死刑確定囚(1981~1985年)



※1993年3月26日(3年4ヶ月ぶりに死刑が執行された日)時点で拘留中だった死刑確定囚のうち、1981~1985年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
小島忠夫
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1974年8月6日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 釧路薬局一家殺人事件
事件概要
 福島県いわき市の漁船員、斎藤忠夫被告(旧姓)は競輪に凝って多額の借金を抱えたことから、1974年8月6日午後6時ごろ、借金を頼みに釧路市に住む知人の薬局経営者(当時37)宅を訪れた。人の気配がなかったため、茶の間のホーム金庫から現金を盗もうとしていたところ、帰宅した長男(当時7)に見つかったため、野球バットなどで殴った後、ビニールコードで首を絞めて仮死状態にした。続いて帰ってきた経営者に野球バットやゴルフクラブで殴りつけた後、手で首を絞めて殺害。さらに帰宅した妻(当時37)もバットやゴルフシューズで殴った上、首を絞めて殺害した。その後、息を吹き返した長男の首を絞めて殺害。現金97,000円やカメラ、時計など75点(時価11万円相当)などを奪って逃走した。
 斎藤被告は犯行後、薬局に「休業」の張り紙をして偽装工作し、岩手県の郷里に戻っていたが、8月12日に逮捕された。
一 審
 1975年9月17日 釧路地裁 野口頼夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1977年8月23日 札幌高裁 粕谷俊治裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1981年3月19日 最高裁第一小法廷 藤崎萬理裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 札幌拘置支所
裁判焦点
 一審の判決で野口裁判長は、「犯行は残忍で、情状酌量の余地はない」と断罪した。
備 考
 旧姓斎藤。
その後
 睡眠不足など極度の疲労状態で起こした事件だとして、責任能力の認定等で複数回再審請求、棄却。執行前2-3年は弁護士とも連絡を絶っていた。
執 行
 1993年11月26日執行、61歳没。
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氏 名
小野照男
事件当時年齢
 40歳
犯行日時
 1977年9月24日
罪 状
 強盗殺人、強盗強姦、窃盗
事件名
 長崎雨宿り殺人事件
事件概要
 住所不定、無職小野照男被告は1977年9月24日午前10時すぎ、長崎県南高粟郡にある「海の家」の一人暮らしの女性(当時68)の家に「雨宿りさせてくれ」といって上がり込み、女性を強姦のうえ角材で殴り殺して現金2万円を奪った。
 事件の翌日、道路上で泥酔して寝込んでいるところを保護され、殺人現場の遺留指紋と一致したため、逮捕された。
 小野被告は1976年11月に熊本刑務所から仮釈放後、大分県下の観光会社社長宅で働いていたが、現金42万円を盗んで逃げた。金を使い果たしたため、一人暮らしの老人宅を探してうろうろしていた。
一 審
 1978年9月18日 長崎地裁 萩尾孝至裁判長 死刑判決
控訴審
 1979年9月25日 福岡高裁 安仁屋賢精裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1981年6月16日 最高裁第三小法廷 環昌一裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 一審、二審では殺人を認め、上告審途中から無実を訴える。もっとも、逮捕時の弁解録取書によれば殺人を認めて反省しているようである。
