死刑確定囚(1970~1980年)



※1993年3月26日(3年4ヶ月ぶりに死刑が執行された日)時点で拘留中だった死刑確定囚のうち、1970~1980年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
尾田信夫
事件当時年齢
 20歳
犯行日時
 1966年12月5日
罪 状
 強盗殺人、強盗殺人未遂、現住建造物等放火
事件名
 マルヨ無線強盗殺人放火事件(川端町事件)
事件概要
 尾田信夫被告と少年(当時17)は1966年12月5日午後10時過ぎ、かつて店員として勤めていた福岡市下川端町(現福岡市博多区下川端)のマルヨ無線川端店に押し入り、宿直の男性店員2人をハンマーで殴って重傷を負わせ、事務所に置いてあった集金カバンから22万1千円を奪い、さらに二人の腕時計などを奪った。鍵束を奪い、ボーナスなどが入っていた金庫から金を奪おうとするも、ダイヤル件鍵式の金庫であったため開けられなかった。その後計画通り、少年が商品カタログ等をまき散らし、尾田被告が石油ストーブを足で蹴って転倒させて放火し、同店が半焼した。店員1人(当時23)は自力で逃れたが全治5ヶ月の重傷を負い、もう1人(当時27)が一酸化炭素中毒で死亡した。
 尾田被告と少年は広島少年院で出会っており、退院後も頻繁に会っていた。
 入院中の店員が、3、4年まえに辞めた店員に似ていると供述。福岡県警は尾田被告の勤務先に行くも、欠勤中。しかし給料日前にキャバレーで豪遊していたことから、捜査本部は逮捕令状を請求。12月10日には尾田被告を全国に指名手配した。同日、少年が警察に出頭し、緊急逮捕された。12月27日、尾田被告が逮捕された。
一 審
 1968年12月14日 福岡地裁 藤田哲夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1970年3月20日 福岡高裁 控訴棄却 中村荘十郎裁判長 死刑判決支持
上告審
 1970年11月12日 最高裁第一小法廷 入江俊郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 捜査段階で2人は「逃げる際に石油ストーブを倒して放火した」と供述している。
 一審では尾田被告は放火の事実を争っていない。尾田被告の弁護側は精神鑑定を申請し、地裁も認めた。公判が停止し、入院中の1968年8月、尾田被告は入院先の精神病院から脱走するも、24時間後に逮捕された。
 判決で藤田裁判長は、「幼くして父を失い、その愛を知らぬまま育ち、心因性ヒステリーだったことは認める。しかしそれらを考え合わせても、犯した罪は大きい。その罪責は自己の生命をもって償うべきだ」と述べた。

 尾田被告側は死刑制度の違憲性、心神耗弱、量刑不当を引き続き主張するとともに、控訴審から放火を否認したが、退けられた。裁判長は、「前途春秋に富むべき身であることを思う時、その生命を絶てと言うのは後ろ髪をひかれる思いもする。忍び難いものもあるが、やむを得ない」と述べた。

 最高裁で弁護側は自白は強制的と主張するとともに、共犯者と同じ裁判官構成で審理を行ったのは憲法違反に当たると主張したが、最高裁側は退けた。
付記事項
 共犯の少年は強盗致死と放火で起訴され分離公判となり、1968年7月26日に福岡地裁で一審懲役13年判決(求刑懲役15年)。1969年6月18日、福岡高裁で被告側控訴棄却。上告せず確定。
その後
 尾田被告は放火を否認。
 1973年8月28日、福岡地裁に第一次再審請求するも棄却。その後第四次まで自力で請求するも棄却。
 日弁連が尾田再審事件委員会を作って支援し、1979年2月、福岡地裁へ第五次再審請求。福岡地裁は当時の警察官、消防士らの証人調べをし、当時の福岡市消防局員が「ストーブが人為的に倒され、燃え上がった形跡はない」と証言したが、1988年10月5日に請求を棄却した。
 弁護団は高裁に即時抗告し、ストーブの検証や共犯者の証人尋問などを求めて1990年11月に意見書を、1993年4月には上申書を提出した。福岡高裁刑事二部(池田憲義裁判長)は1994年6月1日、7月18日の2度に渡って、争点となっている反射式石油ストーブの検証を行い、蹴っても倒れないか、蹴ったらストーブは消えることが判明した。
 1995年3月28日、福岡高裁は福岡地裁の棄却決定を支持、抗告を棄却した。決定では、検証実験の結果から「ストーブを蹴っても横転することはない」と認めたものの、確定判決の「蹴って横転させた」という放火方法との矛盾については、「一審で被告らが放火方法について争わなかったため認定されたにすぎず、ストーブが倒れた状態だったという共犯の少年の供述は信用できる」と述べた。また、ストーブの扉に付着していた部品の痕跡などから、火災発生時のストーブの状態を「横倒しの状態だった」と認定。さらに「ストーブを両手で支えて横倒しにすることも十分可能だった」とし、「ストーブは直立状態だった」とする弁護側主張を退けた。
 弁護団は最高裁に特別抗告。最高裁第三小法廷(金谷利広裁判長)は1998年10月27日付で特別抗告を棄却する決定をした。
 決定で同小法廷はまず、最も重い罪について新証拠がなくても、場合によっては再審理由が認められるという新基準を示した。そして尾田死刑囚の場合は、強盗殺人や同未遂について新証拠が無いものの、放火について確定判決に疑いが生じれば、再審を開始できると判断した。その上で、同小法廷は、放火について再審開始の理由があるかどうかを検討。福岡高裁が行った検証の結果、ストーブを足でけっても転倒しなかったことなどから、「犯行方法についての事実認定には疑いがある」と認めた。しかし、同小法廷は「犯行方法の一部について確定判決に事実誤認があることが判明しても、犯罪事実の存在そのものに疑いを生じさせるに至らない限り、再審理由にはならない」と判断。もし尾田死刑囚がストーブをけり倒していなかったとしても、ストーブを動かして室内の机に燃え移らせたことは動かし難いとし、結論として再審開始を認めなかった福岡高裁の決定を支持した。
 犯罪事実の一部だけに新証拠が見つかった場合でも、再審の道を開くべきだとする初判断を示したものである。
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 1998年10月30日、福岡地裁へ第六次再審請求。弁護側は、消防と警察がそれぞれ撮影したストーブの写真を基に、コンピューターグラフィックス(CG)で立体的に再現した鑑定書を提出。「2枚の写真は前面内側に付着した金属部品の位置や向きなどが一致せず不自然。『倒した後に燃えた』とする放火の根拠にはならない」と反論した。これに対し福岡地裁は2008年3月、「2枚の写真に写っている部品は似ており同一の可能性がある。写真撮影時に、捜査機関が不当に工作したという証拠もない」として請求を棄却。弁護側は福岡高裁に即時抗告した。2012年3月29日、福岡高裁は即時抗告を棄却した。死刑囚側は特別抗告した。2013年6月、特別抗告が棄却された。
現 在
 尾田信夫死刑囚の再審請求の弁護人を務める上田国広弁護士は2010年10月、死刑制度廃止を推進する団体の機関誌を尾田死刑囚に郵送した。機関誌には、同年8月に法務省が公表した東京拘置所の刑場の写真が1枚掲載されていた。拘置所は尾田死刑囚に「写真を消して交付することになるが、同意するか」と尋ねたところ、尾田死刑囚は拒否し、閲読は不許可とされた。尾田死刑囚はその後、文書で閲読を求めたが、認められなかった。尾田信夫死刑囚と弁護人は2012年4月3日、死刑を執行する刑場の写真が載った機関誌の閲読について福岡拘置所が不許可としたのは違法として国に計660万円の支払いを求める国家賠償請求訴訟を福岡地裁に起こした。
 福岡地裁(平田直人裁判長)は2015年7月22日、尾田死刑囚を収監先の同拘置所で本人尋問した。民事訴訟での死刑囚の尋問は異例。代理人弁護士によると、尋問は拘置所の1室で非公開で約1時間実施した。尾田死刑囚は死刑制度や法律について詳しく勉強しており、尋問で「適切な再審請求に重要な情報であり、刑場の写真を見て動揺することはない」「所長の裁量で簡単に不許可が認められるべきではない」などと落ち着いた様子で話したという。尾田死刑囚側から直接、精神状態などを確かめるよう、尋問を申し出ていた。

 2013年7月、福岡地裁へ第七次再審請求。2019年3月時点で、地裁で審理中。
 死刑確定から2020年12月12日に50年となった刑事裁判の記録について、福岡地検は10年間の保存延長を決めた。判決文以外は12日に法が定める保管期間を終えるところだった。地検は「再審請求審の審理に必要と判断したため」としている。刑事確定訴訟記録法は、判決確定後に一審の裁判所に対応する検察庁で記録を保管すると規定。保管期間は刑の重さや記録の内容によって3~100年と異なり、死刑の場合、判決文は100年、それ以外の供述調書や捜査報告書などは50年と定めている。尾田死刑囚の記録について、弁護団は福岡地検に対し、裁判所に未提出の証拠も含めて記録を保存するよう請求。地検は10月27日付の通知書で「再審保存記録として2030年12月31日まで保存する」と伝えた。ただ、対象となる記録は明らかにしなかった。
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氏 名
奥西勝
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 1961年3月28日
罪 状
 殺人、殺人未遂
事件名
 名張毒ぶどう酒事件
事件概要
 1961年3月28日、三重県名張市葛尾地区に住む農業奥西勝被告は、生活改善クラブの寄り合いで女性陣が飲むぶどう酒に農薬のニッカリンTを仕込んだ。出席した20人のうち17人がぶどう酒を飲み、妻(34)、愛人(36)などを含む女性5人が死亡、女性12人が重軽傷。奧西被告は狭い村の中で妻の他にも数人と関係を結んでいたが、特に未亡人であった愛人女性との関係を周囲に知られて妻との仲が険悪になっていた。さらに愛人からも別れを告げられた。そこで奥西被告は、三角関係を含めて一切を精算しようとするために毒を仕込んだことが動機とされる。当初は妻による無理心中説も出ていたが、事情を追求された奥西被告は事件から5日後の4月2日夜に自供し、翌3日未明、三重県警に逮捕された。逮捕直後、名張署の宿直室で異例の「容疑者の記者会見」が開かれ、奥西被告は記者に対しても「大きな事件を自分のちょっとした気持ちから引き起こした」などと認めた。
一 審
 1964年12月23日 津地裁 小川潤裁判長 無罪判決 (証拠不十分のため)
控訴審
 1969年9月10日 名古屋高裁 上田孝造裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1972年6月15日 最高裁 岩田誠裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所(その後、八王子医療刑務所)
裁判焦点
 奥西勝被告は起訴前に自白を翻し、1961年6月に開かれた初公判の罪状認否でも「ぶどう酒の中にニッカリンを入れた覚えはない」と起訴事実を全面的に否認。公判では「自供は強要されたもの」と主張した。
 検察側は、住民の証言から、酒屋で購入したぶどう酒が住民の家に午後5時10分頃に届いたとし、同8時前後の会合でぶどう酒が出されるまで、公民館に運んだ奥西被告以外に、毒物混入の機会はなく、奥西被告が公民館で1人となった10分間を利用し、ぶどう酒の王冠を歯で開けた上、自宅から隠し持ってきたニッカリンTを混入したと主張し、死刑を求刑した。
 津地裁の小川裁判長は判決で、奥西被告の「自白」の任意性は認めたが、現場の状況や目撃証言等から多くの疑問点があるとして「自白」内容の信憑性を否定。検察側の主張の根拠となった複数の住民証言が訂正されている点から、到着時間について「検察官の並々ならぬ努力の所産である」と批判した上、午後4時前と認定。奥西被告以外にも、犯行が可能な時間はあったとした。さらに、奥西被告が妻や愛人と日常的に問題なく付き合っていたとし、「殺害するほど追いつめられていたとは認められない」とて、検察側の主張は不可解と判断。ぶどう酒の王冠を歯で開けたとする点は、王冠の傷が奥西被告の歯形と一致するかどうかについて専門家の鑑定が分かれたことなどから「被告人の歯形かどうかは不明」として、証拠能力を否定した。以上から奥西被告の犯行と認めるに足る証拠がないとして、無罪を言い渡した。
 一審判決後、釈放された奥西被告は三重県四日市市に住まいを移し、ガソリンスタンドで働いていた。

