姉小路祐『動く不動産』(角川文庫)

 義兄から父危篤の知らせを受けた園山由佳は、両親の離婚で東京で住むようになって以来、十三年ぶりに大阪の地を踏んだ。父親と血のつながらない兄、石丸伸太は、お好み焼き屋をやりながら父の跡を継いで司法書士になっていた。もっとも、“代書屋(司法書士)石丸”の看板が表すように、代書屋ブーやんとして町の人に親しまれていた。そんなある日、伸太の元に美人が訪れ、土地の登記を依頼に来た。ところがその土地は、美人とは別の人間の名前も仮登記されていた。不審を抱いた伸太と由佳は調査を開始し、土地の売り主が詐欺をしようとしていたことを見抜く。ところがその売り主は、ガムテープで密閉された車の中で死んでいた。警察の調べでガス自殺として処理されたが、この一件に裏があるとにらんだ伸太と由佳は、さらに事件の背後を追う。
 1991年、第11回横溝正史賞受賞作。

 「今日のミステリーは時代と社会を映す鏡でありたい」と夏樹静子が選評で言っているが、そんな言葉がピッタリ来る作品である。1991年、地価が急騰を続けるバブルの絶頂期。それは地上げ屋が幅を利かせた時代である。登記制度という大多数の読者には難しい制度を説明するのに、代書屋の兄と、何も知らない妹を配置した設定は、ありきたりかも知れないがうまいと思う。大阪弁で書かれているせいかもしれないが、伸太の説明は庶民にとってもわかりやすい。標準語で書かれるより言葉が脳に染みていくのは、気のせいだろうか。そして読者は、登記制度の不備をそのままにしている政府と、不備を利用して儲けを企む地上げ屋たち、さらにはその土地を買い上げる銀行や大手不動産たちに怒りを覚えることだろう。怒りを覚えた時点で、このミステリは成功したも同然である。
 もう一つうまいと思ったのは、ワトソン役である由佳の設定である。東京で育ち、東京での派手な暮らしに憧れる由佳が、伸太といっしょに捜査するにつれ、大阪という人情味あふれる街をだんだん好きになっていく。ボディコンを着て、トレンディな生活というのがバブルの象徴である東京の姿としたら、そんな姿は虚像であり、人情味あふれる大阪の街の方が素晴らしい。そんな心境の変化が巧みに描けており、本作の主題とマッチしている。
 もちろん、土地登記詐欺ばかりを追っているわけではない。伸太は車中の密室殺人事件も解決する。事件と捜査、推理と解決。ミステリの骨格は充分持ち合わせている。ただ社会状況を反射させただけのミステリではない。ただし、殺人事件の部分が弱いという批判は正しいと思う。現実的なトリックなのだが、インパクトに欠ける機会トリックである。
 時代を映したミステリは、時が経つにつれ色褪せてくる面がある。それは否定しない。しかし、本当に面白いミステリは、時の風化に負けない輝きを持っている。本作品はそんな一作である。

 サントリーだけでなく、横溝賞も追ってみたいのだが、こちらも文庫化されている作品が少ないんだよな。自分のところの賞なんだから、もっと大事にしてくれよ、出版社さんよ。前にも書いたな、これ。

羽場博行『レプリカ―テーマパークの殺人』(角川書店)

 神奈川県西部に世界史上繁栄を極めた三つの都市を再現した大型テーマパークが完成しつつあった。オープンを控えたある日、女性スタッフの惨殺死体が発見され、建設会社の社員、小田切は事件の背後を調べ始めるが……。巨大な事業の陰に渦巻く人間関係に鋭く迫る本格ミステリー。第12回横溝正史賞受賞作。(折り返しより引用)
 1992年、第12回横溝正史賞受賞。同年5月、単行本刊行。

 バビロニア、古代ローマ、18紀ロンドンの町並みを再現した巨大テーマパークが舞台である。あまりつながりが感じられない3つの町を再現したとしても人気が出るのだろうか、という疑問は湧くのだが、小説とは関係ない。テーマパークという舞台設定は面白いしものの、フリー建築士ということもあって専門分野の説明は詳細すぎる。私は一応かじっていたのである程度はわかるのだが、建築関係の知識がないとかなりわかりづらいのではないだろうか。選評で指摘されて多分修正されているだろうから、応募時はもっとひどかったのだろう。
 テーマパークを巡る会社内外の人間模様はありがちとはいえ面白く読めたのだが、通俗的といえば通俗的。また人物描写はちょっとわかりにくかった。それと小田切に対する警察の当たりは厳しすぎると思われる。そのくせ、警察は回り道ばかりしていて肝心の所を押さえてないため、かなり間抜けに見えてしまった。
 トリックについてはもっと専門分野を生かすかと思ったが少々肩すかし。厳重なセキュリティーの中で殺人という題材はいいと思うので、もうちょっと驚くトリックを使ってほしかったと思うのは期待しすぎだろうか。
 最後の犯人の逃走シーンこそ作者の書きたかったものの一つだったのではないか。もうちょっと伏線を張るなり、描写をわかりやすくしておくなどの配慮が必要だったと思える。
 結論としては、題材に小説が負けている感じ。いっそのこと、エキセントリックな探偵を出したほうが面白かったんじゃないだろうか。

松木麗『恋文』(角川文庫)

 落ちぶれた純文学作家、上野兼重が自宅で死体となって発見された。死因がインスリンの大量摂取であったことから自殺と思われ、遺体も荼毘に付された。しかし死亡当日の動きに不審な点があったことから、警察は後妻でスナックの美人ママである規世子に事情聴取をしたところ、規世子はあっさりと自供。T地検に着任した間瀬惇子は規世子に聴取したうえで起訴した。しかし公判で規世子は罪状認否で「たぶんやった」と曖昧な返答しかしなかった。そして第二回公判で弁護側は、兼重の先妻の戸籍謄本と、兼重が残した小説を証拠として提出した。
 1992年、第12回横溝正史賞受賞。同年5月、単行本刊行。加筆訂正の上、1998年4月、文庫化。