 最高裁では、雨宿りをさせてもらった家で、トイレに入って出てきたとき、知らない男が女性を殴った直後のような格好で立っていた。「貴様、何をするか」と声を出したところ、その男が逃げ去った……と訴え、自白内容を否定した。
 最高裁は「手口も残忍冷酷といわざるを得ないこと、さらには、被告人には殺人、強盗を含む前科六犯があることなどに照らすと、被告人の刑責はまことに重く、原審の維持した第一審判決の科刑はやむを得ないものとして是認せざるを得ない」とした。
特記事項
 1965年、大分県で殺人事件を起こし懲役13年の判決を受ける。1976年11月、刑期を2年残しての仮釈放。前科六犯。
その後
 自力で六度再審請求を起こし棄却。その内容は、「やっていない」という抽象的なものだったらしい。1998年9月、7回目の再審請求。審理中、四国在住のベテラン弁護士が代理人となり、1999年12月に8回目の再審請求を申し立てる。12月14日に受理した長崎地裁が、翌15日には長崎地検に文書で通知している。
執 行
 1999年12月17日執行、62歳没。
 再審請求中の執行は異例。ただし、過去にもあった(1952年4月に発生した門司の幼児3人殺害事件。責任能力が争われるも、1955年12月26日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定。無実を訴え、1958年4月12日に執行されるまで14回再審請求を提出。うち3回について裁判所の決定が出ておらず、処刑後に棄却が決定している)。
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氏 名
立川修二郎
事件当時年齢
 40歳
犯行日時
 1971年1月12日/1972年7月1日
罪 状
 殺人、死体遺棄、詐欺
事件名
 保険金目当実母殺人事件等
事件概要
 愛媛県伊予郡に住む金融業の立川修二郎被告は保険金騙取の目的で姉(当時41)と共謀し、1971年1月12日、交通事故を装って実母(当時65)を殺害し、保険金(立川被告に約4,000万円、姉に約350万円)を騙取した。
 立川被告は金融業のかたわら1969年初めごろから無免許で不動産仲介業を営んでいたが、11月に客から土地購入代金として預かった1,600万円のうち1,200万円を使い込んでいた。客が警察へ訴え、横領罪で1970年4月30日に逮捕された。この前月、実母への大量の保険契約が掛けられている。立川被告は第3回公判で、自分名義の土地と建物を処分するまで待ってほしいと次の公判を伸ばしてもらうように訴え、検察官や裁判所も了承。事故後の1971年1月21日の公判で返済の意向を示し、2月24日に弁護人が保険金請求を代行。1971年4月25日に松山地裁で懲役1年6月執行猶予5年の有罪判決を受けた。
 立川被告は1971年11月から松山市でクラブを始めるも経営は思わしくなかった。立川被告は一度妻と結婚したが離婚し、別の女と結婚するも詐欺事件の間に離婚し、最初の妻と再々婚していた。激しやすい性格の立川被告は妻とよく喧嘩し、1972年5月21日に妻は松山東署へ駈け込んで傷害容疑で訴え、松山東署は告訴を受理するも、後に妻は告訴を取下げた。その後、立川被告は事件の発覚を恐れて口封じのために鍛冶屋の兄と共謀して6月30日夜に妻(当時35)を殺害し、7月2日にその死体を実兄の鍛冶場に埋めた。
 妻の実家から捜索願が出され、同時に保険金殺害を疑っていた愛媛県警捜査一課と松山東署は慎重な捜査を続けた。
 1974年11月25日、愛媛県警捜査一課と松山東署は、母親の頭を殴った傷害致死容疑で立川被告と姉を逮捕。27日、鍛冶場から白骨死体を発見し、兄が自供。兄は緊急逮捕された。12月21日、姉が全面自供した。立川被告は妻殺害は認めたものの、母殺害については否認した。
一 審
 1976年2月18日 松山地裁 鍵山鉄樹裁判長 実母殺害:死刑判決 妻殺害:死刑判決
控訴審
 1979年12月18日 高松高裁 小川宜夫裁判長 一審破棄 実母殺害:死刑判決支持 妻殺害:無期懲役判決
上告審
