長期収容後に執行された死刑囚
死刑確定から執行までの収容が長期化した死刑囚を調べてみたものです。
刑事訴訟法475条第2項では、「前項(注:死刑の執行)の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。」と書かれています。
ただしこれは一般に訓示規定と解されており、6箇月以内に死刑の執行の命令がなされなくても、裁判の執行とはいえ人の生命を絶つ極めて重大な刑罰の執行に関することであるため、その執行に慎重を期していることによるものであって、違法であるとは考えてられていません。
戦後すぐの一時期を除き、判決から6か月以内に執行された例はほとんどありません。徐々に長期化する傾向にあり、例えば、昭和37年(1962年)版犯罪白書では平均執行期間が2年11か月となっていました。平成15年(2003年)9月12日から平成27年(2015年)7月27日までの実績では平均約5年4か月でした(平成二十七年七月三十一日、第189回国会、答弁書第二一二号より)。これは鳩山邦夫法相などが確定から2年前後の死刑囚を執行しているため年数が短くなっています。近年で確定から執行までの期間が一番短いのは宅間守死刑囚で、確定から11か月後の執行でした。
2000年以降死刑判決が増え、2006年には死刑囚が当時のデッドラインと言われている80名を超え、さらに2007年には100人を超えました。一時期は130人を超えましたが、死刑判決が減ってきたことと、オウム関連の死刑執行があったことなどより、2018年からは110人台で推移しています。執行が減ったこと、そして再審を複数回請求する死刑囚が爆発的に増えたこともあり、死刑囚の高齢化、長期収容化が進みました。高齢で病死する死刑囚も増えていますし、今後も増え続けるでしょう。
ただし、収容が10年以上経ってからの執行があることも事実です。2017年7月13日に執行された西川正勝死刑囚は10回目の再審請求中でした。1999年12月17日に、8回目の再審請求中だった小野照男死刑囚が執行されて以来の、再審請求中の死刑執行です。死刑囚の70%が再審請求を行うという異常な状況下の中、法務省が再審請求中でも死刑を執行するという意志を示した執行でした。以後、再審請求中は執行されないという慣例によって収容が長期化していた死刑囚の執行が続きました。それは今後も続くかもしれません。
以下は、収容が13年以上の死刑囚です。死刑囚等の表記は省略させてもらいます。本来なら最高裁で上告が棄却されたのち、判決訂正申立が棄却、もしくは申立せずに期限がきた日にちが死刑囚として確定したことになるのですが、そこまでは調べきれないので、上告審等で結果が出た日を死刑囚として確定した日としてみています(一審、控訴審でも同様)。2週間~1ヶ月程度のずれなので、その点はご了承ください。
こうやってまとめてみると、今のところ長期収容のデッドラインは20年のようです。となると、2021年1月時点で、2000年以前に死刑が確定した人物は執行されない、ということになりそうです。2000年以前に確定してもまだ50代の死刑囚もいますし、こればかりはわかりませんが。
追記しておくと、平沢貞道が最後に執行の危機があったのは、1974年11月らしいです。これだと、収容されてから19年6月となります。まあ法務省も、平沢だけは絶対執行しようと思っていたでしょうから、年齢が若かったらまだわかりませんでしたが。
1.秋山芳光 19年5ヶ月
1975年8月の秋山兄弟事件で1人を殺害した強盗殺人の罪で、1987年7月17日に最高裁で上告が棄却されている。他に保険金殺人未遂が1件ある。2006年12月25日執行、77歳没。確定から19年5ヶ月後の執行は史上最長。77歳の執行は戦後最高齢である。裁判では「共犯」の兄とどちらが主犯かを争った。兄は無期懲役が確定している。
この年齢で執行されるとは、秋山自身も周囲も想像すらしていなかったに違いない。そういう意味ではインパクトのある執行だった。ただ勝手な想像だが、西の期間を超えてから執行しようと法務省が目を付けていた感がある。
2.西武雄 19年2ヶ月