 名古屋高裁は、一審が信用性を認めなかったぶどう酒の到着時刻に関する住民の証言について、「矛盾する点はなく理路整然としている」と指摘。「不当違法な取り調べがあったことを疑う証拠はなく、十分に信用できる」と述べた。到着時刻については、改めて午後4時45分頃~同5時頃と認定。毒物混入の機会があったのは、奥西被告が公民館に運んだ後、1人で公民館にいた10分間だけとした。
 さらに、奥西被告について「無口で何を考えているかわからないような陰険な性格で、自白した犯行動機に信ぴょう性がある」と言及。王冠についた傷は、専門家の鑑定から奥西被告の歯形と一致すると認め、「鑑定はいずれも自白の真実性を担保するものだ」と指摘した。その上で、「証拠不十分とした一審判決は、明らかな事実誤認の違反を犯した」と結論づけた。
 言い渡し後、奥西被告は、手錠をかけられ、連行された。

 奥西被告は上告したが、最高裁は「上告理由がない」として棄却。死刑判決は確定した。
再審請求
 1973年4月15日、名古屋高裁に第一次再審請求。1974年1月9日、棄却。
 1974年6月4日、第二次再審請求。1975年11月21日、棄却。
 1976年2月17日、第三次再審請求。4月5日、棄却。
 1976年9月27日、第四次再審請求。1977年3月25日、棄却。
 1977年5月18日、第五次再審請求。「冤罪の疑いがある」として日本弁護士連合会人権擁護委が本格的な支援を開始し、弁護団が結成された。第五次再審請求では、「ぶどう酒の王冠の傷は奥西死刑囚の歯形ではない」とする意見書などを新証拠として提出。死刑判決の有力な根拠となった、ぶどう酒の瓶の王冠に残された歯形鑑定の信用性を争った。1986年6月、初めて本人尋問が行われた。1988年12月14日、棄却。異議申立するも1995年3月31日、棄却。特別抗告も1997年1月28日、最高裁第三小法廷で棄却された。最高裁の決定は、「奥西死刑囚の歯によってできたと特定するだけの証明力は失われた」と指摘したものの、「奥西死刑囚の歯形だとしても矛盾しない」と判断。具体的な自白をしており、内容も客観的な証拠とも矛盾しないとして再審開始を認めなかった。
 1997年1月30日、第六次再審請求。1998年10月8日、棄却。異議申立するも1999年9月10日、棄却。特別抗告も2002年4月8日、最高裁で棄却された。

 2002年4月10日、第七次再審請求。
 2005年4月5日、名古屋高裁刑事1部の小出ジュン一裁判長は、再審を開始する決定をした。小出裁判長は、弁護側が提出した開栓実験や王冠と混入毒物の鑑定結果を新証拠と認め、従来の証拠と総合評価して検討。弁護側の主張通り、▽他者の毒物混入を否定できない▽証拠の王冠が本物でない疑い▽混入毒物は奥西死刑囚の所有する農薬ではない可能性――を指摘した。そのうえで「自白には動機、実行などすべての面で不自然、不合理な点が多く、信用性には重大な疑問がある」と判断した。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。
 4月8日、名古屋高検は名古屋高裁に異議を申し立てた。
 2006年12月26日、名古屋高裁刑事2部は検察側からの異議申立を認め、再審開始決定を取り消した。同時に死刑の執行停止も取り消した。門野博裁判長は「本件に使用された毒物は(奥西死刑囚が所持していた)ニッカリンTの可能性が十分にある」「新証拠は新規性は認められるが、(死刑判決を覆すほどの)明白性は認められない」「奥西死刑囚以外には本件ぶどう酒に農薬を混入する機会がない」「自白は詳細かつ具体性に富み、信用性が高い」と述べ、新証拠に証拠の明白性を認めた原決定の判断は誤っている。再審開始する事由は認められないとした。
 弁護側は、最高裁へ特別抗告を申し立てた。
 2010年4月5日付で最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は、名古屋高裁に差し戻す決定を出した。
 第三小法廷は、弁護団が提出した5つの新証拠のうちの4つを「抽象的な可能性にとどまる」などとして退け、争点は奥西死刑囚が使用を自白した農薬「ニッカリンT」が本当に犯行で使われたのかの1点に絞られた。
 第三小法廷は、ニッカリンTに含まれているはずの特定成分が弁護側の再現鑑定で検出されたのに、事件後のブドウ酒の鑑定では検出されなかったことに注目。別の成分はどちらの鑑定でも検出されたことから、「特定成分だけが検出されなかった合理的な説明がない」と疑問を示した。このため、そもそもニッカリンTがブドウ酒に含まれていなかったのか、鑑定の方法により検出できなかっただけなのかについて、「(再審開始を取り消した)名古屋高裁決定は科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、いまだ事実は解明されていない」と指摘した。その上で、検察側と弁護側の主張を裏付ける学者の言い分が大きく食い違っていることから、差戻し後は、弁護側が持っている当時流通していたニッカリンTを提出してもらい、改めて鑑定をするなどの審理が必要だと述べた。5人の裁判官の一致した意見。
 さらに、田原睦夫裁判官は補足意見として「事件発生から50年近く、今回の再審申し立てから8年近く経過しており、証拠調べは必要最小限にして効率よくなすことが肝要だ」と差戻し後の審理のあり方に注文を付けた。
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 差戻し審で高裁は、メーカーにニッカリンTを再製造してもらい、選任した鑑定人が最新の機器で成分分析した。その結果、再製造品に水分を加えた溶液からは、24.7%の副生成物が生成された。弁護団は「ニッカリンTは、水分を混ぜると副生成物が大量に生成されることを証明できた。飲み残しのぶどう酒から副生成物が検出されなかったのは、別の農薬だったからだ」と主張した。一方鑑定では、ペーパークロマトグラフ試験では副生成物が検出されない可能性があることも明らかにした。同試験の準備として、ニッカリンTの溶液から毒物を抽出したところ、抽出物に副生成物はなくなった。検察側は、「鑑定人の実験により、毒物がニッカリンTでも、事件当時の鑑定で副生成物が検出されないことの科学的知見が得られた」と主張した。
 名古屋高裁(下山保男裁判長)は2012年5月25日、再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、奥西勝死刑囚の再審開始を取り消す決定をした。
 下山裁判長は決定で、弁護側の鑑定は、抽出作業後の抽出物の成分分析は行っておらず、現鑑定で得られた結果の信頼性を揺るがすほどの証拠価値があるとはいえない、と判断。新鑑定では、ニッカリンTにぶどう酒のような水分を加えると、水溶液中に副生成物が大量に発生するが、ペーパークロマトグラフ試験の準備のために行われる抽出作業を経ると、副生成物が検出されなくなる結果が示されているため、農薬「ニッカリンT」に含まれる不純物が事件当時の鑑定で飲み残しのぶどう酒から検出されなかった原因は、事件から鑑定まで1日以上が経過していたためだと推論できると指摘し、ぶどう酒にニッカリンTを混入したとする奥西死刑囚の捜査段階の自白の信用性に問題はないと結論づけた。
 さらに、「新旧証拠を総合して検討しても、奥西死刑囚以外に毒物を混入できた者はいない」と言及。また、「奥西死刑囚が逮捕前から行った自白の根幹部分は十分信用できる」とも指摘し、「確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じる余地はない」と結論づけた。
 ただし、時間の経過を問題とする主張は差戻し審で検察側も弁護側も示しておらず、裁判所の独自の見解である。
 弁護団は5月30日、名古屋高裁決定を不服として、最高裁に特別抗告した。弁護団は毒物をめぐる高裁の判断を「証拠に基づかない裁判官の推論で不当」と批判している。
 2013年10月16日付で最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は、請求を退けた名古屋高裁の差戻し異議審決定(2012年5月)を支持し、死刑囚側の特別抗告を棄却する決定を出した。裁判官4人全員一致の意見。検察官出身の横田尤孝裁判官は審理を回避した。小法廷は「弁護側が新証拠として提出した鑑定は、毒物がニッカリンTであることと何ら矛盾しない。死刑囚が事件前に自宅で保管していたという状況証拠の価値や、自白の信用性にも影響は及ぼさない」と結論付けた。
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 2013年11月5日、弁護団が名古屋高裁へ第八次再審請求申立。
 2014年5月28日、名古屋高裁は請求を認めない決定をした。決定理由で、石山容示裁判長は弁護団が提出した証拠について「全証拠と総合考慮したとしても、確定判決に合理的な疑いを生じさせるものではない」などと指摘。「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとはいえず、再審は認められない。第七次請求と同一の証拠、同一の主張で、もともと請求権は消滅していた」と結論づけた。約半年で判断を示した理由として、決定は「奥西勝死刑囚の健康状態の悪化と加齢の程度」を挙げた。6月2日、異議申し立て。
 2015年1月9日、名古屋高裁刑事2部(木口信之裁判長)は異議を棄却した。異議審で弁護側は「新たな証拠を追加しており、同一とは言えない」と主張したが、木口裁判長は「無罪を言い渡すべき明白性や新規性はない」と判断し、「(再審を認めなかった)決定に誤りはない」とした。1月14日、特別抗告した。
 2015年5月15日、弁護団は毒物特定に関する再現実験の報告書などを新証拠として「犯行に使われた毒物は、当初の自白通りでないことが明らかになり、自白の信用性は失われた」と主張し、第九次再審請求を名古屋高裁に申し立てた。最高裁に特別抗告中だった第八次請求は取下げた。鈴木泉弁護団長は「仮に最高裁で訴えが認められても、高裁への差戻しなどで長期化は必至。奥西さんの病状を考え、新たな請求が一刻も早い再審無罪につながると考えた」と、方針転換の理由を説明した。ニッカリンTをめぐっては事件当時、三重県衛生研究所がぶどう酒に混ぜ反応を見る鑑定を実施。弁護団は今回、同じ手法で再現実験を行い、ニッカリンTの量や室温など条件を変えて12パターンを調べた結果、「犯行に使われた毒物はニッカリンTでないことが実証された」としている。新証拠はほかにぶどう酒の王冠を第三者が歯で開けた可能性を示す歯学博士の意見書などで計8点。弁護団は「新旧の全証拠を総合的に再評価すると、奥西さん以外に犯行の機会がなかったとは認定できず、確定判決には合理的疑いが生じる」と主張している。
 奥西死刑囚が死亡したため、名古屋高裁(石山容示裁判長)は10月15日、第九次再審請求の審理を終了する決定をした。