 1981年6月26日 最高裁第二小法廷 木下忠良裁判長 上告棄却 死刑及び無期懲役判決確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 立川修二郎被告は、実母殺害についてはあくまで交通事故死であり、保険金受け取りは正当なものであるとして無罪を主張。妻殺しは三角関係のもつれで邪魔になったから殺しただけだと主張し、姉は無関係と主張した。
 姉は実母殺害については捜査段階の供述を取り消し、偶発的なものであると主張。義妹(立川被告の妻)殺害と死体遺棄については後で知っただけであり、無罪を主張。保険金詐欺のみ認めた。
 兄は起訴事実(義妹殺害と死体遺棄)を全面的に認め、実母殺害と保険金詐欺は関知していないと主張。
 松山地裁は検察側の主張を全面的に認め、立川修二郎被告が主犯であるとみなした。そして「その犯情は冷酷、無残、かつ極悪非道で筆舌に尽くし難く、有利な情状は皆無」と極刑を言い渡した。兄、姉については戒める立場でありながら徒に追随したと厳しく断じた。

 控訴審以降も、立川被告は実母殺害と保険金詐欺について無罪を主張したが、退けられた。
附 記
 実母殺害と妻殺害の間に詐欺事件で有罪判決を受けているため、それぞれの事件で判決を受けている。
 姉、兄も起訴され、ともに求刑通り懲役15年の判決。兄は控訴せず確定。姉は控訴するも後に取下げ、同じく確定。
 長男は供述で、1953年ごろに立川修二郎被告が大阪からブリキ缶1個をトラック便で実家に送り、戻ってきた立川被告は「友達に処理を依頼された死体」だと言って庭に埋め、2年後に掘り出して硫酸で溶かし、重信川に流したと言った。立川被告は一切答えず、時効ということもあり、捜査側も追及することなく終わっている。
備 考
 1951年7月21日午前1時20分ごろ、同志社大学在学中の立川被告(当時20)は、京都市の軽飲食店で飲食中に店主(当時60)をジャックナイフで刺し、さらに鉄製くぎ抜きで頭部を殴って重傷を負わせた。さらに店主の妻(当時54)もくぎ抜きで殴った。同家の養女(当時23)に恋情を抱いていたが打ち明けられず、店主が自分を快く思っていないと一人合点しての犯行。傷害容疑で起訴され、1951年12月26日、京都地裁で懲役3年執行猶予5年が言い渡されている。
その後
 実母殺害は無罪を主張して再審請求、棄却。
執 行
 1993年3月26日執行、62歳没。
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氏 名
関幸生
事件当時年齢
 31歳
犯行日時
 1977年12月3日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、有印私文書偽造、同行使
事件名
 世田谷老女強殺事件
事件概要
 暴力団元幹部、関幸生被告は、不動産ブローカーI(当時36)より東京都世田谷区の一人暮らしの老女(当時61)が家屋(木造平屋80m2)と土地(360m2)(評価額約1億円)を売りに新聞広告を出していることを聞き、老女をだまして手に入れようと近付き、私に任せてほしいと再三持ちかけたが、いつも印鑑などの貴重品を身辺から離さず、誘いに応じないため、殺害して土地と家屋を手に入れることを決意。
 知り合いの元運転手の男性O(当時26)と共謀のうえ、1977年12月3日夜、Oが運転する老女宅へ行き、「茨城の母が土地を欲しがっているので会ってほしい」とだまして誘い出した。成田経由の高速道で茨城へ向かう途中の成田インター近くの路上で、二人は車内で用意したナイロンロープで老女を絞殺。老女が持っていた土地、家屋の権利証、印鑑証明、実印を奪った。そして、関被告が住んだことのある潮来市へ行き、手、足、腰をロープでぐるぐる巻きにして死体に建築用ブロックを3個付け、水郷に投げ込んだ。
 12月7日、関被告は愛人の女性(当時36)宅があるアパートで、愛人の知人である元家政婦の女性(当時46)を老女の替え玉にし、Iを通じて二つの業者に家屋と土地を3,600万円で売り払った。関被告は替え玉の女性に400万円、愛人に300万円、仲介料としてIに100万円、Oに500万円を報酬として渡し、残り2,100万円で豪遊した。