 作者は現職の検事(当時)。1998年には本名の佐々木知子で自民党から参議院選挙に比例代表で立候補し、当選。1期務めた。現在は弁護士。ペンネームは、「まっ、きれい」から来ている。
 現職の検事が書いた心理サスペンス。兼重は『最後の恋文』で文学賞を受賞してベストセラーとなったのに妻に駆け落ちされ、2年後に13歳下の規世子と再婚している。主人公の惇子も、母が死亡した後、父親が従妹と再婚し仲良くしている。惇子は規世子に母の姿を重ねる。
 うーん、何とも言い難い作品。推理小説としての興味は、一度は自供しながら公判で否定する規世子の心理であるし、公判で自供をひっくり返すだけの証拠であったりするわけだが、それが出てくるのは後半も後半。そもそも短い作品である(文庫で229ページ)し、惇子の過去が規世子の心情とオーバーラップする形で語られるため、物語の進行としては非常に遅い。惇子の部分を抜いたら、短編と言ってもいいぐらいだ。そのくせ惇子がどのような姿をしているかは全く浮かび上がってこないし、それ以上に規世子がどんな人物か、あまりにも印象が薄すぎてこれも伝わってこない。タイトルの「恋文」も、よくよく考えてみるとありきたりなネタであったりする。
 はっきり言って、作者が現役女性検事でなければ受賞しなかっただろう。それぐらい印象が希薄な作品。

亜木冬彦『殺人の駒音』(角川文庫)

 死神の異名をもつ八神香介。十三歳の天才棋士に敗れ、一度は挫折した男が、それから十六年後、将棋の表舞台に現れた。第五期龍将ランキング一回戦。それはアマチュア最高位から、プロ棋士に挑む、命をかけた戦いとなるはずだった。しかし対局当日、相手プロは姿を見せず、自宅で何者かに殺されていた! 卓抜したストーリーと熱気で読者を魅了し、横溝正史賞初の特別賞を冠せられた、伝説の傑作。(粗筋紹介より引用)
 1992年、第12回横溝正史賞特別賞受賞作。

 再読である。1992年の発売当時、喜んで読んでいた記憶がある。この作品は、何回か繰り返して読んだなあ。将棋ファンでなくても対局の臨場感が伝わってくると思うし、将棋にとりつかれた男たちが将棋にかける思いと狂気も感じ取ることができるだろう。将棋を取り扱った小説では、間違いなく上位に来るだろう。
 まあ、この程度のことを書くぐらいなら、わざわざ感想を書く必要もなかっただろう。今頃になって、ちょっと書きたくなったことを一つ。

 この作品に出てくる棋士のエピソードって、ほとんどが実際にあったこと。登場する棋士、真剣師の多くが、実在する棋士に似せてある(となると、モデルが存在しない人を捜せば犯人に辿り着くんだな、というのは突っ込み過ぎか)。あまり取り上げられない特殊な世界を舞台にするとき、リアルに見せるため、実在の人物に似せた人物を登場させることはよくある話である。最近のミステリ界で有名なのは乱歩賞受賞作、不知火京介『マッチメイク』。これはひどかった。登場人物のほとんどが実在プロレスラーをモデルとしているのだから。だけど『殺人の駒音』も多くの登場人物が実在人物をモデルとしている(さすがに全員じゃない)。なのに、『マッチメイク』は駄作で、『殺人の駒音』は傑作である。この差は何か。愛情の差……とも思えない。不知火京介がプロレスのことをあまり知っていないのは、『マッチメイク』を読めばわかる。亜木冬彦が将棋のことを知っているのかどうかはわからない。ただ、一部の文章から見ると、それほど将棋を知っているようには思えないのだ。
 結局は、物語を創る巧さの違いだけなのだろうか。それだけではないはずだ。この小説を書くときだけでも、作者は将棋というゲームの魔力に魅せられていた。だからこそ、この傑作を書くことができたのだ。そうとしか解釈できない。不知火京介になくて亜木冬彦にあったもの。それは、プロレスにしろ、将棋にしろ、その魔性に取り憑かれたか否か、その違いが大きな差になったのだと考える。
 何もわからない世界を一から調べ、一つの小説を創り上げるには、一時にしろ、その世界にどっぷりとはまる覚悟がなければ、凡作で終わってしまう。この作品は、そのことを教えてくれたのだと思う。

打海文三『灰姫 鏡の国のスパイ』(角川書店)

 ロシアの極東の地ウラジオストクで、日本の情報調査会社社員が瀕死の状態で発見され、数日後に息を引き取った。その身体には拷問のあとが残されていた――。事件を調べる使命を帯びた同僚は、調査の結果謎の人物〈灰姫〉にたどりつく。北朝鮮の地下に潜り、日本に高度な情報を提供しているという灰姫をめぐり展開する、ロシアKGBやアメリカCIAも絡んだ果てなき謀略の数々――。高度に繰り広げられる諜報戦の先にある真実とは? 渾身のポリティカル・スパイ・サスペンス! 第十三回横溝正史賞優秀作。(粗筋紹介より引用)
 1993年、第13回横溝正史賞優秀賞受賞。同年5月、単行本化。

 いやー、読みづらい。本当に読みづらい。背後の説明が全くないまま会話が進むので、彼らが何を言っているのかさっぱりわからない。ここまで読者を無視している作品も珍しい。「民間の調査機関である東亜調査会」と書かれているから、てっきり政府か有力政党の調査機関の隠れ蓑かと思ったら全然違うし。冒頭がウラジオストクだから、対ロシアかなと思ったら、実は北朝鮮が相手だし。半分くらい読まないと、小説の背景や登場人物の立ち位置が掴めない。人物像自体浮かび上がってこない。情報は錯綜しているし、ストーリーは整理されていない。佐野洋が「文章がわかりにくく、半分ほど読んで退屈してしまった」というのもわかる。本当に退屈だから。
 ただし、妙な迫力というか、独特の雰囲気があるのも事実。ただ読み終わってみると、最初に感じていたスケールの大きさがどんどん小さくなっていっているのは残念。間違いなく、未完成作品である。それでも、選考で落とすには惜しいと思わせる何かがあったのだろう。それが優秀賞という位置付けなんだろうと思う。
 作者の後の活躍を見ると、優秀賞とはいえ出版させたというのはかなりの目利きだ。これを推したのは夏樹静子と権田萬治だが、大したものだと思う。