 2015年11月6日、奥西元死刑囚の妹が名古屋高裁へ第十次再審請求を申し立てた。弁護団は、ブドウ酒の王冠に封をしていた紙(封緘紙)ののりの成分を分析した鑑定結果など計28点の証拠を提出。「犯人が一度開けて毒を入れ、のりで封緘紙を貼り直したと推認される」などと訴えた。混入毒物は確定判決が認定した「ニッカリンT」でないとの主張を補強するデータも出した。さらに、30人で実験したが自白通りの犯行は不可能だったとも訴え、いずれも元死刑囚以外に真犯人がいる可能性を示す新証拠としていた。検察側は弁護団が提出した証拠の信用性を否定する意見書を出した。2017年9月には妹が意見書を提出し、「証拠や書類をしっかり見て頂き、きちんと証拠調べをして頂きたい」と再審開始を求めた。
 名古屋高裁刑事1部(山口裕之裁判長)は2017年12月8日、「(弁護団の)新証拠は無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない」とし、請求を棄却した。山口裁判長は、封緘紙ののりの分析結果は誤っているとの見解を示した上で、封緘紙の状況について「事件から長い時間が経過し、このような実験などから結論を導き出すのは合理的でない。実験方法に多大の疑問がある」とした。毒物のデータに関しても「条件のわずかな違いで結果は異なるのに、事件当時の条件の詳細は分からず、実験は何の意味も持たない」と退けた。犯行再現も客観的意味を持つとは考えがたいと判断した。
 名古屋高裁(鹿野伸二裁判長)は2022年3月3日、再審開始を認めない決定を出した。第10次再審請求が棄却されたことに対する弁護団の異議申し立てを棄却した。弁護団は、ぶどう酒瓶の封かん紙から、製造時とは異なるのりの成分が検出されたとする鑑定結果を提出。「真犯人が毒を入れてから封かん紙を貼り直した」と主張し、検察側は「他の物質を検出した可能性がある」と反論していた。決定で鹿野裁判長は、鑑定結果について「専門的知見に基づく科学的根拠を有するものとは言えない」と指摘。製造時に使用されたのりと異なるのりが付着したのは明らかではないとし、「提出された新証拠も、無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない」と結論付けた。弁護団は特別抗告した。
 最高裁第三小法廷は2024年1月29日付の決定で、特別抗告を棄却した。再審開始を認めなかった名古屋高裁の判断が確定する。裁判官5人のうち4人の多数意見。学者出身の宇賀克也判事は「再審を開始すべきだ」とする反対意見を述べた。長嶺安政裁判長は、封かん紙が発見されるまでに何らかの物質が付着した可能性があると指摘。事件から長期間が経過し、封かん紙や付着物の成分に様々な変化が生じたとも考えられるとした上で、鑑定には「何者かが毒物を混入した後、再度封かん紙をのり付けした可能性を示すような証拠価値はない」と判断し、「確定判決の有罪認定に合理的な疑いが生じる余地はない」とした。
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その後
 奥西死刑囚は2013年5月27日夜、拘置所の独房で約38度の熱を出し、名古屋市内の病院に入院したが、呼吸困難で一時危篤状態となった。6月11日に八王子医療刑務所に移送され、再び危篤状態に陥り、その後も人工呼吸器や栄養剤を取り込む点滴チューブなどにつながれたまま寝たきりの状態が続いた。2015年5月上旬ごろから高熱が続き、8月下旬にも一時危篤となるなど、危険な状態が続いていた。
 2015年10月4日午後0時19分、肺炎のため収容先の八王子医療刑務所で死亡。89歳没。
ホームページ
 名張事件を支援する会兵庫支部
 名張毒ぶどう酒事件 奥西さんを守る東京の会
その他
 映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(2013年2月公開)、『ふたりの死刑囚』(2016年1月公開)、『眠る村』(2019年2月公開)がある。いずれも東海テレビ制作で、1978年より取材を始め、定期的にドキュメンタリーやドラマを制作している。
 現場となった公民館は1987年12月に取り壊された。
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氏 名
冨山常喜
事件当時年齢
 46歳
犯行日時
 1963年8月26日
罪 状
 殺人、私文書偽造、同行使
事件名
 波崎事件
事件概要
 1963年8月26日午前0時20分ごろ、木箱販売業・冨山常喜被告の内妻のいとこで、茨城県鹿島郡波崎町に住む農業Iさん(当時35)が、自宅から約1.3キロ離れた冨山被告宅から帰宅した後、苦しみ出し、病院へ収容されたが、午前1時半ごろに死亡した。このとき、Iさんは妻に、「箱屋にだまされ、薬を飲まされた」と呟いた。司法解剖の結果、「青酸中毒死の疑いを抱く」という鑑定結果が得られた。
 冨山被告が保険金をだまし取ろうとして、Iさんに600万円の生命保険をかけさせたあと、交通事故死にみせかけようと計画、立ち寄ったIさんに青酸化合物入りのカプセルを飲ませたものとされる。
 10月23日、別件の私文書偽造、同行使容疑で富山被告を逮捕。11月9日、釈放すると同時に殺人容疑で再逮捕した。

 他に、1959年6月3日午後8時30分ごろ、富山被告の内妻の叔父夫婦が、侵入した賊に棍棒で殴打され、全治2週間の傷を負った殺人未遂事件でも追起訴された。
一 審
 1966年12月24日 水戸地裁土浦支部 田上輝彦裁判長 死刑判決
控訴審
 1973年7月6日 東京高裁 堀義次裁判長 一審破棄 一件(殺人未遂)無罪、一件(殺人)につき死刑判決
上告審
 1976年4月1日 最高裁 藤林益三裁判長 上告棄却 死刑確定
判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 物証、自白は一切ない。被害者が死ぬ前に「冨山にやられた」と呟いたことのみが唯一の「証拠」であり、生命保険金の受取人が富山被告であったことが状況証拠としてあるだけである。毒物を飲ませるところを見た証人もなく、毒物の入手先も処分方法も不明のままで死刑を言い渡している。
 一審では殺人未遂事件も有罪となったが、二審では富山被告のアリバイが成立して無罪となっている。
備 考
 最高裁判事の陪席として座っていた団藤重光は、退廷時に傍聴席にいた家族らしき人物から「人殺し」と罵声を浴びたことがきっかけとなり、退官後、死刑廃止論を展開するようになる。ただし、罵声を浴びせたという男性は、「無実の人間を死刑にするのか」と言ったと証言している。
その後
 1980年4月9日、第一次再審請求。1984年1月25日、棄却。1985年2月25日、異議申立棄却。
 1987年11月4日、第二次再審請求。2000年3月13日、棄却。2002年、異議申立棄却。
 第三次請求準備中の2003年9月3日午前1時48分、収容されていた東京拘置所で死亡した。同拘置所は慢性腎不全による死亡と発表した。86歳没。
 遺族が死後再審を引き継いだとの報道があったが、2017年現在、「波崎事件対策連絡会議」のメンバーたちと一緒に再審で富山元死刑囚の無罪判決を勝ちとるすべを模索しているが、再審請求人になってくれる遺族が見つからない現状とのこと。
ホームページ
 冤罪:波崎事件 ‐波崎事件の再審を考える会‐
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氏 名
大濱松三
事件当時年齢
 46歳
犯行日時
 1974年8月28日
罪 状
 殺人、窃盗
事件名
 ピアノ騒音殺人事件
事件概要
 神奈川県平塚市の団地に住む無職大濱松三被告は、5年前に引っ越してきた階下に住む会社員の家族がピアノを弾いたり、大工仕事で出したりする音に悩まされていた。特にピアノの音については再三注意をするものの、止める気配をまったく見せなかった。仕事の方も退職させられて自棄になっていたところに、騒音でノイローゼ状態になっていた大濱被告は殺人を決意。1974年8月28日午前9時10分頃、会社員方で妻(当時33)、長女(当時8)、次女(当時4)の3人を、刺身包丁で複数回突き刺して殺害。このとき「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ、来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」と襖に書き付けている。
 その後、大濱被告は海で死にたいと思いさまよったが死にきれず、三日後に自首した。
 別件でシャツ、ズボンの窃盗がある。
一 審
 1975年10月20日 横浜地裁小田原支部 海老原震一裁判長 死刑判決
控訴審
 1977年4月16日 控訴取下げ、死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1974年10月28日の初公判で、大濱被告は殺人行為こそ認めたが、被害者一家との感情の対立が書かれていないと不服を示した。弁護人も、大濱被告は1970年頃から憎しみを持つようになっていたが、本年7月頃から被害者宅の前を通る度に身の危険を感じ、被害者にやられるのなら先にやってしまおうという気持ちになった。また重傷を負わせるつもりであり、死ぬかどうかは決行してみての結果であると考えていた、と述べた。
 1975年2月24日の第4回公判では、犯行直後に平塚警察署の依頼で大濱被告の部屋の騒音を計測した市職員が証人として出廷。1回目は午後2時から測定したが、周囲の暗騒音の中央値が44ホンであり、階下で弾くピアノの音を測定できなかった。2回目は午前7時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホン(中央値40ホン)であった。1971年5月に閣議決定された「騒音に関わる環境基準」では、住宅地において昼間50ホン以下、朝夕45ホン以下、夜40ホン以下であるため、階下のピアノの音は環境基準値以内であったことが証明された。ただし、このときピアノを弾いた時間は約15分ぐらいで、しかも弾いたのは平塚警察署の男の人であった。また、この測定方法は神奈川県公害防止条例に基づくものであるが、条例では40ないし45ホンの場合に人体に対する影響は「睡眠がさまたげられる、病気のとき寝ていられない」と書かれていた。
 3月17日の第5回公判で、大濱被告を精神鑑定した医師が出廷。大濱被告は精神病症状は見られず、知能も普通であり、責任能力はある。しかし、道徳感情が鈍麻した精神病質に該当すると述べた。
 4月14日の第6回公判では、被害者の夫と兄が証言台に立ち、死刑判決を求めた。
 5月12日の第7回公判では、「騒音被害者の会」代表が弁護側証人として出廷。大濱被告への同情論が圧倒的であると述べた。なお会が集めた嘆願書は地裁へ提出される予定であったが、大濱被告は辞退している。
 同日の公判では大濱被告の元妻(事件後に離婚)が出廷。大濱被告が音に対して異常に神経質であったことや怠け者であったことなどを述べたが、同時に階下の音は度が過ぎている、被告が帰ってきたところを狙ってピアノが鳴り出すことがしばしばあったと証言した。
 6月2日の本人尋問で、大濱被告は今までの「かっとしてやった。被害者の夫に襲われるかもしれないと思って予防のつもりでやった。被害者には申し訳ないと思う」と述べてきた供述を翻し、「死刑になりたいからやった。事件を起こしたことに悔いはない」と述べた。
 8月11日の第9回公判における論告求刑で検察側は、「事件は計画的犯罪であり、殺害方法は残虐。ピアノの音が不快であるという犯行の動機に酌量の余地はない。極悪非道の犯罪であり、極刑をもって挑む以外にはない」と述べた。
 同日の最終弁論で弁護側は「被告は犯行当時精神病質の程度が特に重く、心神耗弱だった。被告は音に対する特殊な恐怖心、憎悪感情を持ち、これに対して復讐の念に燃える殺人行為に及んだものである。正常心理学の範囲内では了解不可能な精神異常者であったと認められる」と述べた。また弁護側は「音の量より性質が問題であり、音に対する反応は個人差が大きい」などとした学者の見解を紹介した。
 最終陳述で大濱被告は「私としては、死刑台の椅子に座りたい。それだけです」とだけ述べた。
 判決で裁判長は「事件は被害社宅からのピアノの音、日曜大工もしくはベランダのサッシ戸の音などに端を発したものであるが、ピアノの音は睡眠を妨げられ、病気の人は寝ていられないという程度の音である。被害者方と被告との間に意志の疎通があれば十分犯行は防止得た。ただ被告は自らの取った態度を考えずに被害者たちだけを責め、報復として犯行を用意周到に計画。罪のない幼女2人まで刃物で突き刺し、しかも1名については手応えがないとさらしで首を絞めるなど残虐。法廷でも己の犯した罪に悔悟の情を示していない」として死刑を言い渡した。