 1978年5月21日、警視庁は有印私文書偽造、同行使の容疑で関被告、I、愛人、替え玉の女性の計4人を逮捕。6月3日、殺人容疑で関被告を再逮捕し、Oを逮捕した。
一 審
 1979年5月17日 東京地裁 金隆史裁判長 死刑判決
控訴審
 1982年9月1日 東京高裁 内藤丈夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 上告せず確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審は不明。

 控訴審の判決で内藤裁判長は、「人間性を喪失した残虐非道な犯行で、極刑もやむを得ない」と述べた。

 「自分みたいな人間は死刑になっても構わない」と上告せず、確定した。
特記事項
 共犯者は懲役13年が二審で確定。
執 行
 1993年11月26日執行、47歳没。
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氏 名
藤岡英次
事件当時年齢
 23歳
犯行日時
 1978年11月12日/12月16日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 徳島二老人殺人事件
事件概要
 藤岡英次被告は1978年11月12日、金に困って徳島県池田町で農作業中の独り暮らしの女性(当時66)を丸太で殴って登山ナイフで刺して殺害した。さらに12月16日午後、徳島市の城山山頂で金欲しさから散歩中の無職男性(当時73)を角材で殴り殺し、現金2,800円が入った財布を奪った。
 2番目の事件で、神社の管理人に顔を見られ、人相から藤岡被告が浮上。男性の定期入れに藤岡被告の指紋が残っていたことが決め手となり、12月17日に逮捕された。
 藤岡被告は母と二人暮らしだったが、定職も持たず、遊び歩いて家にはほとんど帰らなかった。
一 審
 1983年4月14日 徳島地裁 山田真也裁判長 死刑判決
控訴審
 1983年5月2日、本人控訴取下げ、死刑確定
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 弁護側は、池田町の事件は愛人女性が殺害し、藤岡被告は見張りしていただけだと主張した。
 判決で山田裁判長は、藤岡被告の単独犯行を認定。そして「抵抗力のない老人を狙い撃ちして金を奪うなど、平常と何ら変わらない精神状態だった」と述べた。さらに、「父親は家出し、母親は家庭をかえりみずたびたび窃盗事件を起こして服役するなどし、ほとんど崩壊した家庭環境の下で、母方の祖母に育てられた。資質的にも恵まれず、施設暮らしをよぎなくされた極めて不幸な生い立ちを有し」と触れ、「そのことが原因となって被告人の今日の危険な性格が形成されていったことは否定できない」と弁護側の主張を認めた。しかし、「環境が産んだ犯罪者と見ることは到底許されない。冷酷非道な犯行で、同情の余地はない。犯行後も全く改しゅんの意が無く、生命をもってその罪を償わせるほかない」と述べた。
備 考
 本人は知的障害者で、死刑の意味すらも分からなかったと言われている。
その後
 池田町の事件は愛人女性が殺害し、自分は見張りしていただけだと再審請求するも、後に取下げた。
執 行
 1995年5月26日執行、40歳没。
 池田町の事件で再審準備中だった。
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氏 名
出口秀夫/坂口徹
事件当時年齢
 出口51歳/坂口37歳
犯行日時
 1974年7月10日/10月3日
罪 状
 殺人、死体遺棄、窃盗
事件名
 大阪電解事件
事件概要