小野博通『キメラ暗殺計画』(角川書店)

 来日中のジョージ・H・バックバーグ米国大統領が京都を訪問中、ヘリコプターから投下された、ダーツの投げ矢を小さくしたようなものに刺された。その針には、血液抗凝固剤ヒルジンが塗られていた。出血多量でジョージは病院へ運ばれるが、ジョージはAB型RHマイナスという日本人には珍しい血液型であり、日本には僅かしかストックがなかった。海外で知名度の高い敏腕外科医であり、国立千里ガンセンターに所属し、万が一のために病院でスタンバイしていた岸田健は、レントゲンで例外的に大きく発育したスイ臓ガンを発見する。ヒルジンによるガンからの出血性ショックにより重体となったジョージは、前日の夕食会で友人となった岸田にすべてを託す。岸田は、がんの摘出を含めた大手術に挑んだ。同じ血液型の人物からの大量輸血や、沖縄やグアムからの軍用機による血液が送られ手術は成功したが、数日後に大統領の様態が急変する。AB型を輸血したはずなのに、ジョージの血尿からA型とB型の血液が認められたのだ。輸血された血液の中に、A型とB型の赤血球を持ち合わせたキメラの血液が混じっていたのだ。
 1993年、第13回横溝正史賞優秀賞受賞作。1993年5月刊行。

 作者は現役のフリー外科医(当時)であり、ダイエット本などの著書がある。また1985年には、カッパノベルスから『腎移植殺人事件』というミステリを出版している。
 外科医というだけあって、大統領を手術するシーンの臨場感はなかなかのもの。キメラ型血液型を利用するトリックの説明もこなれており、自分の職業知識を十分に活かした作品と言える。とはいえ、大統領を殺害するのならなにもこんな複雑なトリックを用いなくても、最初の毒針を使うところで別の毒を使えばよかったんじゃないかと思うのは私だけだろうか。
 作品全体を見てみると、主人公である岸田をスーパーマンにしてしまった綻びがあちらこちらに目立つ。大統領を手術したからといって、政府関係者を通さずに記者会見を開いてぺらぺら喋るし、外交問題になりかねない総理大臣との会話を勝手に話すし、挙げ句の果てに事件の謎を解くとまで言い放つ有様。誰が考えたって許されるものではないのだが、普通にヒーローに収まっているのはどうしたものか。事件前に大統領や家族から食事を招かれるのは、手術時における相手への信頼を示すための前振りとしてわからないでもないが、大統領の娘ニコラを連れて『ローマの休日』のように京都観光旅行させるのは、事件と何の関連のないエピソードであり、不必要な部分である。
 最後に犯人へ自供を迫るシーンは、人権侵害だ、脅迫による自白であって無効だ、などと色々な文句が出るだろう。それに犯人像や動機も無理がある。
 いってしまえば、登場人物ばかりでなく、作者も調子に乗りすぎて筆をすべらせた、というのが本作品の評価である。人物造形や展開も安っぽい劇画を見ているようであり、優秀作止まりも仕方が無いところ、だろうか。

五十嵐均『ヴィオロンのため息の―高原のDデイ』(角川文庫)

 敗戦間近い軽井沢で、ソ連人スパイが殺害された。ノルマンディ上陸作戦の陰で世界史を決した殺人事件! 事件の鍵を握る二人の男女、ドイツ大使館付武官ハンスとのちの法相夫人敦子は、50年後に再会の約束をして別れるのだが……。そして半世紀ぶりに軽井沢のホテルで、秘密を胸にひめた二人は再会し、抱擁する二人だが、思いもかけない運命の裁きが迫ってくる。半世紀の悲恋を描いた第十四回横溝正史賞受賞の国際ミステリーロマン。(粗筋紹介より引用)
 1994年、第14回横溝正史賞受賞。同年5月単行本化。1997年8月、文庫化。

 作者が夏樹静子の実兄ということで、縁故入賞と一部で揶揄された作品だが、クイーンに長年師事していたこともあり、達者な筆ではあった。
 副題にDデイとあるとおり、作品の舞台裏にあるのは第二次世界大戦における1944年のノルマンディ上陸作戦。戦後、欧州で実権を握りたいと考えるスターリンの命により、上陸作戦の場所と日時をドイツに流そうとするソ連人スパイ、グレチコ大佐。しかし接触したドイツ人将校ハンス・ツヴァイク少佐はすでにドイツの敗戦を予想し、ドイツがソ連の共産主義に支配されることを恐れ、情報を握りつぶすことを決意する。軽井沢に疎開していた前駐和蘭大使伏見莞二の娘敦子のところでピアノを教わりながら情報を交換し合う二人。ハンスと敦子はいつしか愛し合うようになるのだが、ハンスは敦子のいる場でグレチコを殺害し、二人は死体を隠す。グレチコの失踪を知ったソ連は再度ハンスに接触するが、証拠となる写真がないことからハンスは情報がデタラメであると上司に話してしまう。かくして上陸作戦は成功するが、ソ連側は日本政府を通じてグレチコの捜査を依頼し、ドイツは上陸作戦の情報を政府に上げなかったとハンスを追求する。
 登場人物が限られていることもあるが、歴史をひっくり返すような題材を扱っている割には、テンポがよすぎる。もっと重みのある書き方をしてもよいのではないだろうか。逆の言い方をすれば、非常に読みやすい。登場人物も最低限に抑えているし、流れるような展開は読者を飽きさせない。結果オーライな部分も多いのは欠点のような気もするし、50年後の再会後の展開はドタバタ過ぎる気もするが、いずれもリーダビリティを考えての結果だと好意的に解釈したい。
 ただ、これミステリじゃないよね、と言いたくなるところはある。戦争を舞台にしたラブロマンスでしかないからだ。殺人の動機も、国家を想っているようで実は自分の好きなようにしたいという独りよがりなものでしかなく、少なくとも美化されるようなものではないだろう。特に50年後の敦子の行動については、とてもじゃないが共感できない。
 仕上がり自体は悪くないし、文章も読みやすいし、受賞しやすい作品であることは間違いない。ただ、新人賞ならではのフレッシュさや冒険心はなく、題材の大きさの割には小さくまとまった感は否めない。

