12日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)で検察側上告棄却、確定。

 マンションで7年間監禁され、脱出した女性の祖父は一審判決後の2005年9月30日、犯罪被害者等給付金支給法に基づく遺族給付金について福岡県警察安全相談課に問い合わせたところ、「事件を知った日から2年の申請期限が過ぎており、支給できない」と回答した。女性の父親は松永被告らから電気ショックや食事制限などの虐待を加えられ、1996年2月に殺害された。女性も電気ショックなどの虐待を繰り返し受け、脱出が難しい状況に置かれていた。しかし安全相談課は、女性は97年から中学校に通学し、家庭訪問も受けていたことから「事件についてもっと早く警察に通報できた」と判断した。
 女性側から相談を受けて手続きを任された福岡県弁護士会「犯罪被害者支援に関する委員会」は2006年2月、女性をサポートする弁護団を結成。また、弁護士会の犯罪被害者法律援助審査委員会は、給付金の申請手続きに伴う判決文のコピー費や弁護士費用について、被害者支援基金から補助する。基金は2000年、全国に先駆けて作られたもので、刑事事件の加害者が償いの意思を示すために行う「贖罪寄付」をプールしてきたもので、当時3000万円前後が集まったが、主な支出は被害者支援団体への助成で、個別事件の被害者に使われるのは実質的には今回が初めてとなった。
 2月21日、福岡県弁護士会の「犯罪被害者支援に関する委員会」の弁護士が、女性の代理人として給付金支払いを求める申請書を小倉北署に提出した。申請期限については、「一審判決が父親殺害を認定した2005年9月28日が申請の起算点」と主張した。
 2007年3月6日までに、福岡県公安委員会は、「支給しない」と裁定した。同給付金支給法は申請期限を「犯罪被害の発生を知ってから2年、または被害の発生から7年」と規定(本事件を受け、2008年7月に改正案が施行され、監禁解放後の6カ月以内に申請できる特例を盛り込んだ)。女性は、昨年2月に支払いを求める申請書を県公安委に提出しており、県公安委は「期限切れ」と判断した。
 4月12日、女性代理人の弁護士は裁定を不服として国家公安委員会に裁定の取り消しを求める審査請求を行ったが、6月に「不支給裁定は適法で妥当」として棄却された。
 2008年12月18日、女性側は、福岡県公安委員会が犯罪被害者給付金の申請について期限の経過を理由に不支給とした裁定は不当として、県を相手に取り消しを求める訴訟を福岡地裁に起こした。2010年7月8日、福岡地裁(高野裕裁判長)は「女性には期限内に申請できなかった特別な事情があった。申請期限を当てはめるのは、被害者を救う制度の趣旨や正義の観念に著しく反する」と述べ、県公安委の裁定を取り消した。判決で高野裁判長は、父の遺体が解体されて海に投棄され死亡診断書が作成されなかったことなど「やむをえない事情があった」と指摘。「父の死が犯罪によることを証明する有力な資料は(2005年10月に)一審判決文が作成される前まで存在しなかった」と認定した。仮に犯罪の発生から7年の期限となる2003年までに申請されても、公安委側は判断の根拠がなく「支給の裁定を下すことはできない」と指摘。一審判決までの間について「原告の申請権が消滅するのは法の趣旨、正義の観念に反する」と述べた。その上で「犯罪被害を知った日」は一審の判決文が作成された2005年10月と認定。女性の申請は期限内で裁定は違法と結論付けた。
 公安委側は「法令解釈に誤りがある」として控訴したが、2010年11月30日、福岡高裁(古賀寛裁判長)は裁定を取り消した一審を支持し、控訴を棄却した。さらに上告するも、2011年9月2日付で最高裁第二小法廷(竹内行夫裁判長)は、上告を棄却した。
 9月15日、福岡県公安委員会は、給付金を支給する裁定をした。
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氏 名
浜崎勝次
事件当時年齢
 56歳
犯行日時
 2005年4月25日
罪 状
 殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 市原市ファミレス組員2人射殺事件
事件概要
 元暴力団組長浜崎勝次被告は暴力団組員宮城吉英被告、暴力団幹部の男性(4月27日?に拳銃自殺 61歳没)と共謀。2005年4月25日午後8時55分ごろ、千葉県市原市のファミリーレストラン内で、職業不詳・市原市の男性(当時45)と埼玉県草加市に住む建築業者の男性(当時39)を拳銃で数発撃ち7発命中させて殺害した。事件当時、レストラン内には一般客17人と従業員5人がいた。
 浜崎被告らと殺害された2人はいずれも暴力団関係者で、2004年4月に宮城被告が起こした傷害事件の慰謝料支払いを巡り、殺害された男性が所属する暴力団から金銭を要求されており、要求に屈すればヤクザとしてのメンツがつぶれると思ったのが動機とされる。宮城被告は5月25日に逮捕された。
 浜崎勝次被告は逃亡を続けていたが、2007年3月8日、水戸市内のコンビニ駐車場にいるところを見つかり、逮捕された。
一 審
 2007年10月26日 千葉地裁 古田浩裁判長 死刑判決
控訴審
 2008年9月26日 東京高裁 安広文夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2011年12月12日 最高裁第一小法廷 横田尤孝裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 2007年7月13日の初公判で、浜崎被告は起訴事実を認めている。
 8月10日の論告求刑で、検察側は「一般客のいる中で行われた無差別な殺りく行為。酌量の余地はない」「不特定多数の一般客を死傷させる危険性が極めて高い、テロ行為とも評すべき犯行」と断罪した。
 9月7日の最終弁論で、弁護側は不当な現金要求を繰り返すなど被害者側にも落ち度があるなどと主張、死刑の回避を求めた。
 古田裁判長は判決で「強固な殺意に基づく残忍かつ執拗な犯行。一般市民を巻き添えにする恐れも極めて高かった」と述べた。

 控訴審で浜崎被告側は、起訴事実を認め、死刑は重すぎると主張した。
 安広裁判長は「組のメンツを守るためという、暴力団特有の価値観に基づく身勝手かつ自己中心的な発想により引き起こされた」と指摘した。「極めて危険かつ独善的な犯行で、死刑はやむを得ない」と述べた。

 2011年11月10日の最高裁弁論で、弁護側は「被害者の不当な金銭要求が発端で、被告らだけが非難されるべきではない」と主張し、死刑回避を求めた。
 判決で横田裁判長は、「強固な殺意に基づく残忍かつ執拗な犯行」と指摘。そして「『けんかを仕掛けられたから、相手を皆殺しにする』という暴力団特有の動機に酌量の余地はない。一般市民が巻き添えとなる可能性が高かった危険な犯行で、反省の態度を考慮しても、死刑はやむを得ない」と述べた。
備 考
 宮城吉英死刑囚は2005年12月12日、千葉地裁で求刑通り一審死刑判決。2006年10月5日、東京高裁で被告側控訴棄却。2009年6月15日、被告側上告棄却、確定。
執 行
 2013年4月26日執行、64歳没。
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