 服役中に知り合った会社員の出口秀夫被告と洗車場経営者の坂口徹被告は共謀し、出口被告が勤めている大阪電解社の専務(当時63)を殺害し、専務が会社の金を着服して逃走したように見せかけて大金を奪うことを計画し、1974年7月10日、大阪府内で専務の帰宅途中に送ろうと誘い、自動車内で絞殺。坂口被告は所持金や腕時計などを奪った。翌日、坂口被告が死体を神戸港の埋め立て地に埋めた。しかし専務の失踪が公になって金を奪うことが出来なかったことから、さらに殺害を計画。会社から小切手用紙を盗んだうえ、10月3日、大阪府内で会社の会計責任者(当時55)を絞殺した。坂口被告は所持金などを奪い、死体を埋め立て地に埋めた。
 出口被告は大金を手に入れて子供に店の一軒でも持たせてやりたいという欲求から、坂口被告は経営不振に加え競馬競輪などに浪費し、新車を次々に買い替えるなどの浪費で金銭に窮していた。
 出口被告が逮捕され、犯行を自供。坂口被告は逃走して大阪府内のホテル等を転々としたが、後に逮捕された。
一 審
 1978年2月23日 大阪地裁 浅野芳朗裁判長 死刑判決
控訴審
 1980年11月28日 大阪高裁 八木直道裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1984年4月27日 最高裁第二小法廷 牧圭次裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 一審で出口被告と坂口被告は、互いに相手が主犯であると主張。さらに坂口被告は、殺人等は出口被告が行い、自分は死体遺棄のみを行っただけと主張した。
 判決で浅野裁判長は、立案者が出口被告であるものの、坂口被告も積極的に関与したと認定。強固な殺意を持って大金入手の欲望を遂げようとした冷酷非情にして残酷は犯罪であると非難。二人の人間性を欠如した反倫理的、反社会的な性格にはぬぐい難いものがあり、被害者遺族の非難も厳しく、酌量すべき事情は無い、と死刑判決を言い渡した。

 二審でも出口被告と坂口被告は、互いに相手が主犯であると主張し、量刑が重すぎると主張したが、裁判長は一審同様、二人の主張を退けた。そして二人が反省していることを考慮しても、事件の重大性を考えると、極刑を言い渡した一審判決はやむを得ないとした。

 上告審でも二人は同様の主張を行い、量刑不当と主張した。牧裁判長は、被害者両名は何の落ち度もなく殺害され、被害者遺族の感情も深刻であり、社会に与えた影響も大きいと述べた。そして、犯行の発端は出口被告だったが坂口被告も積極的に加担し、両者の責任に慶長の差を見出すこともできないとして、両名の罪は誠に重大であり、二人が反省していることを考慮しても、死刑判決はやむを得ないとした。
特記事項
 公判中は互いに罪のなすり合いを演じた。大阪拘置所内でも仲が悪かったらしい。
 最高裁は、永山事件の上告審判決で死刑の適用基準(永山基準)を1983年7月8日に出すまで、死刑事件の審理を一時ストップしていたため、両被告の判決は1981年6月以来2年10か月ぶりの判決となった。
執 行
 1993年11月26日執行、出口70歳没、坂口56歳没。
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氏 名
川中鉄夫
事件当時年齢
 30歳
犯行日時
 1975年4月3日~1977年8月24日
罪 状
 住居侵入、強盗殺人、強盗、窃盗、強盗殺人未遂、強盗致傷、強盗予備、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 広域連続殺人事件
事件概要
 北九州市生まれの無職川中鉄夫被告は、以下の事件を起こした。
  • 川中被告は1973年3月から5月までの間に強盗・住居侵入事件、強盗致傷事件を起こした。
  • 別の窃盗事件で出所後、大阪刑務所の服役中に処遇係長から暴行、侮辱を受けたとして殺害を試み、出所翌日からナイフ2丁を携帯して刑務所前で待ち伏せしていたが、犯行の機会は得られなかった。そこで係長の出身である兵庫県下で事件を起こして世間を驚かせ、うっぷんを晴らそうと決意。1975年4月3日午前0時頃、兵庫県内の事務所兼居宅に一家皆殺しの目的で侵入し、就寝中の夫婦(当時38、36)の頭部をハンマーで殴り、夫に全治1年7か月の重傷を負わせ半身不随にし、妻に全治3週間の重傷を負わせた。次いで三女(当時4)の頭をハンマーで殴り、頸部を両手で絞め、ナイフで刺すなどして殺害。さらに長女(当時10)の頭部をハンマーで殴り殺害し、現金8,000円を奪った。次女(当時8)は犯行を逃れ、同級生宅に逃げたため無事だった。