 大濱被告は控訴を望んでいなかったが、第一審の弁護人が控訴した。ただし、大濱被告は1976年2月9日、24日、3月1日、3日付けの4度に渡って自ら書いた控訴趣意書約80枚を提出。控訴趣意書では、「死刑になりたかった」という公判での証言を翻し、「被害者の夫に襲われると思ったから先にやった」という警察などで述べた供述に戻っている。また一審で行われた精神鑑定に不満を持ち、再鑑定の希望を述べた。
 控訴審では新たな国選弁護人が精神鑑定を請求。4月27日、高裁は採用した。
 5月6日、東京拘置所に移っていた大濱被告は「隣房の水洗便所の音がうるさい」と控訴取下書を提出。しかしすぐに取下げた。
 鑑定人は「被告の知能は平均をこえるにもかかわらず、客観的な事実の認知には著しい欠陥があり、過敏、小心で猜疑心が強く、容易に独断的嗜好、判断に走りやすい傾向がある。被告は本件犯行当時、パラノイアに罹患しており、妄想に基づいて殺人行為を実行したものである」と結論づけた。また「妄想に動機づけられた本件犯行の殺人に関しては、責任無能力が認められるべき」という参考意見を記した。
 しかし鑑定書の完成(11月25日)前の10月5日、大濱被告は控訴取下書を提出。取下書の書類を要求した職員に「精神鑑定をされているから無期懲役になるだろう。刑務所で一生を送るのはごめんだ。死刑は怖いが、早く死にたい」と述べている。隣房からの水洗便所の音がうるさいと再三訴え、10月1日には空いている隣の房へ移っていた。
 10月9日、弁護人は東京高裁に「取下書は正常な精神状態で書かれたか疑問があるので身長に取り扱うべき」という上申書を提出した。
 11月30日、東京高裁の裁判長は職権で鑑定人の尋問を行った。鑑定人は、正常な面と妄想する面を併せ持つパラノイア状態は続いているが控訴取下書は正常な面で書かれており、有効であると述べた。
 12月16日、裁判長は大濱被告の控訴取下申立は有効であるとの決定を下した。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 12月20日、弁護人は異議申立書を提出。東京高裁は1977年2月9日、鑑定人と大濱被告に対する尋問が行われた。4月11日、裁判長は異議申立を棄却。大濱被告は特別抗告をしなかったため、4月16日に一審死刑判決が確定した。
備 考
 事件当時は近隣騒音に対する被害を訴える声が相次いでおり、「騒音被害者の会」も結成されていた。また1974年10月10日には、埼玉県朝霞市のアパートで、ステレオの音がうるさいと注意された若い会社員が苦情を申し入れた隣室の夫婦を果物ナイフで刺して重傷を負わせるという事件も起きた。
 パラノイアと鑑定された患者による事件は日本の裁判史上初めてであった。
現 在
「自殺したいができないので、国の手で殺して欲しい」と自殺志願ともいえる側面を持つ事件であるが、拘禁症か精神病のため、皮肉なことに、未だ刑は執行されていない。
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氏 名
近藤清吉
事件当時年齢
 32歳
犯行日時
 1970年7月28日/1971年5月20日
罪 状
 強盗殺人、殺人、死体遺棄
事件名
 山林売買強殺事件等
事件概要
 徳島県西白河郡表郷村の土地ブローカー、近藤清吉被告は共犯者1名と共謀して、1970年7月28日、保険金騙取の目的で知人の雑貨商(当時42)に生命保険を掛けてこれを殺害した。
 また単独で1971年5月20日夕方、山林売買にことよせて知人である同村の山林仲介業者(当時44)を呼び出し、これを殺害して204万円を強取した後、死体を水田に遺棄した。
 警察は5月23日より近藤被告を取り調べ、自宅の畳の下から現金155万円が見つかったことから、強盗殺人、死体遺棄容疑で近藤被告を逮捕した。
一 審
 1974年3月29日 福島地裁白河支部 磯部喬裁判長 死刑判決
控訴審
 1977年6月28日 仙台高裁 三浦克巳裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1980年4月25日 最高裁 栗本一夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 仙台拘置支所
裁判焦点
 保険金殺人については否認し、事故死を主張。

 最高裁は「犯行の態様も残虐であることなど、各犯行の罪質、動機、計画性、態様、被害結果及び社会的影響の重大性などの諸点にかんがみると、犯情は極めて重く、その刑責は重大である」と述べた。
その後
 4回に渡り再審請求するも、全て棄却。
執 行
 1993年3月26日執行、55歳没。
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氏 名
袴田巌
事件当時年齢
 30歳
犯行日時
 1966年6月30日
罪 状
 強盗殺人、現住建造物等放火、住居侵入
事件名
 袴田事件
事件概要
 清水市の味噌製造会社に務める工員・袴田巌被告は、1966年6月30日午前1時過ぎ、従業員寮からくり小刀を持って味噌工場にある専務方に侵入し物色していたが、専務の男性(当時42)に見つかったため、数回刺して殺害。さらに、物音で起きた妻(当時39)、長男(当時14)、次女(当時17)も次々に刺して殺害した。そして専務が保管していた売上金204,915円と小切手5枚(額面合計63,970円)、領収書を奪った。そして、工場内にあった混合油を持ち出して遺体に振りかけて放火し、木造平家住宅1棟(332.78m2)を焼毀した。長女(当時19)は祖父母の家に泊まっていて無事だった。
 被害者宅には多額の現金・預金通帳・有価証券などが残されており怨恨による犯行と考えられていた。その後、捜査の間に金袋がなくなっていることが判明。7月4日、元プロボクサーで同工場に勤務している袴田巌被告の部屋から血痕のついたパジャマを押収。大々的に報道されたが、実際は、二度の鑑定が不可能なほどの微量であった。8月18日、袴田被告が逮捕、21日後にとうとう「自白」した。連日密室で12時間以上に及ぶ過酷な取り調べによるものであり、「自白調書」が45通も作られたという摩訶不思議な話である。9月9日、起訴された。
一 審
 1968年9月11日 静岡地裁 石見勝四裁判長 死刑判決
控訴審
 1976年5月18日 東京高裁 横川敏雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1980年11月19日 最高裁 宮崎梧一裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所(2014年3月27日、釈放
裁判焦点
 1966年11月15日の一審初公判で、袴田被告は「自白は強要された」と全面否認し、無罪を主張した。
 公判当初、犯行の着衣はパジャマで、そこに返り血と放火用の混合油が付着しているとされたが、パジャマの血痕はきわめて微量で、再鑑定ができなかった。また、混合油の成分の同一性に関する鑑定には、強い疑問が生じていた。
 事件から1年2か月後の1967年8月31日、血の付いたズボンなど5点の衣類が、麻袋に入った状態で、すでに捜索済みであったはずのみそ工場のタンクの中から見つかった。衣類から被害者4人のうち3人の血液と、袴田被告の血液が付いていると鑑定された。補充捜査が行われ、9月12日にズボンの切断面と一致する端布が、袴田被告の実家から発見された。9月13日に公判が急遽開かれ、検察側は冒頭陳述における犯行時の着衣をパジャマから5点の衣類に変更した。
 判決では、供述調書45通の内44通について、「自白獲得にきゅうきゅうとして物的証拠に関する捜査を怠った」と捜査手法を批判し、任意性がなく証拠とすることができないとして排除し、1966年9月9日付の供述調書のみ証拠として採用した。また、犯行当時着用していた衣類については「虚偽の自白を得」たとして、捜査について厳しく批判した。
 1967年8月31日に、味噌タンクに隠された麻袋から見つかった白ステテコ、白半袖シャツ、ねずみ色スポーツシャツ、鉄紺色ズボン、緑色パンツの「5点の衣類」について、袴田被告の実家で見つかった端布とズボンの切断面が一致したことから、袴田被告が事件当時着用していたものと断定。また、半袖シャツについていた血痕が袴田被告と同じB型であり、当時右肩を負傷していたことから袴田被告のものとした。そして犯行当時は「5点の衣類」を着ており、その後パジャマに着替えて放火をしたと認定した。くり小刀については、刃物店の証言により袴田被告が購入したものと断定した。そして従業員の証言により、火災鎮火直前に袴田被告が現れるまで誰も袴田被告を見たものがいないことから、事件当時のアリバイがないと断定した。動機については、母・子と三人一緒に住むためのアパートの敷金・権利金がほしかったと認定した。
 以上の証拠より袴田被告を犯人と認定し、残忍非道、鬼畜の所為と批難。社会一般に与えた影響も大きく、極刑以外の判決はないとした。
 なお一審判決については、主任裁判官を務めた熊本典道氏が、自白を取った方法や信用性、また凶器とされるクリ小刀と袴田死刑囚との結びつきに疑問を呈し、合議体(3人)で行われた当時の審理で無罪を主張し、1対2で敗れたことを2007年3月に明らかにした。
 また第二次再審請求審で、公判に未提出である否認調書が14通、自白調書が20通あることも判明している。