1947年5月、共犯6名と共謀して架空取引を持ち掛けた中国人の衣類商と日本人ブローカーを殺害した強盗殺人他の罪で、1956年4月17日に最高裁で上告が棄却されている。旧刑事訴訟法の生きていた頃で、証拠が無くても自供だけで被告にすることができた時代であり、拷問の結果、西が主犯、拳銃で殺害した石井健治郎が実行犯となった。裁判で西は、取引の立ち合いを頼まれただけだと無罪を訴えていた。石井は射殺したことは認めているが、喧嘩の相手と誤認しただけだと裁判では訴えた。石井はまた、西は事件には無関係であるとも訴えた。福岡地裁の裁判では、被害者の仲間である中国人たちが7人全員を死刑にしろと騒ぎ立て、裁判長が2名を死刑にしたから勘弁してくれと謝罪したという。
1968年、野党が再審窓口を広げよと国会に「死刑囚再審法案」を提出した。国会で審議中の1969年8月30日、西と石井は個別恩赦を出願。与党は法案を拒否したが、その見返りとして西郷吉之助法務大臣はGHQ占領下時代に起訴した6事件7人の死刑囚に恩赦を検討すると声明を出した。この中に西と石井も含まれていた。1975年6月17日、石井が恩赦相当として無期に減刑された。しかし同日、西は恩赦不相当して出願が却下されると同時に死刑を執行された。60歳没。恩赦を検討された7人のうち、唯一死刑を執行された(残りは石井、山本宏子、山崎小太郎の3人が個人恩赦、免田栄と谷口繁義が再審無罪、平沢貞道が病死)。
この福岡事件は冤罪であると、熊本県の元教誨師である僧侶が支援活動を行っていた。それを抜きにしても、冤罪の可能性は十分に高い事件である。片方を恩赦、片方を死刑執行というのもなんとも不自然。西本人も、さぞ無念であっただろう。
なお石井は、逮捕から42年7か月ぶりとなる1989年12月8日、仮釈放で出所した。
3.藤島光雄 18年6ヶ月
1986年3月、前妻の伯母と前妻の友人を殺害した殺人の罪で、1995年6月8日に最高裁で上告が棄却されている。2013年12月12日執行、55歳没。幼児下で受けた虐待が事件に影響していると訴え、5度の再審請求を提出するも棄却。6度目の再審請求を準備していたという。
不幸な生い立ちについては裁判でも既に検討されており、検討済みの項目で再審請求を繰り返していたことは、藤島自身や弁護士はともかく、一般の人から見たら単なる延命のための再審請求に過ぎない。法務省はこの頃、請求と請求の合間を伺い、執行を行っていた。
4.小野照男 18年6ヶ月
1997年9月、雨宿りで立ち寄った先の女性経営者を強姦、殺害して現金を奪った強盗殺人の罪で、1981年6月16日に最高裁で上告が棄却されている。1999年12月17日執行、62歳没。殺人事件で懲役13年が確定し、1976年11月、約2年の刑期を残して仮出所していた。しかし勤務先で金を盗み、逃亡中だった。逮捕当時、一・二審では罪を認めており、上告審で初めて無罪を訴えた。死刑確定後も6度の再審請求はすべて棄却。ただし、「知らない男が殺害した。自分はやっていない」という抽象的な訴えでしかなかったという。7度目の再審請求中、四国在住のベテラン弁護士が代理人となり、1999年12月に8回目の再審請求を申し立てていた。
こちらも延命目的としか思えない再審請求。それでも執行時は、人権団体や死刑廃止派が執行を問題視していた。どんな内容であれ、再審請求を繰り返せば執行が伸びるという悪例になったと思われる。
5.松井喜代司 18年3ヶ月
1994年2月、交際相手とその両親を殺害し、さらに交際相手の妹とその子供を殺そうとした殺人、殺人未遂の罪で、1999年9月13日に最高裁で上告が棄却されている。2017年12月19日執行、69歳没。4度目の再審請求中だった。過去にも殺人(懲役10年)や強姦致傷の前科がある。
交際相手に350万円を貸したのに、冷たくされたというのは裁判でも同情すべき点と認められたが、ハンマーで原形をとどめない程叩き続けたというのは、やはり残酷。冤罪の要素は全くないが、4回も再審請求をしてここまで長期になったというのは、やはり制度に問題があるだろう。
6.高根沢智明 16年5ヶ月
2000年2月と4月、パチンコ店で店員を殺し現金等を奪った強盗殺人他の罪で、2005年7月13日に自ら控訴を取り下げ、死刑が確定している。控訴を取り下げた際は弁護人が正常な状態ではなかったとして公判の続行を求めるも退けられている。共犯の小野川光紀死刑囚は2009年に死刑が確定している。2021年12月21日執行、54歳没。第三次再審請求中の執行。