  • 1975年4月に窃盗・住居侵入事件を起こした。
  • 1975年4月から6月の間に強盗致傷・住居侵入事件、強盗・住居侵入事件を起こした。
  • 別の窃盗他事件で出所1日後の1977年8月15日午前3時15分頃、兵庫県内の事務所に押し入り、宿直の事務員2名(当時49、48)を脅して計約30,000円が入った二人の財布を奪い、両名を柱に縛り付けた上殺害しようとナイフで二人を数回刺し、重傷を負わせた。
  • 1977年8月18日午後1時頃、三重県内の民家に侵入し、留守番をしていた女性(当時70)に切出ナイフを突きつけて脅迫し、同女が声をあげたりしたためその頸部を切出ナイフで突き刺して殺害したうえ、同女所有の現金28,000円等を奪った。川中被告は1973年3月にこの民家に強盗へ入ろうとして、失敗したことがあった。
  • 1977年8月24日までに窃盗や強盗致傷事件を起こしている。
 川中鉄夫被告は1973年3月からの強盗事件と1975年4月の事件の間に確定判決があり、1975年と77年の事件の間に確定判決がある。
 川中被告は14歳頃から窃盗事件を犯し、20歳までの6年間で、初等、中等、特別各少年院で通算5年近く収容されている。成人後も強盗致傷、窃盗等で服役を繰り返した。出所後定職に就かず各地を転々として犯罪を犯し、捕まっては刑務所に入ることを繰り返していた。
一 審
 1980年9月13日 神戸地裁 高橋通延裁判長 懲役10年、死刑、無期懲役判決
控訴審
 1982年5月26日 大阪高裁 八木直道裁判長 控訴棄却 懲役10年、死刑、無期懲役判決支持(検察側控訴も棄却)
上告審
 1984年9月13日 最高裁第一小法廷 矢口洪一裁判長 上告棄却 懲役10年、死刑、無期懲役確定
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裁判焦点
 弁護側は、被告は貧しい家庭に生まれ、幼少の頃父を失い、母と生別して小学校にも満足に通えなかったことが、被告の人格形成に大きな影響を与えた、被告の知能が精神薄弱者の域に達していると訴えた。
 判決で高橋裁判長は、「1975年4月の事件は一家皆殺しを決意した犯行で、残虐さには慄然とせざるを得ない」と断じた。1977年8月の両事件についても「冷酷非情の犯罪である」と述べた。そして被告の過去や知能についても認めたが、被告に責任の重大性が大きく左右されることは無いと、情状酌量を認めなかった。

 被告側は量刑不当を理由に控訴、検察側も1977年の事件について死刑を求刑したのに無期懲役判決だったのは量刑不当であるとして控訴した。
 控訴審で弁護側は、幼少時の重要な人格形成の時期に両親不在の貧困な家庭環境の中で生育したため、社会適応能力を培う機会を失ったもので、同情の余地があると訴えた。また1975年4月の事件は、受刑中に係長から暴行、侮辱を加えられたことが要因であり、その後の犯行も脳裏を去らずに自暴自棄となったのが原因だったと訴えた。
 八木裁判長は、凶悪犯といわれる罪質の犯行が多く、死傷の被害者も多人数に昇っていると指摘。ナイフなどの凶器や変装用のパンティストッキングなどをあらかじめ準備し、凶行時には返り血を浴びないよう着衣を脱ぎ、証拠隠滅を図るなど、犯行は計画的で、被害者の命を損なうことなど意に介しない冷酷非情。川中被告は服役を終え出所してから再犯に至る間隔が次第に短くなり、1977年には出所翌日に強盗殺人事件を起こすなど、刑務所における矯正教育の効果は全く見られないと断じた。また不遇な家庭環境であることは認めたが、少年院に収容されて更生の機会を与えられても一向に更生しなかったと弁護側の主張を退けた。さらに大阪刑務所の処遇係長から暴行、侮辱を受けた事実はないと退け、さらに恨みを抱いたとしても無関係の被害者へ犯行を及ぶことは誰も納得しないとした。また検察側の控訴については、他の事件ですでに死刑判決を受けていることから、別の事件の無期懲役判決を破棄するまでの必要性が無いと退けた。