霞流一『おなじ墓のムジナ 枕倉北商店街殺人事件』(カドカワノベルズ)

 朝の6時から人だかりのする商店街。騒ぎの主は、なんと通りの入り口に置かれた瀬戸物の猩猩ダヌキだった! 一体誰が何のために!? その後、書店に頼みもしないタヌキそばが十杯出前されたり、喫茶店の前に茶釜が置かれたり、タヌキがらみの奇妙な事件が続発した。そして四日後、こんどは商店街の仲間の一人が何者かに殺害された! まず、第一発見者の唐岸書店の長男・誠矢に嫌疑がかかった。もう傍観者でいられなくなった誠矢は、身の潔白を証明するため、事件の真相を追求し始める。だが、その直後、第二の殺人事件が起きて……。
 最初から最後まで狸づくしの書下し傑作ユーモアミステリー!(粗筋紹介より引用)
 1994年、第14回横溝正史賞佳作受賞。1994年5月、刊行。

 バカミスキング、霞流一のデビュー作。何から何まで狸づくしの一作。
 ワトソン役は、30歳にて失業中の唐岸誠矢。相方は隣に住む酒屋の娘で印刷会社に勤めるノボこと滝沢登子。推理の舞台は小作りの居酒屋「うつつ」で、探偵役は包丁を握る由良仙太郎。後見役は、店の持ち主であるオールドパーこと畑原春雄。誠矢が中心に情報を集め、毎晩「うつつ」で飲みながら情報を交換し合い、推理を繰り広げる。
 最初は日常の謎かな、と思わせるようなタヌキをめぐるバカバカしい事件が続いたと思ったら、とうとう本物の殺人事件が発生する。殺人事件まで狸の手がかりが残されていることから、いったいどこまでタヌキを引っ張るつもりかと思ったら、とうとう最後まで引っ張ったのにはあっぱれと言いたい。それにしても、タヌキにまつわる故事などをよくぞここまで調べたものだと感心した。最後に犯人を特定するロジックもなかなか。ギャグあり、ユーモアあり、ペーソスあり、といった軽い作風の中で、伏線を貼り、最後は推理で解決するしっかりした本格ミステリになっている。惜しむらくは、登場人物が最初から多すぎて区別がつかないところか。
 受賞作でもよかったんじゃないかと思ったが、この時の受賞作が『ヴィオロンのため息の―高原のDデイ―』であったのなら、佳作止まりも仕方がないところか。こういうとき、軽そうに見えるユーモアミステリは損かもしれない。せめて前年に応募されていたらなあ……。ただ、横溝賞とユーモアミステリは肌が合わない気もする。応募先を間違えたんじゃないか、と言いたい。

柴田よしき『RIKO―女神の永遠』(角川文庫)

 男性優位主義の色濃く残る巨大な警察組織。その中で、女であることを主張し放埒に生きる女性刑事・村上緑子。
 彼女のチームは新宿のビデオ店から一本の裏ビデオを押収した。そこに映されていたのは残虐な輪姦シーン。それも、男が男の肉体をむさぼり、犯す。あがて、殺されていくビデオの被害者たち。緑子は事件を追い、戦いつづける、たった一つの真実、女の永遠を求めて――。
 性愛小説や恋愛小説としても絶賛を浴びた衝撃の新警察小説。第15回横溝正史賞受賞作。(粗筋紹介より引用)

 読む前から苦手なタイプのミステリだと思ってずっと手を着けていなかったが、ある理由により読んでみることにした。やっぱり予想通りだったな、と思うだけ。どうもこういう女性主人公が好きになれない。女性でも普通に人間として生きていけばいいだろうに、むやみに女性を振り回し、女性であることをことさらに強調するくせに、女性扱いされたら怒るタイプの女性だね、この主人公は。まあ、男性優位社会のこの世の中、とくにその傾向が強い警察という巨大組織の中では、そこまで尖るしかないのだろうけれど。ただ、複数の男と付き合うのはどうでもいいけれど、存在そのものが気に入らない。「書きようによっては、読者の顰蹙を招きかねない女性」と佐野洋が評しているようだが、私はダメです。
 ミステリとしての作りは、通俗的だがしっかりしている。処女作とは思えない出来だ。ただ、それだけ。受賞するのは納得できるけれど、それ以上感心するところはないね。お見事と拍手するだけ。主人公の存在だけが突出し、他には何も残らない作品である。

藤村耕造『盟約の砦』(角川書店)

