求刑死刑に対し、無罪判決が出たケース





 タイトル通りです。なんとなくの覚書でしかありません。戦後の事件発生順で、再審で無罪になったケースも含みます。一審で無罪判決が出た後、二審以降で有罪判決が出たケースも載せています。ただし、求刑死刑で無期・有期判決が確定した後の再審無罪判決については、外しています。並びは事件発生順です。
 この件数を多いとみるか、少ないとみるかは人それぞれだと思います。
 事件の詳細等は、Wikipediaや他のHPを見た方がよいです。
 ここに載せたケース以外でも無罪判決が出ているようですので、情報を募集しております。
 事件名の色分けは以下の通りです。
<富山県祖母・孫殺人放火事件>
 1946年4月9~10日、富山県南保村で発生した殺人放火事件。
<西多摩妻子人食い事件>
 1948年2月18日、農家の男が妻子を鉈でメッタ打ちして殺害した上、細切れにした肉を食した事件。心神喪失として無罪判決。
<音江村一家8人殺人事件>
 1948年3月31日、北海道空知郡音江村で農家を営む男性宅で、男性(34)、妻(33)、長男(13)、長女(10)、次女(8)、二男(6)、三女(4)、三男(2)が寝ているところをめった切りにされて殺害された。遺体は翌日に発見。家の周りから、刃渡り5寸のマサカリが発見された。男性はかなり金を貯めていると、噂されていた。
 同じ村に住み、強盗事件で収監中の男性宅から、血痕らしきものが付いた雨合羽、防寒手袋、長靴が発見され、逮捕された。しかし男性は家にいたとアリバイを主張し、犯行を否認。雨合羽等についていた血痕らしきものについて、逮捕時に鑑定した北大法医学教室の沼田教授は人血であり被害者の血液型と一致すると結論したが、東大法医学教室古畑教授は「血痕が認められない」と結論した。
 裁判で弁護側は、男性の作業服などの血痕は人血でないことを立証するとともに、現場に残された足跡が本人の長靴と一致しないことを指摘した。地裁は、証拠不十分として無罪を言い渡した。
<幸浦事件>
 1948年11月29日、静岡県下磐田郡幸浦の一家四人が行方不明となった。強盗殺人と判断され、捜査を開始。死体が発見されず、一度は捜査本部が解散するが、2ヶ月後に再び設置される。そして2月12日、Aさん(23)、弟のBさん(19)が窃盗容疑で別件逮捕された。翌日、Aさんが「自白」。14日、Aさんの自白に基づいて、砂浜から一家四人の遺体が発見され、Cさん(45)、Dさん(38)が逮捕された。後に3名が強盗殺人、Dさんが贓物故買罪で起訴された。裁判では4人とも無罪を訴えるが、一・二審有罪。しかし最高裁では自白の任意性に疑い有りとして差し戻され、後に確定。Aさんは判決確定前の1959年8月8日、持病のテンカンがもとで、34歳の若さで死亡し、公訴棄却されている。静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問、捏造などが指摘されている。

<免田事件>
 1948年12月30日午前3時半頃、熊本県人吉市で祈祷師一家が鉈でめった打ちにされ、現金が盗まれているのを、夜警見回りから帰ってきた次男が発見した。祈祷師夫婦(76、52)が死亡、長女(14)、次女(12)が重傷を負った。1949年1月13日午後9時過ぎ、免田栄さん(23)が球磨郡の知人宅から連行され、翌日別件の窃盗事件で緊急逮捕された。不眠不休、拷問といった執拗な取り調べの末、16日に強盗殺人で再逮捕。その翌日から自白調書が作られた。一審第3回公判から全面無罪を訴えるも、死刑が確定。後に再審請求が開始され、無罪が確定。死刑囚が再審無罪となった初のケースである。
<香月事件>
 炭鉱町として知られる福岡県遠賀郡香月町で、1949年2月28日、炭鉱民主主義擁護同盟会長(福岡県香月町議)の男性が路上で何者かに二十数か所を刺されて殺された。男性は、1947年4月の町長選挙で社会党から立候補するも敗れていた。この地区は炭鉱主が勢威をふるっており、町長選挙でも有力炭鉱主である農業協同組合長が他地区から連れてきた人物が当選していた。男性が殺害されたのは、農業協同組合の役員選挙に問題があったことから、共産党などと同一歩調を取って町長と組合長をリコールしようと打ち合わせた帰り道であった。
 事件直後、有力者の炭鉱に勤める工員が自首。しかし検察側は捜査を続け、他の工員4名を逮捕し、起訴した。