 控訴審で弁護側は、(1)被害者らにかけられた油は誰にでも購入可能なものであり、石油缶の蓋に血痕がなかったことなどから工場にあった混合油ではない(2)味噌タンクから発見された「5点の衣類」は袴田被告のものではない。特にズボンは小さすぎて、袴田被告がはくことはできない(3)また事件当時は味噌の残量はわずかであり、袴田被告がタンクへ隠したとしてもすぐに発見されるため、袴田被告が隠すのは不可能(4)くり小刀1本では犯行が不可能(5)途中でパジャマに着替えて放火するなどの行動は飛躍がありすぎる。(6)侵入経路、脱出経路等についても疑義を示した。
 1971年11月20日、「5点の衣類」の装着実験が実施されたが、ズボンが小さくて袴田被告ははくことができなかった。その後2回、同様な実験が行われたが、どちらもはくことができなかった。
 判決で横川敏雄裁判長は、(1)については鑑定人尋問により、工場内の混合油と同じ成分である可能性が相当高いと判断。公判では質問に窮した点も見られたが、工場内の混合油が減少していた証言などより、工場の混合油が使われたと判断した。(2)については、ズボンについていた「B」の文字がB体(肥満体)を示すと判断し、事件当時ははくことができたが、生地が1年以上も水分・味噌成分を吸い込んだあと長期間証拠物として保管されている間に自然乾燥して収縮したものであり、さらに被告が拘留中に運動不足によって体重増加したものと認定した。(3)(4)(5)(6)についても退けた。そして、ズボンが袴田被告のものであること、他の衣服も袴田被告のものである疑いが強いこと、シャツに被告と同じ血液型の血痕がついていたこと、パジャマに被害者らと同じ血液型の血痕及び混合油がついていたこと、アリバイがないことを挙げ、被告を犯人と断定し、控訴を棄却した。

 最高裁は、原判決に事実の誤認がないとして、上告を棄却した。
再審請求
 1981年4月20日、静岡地裁へ再審請求。11月13日、日弁連が袴田事件委員会を設置して支援を開始した。
「凶器とされたクリ小刀では、被害者4人の傷はできない」などと主張したが、同地裁は1994年8月9日、「確定判決の有罪認定を覆す可能性が高い新証拠があるとは認められない」として、再審請求を棄却した。
 弁護側は即時抗告。東京高裁の抗告審では、警察がすでに捜索済みだったタンクから見つかったことを重視し、被服学の大学教授など専門家に血痕の付き方の不自然さを証明してもらうなど3種類の鑑定を新証拠として提出した。さらに、凶器とされたくり小刀についても、動物実験により4人を殺害する凶器とはなり得ないことを示すビデオを提出した。弁護団は、袴田死刑囚が親族らにあてた手紙(約10年分)の文面を弁護団が分析を加えた「人格証拠」も提出した。
 東京高裁は衣類の血痕について、被害者のものと一致するかについてDNA鑑定を行ったが、年月の経過で劣化が進んで鑑定不能に終わったことが、2000年7月13日に明らかになった。
 2001年8月3日に提出した最終意見書では、(1)凶器と認定された「クリ小刀」で4人を殺害するのは困難(2)見込み捜査に基づいて自白が強要された(3)犯行時の着衣とされたズボンは、袴田死刑囚がはけるサイズではない。また、血痕の付き方も不自然(4)犯行後の脱出口とされた裏木戸から出入りするのは不可能だった――などの点を指摘し、「新証拠を総合評価すれば、静岡地裁判決の誤りは明らか」と主張した。
 2004年8月26日付で東京高裁は、弁護側の即時抗告を棄却した。安広文夫裁判長はまず、確定判決の証拠構造を検討。「犯人が衣類を脱いでから衣類同士が接触して血液が付着する可能性は否定できず、一部に不自然な付着があっても、確定判決の認定に疑問は生じない。水分やみそ成分を吸ったズボンが乾燥して、証拠として保管中に収縮したと認定した確定判決は正当。証拠構造は相当に強固で、ねつ造証拠との主張は仮説の域を出ない」と指摘し、自白以外の証拠で袴田死刑囚が犯人と認定できる、と判断した。さらに弁護側の提出証拠について、再審開始の要件である「無罪や軽い刑を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」にあたらないと判断。いずれの証拠も「明白性」「新規性」の要件を満たしていないと認定した。そして、「新旧の全証拠を総合的に評価しても、確定判決の事実認定に合理的な疑いは生じない」と述べた、
 弁護側は最高裁へ特別抗告。補充書で弁護団は、みそタンク内から見つかり犯行時の着衣とされた衣類の中にブリーフが2枚ある点などについて検討が不十分と主張し、証拠がねつ造された可能性を改めて指摘した。2度目の補充書では、東京高裁が新証拠と認めなかった「自白調書の内容はうそ」とした心理学的鑑定(浜田鑑定)について、「何の具体的な理由も示さず排斥した」と批判。同鑑定の供述分析手法を積極的に評価した最近の判例を挙げながら「高裁判断は鑑定を否定するだけの論理性を備えていなければならない」などと同鑑定の採用を求めた。2007年6月25日には、静岡地裁の一審判決を担当した元裁判官の熊本典道さんの陳述書を上申書に添付した。3度目の補充書では。繊維業者の協力などで実験を繰り返し「ズボンなどが死刑囚のものでないことを科学的に証明した新証拠」を提出した。2008年3月4日、最終意見書を提出した。
 2008年3月24日付で最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は、特別抗告を棄却する決定を出した。4人の裁判官全員の意見。小法廷は「憲法違反など特別抗告できる理由がない」と棄却の理由を述べた。そして新証拠を含む全証拠を総合して、再審を開始すべきかどうか職権で検討。弁護側提出の新証拠のうち、みそタンクから発見されたズボンについて、「タンク内でみそ漬けにされ乾燥して縮んだためはけなくなった」と述べた。また、捏造の指摘について、「タンクに残っているみその中まで捜索していなかったので、衣類が隠されていたとしても矛盾はない」と述べた。また、タンクは捜索直後から約8トンのみその仕込みに使われ、衣類はみそ取り出し作業の最後に発見されたことを指摘。「仕込み作業後にタンクの底に衣類を隠すことは不可能。衣類は縮み具合から長期間みそ漬けになっていたことは明らかで、発見直前にタンクの中に入れられたものとも考えられない」と判断した。逃走経路とされた裏木戸の再現実験までして「自白通りの逃走は不可能」などと弁護側が主張した点についても、「論理に飛躍があり、客観的証拠による犯人性の推認を妨げる事情とはなり得ない」と否定するとともに、「確定判決は自白を除いた証拠のみで袴田死刑囚を犯人と認定している」と指摘した。そして「確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じる余地はない」と結論付けた。
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 1989年3月に恩赦出願をするも保留のまま。2005年11月14日には、弁護団が本人を代理して減刑を求める恩赦を法務省の中央更生保護審査会に出願した。15日の紀宮様の結婚式に合わせたものである。こちらも保留のままである。