 姉の美智子に対抗するように司法試験に合格し、司法研修所に通う祖父江しのぶは、弁護習得の指導担当弁護士だった伊藤周二に誘われ、神大寺家殺人事件の弁護団と一緒に活動する。銀行創業家として広く知られた神大寺深太郎の次男であり、国際的なヴァイオリニストとして知られた優作は、兄・幸太郎の婚約者である箕輪美穂を箕輪家の別荘で強姦しようとしたうえ、殺害した。凶器が優作の所持するナイフであり、しかも指紋が残っていたこと。勇作が美穂を強姦しようとした時の悲鳴が聞かれていたこと。さらに優作が警察が来た後、姿を消したことなど、物的証拠も状況証拠も優作が犯人であることを示していた。しかし、勇作の無実を信じる深太郎は、庭にコンクリートの建物を作り、中に美穂の部屋を再現したのだ。弁護団に選ばれたのは伊藤、伊藤の甥で勇作の友人でもある赤羽宏大弁護士、有能であるが広域暴力団の顧問弁護士もしている佐藤勝一、佐藤義記弁護士、刑事訴訟法学者の真田邦秋教授、しのぶの姉で少年事件で多くの冤罪事件を手がけている祖父江美智子弁護士。とはいえ、あまりにも揃いすぎている証拠に苦しむ弁護団であったが、協議で泊りがけの朝、真田教授が殺害された。
 1995年、第15回横溝正史賞佳作受賞。加筆訂正の上、同年5月、単行本刊行。

 作者は現役弁護士。森健次郎名義で1992年、1993年と乱歩賞の最終候補に残っている。
 現役弁護士らしく、主人公に司法研修生をもってきた。珍しい設定であり、作者には書きやすい内容だっただろう。そのせいか、筆は非常にノッている。しかし、人物造形は全く駄目であり、誰一人顔が浮かんでこないのには困ったものだ。特に赤羽としのぶが恋愛関係にあるなんて、肝心の場面になるまで全く想像つかなかった。
 逆に裁判シーンはさすがと言える。同時進行でしのぶが裁判習得に出ていた3女性連続猟奇殺人事件の裁判シーンは、現役ならではであろう。事件の真相も意外なところに着地しており、構成自体は悪くない。とはいえ、読み終わってみると、粗が目立つ。殺人現場を再現する理由が結果としてあまりなかった、他の弁護士たちがあまりにも空気な存在で不必要だった点などである。しかし、最大の問題点は、選考委員のいずれもが指摘している点である。ネタバレに直結するのでここでは伏せるが、はっきり言って本作品の根底を覆すような問題点であり、出版時点でも全く解決されていない。
 言っちゃ悪いが、ヒロインの立場が珍しいものであっただけであり、佳作として出版されるほどの作品でもなかった。作者は弁護士活動が忙しいのか、乱歩賞応募作を改稿した作品を出版しただけで、以降は沈黙している。

山本甲士『ノーペイン、ノーゲイン』(角川書店)

 八戸虎男は大学中退後、兄・竜男が経営する鍵屋を手伝っているが、商売が今一つであるため、解錠の技術を使って過去に2回事務所泥棒を行っていた。竜男が病気で入院し金が必要となったため、虎男は狙いを付けていたフィットネスクラブに忍び込む。手提げ金庫を盗んだが、警備員が来たため階段から突き落として逃走。そのとき、数人の学生に目撃されてしまった。やせ形な体格を変えるため、虎男はトレーニングジムに入会。数ヶ月で筋肉質な身体になり目的は達成されたが、フィットネスクラブで盗まれた金額が420万円と聞きびっくりする。金庫には20万円しか入っていなかったのだ。ジムが改築で休業する間、虎男はフィットネスクラブに入会して探り、上前をはねた奴の目星を付け、400万円を頂くことにした。
 1996年、第16回横溝正史賞優秀作受賞。同年5月、単行本化。

 三部構成でそれぞれ語り手が別となっている。一部は被害者である八戸虎男。二部は虎男のジムの指南役であり、探偵役となる与賀。そして三部は犯人が語り手である。一部で犯罪小説と思いきや、二部の冒頭で虎男がフィットネスクラブで事故死する意外な展開。不審を抱いた与賀が、同級生でありクラブ会員でもあるニューハーフの神園真澄と調査を進める。そして三部では、アリバイもあって完璧と思い込んでいた犯人に災難が降りかかる。
 動機だけを見るとありきたりな事件と言えるのだが、舞台がフィットネスクラブという点と、やはり構成に工夫を凝らした分、楽しく読むことができた。肉体改造の理由付けについてはお見事と言いたい。ただウェイトトレーニングに関する蘊蓄部分は、三人称ならまだしも、一人称で説明調の文章を読まされるのは小説としても相当の違和感があった。しかもそれが結構長く、読者を引き込むほどのテンポで書かれていないため、はっきり言って退屈だった。蘊蓄を語るならせめて会話の中にしてほしいものだ。そして選評で森村誠一が指摘しているが、犯人が取った手段に難点がある。こればかりは森村の言う方が正しく、犯人が望むような成果は得られないといっていいだろう。他の委員は指摘していないが、これは大きなキズと言ってよい。
 結末があっさりしていたため単行本化に当たって改稿したとあるが、いったいどこまでが改稿部分なのかはちょっと不明。欠点もあからさまに見える作品であり、優秀作で終わったのはそれが理由の一つであったからだろう。

西浦一輝『夏色の軌跡』(角川書店)

 プロゴルファーの箕島仁は、国内初勝利後米国ツアーに挑戦したが、膝を痛めて帰国した。その箕島を待ち受けていたのは、恋人・都築洋子の変死だった。自分を初勝利に導いてくれたキャディでもあった洋子は、箕島の子を宿したまま、無残な姿で発見されたという。プロを引退し、ゴルフ場のグリーンキーパーとなった箕島は、洋子の一周忌を機に事件解明を決意する。教え子の柄沢雅志が出場する全日本高校ジュニア選手権が行なわれるのが、たまたま洋子が死の直前まで勤めていた無農薬ゴルフ場であるのを知った箕島は、雅志に同行して、洋子の死の真相を探ろうとする。白熱する選手権のさなか、洋子の死を嘲笑うかのように、もうひとつの殺人事件が発生した。犯罪の影には、怖るべき社会悪が潜んでいた……。その清新なタッチで選考委員の絶賛をあびた、瑞々しさ溢れる青春ゴルフ・ミステリー。(粗筋紹介より引用)
 1996年、第16回横溝正史賞佳作受賞。加筆修正のうえ、同年5月刊行。