 起訴された5名のうち、3名に無罪判決(うち求刑死刑1名)が言い渡された。
<三鷹事件>
 1949年7月15日21時過ぎ、国鉄中央線三鷹駅構内で無人列車が突然動き出して暴走し、民家に突入。死者6名、重傷者20名以上を出した。この日、国鉄職員大量人員整理に対し、組合側が断固闘争を宣言した日でもあった。最終的に10人が起訴。このうち9人が共産党員、三鷹電車区検査係の竹内景助のみが非共産党員だった。他に2人が偽証罪で起訴されている(こちらも無罪判決が後に言い渡されている)。
 竹内の供述は、捜査・公判段階を通じて無罪、単独犯行、共同犯行と、何度も供述を変転させたが、一審最終陳述で単独犯行を主張。結局竹内のみ無期懲役、他被告全員無罪(うち、求刑死刑2人)となった。この供述は、共産党シンパであった竹内が、弁護士に「10年後には、共産革命が起きて人民政府ができる。そうすれば君は英雄として迎えられ、高いポストにつくことができる」と言われたことが大きかった。しかし、控訴審では竹内死刑判決、他被告全員無罪となった。最高裁では、口頭弁論が開かれないまま、15名の裁判官による大法廷での審理となり、結局8対7という一票差で「検察、被告各上告を棄却」。こうして竹内は1955年に死刑囚となった。共産党は竹内に何の援助も行わなかった。
 その後、竹内死刑囚は無実を訴え再審請求を行ったが、1967年1月18日、脳腫瘍により獄死。45歳没。病状が進んでも、当局は一切の治療を行わなかった。
 2011年11月10日、竹内の長男が東京高裁へ第二次再審請求を申し立てた。2019年7月31日付で、東京高裁は請求を棄却した。2022年3月1日付で東京高裁は異議申立を棄却。2024年4月15日付で最高裁は特別抗告を棄却した。
<弘前大教授夫人殺害事件>
 1949年8月6日午後11時過ぎ、青森県弘前市で、弘前大医学部教授夫人Mさん(30)が、部屋に侵入した男に喉を刺され失血死。夫が出張中であったため、痴情関係や怨恨関係が疑われ、医大生が逮捕されるも、アリバイが証明されて釈放された。その後、現場にから道路に続いていた血痕より、8月22日、失業中のN氏(25)が別件の銃刀法違反で逮捕された。42日間の拘留でも自白せず、検察側はそのまま起訴。1951年1月12日、青森地裁弘前支部は「証拠不十分」で無罪判決(求刑死刑)を言い渡す。1952年5月31日、仙台高裁は「N氏が来ていた白シャツの血痕は98.5%の確率で被害者のもの」という古畑種基の鑑定を全面的に採用し、懲役15年判決を言い渡した。1953年2月19日、最高裁で上告棄却、確定。
 N氏は1963年1月に仮出所。1971年6月、N氏の幼友達が真犯人だと名乗り出た。読売新聞記者がスクープし、N氏は仙台高裁へ再審請求。1974年12月に棄却されたが、異議申立中に「白鳥判決」が出され、また、古畑鑑定の誤りが指摘されたこと、真犯人の指紋が隠匿されていた事実も明らかになり、仙台高裁は1976年7月13日に再審開始を決定。1977年2月15日、仙台高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。真犯人についてはすでに公訴時効が成立しており、起訴されなかった。
<松川事件>
 1949年8月17日午前2時9分、東北本線の金谷川・松川両駅間で旅客列車の脱線転覆事故が起き、機関士3名が死亡、乗客ら約30名が負傷した。レールに工作の痕があり、列車妨害事件として国鉄労働者10名、東芝松川工場労働者10名が逮捕、起訴される。
 物証はほとんどなく、被告側は無罪を主張。一審では5名に死刑判決、15名に無期懲役などの有罪判決を言い渡した。二審では3名を無罪にしたものの、残り17名に有罪を言い渡した。しかし上告審中の1958年、被告の当日のアリバイが書かれたメモを検察側が押収、秘匿していたことが発覚。1959年8月、最高裁は原判決を破棄、差し戻した。1961年8月、仙台高裁は全員に無罪を言い渡した。検察側は上告したが、1963年9月12日、最高裁は上告を棄却し全員の無罪が確定した。
<武生事件>
 1949年9月20日午前5時ごろ、福井地方裁判所武生支部及び福井地方検察庁武生支部の建物から出火。一時間あまりで裁判所の裁判記録、検察庁の証拠書類等を含め全焼した。首謀者として逮捕された在日朝鮮人の暴力団組長に死刑が求刑されたが、無罪判決。共犯として起訴された組員による単独犯行として、求刑通り無期懲役が言い渡されている。死者が0で死刑が求刑された、数少ないケースの一つ。