 2008年4月25日、静岡地裁へ第二次再審請求。袴田死刑囚は心身の状態から本人による弁護人選任が難しいため、姉の秀子さんが申立人になった。みそタンクから発見された5点の衣類について、当時と同じ状態を再現し、人血が付いた衣類をみそに浸す実験を行った。すると20分で5点の衣類と同じ状態になった。また約7カ月浸すと、今度は5点の衣類より色が濃い状態になったという実験結果を新証拠として提出した。また、5点の衣類の一つであるズボンについて、袴田死刑囚にとっては太もものサイズが小さすぎてはけないことを示す鑑定結果を、第一次請求で最高裁に提出したが触れられなかったため、新証拠として再度提出した。
 再審は死刑囚本人が死亡するか心神喪失が認められない限り本人以外は請求できず、秀子さんが請求したことに対し、静岡地検は疑義を呈してきたが、東京家裁が2009年3月、秀子さんを袴田死刑囚の保佐人として認めたことから、地裁、地検、弁護団による3者協議が2009年7月24日を皮切りに行われた。
 2009年12月14日の3者協議で弁護団は、みそタンクから見つかった「5点の衣類」について、同種の衣類をみそ漬けにした実験結果を「新証拠」として提出した。
 2010年9月13日、弁護団の要請に応じ、検察側が5点の衣類のカラー写真や捜査報告書のコピーなど、計29点の資料を初めて開示した。また、二審東京高裁判決ではサイズ・体形を表すものと認定されたズボンに記された「B4」という記号について、「Bは色を示す記号」とするズボンの販売関係者の供述調書も今回開示された。また開示された捜査報告書からは、地裁判決の証拠となった衣類の共布(補修布)が実家から発見される8日前に、捜査員がズボンの製造元から同じ生地のサンプルを入手していたことと、発見して6日後にも、再びサンプルを受け取っていたことが分かった。
 12月6日の3者協議で検察側は、袴田死刑囚が事件時にはいていたとして有罪の根拠になった衣類のカラー写真30枚や関係者の供述調書など証拠8点を新たに開示した。
 2011年2月25日の3者協議で検察側は、袴田巌死刑囚がはいていたとされるズボンの製造会社から県警が当時入手したサンプルの布(5cm四方)を初めて開示した。サンプルは捜査記録では2枚存在するが1枚は不明で、弁護団は「不明の1枚は警察の偽装工作に使用された可能性がある」と主張している。サイズの問題に関連し、弁護団はズボン製造会社の元役員の男性の陳述書を提出し、証人申請も行った。
 3月25日の3者協議で検察側は、犯行着衣とされるズボンの縫製を担当した洋品店関係者5人の供述調書のうち、3人の調書を新たに開示した。一方、残り2人の調書については存在しないと回答。犯行着衣の「5点の衣類」を撮影した写真とネガや、ズボンの生地サンプルについても、同様に「存在しない」と説明したという。
 5月13日の3者協議で検察側は、当時静岡県警が撮影した証拠写真が入った冊子で、「現場編」「着衣編」「解剖編」の3冊を開示した。
 7月1日の3者協議で検察側は、5点の衣類に関連して、ズボンの寸法札、パンツのサンプルの証拠を開示した。それぞれの製造業者が1967年9月、検察に任意提出したものだが、検察側は公判に提出しなかった。このうち、ズボンの「B」の横に「色」と書いてあることが分かる写真も開示された。また、衣類に残った血痕のDNA型鑑定を実施する方向で合意した。
 8月23日付で静岡地裁は、検察側、弁護側それぞれが推薦した専門家2人を鑑定人に選任してDNA鑑定を実施すると正式決定した。
 8月29日の3者協議で、袴田死刑囚が着ていたとされる衣類5点に加え、被害者である男性(当時41)のズボンと下着など6点を含め、計11点について、血痕のついた部分を約2cm×約1cm大に切り取り、半分にして双方の鑑定人が持ち帰った。また静岡地裁は、弁護側が開示を求めた資料に対し、(1)存在の有無(2)あるのに開示できないならその理由――の2点を11月11日までに回答するよう検察側に要請した。しかし静岡地検は、期限までに回答することができず、11月16日に意見書を提出した。この中で袴田死刑囚の供述を録音したテープが存在することを明らかにしたが、再審請求には関係ないとして、テープの開示は拒否した。他に現場検証の写真などについても「新証拠の新規性や明白性を判断する上で関連性がなく、取り調べる必要性もない」として開示を拒んだ。一方、未開示だったみそ製造会社従業員の供述調書など計約120点は、新たに証拠提出するとした。
 11月21日の3者協議で検察側は、地検から従業員寮の部屋を家宅捜索した際の写真や、袴田死刑囚の犯行着衣とされている5点の衣類に関する捜査をした警察官の供述調書などの証拠を開示した。地裁は録音テープについて、12月2日までに録音時期を明らかにするよう検察側に要請した。11月30日付の回答書で、テープは起訴後の1966年9月21日に録音されたことが分かった。さらに、公判に未提出である否認調書が14通、自白調書が20通あることも新たに判明した。
 弁護側が承認申請し、地検が反対して保留となっているズボン製造会社の元役員の男性に対し、地検は11月21日に男性を電話で呼び出して調書を作ろうとしたため、弁護団は即日「裁判手続きを軽んじる行為」と批判する緊急申し入れ書を地裁に出した。地検は「無用の紛議を避けるため」呼び出しを撤回した。
 12月5日、静岡地裁は未開示証拠176点を開示するよう、静岡地検に勧告した。地検は同日、勧告を受け入れることを決めた。開示勧告の対象は、県警が袴田死刑囚の取り調べを録音したテープ1本と、供述調書など約30通、現場の写真とネガ計約80枚、凶器とされた小刀など。
 12月12日の3者協議で検察側は、未開示だった計176点の証拠を開示した。
 12月15日、静岡地検は2008年4月から2011年2月までに新証拠として提出した再審請求書など8件について「新規性や明白性を欠く」と反論する意見書を静岡地裁に提出した。犯行時の着衣とされるズボンの寸法札の表示について、弁護団の指摘通り、「B」と記載された表示をズボンの型とした確定判決の事実誤認を認めた。だが、サイズが小さすぎてはけなかったとする弁護団の主張には「ズボン製造会社の証言などから、ズボンをはくことは十分可能で確定判決の結論を左右しない」とした。衣類がみそ工場で発見された状況を再現した弁護団の実証実験についても、「衣類がみそに漬かっていた状態を正確に再現したものではなく、その証明力はほとんどない」と主張した。
 12月22日、静岡地裁はDNA鑑定の結果を地検、弁護側に伝えた。衣類の血痕について、弁護側推薦の鑑定人は〈1〉被害者の着衣と5点の衣類についたDNAが一致しない〈2〉5点の衣類からは、被害者の着衣から出ていないDNA型が複数認められる〈3〉血縁関係のない、少なくとも4人以上の血液が分布する可能性が高い--との点から、「被害者の血とは確認できない」と判断したのに対し、検察側推薦の鑑定人は、人血かどうかや血液型の問いに「検討しなかった」と回答。また、DNA型は、髪の毛、唾液、触った時に残る皮膚細胞からも採取できるため、地裁は血液のDNA型かどうかを明らかにするよう求めていたが、その点も「不明」とした。被害者の男性専務のものとされた血痕から抽出されたDNA型を女性のものと推定。しかし、「5点の衣類」のうちの緑色パンツの血痕から検出したDNA型の一部は、被害者のものとみられる複数の衣類から検出したものと一致したと指摘。「被害者の血である可能性が排除できない」との見解を示し、双方食い違う結果となった。
 2012年1月23日の3者協議で、弁護団が実施を求めていた袴田死刑囚自身のDNA型鑑定について協議し、実施する方向で一致した。
 2月10日、静岡地裁(原田保孝裁判長)は袴田死刑囚本人のDNA型と血液型の鑑定を実施することを正式決定した。鑑定人は昨年、犯行着衣とされる衣類のDNA型鑑定を担当した専門家2人。静岡地裁は3月1日、鑑定人と協議し、今月中旬までに本人の同意を得た上で、袴田死刑囚の検体を採取することを決定し、14日に採取した。
 4月13日、弁護側の鑑定人の結果が、袴田巌死刑囚のものとされてきた衣類の血痕が、本人のDNA型とは違うことが明らかになった。検察側は試料の古さなどから鑑定の正確性を疑問視しているが、鑑定は「いかに試料の劣化や汚染を考慮しても、不一致は必然性がある」と指摘した。16日には、検察側の鑑定人の結果も、袴田死刑囚のDNA型と一致しないことが明らかになった。
 5月8日、弁護団は地検の意見書に対する反論書を静岡地裁に提出した。
 9月27日、袴田死刑囚の「自白」録音テープを分析していた浜田寿美男・奈良女子大名誉教授(法心理学)の鑑定書が明らかになった。鑑定書は袴田死刑囚の供述を、「真犯人しか知り得ない『秘密の暴露』ではなく、無実の人が語る『無知の暴露』だ」と述べ、無実を示していると指摘している。
 9月28日の3者協議で、二人のDNA鑑定人を11月に地裁で証人尋問することを確認した。
 11月2日に弁護側推薦鑑定人に対する弁護側の尋問が、11月19日に検察側推薦鑑定人に対する検察側の尋問が、それぞれ非公開で行われた。12月26日に弁護側推薦鑑定人への検察側の反対尋問が、2013年1月28日に検察側推薦鑑定人に対する弁護側の反対尋問が、それぞれ非公開で行われた。
 2013年3月1日の3者協議で、5点の衣類の真偽を検証する証人尋問を、5月24日に実施することが決定した。また、袴田死刑囚の否認調書に登場する関係者15人の供述調書計63通が存在することを静岡地検が認め、そのリストを公開したが、調書そのものの開示は拒否した。
 3月29日、地検と弁護団はDNA型鑑定の結果に関する意見書を地裁に提出した。
 5月24日の3者協議で、5点の衣類に関する変色実験を実施した弁護側証人に対する尋問が非公開で行われ、証人は「5点の衣類と同じものを短時間で作り出せる。5点の衣類は1年以上もみそ漬けになってはいない」と証言した。
 7月5日、静岡地裁は静岡地検に、袴田死刑囚の否認調書に登場する関係者20人の供述調書や捜査報告書計130通を開示するよう勧告した。
 7月26日の3者協議で地検は、当時の関係者の供述調書など130通を新たに開示した。この中には、同じ社員寮だった同僚2人が事件当時、静岡県警の事情聴取に「サイレンを聞いて部屋を出ると、袴田(死刑囚)が後ろからついてきて、一緒に消火活動をした」と話した調書があることが後にわかった。「事件前日の午後10半ごろから鎮火が近いころまで袴田死刑囚の姿を見た者はいない」とする確定判決と食い違う一方、袴田死刑囚の「事件当時は部屋で寝ていた。火事を知り(この同僚)2人の後から出て行った」という主張と一致する。2人の消息は不明。
 9月13日の3者協議で、弁護団、静岡地検双方による最終意見書の提出日程が12月2日と決定した。
 9月30日付で地検は、犯行時に着ていたとされる衣類がみそタンクの中から発見された当時の状況が書かれた県警の捜査報告書など書類3通を開示した。
 10月17日、地検は、衣類が見つかる前のみその仕込み作業などについて記載された捜査報告書1通を開示した。
 12月2日、弁護団、静岡地検双方の最終意見書が静岡地裁に提出された。12日、地検は追加の意見書を提出した。これについては弁護側が抗議している。
 12月2日、静岡地裁の村山浩昭裁判長らは、袴田死刑囚のいる東京拘置所を訪問。拘置所職員を通じて、再審請求の関係で意見聴取に来たことを伝えたが、「どうしたって死刑になるんだから」と断られた。
 12月16日、静岡地裁で申立人の最終意見陳述が行われ、秀子さんは早期の再審開始を求めた。地裁は、地検が出した12日付の捜査報告書と16日付の意見書について、最終意見書の提出後であることを踏まえ「信義則に反する」と述べ、証拠として採用しなかった。
 2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は、犯行着衣とされた「5点の衣類」をめぐるDNA型鑑定結果を新たな証拠と認めた上で、「(袴田元被告を)犯人と認めるには合理的な疑いが残る」として再審開始を決めた。刑の執行停止に加え、拘置の停止も認める異例の決定となった。法務省によると、死刑囚の再審が決定したケースで、拘置の執行停止が認められたのは初めて。
 村山裁判長は決定理由で弁護側鑑定について、「検査方法に再現性もあり、より信頼性の高い方法を用いている」と指摘。「検察側主張によっても信用性は失われない」と判断した。そのうえで、犯行時に元被告が着ていたとされる着衣は「後日捏造された疑いがぬぐえない」と指摘。DNA型鑑定の証拠が過去の裁判で提出されていれば、「死刑囚が有罪との判断に到達しなかった」と述べ、刑事訴訟法上の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたると結論づけた。さらに「衣類以外の証拠も犯人性を推認させる証拠が弱い」と指摘。「捏造された疑いがある重要な証拠で有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄拘束されてきた」として、「再審を開始する以上、死刑の執行停止は当然」とも指摘した。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 静岡地検は、拘置の執行停止決定を不服として、静岡地裁にこの決定を停止するよう申請すると同時に、東京高裁に決定の取り消しを求めて抗告したが、静岡地裁は静岡地検の申し立てを退けた。抗告に対する高裁の判断には時間を要するため、地検が釈放を指揮し、袴田元被告は同日午後、逮捕から47年7カ月ぶりに釈放された。3月28日、東京高裁(三好幹夫裁判長)は、拘置の停止を認めた静岡地裁の判断を支持する決定をした。上告されなかったことから、釈放の決定が確定した。
 静岡地検は3月31日、決定を不服として東京高裁に即時抗告した。同地検の西谷隆次席検事は抗告の理由について、「DNA型鑑定に関する証拠の評価などに問題がある」「証拠について、合理的な根拠もないのに、警察によって捏造された疑いがあるなどとしており、到底承服できるものではない」とコメントしている。