 ゴルフは日本でもかなり人気のあるスポーツだと思うが、ゴルフそのものを扱ったミステリはあまり多くない。作者はレコード会社勤務と書かれていたが、ゴルフについてはどうなのかあとがきを読んでも書かれていない。多分、趣味としてゴルフをしている人なのだろう。ただ、書かれている内容はゴルフがわからない人でも楽しめる内容であるし、またゴルフを知っていればより一層面白くなる内容である。
 話の筋は二つ。一つは箕島の恋人が殺された謎。そしてもう一つは全日本高校ジュニア選手権。一章ずつ交互に書かれており、どちらも箕島が関わってくる。このうち選手権の方については雅志と一緒にラウンドを回っている優勝候補の筆頭、氏家慎二に関わる疑惑である。殺害されるのは優勝候補の一人であり、同じラウンドで回っていた牧武則。ストーリー上仕方がないとはいえ、彼を殺すこともなかったのにと思う後味の悪さである。
 作品の内容は悪くなかったと思う。ただ選評で多くが言っているように、ゴルフ青春小説としては悪くないのだが、ミステリとして読むとやや弱い。特に二つの殺人事件がありながら、それらが密接につながっていない点は、読者に肩透かしを食らわしている結果となっており、とても残念である。
 けれど個人的な感想から言えば、第16回の優秀賞である山本甲士『ノーペイン、ノーゲイン』より面白さという点では上ではなかっただろうか。ただしミステリの構成や工夫という点については、山本作品より劣る。いっそのことゴルフだけに絞り、ジュニア小説あたりに応募した方がよかったのかもしれない。
 作者はその後、2作品を書いて沈黙している。

建倉圭介『クラッカー』(カドカワ・エンタテインメント)

 普通のサラリーマンとして人生を過ごしてきた男が最後の賭けに出た。コンピュータを利用した犯罪者"クラッカー"となり、会社からの横領を企てたのだ。失った誇りを取り戻すために。そして自分を閑職に追い込んだ上司への復讐と金のためだったが、なぜか計画以上の金が横領されていた。そこには過去から続く犯罪ともうひとつの復讐劇があった―。(粗筋紹介より引用)
 1997年、本作で第17回横溝正史賞佳作受賞。応募時タイトル『いま一度の賭け』。同年8月、刊行。

 冒頭でクラッカーとは何かが書かれている。「コンピュータシステムに対し、そのセキュリティという防御網をかいくぐり、犯罪目的で不正アクセスをするもの。ハッカーという言葉は本来寝食を忘れてコンピュータにのめりこみ、非常に素晴らしいプログラミングができる人という意味で、コンピュータ犯罪者を指すものではなかった」とのことだそうだ。
 閑職に追い込まれて55歳の定年を迎える田所修平は、かつて自分を開発部門から追い出した奥沢勲常務とその部下だった下村清二たちに復讐するため、退職前に1億5000万円を横取りする計画を建て、プログラムを改ざんし実行する。しかし複数の銀行から引き出せる金が、予定よりも多い。その後の会社の発表で、合計2億8000万円が搾取されたことが明らかになる。警察や銀行の捜査が進む中、下村が飛び降り自殺したというニュースが舞い込む。田所も自ら真相を追い始める。
 2010年代の今では陳腐なネタかも知れないが、この作品が出た1997年ならまだまだ通用した題材なのだろう。ただ陳腐な部分はあくまで技術的な分野であり、それらを取り巻く人たちについては普遍的なものである。要はその人間ドラマが面白くなければならない。そういう意味でこの作品を見てみると、今でも十分鑑賞に堪えうる作品だとは思う。ただ主人公が定年を迎えた55歳の冴えないオッサンであるため、動きがややもっさりしているというか。読んでいてもどかしい部分もある。というか、自分だったらそんな疑われる真似をしないで、知らないふりをしているけれどね。娘ぐらいの年齢である女性とのロマンスも裏がありありだし。まあ、オッサンらしいドギマギ感は十分描けていたと思うが(苦笑)。
 なんというか、題材も小説も悪くないのだが、今一つ決定打に欠けた作品。田所が動き回るのではなく、もうちょっと初老に近づいた男の悲哀をアピールした方が、よかったんじゃないだろうか。

山田宗樹『直線の死角』(角川文庫)

 企業ヤクザの顧問を務める弁護士・小早川の事務所に、あらたな事務員として紀籐ひろこが採用される。その当時、小早川事務所は二件の交通事故の弁護を同時に引き受けていた。一件は謝罪の意思の無い加害者の弁護。もう一件は死亡現場に警察の見つけていない証拠の残された事件であった。素人同然のひろこは難航していた二件の糸口を見つけだす。才能あるひろこに次第に惹かれていく小早川であったが、身元を調査した結果は…。究極の女性を好きになった男の深き苦悩と愛情の物語。(粗筋紹介より引用)
 1998年、第18回横溝正史賞受賞。

 ちょっと癖のある悪徳弁護士ものなのかと思ったら、主人公の小早川は意外と正義感があるし、引き受けた二件の交通事故の弁護については小早川の想定と異なった方向へ流れていく。どちらも事件の糸口を見出すのは、採用されたばかりの紀藤ひろこ。ややストレートに書きすぎた分、慣れたミステリファンなら事件の背景がある程度読めてしまうだろうが、事件の背景や構成にトリック、交通事故の鑑定も含め、説得力はなかなかのものである。
 小早川がひろこに惹かれていく過程の描写が少ないところが弱点ではあるが、ひろこが小早川を拒否する背景なども含め、ミステリと恋愛ものを絡めた作品としてはそれなりに上手く融合できた方ではないだろうか。
 達者な仕上がりであり、完成度も高い。その分新人らしさがないところもあるが、それを欠点と言ってしまうのは、この作品に対しては酷だろう。横溝正史賞受賞作品の中でも上位にランキングされる一作である。
 作者はこの後、『嫌われ松子の一生』がヒットして映画化・ドラマ化される。