 上告審で弁護側は、被告は深く反省しており、更生が期待できる、などとし、減刑を求めた。しかし、判決理由で矢口裁判長は、「犯行は残虐、悲惨で遺族の被害感情は大きく、社会的影響も無視できない。被告の反社会的性格、犯罪歴などに照らすと、二審が維持した一審の死刑判決は是認できる」と述べた。
拘置先
 大阪拘置所
備 考
 1966年3月11日、福岡地裁小倉支部において窃盗、強盗致傷の罪で懲役7年の判決を受け、控訴せず確定。
 1973年2月9日に長崎刑務所を出所して1か月後の1973年3月9日~5月25日までに窃盗19件、窃盗未遂1件を犯し、服役。
 1975年3月5日に大阪刑務所を出所して4月7日から6月19日までの間に窃盗17件、住居侵入、窃盗未遂、傷害、銃刀法違反各1件の犯行を重ね服役。
その後
 確定後、一部は冤罪であると主張して再審を準備していたものの、精神分裂症の症状が重くなり、事情聴取が不能のために、再審請求の準備は中断していた。
執 行
 1993年3月26日執行、48歳没。
 精神病の疑いがあるにもかかわらず執行されたと支持者は主張している。
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氏 名
安島幸雄
事件当時年齢
 27歳
犯行日時
 1977年4月16日
罪 状
 殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、横領、詐欺
事件名
 群馬3女性殺人事件
事件概要
 群馬県新田郡のレース製造業の小山幸雄(旧姓)被告は1968年ごろから高額の自動車を次々と買い換え乗り回し、複数の女性と同時に付き合うようになって浪費。妻との別居後は仕事に身が入らずさらに浪費が激しくなり、家業のレース製造業は衰退していった。借金の返済と遊興費を得るため、自動車2台(計162万円相当)の横領、自動車3台(計572万円相当)の詐欺を行った。
 家業に行きづまった小山被告は1977年4月上旬、婚姻中であることを隠して文通により知り合った群馬郡の女性A(当時23)と結婚を約束して家出。しかし長野駅前で発見され連れ戻される。Aは群馬県の実家にかくまわれた。4月15日、小山被告は女性のことを諦めきれず、女性を殺して自分も死のうと決意し、文化包丁を買ってA宅を訪れるもAは不在。Aは伊勢崎市にある友人の母親である女性宅にいたため、小山被告は翌日、その女性(当時65)宅に行ったが玄関先で押し問答に。しかし、「会って話をしたい」という小山被告に対し、女性と、Aを心配してたまたま来ていたAの妹(当時20)は小山被告の女性関係をなじるばかりで家に入れない。興奮した小山被告は包丁で二人に斬りつけ殺害(女性は事件の4か月後に死亡)、さらに奥の部屋にいたAをも刺して殺害、逃走するが、義父に連絡を付けたことから居所が知れ逮捕された。
一 審
 1978年3月8日 前橋地裁 浅野達男裁判長 死刑判決
控訴審
 1980年2月20日 東京高裁 岡村治信裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1985年4月26日 最高裁第二小法廷 牧圭次裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 判決で浅野裁判長は、小山被告について自己中心的で虚栄的、女性に対する人格無視と非難。また犯行についても被告の自己中心的、利己的かつ、非人間的な性格の極端な発現であり、冷酷、非道の極みで情状酌量の余地はないと断じた。そして、少なくとも女性Aに対しては計画的であり、無抵抗な女性3名を次々に刺したことは残虐非道であり、結果は極めて重大。遺族感情も激しく、極刑を望んでおり、罰金刑以外の前科が無いことなどを考慮しても、極刑はやむを得ないと述べた。