 2014年8月5日、東京高裁と東京高検、弁護側による初の3者協議が開かれ、検察側は今まで存在しないと言っていた5点の衣類のカラー写真のネガが存在することを明らかにし、謝罪した。東京高検は、犯行着衣とされた「5点の衣類」の写真ネガ約90枚を東京高裁に提出した。
 袴田さんの取り調べ時の48時間分の録音テープが発見され、証拠開示された。いつの録音かは不明。その中に、逮捕から5日後の袴田さんが5分間、弁護人と接見する会話が含まれていた。支援団体は静岡県警に質問状を出したが、審理中を理由に回答はなかった。
 2015年12月7日、東京高裁(大島隆明裁判長)は、再審開始決定の決め手となった弁護側のDNA型鑑定の有効性を確認する再現実験を実施する決定をした。弁護側が実験への協力を拒否したため、高裁は検察側が推薦した大学教授を鑑定人に選任した。
 2016年3月に検察が開示した逮捕当日(8月18日)の静岡県警の身体検査調書に、袴田さんが逮捕後に「犯行時に被害者に蹴られてできた」と供述した右足の脛の傷が記載されていなかったことが判明。弁護団は証拠捏造の疑いを指摘し、改めて再審開始を求める意見書を5月16日に東京高裁へ提出した。
 再審の決め手となったDNA型鑑定の手法を検証した大阪医科大の鈴木広一教授は、鑑定手法は再現できないとする検証経過報告書を2017年6月5日付で提出。6月29日の3者協議で弁護側は、鈴木教授の検証手法について、裁判所が依頼した通りに行われていないとして非難する意見書を提出。また検証結果については「特別なたんぱく質を使用しても、DNAは検出されることを明らかにした」との見解を示し、地裁の再審開始決定は揺るがないと主張した。
 9月26日と27日、DNA型鑑定をした本田克也・筑波大教授と、それを検証した鈴木広一・大阪医大教授の鑑定人尋問が行われた。
 11月6日の3者協議で大島裁判長は、最終意見書を来年1月19日までに提出するよう指示した。その上で「年度内に決定を出す」と明言した。2018年1月、検察側と弁護側は最終意見書を提出した。
 2018年6月11日、東京高裁(大島隆明裁判長)は「DNA型の鑑定結果を信用できるとした地裁の判断は不合理」として検察側の即時抗告を認め、静岡地裁の再審開始決定を取り消した。なお、「年齢や生活状況、健康状態などに照らすと、再審請求棄却の確定前に取り消すことは相当であるとまでは言い難い」として、死刑と拘置の執行停止は取り消さなかった。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 袴田元被告側は6月18日、最高裁に特別抗告した。

 2019年3月20日、弁護団は刑の執行の免除を求め、静岡地検に3度目の恩赦を出願した(過去は1989年と2005年で、いずれも回答無し)。
 2020年1月15日、4度目の恩赦を出願した。3度目の恩赦についても、一度も回答は得られていない。
 最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は2020年12月22日付の決定で、再審開始を認めない東京高裁決定を取り消し、高裁に審理を差戻した。5人の裁判官のうち3人の多数意見で、高裁決定の取り消しは全員が一致し、林景一、宇賀克也裁判官は「差戻しではなく再審を開始すべきだ」と反対の立場をとった。死刑の執行停止と釈放は維持される。
 小法廷は、「5点の衣類」に付着した血痕の色について検討。衣類発見時の実況見分調書には「濃赤色」などの記載がある一方、弁護側による再現実験では、みそ漬けにした衣類に付いた血痕は6カ月後に黒色に近くなったとし、血痕の色は専門的知見に基づき検討する必要性があると指摘した。その上で、弁護側が高裁段階で主張した醸造中のみそが褐色化する「メイラード反応」について検討。弁護側が提出した意見書は、血痕が黒っぽく変化したのも主に同反応の影響だとしたが、高裁はこの点について審理を尽くしておらず、「袴田さんの犯人性に合理的な疑いを差し挟む可能性が生じ得るのに、影響を過小評価した誤りがある」と結論付けた。一方、地裁が再審開始決定の最大の根拠とした衣類に付着した血痕のDNA型鑑定結果は「DNAが残存しているとしても極めて微量で劣化している可能性が高い」として証拠価値を否定した。

 2021年3月22日、東京高裁、弁護側、検察側との第1回3者協議を開き、犯行時の着衣とされた5点の衣類に残る血痕の変色状況を争点とすることを改めて確認した。弁護団は最高裁の決定後、改めて再現実験を実施。いずれの条件でも血痕の赤みは消えたといい「検察側で赤みが残る条件を明らかにできないなら、速やかに審理を終結させるべきだ」との意見書を提出した。
 6月21日の3者協議で、弁護団は約60通りの実験で4週間もあればどういう条件であっても赤みが残らないで黒くなることが確認されたという実験結果を新証拠として提出した。
 7月3日、検察側は食品衛生学などの専門家2人の意見をまとめた報告書を高裁に提出し「当時のみその色が淡色にとどまっていることから、血痕の赤みを失わせるような化学反応が進行していたとは認められない」と反論した。
 8月30日の3者協議で弁護側は検察側の報告書に対し、検察側が以前に行った実験でも血痕は1カ月で黒くなった点との矛盾を指摘し、さらなる説明を求めた。
 弁護団は11月1日付で、5点の衣類の血痕について、「みその塩分などで血液中の成分が変化し、赤みが残ることはない」とする鑑定書を東京高裁に提出した。弁護団が今回新たに提出した法医学者らの鑑定書は、メイラード反応とは別の化学反応で、ヘモグロビンの変化による血液変色を分析した。その結果、みそに漬かると赤みの要因となるヘモグロビンが酸化して数週間で赤みが消えるとし、「衣類をみそに1年以上漬けた場合、赤みは残らない」と結論づけた。
 11月22日の3者協議で、検察側は「実験に対して反論する報告書を2月末までに出す」などと述べた。
 2022年2月24日付で検察側は意見書を提出。検察側の独自実験では衣類の血痕をみそに約5カ月間つけても赤みが残ったと指摘。そのうえで「衣類にしみこんだ血痕は化学反応が起こりにくい」と説明し、弁護側の鑑定書は「血痕の色調変化について論理的な推論がない」と訴えた。東京高検は昨年9月にみそ漬け実験を開始した。静岡地検の一室を利用し、定期的に観察を続けている。この実験で、条件次第では5カ月間みそに漬けた血痕に「顕著な赤み」が観察できたと指摘。血液の量やみそ漬けになるまでの乾燥の程度が、血液の色調変化に影響を及ぼす可能性が高いと分析した。
 3月14日の3者協議で弁護側は、検察側の実験は「条件設定に問題があり、信用できない」と反論した。検察側は、真空パックの中で5か月間漬けていたという。協議では、弁護団の鑑定書を作成した専門家らに対する証人尋問を6月以降に実施する方針が決まった。
 6月27日の3者協議で、専門家への証人尋問を7月22日と8月1日、同5日に行い、11月には検察側実験を視察することが決まった。
 7月22日、弁護側鑑定書を作成した旭川医科大の清水恵子教授と奥田勝博助教に対する証人尋問が非公開で行われた。血痕の付着した衣類を1年間みそ漬けにした場合、血中ヘモグロビンが変質し、さまざまな化学物質と混合して血痕は黒褐色になると証言した。赤みが残るとして検察側が独自に行っている実験については、みその発酵が進みにくい真空パックや脱酸素剤が使われている点などを挙げ、自然界と懸け離れた極端な条件設定をしており「意味がない」と指摘した。
 8月1日、検察側が請求した法医学者2人の証人尋問が非公開で行われた。弁護側によると、法医学者2人のうち1人が検察側の再現実験で「血痕の赤みが残ると推論できる」と答えたが、根拠は示さなかったという。もう1人は「みそタンク内は酸素濃度が薄く、血痕の化学変化の速度が遅くなる。1年2カ月後でも赤みが残る可能性はある」という趣旨の説明をしたという。一方、弁護側が別の法医学者に依頼して高裁に提出した「血痕は黒褐色に変わる」とする鑑定書に対しては、そのメカニズムは否定しなかったが、実験の結果は「血液」についてで、布に血液が付いた「血痕」でも当てはまるか疑問だと証言した。
 8月5日、弁護側が申請した物理化学の専門である北海道大学の石森浩一郎教授への証人尋問が非公開で行われた。弁護団によると石森教授は、最大の争点となっている犯人のものとされる衣類についた血痕の色の変化について、「時間がたつと赤みはなくなる」とする弁護側の鑑定書の内容に異論はないと証言したという。
 9月26日の3者協議で東京高裁は、12月2日までに最終意見書を提出するよう、検察側、弁護側に求めた。大善文男裁判長は今年度中に決定を出す意向を示した。
 11月1日、東京高裁の大善文男裁判長ら裁判官2人が静岡地検を訪れ、弁護団立ち合いのもと、事件発生から「5点の衣類」が見つかるまでの時間と同程度、みそにつけた布を引き上げ、写真などに収めたということです。弁護団は2日に記者会見で、検察側の実験結果について「赤みが残っていなかった」との見解を明らかにした。
 12月2日の3者協議で、弁護側と検察側双方が最終意見書を提出した。検察側は高裁が再審請求を棄却する決定をした場合は「刑の執行停止を取り消した上で、身柄を収容すべきだ」と主張した。弁護側は意見書で、みそ漬け実験や専門家による変色メカニズムの鑑定を踏まえ、みその弱酸性と塩分濃度で血液成分のヘモグロビンが変質してさまざまな物質を生じさせ、最終的に限りなく黒に近づくと説明した。血痕に赤みが残る衣類について「犯行着衣との認定に合理的疑いが生じたのは明らか」とし、再審を開始すべきだと訴えた。一方、検察側は意見書で、男女15人から採血し、脱酸素剤や真空パックなどを用いたみそ漬け実験で、血液量の多いサンプルの血痕周辺部分などに赤みが観察されたと指摘。「凝固、乾燥などにより全体に化学反応が起こりにくくなり、赤みが残りやすくなった可能性がある」とし、弁護側実験は無罪を言い渡すべき新証拠に当たらないと主張した。
 12月5日の3者協議前に袴田巌さんが大善文男裁判長と面会し「事件はない」「俺はもう無罪になっている」などと語ったという。 その後、東京高裁で3者協議が非公開で行われ、弁護団が最終意見陳述をして審理が終結した。弁護側は最終意見陳述で、みそ漬け実験結果や専門家の尋問を踏まえ、「血液成分のヘモグロビンが分解、酸化して赤みを消失させるほか、血液のアミノ酸やたんぱく質もみその成分と化学反応を起こして変色が進行する」と説明。検察側の実験は乾燥した血痕を使うなど赤みが残りやすい条件になっていると批判しつつ、大半で赤みが消失したとした。一方、検察側は陳述しなかった。
 2023年3月14日、東京高裁(大善文男裁判長)は静岡地裁の再審開始決定に対する検察側の即時抗告を棄却した。また地裁の死刑執行及び拘置停止を支持した。衣類に付着した血痕を1年以上みそに漬けた場合、醸造中のみその中で糖とアミノ酸が反応して褐色物質が生じる「メイラード反応」などにより、みそ漬けされた血痕は限りなく黒に近い褐色化がより一層進むなどとした教授らの見解や、これを基本的に支持する別の教授の見解は十分信用できるとし、その通り認定した。また検察側は2021年に行った実験結果の写真を出して「周辺部に赤みが残った」と主張したが、高裁は「撮影用の白熱電球を用いて赤みが強調されている」と指摘。立ち会いの際に白熱電球を使わずに撮った弁護側の写真の方が「裁判官が肉眼で見た状況をより忠実に再現している」と述べ、5点の衣類がみそ漬けされていたタンク内の条件より血痕に赤みが残りやすい条件の下で実施されたといえるにもかかわらず、試料の血痕に赤みが残らないとの実験結果が出ており、弁護側鑑定の見解を裏付けるものと判断。以上から、弁護側の実験報告書について、衣類の血痕には赤みが残らないことを認定できる新証拠と認定。他の証拠と総合し、確定判決の認定事実に合理的な疑いを生じるとした。そして衣類の証拠の重要性や、袴田さんが衣類をタンクに入れることが事実上不可能であることなどから、確定判決の認定に重大な影響を及ぼすことは明らかだとした。そして確定判決で根拠とされた主要な証拠は、それだけでは袴田さんが犯人だと推認させる力がもともと限定的か弱いものでしかなく、実験報告書などの新証拠で証拠価値が失われるものもあると判断。そして5点の衣類は、袴田さん以外の第三者がみそタンクに隠した可能性が否定できず、さらにこの第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いとした。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 東京高検は3月20日、最高裁に不服を申し立てる特別抗告を断念したと発表した。再審開始の判断が確定した。東京高検の山元裕史次席検事は「承服しがたい点があるものの、特別抗告の申し立て理由があるとの判断に至らなかった」とコメントした。
その他
 2004年2月20日、袴田死刑囚は精神障害で判断能力が不十分であるとして姉の秀子さんが、静岡家裁浜松支部に袴田死刑囚の成年後見人の申し立てをした。
 2008年6月27日付で東京家裁は、申し立てを却下した。審判書は、袴田死刑囚について長期の拘置で拘禁反応があるが、コミュニケーションや生活の能力に問題はないと判断。精神障害の程度については、成年後見制度で「後見」に次いで症状が重い人が対象の「保佐」に当たるとした。12月19日、東京高裁(園部秀穂裁判長)は一審決定を破棄し、審理を差戻した。
 2009年3月4日までに東京家裁は、袴田巌死刑囚について成年後見制度を適用し、姉の秀子さんを保佐人に選任した。現行の成年後見制度が死刑囚に適用されるのは初。東京家裁は袴田死刑囚について、妄想的思考などの精神障害があると判断。成年後見人が必要な心神喪失状態とは認められないが、心神耗弱状態にあるとして保佐開始が相当とした。
 2012年4月25日、姉の秀子さんは、袴田死刑囚の成年後見人になることを求める申立書を東京家庭裁判所に提出した。2013年5月21日付で東京家裁(小西洋家事審判官)は、必要な鑑定ができず、後見開始の審判ができない」として却下した。7月10日、東京高裁の園尾隆司裁判長は「精神鑑定ができていない」との理由を示し、即時抗告を棄却した。9月30日付で最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は、「単なる法令違反の主張で特別抗告の事由に該当しない」と判断して棄却した。