尾崎諒馬『思案せり我が暗号』(カドカワエンタテインメント)

 推理作家志望の鹿野の元に一束の推理小説が届けられた。その小説は、実在の登場人物が使われ、親友・尾崎の自殺から始まっていた。そして、小説内に収められた「ワルツ思案せり我が暗号」と題した楽譜。それは、幾通りもの答えを持つ暗号の塊だった。一読した鹿野は何故か異様な恐怖に駆られ、現実の尾崎の元を相談に訪れる。彼は、この小説は未完だという。小説内で幾度も解かれた暗号にまだ解かれていない部分があるというのだ。残された部分に隠されている謎とは…。やがて、狂気に満ちた忌まわしき真実が姿を現し始めた。第18回横溝正史賞佳作。(粗筋紹介より引用)

 いやあ、面白かったですね。前半は。なんでメタにしたんだろう。全く無駄。最近の本格の悪いところばかり吸収してしまった作品。勿体ないですね、あれだけの暗号を考えたんだから。それでも期待できる作家だと思います。

樋口京輔『緑雨の回廊』(中央公論新社)

 大手ゼネコンでダムのグラウトを主に担当している岡沢稔が、行方不明となった。その直前、立山の黒部新川ダムで稔と一緒に行動しているところを目撃されていた宇治老人がダムで溺死体となって発見されたことから、稔に嫌疑がかかる。妻の千賀子は、自分に嘘をついてまで立山に行っていたことに疑問を持ちながらも、稔から送られていた立山曼荼羅のコピーと日記を基に夫の行方を捜そうと、立山に足を踏み入れた。稔の行方を追う内に知り合った郷土研究家の志鷹により、その曼荼羅には戦国時代の武将・佐々成政が隠した埋蔵金のありかが記されていると知らされる。稔もまた、埋蔵金を探していたのだろうか。
 2000年5月、書き下ろしで刊行。

 帯には横溝正史賞作家と書いているが、実際は第19回横溝正史賞佳作受賞者(『フラッシュ・オーバー』)。こういう嘘はいけない。また書き下ろしとあるが、実際は1998年、第18回横溝正史賞奨励賞を受賞した『稜線にキスゲは咲いたか』(三王子京輔名義)の改題作品らしい。
 殺人の嫌疑を掛けられたまま行方不明になった夫を、素人の妻が残された手掛かりから追いかける作品。途中から埋蔵金の謎も絡み出す。こう書いてしまうと、とてもチープな作品に見えてしまうから不思議だが、実際の内容も今一つ。そもそも警察にマークされているはずの人物が簡単に出かけられるところが不思議でしょうがない。稔が千賀子に埋蔵金を探していたことを隠す理由は最後まで明かされない。最後に殺人事件の謎は明かされるが、推理らしい推理もないし、動機も弱い。ダムの構造については勉強しているようだが描写力が弱く、唐突とも思えるような最後の追いかけっこにも迫力がない。うーん、ないないづくしとしか言い様がない。最初は推理小説の形をしているのだから、推理小説として終わらせるべきだったと思うし、最後のサスペンス部分はダムを舞台とするのならもっとページを費やすところ。埋蔵金の謎も含め、あれもこれも入れてしまおうと考えた分、何もかもが中途半端で終わってしまった作品である。
 作者は歯科医。『フラッシュ・オーバー』でデビュー後、本書を含めミステリを3作品刊行するが、いずれも角川以外というところが、この作者の限界を示していたのではないか、と思っていたが、2007年に上杉那郎名義で第8回小松左京賞(『セカンドムーン』)を受賞していた。

井上尚登『T.R.Y.』(角川書店)

 明治四十四年、上海の刑務所にいた伊沢修は、殺人結社赤眉のキム・ヨルに狙われたのを関虎飛に助けてもらう。関は、革命家孫文の同士であった。伊沢は、赤眉の手から守ってもらう代わりに、革命の手伝いをする羽目になる。伊沢は、かつて、明石元二郎の部下であり、明石のもとを離れた後は詐欺師として生きていた。そして伊沢は、革命のための武器を、日本の武器商社から騙し取る役目を負わされたのだ。第19回横溝正史賞受賞作。

 舞台、設定、登場人物と傑作になりそうな材料は揃っている。日本陸軍の最高幹部や武器商社との腹のさぐり合い、次期陸軍大臣を巡るやり取り、漁夫の利を得ようとする輩、そして伊沢を狙う殺し屋と、実在の人物をうまく織り交ぜながら、波瀾万丈の物語を完成させている腕は見事と言って良い。「横溝賞史上、最高傑作!」という帯の文句も間違いではないだろう(個人的には『見返り美人を消せ』の方が好きだが)。
 残念ながら、これだけの設定なのに、物語全体が軽い印象を受けてしまうのはなぜか。テンポが良すぎるためか、文章が軽いためか。陸軍会議の部分など、もっと重々しく作るべきであったと思う。
 『T.R.Y.』というタイトル名は意味がわからない。『化して荒波』という応募時のタイトルの方が、まだ作品世界を表していたと思う。

樋口京輔『フラッシュ・オーバー』(角川書店)

 群馬、新潟間を結ぶ世界最長の谷川トンネル坑内で、核燃料輸送トラックを先導する県警パトカーが、横転したタンクローリーに激突、さらに車数台が玉突き衝突して炎上した。現場は白煙と炎に包まれ、非常電話の回線も途切れた。新潟県警高速隊長の河合が避難坑へ脱出しようとしたその時、突如現れたテロリストが機関銃を乱射。部下が射殺されるのを目撃した河合の全身は凍りついた。まもなく「光の旅団」を名乗るグループから犯行声明が…。前線を埋め尽くす機動隊、自衛隊員。映像を追うテレビ・クルー。誰が、いったい何のために?大型新人が放つノンストップ・パニック・サスペンス。(粗筋紹介より引用)