裁判の方では争点らしきものがほとんどない。初公判でも認めている。共犯だった小野川死刑囚も再審請求中だったことと東京拘置所に死刑囚が多いこと、さらに東京オリンピック開催やコロナ禍など複数の要因が重なり、執行が伸びていたと思われる。
7.関光彦 16年0ヶ月
1992年3月、かつて強姦した少女宅に押し入り、一家四人を殺害、現金を奪った強盗殺人他の罪で、2001年12月3日に最高裁で上告が棄却されている。2017年12月19日執行、44歳没。3度目の再審請求中だった。事件当時は19歳1か月。他にも強姦や強盗などの余罪がある。
母親が懐妊中に流産予防のための黄体ホルモンを多量に摂取し、そのため攻撃性が強い性格になったという精神鑑定結果が裁判中に出ており、弁護側は幼児下での父親の虐待も合わせ、行為を制御する能力が著しく劣った心神耗弱の状態だったと主張。さらに未成年であることも訴えていたが、裁判所は退けた。おそらく再審請求も似たような内容だったと思われる。
少年でも残虐な内容なら死刑判決も仕方がない、と思わせるほどの犯行内容で、同情の余地はない。死刑執行も当然の結果と言える。とはいえ犯行時未成年だったということもあり、法務省側も執行に慎重だったと思われる。
8.牧野正 15年2ヶ月
1990年3月、女性宅に侵入し物色中、娘に見つかり殺害、さらに帰宅した女性に重傷を負わせ、逃走中に通りがかった女性にもけがを負わせて金を奪った強盗殺人他の罪で、1993年10月27日に福岡地裁小倉支部で死刑判決を受け、1993年11月16日に控訴を取り下げ、死刑が確定した。19歳当時の1970年3月に強盗殺人事件を起こし、無期懲役が確定。1987年5月13日仮釈放(在所約16年6月)となり、保護観察中だった。2009年1月29日執行、58歳没。
竜谷大学法学部の石塚伸一教授(刑事法)が1993年12月、福岡県弁護士会に人権救済を申し立てた。さらに石塚教授は1999年12月、福岡拘置所長と国に死刑執行の停止などを求め、福岡高裁に人身保護を請求。後に高裁、最高裁で棄却された。牧野は新たに弁護人を選任し、2000年6月、弁護団が福岡高裁に、控訴取消無効と控訴審期日申立を行った。2004年6月、棄却が最高裁で確定。9月、牧野は当時心神耗弱状態であったとして、再審請求。2006年1月、最高裁で棄却が確定。2008年には、1970年当時の事件の控訴取下が無効であると福岡地裁小倉支部に訴えた。2008年12月に棄却され、執行当時は即時抗告中だった。
死刑反対派としても有名な石塚伸一教授が、一審判決後に弁護人不在状態で取り下げを可能としている現行法は憲法違反であると主張した。その後も色々請求を行ったこともあり、収容が長期化した。通常だったら無期懲役の仮釈放中の事件ということあり、実行行為に疑いはないのだから、早期に執行されていただろう。
9.名田幸作 14年6ヶ月
サラ金負債の返済目的で保険証を奪おうと1993年1月、同僚の妻と長男をおびき出して殺害した強盗殺人他の罪で、1992年9月29日に最高裁で上告が棄却されている。2007年4月27日執行、56歳没。殺意を否定して4度の再審請求、5度の恩赦請求は棄却。5度目の再審請求準備中だった。
勝手な思い込みかもしれないが、死刑執行されたくないと醜くあがいていた印象が強い。犯行計画は用意周到だし、殺害方法は残虐。4歳の長男は生きたまま川に落として殺害している。奪った保険証でサラ金から借りた金はゲーム賭博につぎ込む。同情の余地は全くないし、よくこれで殺意がないと否認することができたと思うぐらい。それぐらい気が弱かったんだろう。生きたまま川に投げたのも、死ぬ瞬間を見たくないという気の弱さかもという推測は間違っていないかもしれない。
10.河村啓三、末森博也 14年3ヶ月
1988年1月、投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の経営者と社員を拉致し、経営者に1億円を用意させたのち、2人を殺害した強盗殺人他の罪で、2004年9月13日、最高裁で上告が棄却されている。2018年12月27日、執行。河村(岡本に改姓)60歳没、末森67歳没。河村のみ3度の再審請求が棄却され、4度目の再審請求中だった。