 川崎市多摩区のボクシングジム会長で元東洋太平洋王者である新田さんは支援活動を続け、2006年5月、東日本ボクシング協会が再審支援委員会(委員長:輪島功一)を発足させた。以後も支援活動を続けている。
 世界ボクシング評議会(WBC)は2013年11月にタイで開かれた総会で袴田死刑囚の支援を表明。2014年1月、袴田死刑囚が釈放された場合、「名誉チャンピオンベルト」を授与することを決めた。米国では、殺人容疑で逮捕され19年間の投獄後に無罪となった元ボクサー、ルビン・カーター氏にWBCがベルトを授与した例がある。釈放を受け、2014年4月6日、WBCは名誉王者のベルトを贈った。東京・大田区総合体育館で行われたベルト授与式には、入院中の袴田元被告に代わって姉の秀子さんが出席。マウリシオ・スライマンWBC会長から現役時代の袴田元被告の写真が入ったベルトを受け取った。

 高橋伴明監督による『BOX-袴田事件』が2010年夏に公開された。無罪の確証を持ちながら死刑判決を書かざるを得なかったと告白した熊本典道元判事の苦悩を軸に描かれた。主演は萩原聖人、袴田死刑囚には新井浩文が扮した。
 2016年2月、ドキュメンタリー映画『袴田巌 ―夢の間の世の中―』が公開された。

 2010年4月22日、超党派の衆参両議院57人による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」が発足。民主、自民、公明など所属に所属する超党派の衆参両院議員7人が発起人となり、代表には牧野聖修・民主党衆院議員(静岡1区)が就いた。
 2014年3月18日に再始動し、会長に塩谷立衆院議員(自民、静岡8区)が就いた。
再審公判
 2023年10月27日の再審初公判で、静岡地裁の国井恒志裁判長は「被告人」の呼称を使わず、「袴田さん」と名前で呼んで審理を始めた。
 地裁は事前に、袴田さんは心神喪失の状態にあるとして出廷免除を決めたため、代わりに姉の秀子さんが被告側の席に座った。起訴内容の認否を問われた秀子さんは「巌に代わって無実を主張します」と述べた。
 冒頭陳述で検察側は、被告が犯人だと主張。その大きな根拠となる3点として、1点目に犯人がみそ工場関係者だと強く推認されること。根拠としては、被害者宅から従業員用の雨合羽が見つかった▽ポケットに凶器とされた「くり小刀」のさやがあった▽工場の混合油の缶から約5・65リットルなくなっていた上血が検出された、などと指摘し、犯人の事件当時の行動を、被告が取ることが可能だったとした。2点目に、みそ工場の醸造タンクから発見された「5点の衣類」が、被告が犯行時に着用し、事件後にタンクに隠匿したものであること。衣服の血痕には赤みが残っており、弁護側は1年以上みそ漬けされた場合は血痕に赤みが残らず、衣類はタンクから発見される直前にみその中に入れられたと主張するが、検察官は、血痕の赤みも残り得ることを主張、立証すると述べた。3点目に、被告が犯人である事情がある。被告は事件直後、左手中指に鋭利なもので切ったとみられる傷を負っていて、被害者をくり小刀で突き刺すなどした際に小刀で負った傷であると考えられる。また、被告が事件直後に着ていたパジャマから他人の血液型の血や、混合油が検出されており、犯行後にパジャマに着替えた時などに付着したと考えられる。小刀の販売店員は、28枚の顔写真の中から見覚えがあるとして被告を選び出している。以上から、全体として被告の犯人性が裏付けていることを立証すると述べた。
 弁護側は、袴田さんの人生を奪った責任は、重要証拠を次々に捏造して違法捜査を繰り返した警察にあり、無実を示す証拠を隠蔽した検察にあり、それを安易に見逃した弁護人や裁判官にもある。再審の形式的な被告は袴田さんだが、ひどい冤罪を生んだ司法制度も裁かれねばならない、と訴えた。そして犯行状況から、1人での犯行は不可能と述べ、さらに犯行時刻が深夜1時なのに被害者らがワイシャツや腕時計、石付きの指輪をしていたのはおかしい。さらに家には物色された痕がなく、押し入れには現金や小切手の入った袋があったのにそのままとなっていたのもおかしいと訴え、事件は複数の者が怨恨によって起こしたものだと主張した。さらに、警察は当初から証拠を捏造し、異常な長時間の取り調べで自白させ、虚偽の証拠を作ろうとしたが、有罪判決が得られるか不安になり、新たに捏造したのがみそタンクから発見された5点の衣類であると訴えた。そして再審請求審で血痕の色などで捏造が明らかになったのに、検察官は5点の衣類にしがみついていると非難した。そして検察官は事件全体を虚心で振り返り、袴田さんの有罪立証は不可能だと呼びかけ、袴田さんが無罪だと主張した。
 11月10日の第2回公判で、まず初公判での検察側の主張では、「どこから侵入したのか」「どこで刺したのか」「金品の奪い方」の3点について、明らかにされていなかったと指摘した。そして検察側が主張する「犯人がみそ製造会社の関係者の袴田さんである」という点について、弁護側が証拠などをもとに反論した。弁護側は、「合羽はごわごわと音がする、雨も降っていない中、夜に侵入するのに着る理由がない」と指摘。また、検察が凶器と主張する「くり小刀」は、被害者の傷の深さなどから凶器と考えられない上、さやと刃物が同一の物かについての捜査がしつくされていないと反論し、雨合羽やくり小刀については警察側の捏造とまで言及した。
。  混合油の缶についても、血がついていたのは缶の側面のみで、底や取手に血がついていないので不自然。さらに、何の油が使われたのか確定していないのに、減っていたというだけで「混合油」というのは疑問があると指摘した。今回新たな証拠として、袴田さんが当時履いていたとされるゴム草履の実物を提示。ゴム草履に血液も油も付着されていないのは、袴田さんが犯行に及んだとすると不自然と指摘した。そして弁護側は事件現場の状況などから「みそ工場関係者が1人で起こした事件ではなく、外部の複数人によるものだ」などと訴えた。袴田さんが犯人と同じ行動を取ることができたとの主張に対しては「単なる可能性にすぎない」と指摘した。
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