 控訴審で弁護側は、被告は反省していて死刑は重いと訴えた。
 判決で岡村裁判長は、事件を招いたのは自己中心的で無軌道な女性関係と生活態度によるものと断じた。そして殺人は人命無視、残虐非道であり、遺族に与えた悲嘆は計り知れないものがあり、また横領や詐欺の被害弁償も行えていない。被告の責任は極めて重く、現在は反省していることを考慮しても、減刑すべき理由はないと述べた。

 最高裁で牧裁判長は、落ち度のない無抵抗の女性3名を次々と殺害し、その動機にも組むべきものが無く、極めて重大悲惨。被害者の家族に与えた影響も深刻であり、小山被告が逃避行等により心身が披露していたことなどを考慮しても、一審の死刑判決はやむを得ないと述べた。
備 考
 旧姓小山。
その後
 裁判中から小山被告を支援していた東京都の夫婦が、死刑確定直前の1985年5月14日、小山被告を養子にする縁組をした。しかし、東京拘置署長は死刑確定直後の1985年5月27日、安島死刑囚の外部交通(面接、文通、差し入れなど)をすべて禁止するとの決定を下し、以後、夫婦の面会も許可していない。拘置所側の禁止措置について原告代理人は、「安島元被告が、拘置所内で待遇改善を主張していることが一因ではないか。今後再審請求も考えており、養親との面会はぜひ必要だ」としている。これに対し、江頭利彦・同拘置所総務部長は「死刑確定者の外部交通は、監獄法令に基づいて行っており、安島元被告の場合も同じだ」と話している。
 死刑執行後の1994年12月13日、東京地裁は請求を棄却した。
執 行
 1994年12月1日執行、44歳没。
 養父母との接見交通禁止に対する国家賠償訴訟中の死刑執行。再審請求を検討していた。
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氏 名
佐々木和三
事件当時年齢
 56歳
犯行日時
 1984年9月9日
罪 状
 強盗殺人、殺人
事件名
 青森旅館殺人事件
事件概要
 岩手県生まれで住所不定、無職佐々木和三被告は、1984年9月8日夕方、強盗目的で青森市の旅館二階に宿泊。翌日9日朝6時ごろ、「ソーセージを切るから包丁を貸してくれ」と調理室の菜切り包丁(刃渡り14.4cm)を借りた。午前8時30分頃、旅館経営者の女性(当時61)が布団をたたむために部屋に来たところで包丁を突き付け、金を要求。しかし女性は大声を出して抵抗したため、佐々木被告は女性を刺し殺した。佐々木被告はすぐ一階に下り、前夜から泊まっていた女性の甥(当時8)の首をつかんで電気コードでしばろうとしたが、トイレの中に逃げ込まれ、居合わせた女性の親類の人が「助けて」と叫びながら表に出たのを追った。佐々木被告も後を追い、偶然旅館前を通りかかった会社員の男性(当時62)を刺し殺した。
 旅館の近所の住民が110番通報。駆け付けた青森署署員が、男性を刺していた佐々木被告を発見。佐々木被告は旅館に逃げ込んだが、踏み込んで現行犯逮捕した。
一 審
 1985年6月17日 青森地裁 守屋克彦裁判長 死刑判決
控訴審
 1985年7月2日 本人控訴取下げ、死刑確定
拘置先
 仙台拘置支所
裁判焦点
 佐々木被告は罪を認めた。
 判決で守屋裁判長は、残虐極まる犯行であると断じた。

 佐々木被告は、死刑を言い渡された際、「控訴はしません」と答えていた。弁護人は佐々木被告に正常な判断力がないとして控訴期限の7月1日、仙台高裁に控訴したが、佐々木被告は翌日に取下げた。
特記事項
 1958年6月、岐阜県大垣市で起こした強盗殺人事件で無期懲役判決(求刑同)を受け、服役。仮釈放後の1977年、北海道函館市で無銭宿泊で逮捕され仮釈放が取り消され、1983年9月に仮釈放された。事件当時も仮釈放中。
執 行
 1994年12月1日執行、66歳没。
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