これまた冤罪の要素は全くないのだが、再審請求を繰り返すことで長期化したケース。河村は確定後に執筆した三冊の著書があるが、末森は一切外向けへのメッセージを発したことがない。交互に再審を繰り返したら、執行が伸びる可能性もあったと思うのだが、罪を悔いて覚悟していたのだろうか。
河村の弁護士3人が、再審請求中の執行は違法だと国賠訴訟を起こしている。無罪だというのならまだしも、強盗殺人ではなく、殺害は現金強奪後に決めたとして、強盗罪と殺人罪の適用を主張するのは無理がありすぎる。末森と被害者は顔見知りなので、金を盗って解放したらすぐに捕まるじゃないか。
11.朴烈根、崔基業 13年11ヶ月
1946年5月、旅館経営者家族6人を殺害して現金を奪い、放火した強盗殺人他の罪で、1960年6月10日、最高裁で上告が棄却されている。1974年6月6日執行、ともに48歳没。事件当初は無理心中事件として処理されていたが、9年後に捕まった人物がこの事件の犯人だと「自供」し、後に撤回。しかし被害者の長男がこの記事を読み、改めて捜査を訴えたところ不審点が見つかって捜査が再開され、1年後に朴が逮捕。朴の自供によって崔が逮捕された。松本清張が「日光中宮祠事件」のタイトルで短編を書き、ドラマ化されたことから、今ではこれが事件名となっている。
仙台送りになりながらも(1965年まで東京矯正管区の死刑囚は小菅刑務所に収容されていたが、刑場がなかったため、執行時には宮城刑務所に送られていた)長く執行されていなかった。二人の執行には平沢貞道が大きなショックを受け自らの死を覚悟し、一か月後には心臓発作で倒れ、11月には東北大病院に入院している。
少なくとも崔が二度再審請求が棄却された記録が残っている。最後の再審請求の特別抗告が棄却されたのは1974年5月31日であり、その6日後に執行された。長期収容では前年の1973年に二宮邦彦(確定から12年9月)、翌年の1975年に西武雄が執行されている。また1974年には宮崎稲城が病死している(確定から11年7月)。法務省側に何らかの意図があったのだろう。
12.佐伯一明 13年3ヶ月
1989年11月の坂本弁護士一家殺人事件他、計4名の殺人の罪で、2005年4月7日、最高裁で上告が棄却されている。2018年7月26日執行、57歳没。執行当時の姓は宮前。一時期再審請求をしていたが、事件の一部被害者が「生き証人」として執行をしないよう法務省に執行停止を申し立てたためと説明している。書類上は心神耗弱状態だったとしている。執行時点では請求はしていない。
一連のオウム事件で一番最初に死刑が確定した。オウム関連の裁判が終わるまで執行が伸びたため、長期収容となった。それにしても、2018年3月14日、東京拘置所から名古屋拘置所へ移送され、さらに松本智津夫らが7月6日に執行されたときの、彼らの心中やいかに。
13.藤波芳夫 13年3ヶ月
前妻一家3人を殺害した殺傷事件で2人を殺害しネックレスなどを奪った強盗殺人の罪で、1993年9月9日に最高裁で上告が棄却されている。2006年12月25日執行、75歳没。覚せい剤と飲酒の影響で責任能力がなかったと訴えたが退けられた。第二次再審請求が棄却され、第三次再審請求準備だった。
執行当時はクリスチャンになり、反省していたという。ただ、前科も多数あるし、フラッシュバックの影響などと言われても遺族は納得いかないだろう。リウマチで歩くことができず、車椅子で移動させられ、執行台まで二人の刑務官によって無理やり連れていかれ、首にロープをかけられたという。そうなる前に執行した方がよかったと思うが。
【参考文献】
村野薫『日本の大量殺人総覧』(新潮社)
HP【折原臨也リサーチエージェンシー】
その他、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞、北海道新聞、中日新聞、西日本新聞の記事他から多くを参考にした。
(2020年12月28日記)
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