 核輸送やニュース、テロなど着眼点は良く、仕掛けも面白いのだが、残念ながらテンポが遅い。複数の主要登場人物の視点から細かく書きすぎているため、ストーリーが全然進まず、緊張感が欠けてしまう。各章でもっと動きがあれば傑作になっただろうに。

小笠原慧『DZ ディーズィー』(角川文庫)

 1981年5月、沖縄本島近海で貨物船がヴェトナムからの難破船を救助した。その中に一人の妊婦がいた。ヴェトナムでは、アメリカ軍がジャングルを枯らすためにまき散らした液体のせいか、奇形の赤子が次々と産まれていた。
 物語は三つの軸を中心に回り始める。
 ペンシルバニアで中年夫婦が殺害され、五歳の子供が行方不明になった。事件は迷宮入り。しかし事件を執拗に追いかける元警部のスネル。
 石橋直洋は恋人の志度涼子を日本に残し、アメリカの研究所へ留学する。しかし手掛けていた実験は別の研究所に先を越され、失意の日々を送っていた。そこへ若き天才研究者グエンからあるプロジェクトに極秘に手伝ってほしいと提案を受ける。喜んでその提案を受ける石橋。そのテーマとは、遺伝子操作のひとつであるーン・ターゲティングの新しい手法に関するもの。しかし石橋は志半ばにして強盗殺人事件の被害者となる。
 恋人を亡くした涼子は、失意のまま重度障害児施設に意志として赴任する。そこで出会ったのは、保健室にとじ込められたままの心を閉ざした少女、西村沙耶であった。涼子は何とかして沙耶と心の交流を持とうとする。
 そして数年後、事態は破局へと向かっていく。
 第20回横溝正史賞正賞受賞作。

 著者は京都大学卒の精神科医。この医学サスペンスを書きあげるにはなるほどとうなずかせるプロフィールである。専門用語が頻繁に飛び交うが、作者は登場人物を通して丁寧に説明してくれているので、頭を悩ますようなこともない。
 かなり隅々まで計算された作品である。いくつもの分かれた道が、最後の破局に向かい、一本に集約される。最後の方はかなり強引なところも見受けられるし、少々急ぎすぎではないかとも思えるのだが、物語を終わらせるには仕方のない展開だろうか。受賞してもおかしくない力作であることは間違いない。
 ただし欠点もある。それぞれの登場人物を深く掘り下げてしまっているので、誰に感情移入すればよいかわからなくなってしまうのだ。それもここぞというときで場面が切り替わってしまう。勿体ない話である。人物全てについて均等に力を入れるのでなく、適当に力をばらつかせれば、もう少し筋が通った話になったに違いない。
 それともう一つわからないのは、重要な登場人物である志度涼子の性格付けだ。場面によって弱くなったり強くなったり。人の性格は複雑だろうが、場面によって与えるイメージががらっと変わるのも問題だろう。作者の都合によって涼子の性格がコロコロ変わっている印象を与える。
 気になる点を書かせてもらったが、それでも専門的知識を駆使して、かつ知識を持ち合わせていない読者にもわかりやすく、そして迫力あるサスペンス作品を書き上げる力は相当のものだと思われる。今後の活躍が楽しみである。

小川勝己『葬列』(角川文庫)

 不幸のどん底で喘ぐ中年主婦・明日美としのぶ。気が弱い半端なヤクザ・史郎。そして、現実を感じることのできない孤独な女・渚。社会にもてあそばれ、運命に見放された三人の女と一人の男が、逆転不可能な状況のなかで、とっておきの作戦を実行した――。果てない欲望と本能だけを頼りに、負け犬たちの戦争がはじまる!
 戦慄と驚愕の超一級品のクライム・アクション! 第二十回横溝正史賞正賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
 2000年、第20回横溝正史賞受賞作。2003年5月、文庫化。

 ヤクザのくせに気が弱く、妻にも逃げられた子持ちの木島史郎。マルチに誘われて浮気と勘違いされ自殺未遂で身障者となった夫を抱えてラブホテルで働く三宮明日美、かつて明日美をマルチに誘いとうとう離婚に追い込まれ、それでも整形を繰り返して借金を抱える葉山しのぶ、かつて強盗に一価を殺害され犯された経験を持ち、今では自らの存在に現実感が得られない藤波渚。明日美としのぶが銀行強盗の下見に行ったところで実際の銀行強盗に出会い、渚と仲間になる。一方親分からライバル組長を殺せと命令されるも予想通りに失敗し、組から追われる羽目になる史郎。家に戻ると娘はおらず、預かってもらっていた隣の絵画教室で、先生や先生の娘とともに殺されていた。逃げる途中、偶然明日美たちと出会い、仲間に加わる。
 一般の主婦が犯行に手を染めるという点で桐野夏生『OUT』と比較されていたが、普通の、だけど弱い立場の人間が徐々に追い詰められて最後に爆発するといった点や、別々の人たちが徐々に集結するという点では、奥田英朗『最悪』あたりの方に近い話。ただタイトルが示すとおり、死人がわんさか出てくる。主要登場人物がドジであるため、それとなくユーモア感はあるものの、不幸な人たちの集まりであることから、ムードは暗いし、後味もあまりよくない。登場人物では渚が一番よいキャラクターだと思う。むしろこのキャラクターを前面に押し出すべきじゃなかったかな。
 描写は上手いし、ストーリーの組み立て方も上手い。次はどうなるんだろうという描き方もなかなか。欠点は、登場人物が多すぎたことじゃないだろうか。ヤクザの面々などは減らすことができたと思う。渚が語る銃の蘊蓄も少々うるさかった。とはいえ、デビュー作でこれだけのものを書かれれば、受賞させないわけにはいかないだろう。一級品のクライムノベルである。

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