気になる逃亡者
古い事件の記事を探していると、たまに興味深い記事に当たることもある。結局その記事についても調べることになってしまうのだから、手間は余計にかかることとなってしまうのだが、それは性分だから仕方がない。
その記事は、1985年の朝日新聞で見つけた記事。抜粋すると、以下である。
千葉県で農業を営んでいたIは、1950年8月に少年と共謀して、取り引きのあった搾油業者の男性(当時40)を、「菜種を売る」といって誘き出し、小刀で刺殺、現金22万円と腕時計を奪った。
強盗殺人で逮捕、起訴され、1951年5月に千葉地裁八日市場支部で死刑判決を受け控訴。1952年3月、東京高裁で無期懲役に減刑され、確定した。
その後、千葉刑務所で服役中の1965年7月、胃潰瘍とベーチェット病を発病して刑の執行停止になり、成田市内の病院。へ入院。9月20日に回復して退院したが、同時に逃亡。千葉地検は2日後の22日に執行停止を取り消した。
Iはずっと逃亡し、1976年秋、女性と川越市内のアパートに同居。パチンコ屋などに勤めていたらしい。
東京高検では刑の時効である20年の半年前、1985年3月頃から、Iの親類縁者に話を聞くなど、本格的な捜査を始めた。仕事がなくなり困ったIが親類から送金を受けているとの情報が入り、捜査の結果、Iが知人名義で設けた預金口座を発見。川越市内に内妻(当時49)と一緒に暮らしているところを突き止め、1985年8月27日に収監した。このときIは59歳。
Iはその後、単純逃走(刑法97条)の罪によって起訴されたと思われるのだが、それらに関する記事は見つからなかった。
刑の時効(刑法31条)である20年の満了日が1985年9月21日。時効完成のわずか25日前の収監というのは、I本人にとって無念であっただろう。
ざっと計算すると、Iが収監されていたのは約13年。1960年代の無期懲役刑仮釈放の平均年数がわからないので推測だが、せいぜい16年程度ではないだろうか。ということは、あと数年収監されていれば、仮釈放される可能性は十分あったわけだ。とはいえ、仮釈放されたとしても一度罪を犯せばすぐに再収監される状況は変わらないわけだし、逃亡するチャンスがあるなら逃げ出したとしても無理はない。
親族から送金を受けていたという事実からして天涯孤独の状況というわけではなかったのだから、仮釈放されたとしたら一応の生活を送ることも可能であったはず。逃走してビクビクしながら生きていくのと、どちらが彼にとって幸せだったのかはわからない。
本文を書いている2008年時点では、収監中に死亡していない限り仮釈放されているものと思われるが、逃走中や再収監時の気持ちを聞いてみたかったものである。
(2008年5月19日記)
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