<二俣事件>
 1950年1月7日朝、静岡県磐田郡二俣町で、一家4人(父(46)、母(33)、妹(2)、妹(0)が血まみれとなって死んでいるのを長男が発見し二俣署に届けた。別件でSさん(18)が逮捕され、拷問の結果犯行を自白した。犯行時刻が6日午後11時過ぎであることは明らかで、Sさんにはアリバイがあったのだが、警察は苦し紛れの自白をでっち上げ、犯行時刻が午後8時半から9時であるとした。一・二審は死刑判決だったが、最高裁は自白の真実性に疑問を呈し、物的証拠の矛盾などもあったことから、1953年11月に原審破棄、差し戻し。1957年12月26日、東京高裁は無罪を言い渡し、確定した。紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。
<財田川事件>
 1950年2月28日、香川県財田川村で闇米ブローカー(62)が刺殺され、現金13,000円が奪われた。4月3日、警察は別の強盗事件で逮捕されていた谷口繁義さん(19)を拘留し、60日以上に渡って尋問。谷口さんは自白させられ、8月1日に逮捕された。谷口さんは無罪を訴えるが、古畑種基による血痕鑑定を唯一の物的証拠として死刑が確定。
 第一次再審請求棄却から1年2ヶ月後の1959年、法務省は死刑執行の起案書を書こうとしたが、高松地裁丸亀支部は厳重に保管すべき裁判不提出記録を紛失していたため、処刑手続きを中断した。
 1969年、高松地裁丸亀支部の矢野伊吉裁判長が谷口さんの無罪を訴える手紙を発見し、裁判官を辞職して弁護活動を始める。再審請求の末、1981年に再審が開始した。そして1984年3月12日、高松地裁で無罪判決が下され、確定、34年ぶりに解放された。しかし矢野氏は無罪判決を見ることなく、1983年3月に亡くなっていた。
<藍見事件>
 1950年4月27日、岐阜県藍見村(現美濃市)の郵便局宿直室で寝ていたUさん(41)の父親(66)、母親(58)、長男(15)の一家3人が、いずれも日本刀で全身に十数か所をメッタ斬りにされ、殺害された。翌年2月27日、消防団長として捜査に協力していたUさんが逮捕され、犯行を自供した。Uさんは公判段階から「警察では心身に苦痛を受けて嘘の自白をした」と否認に転じた。Uさんの自白や目撃者の証言はいずれも合理性がなく、動機も見当たらないとして無罪判決。即日釈放された。
<木間ヶ瀬事件>
 1950年5月7日、千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村のHさん宅で一家4人(Hさん(35)、妻(28)、長男(5)、次男(1))が殺害されているのが発見された。警察は、ブローカーを営んでいたHさんの金銭貸借関係のもつれによる恨みからの犯行とみて捜査を開始したが、捜査は難航。百日以上に亘って勾留され本件につき追及されていた本田昌三さんが翌年3月に「自白」、強盗殺人罪等での起訴、公判となった。一審では死刑判決を受けたが、二審では自白の任意性が否定されて無罪となり、そのまま確定した。
<小島事件>
 1950年5月10日午後11時ごろ、静岡県庵原郡小島(おじま)村にある製茶工場で、二階に住んでいた工場主の弟の妻が薪割り斧で殺害され、現金2500円が盗まれた。痴情や怨恨の線はなく、捜査は難航。村民の密告により6月19日、被害者宅から200mほど離れたところに住む男性(27)が逮捕された。物証が見あたらず、供述調書が二転三転するという状況下で、古畑種基博士による再鑑定の結果と“自白”の内容が一致したため、男性は起訴された。
 静岡地裁、東京高裁でともに無期懲役判決(求刑死刑)。しかし最高裁は自白の任意性を否定して、高裁へ差し戻した。1959年12月2日、東京高裁で無罪判決が出され、確定した。
 紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。
<葉原トンネル事件>
 1950年8月25日、福井県の北陸本線葉原トンネル内で、岐阜県に住む女性(65)の変死体が発見された。こめかみに刃物の跡があったことから、警察は他殺と断定。長男(36)が結婚生活の邪魔になるからと母親を殺害したとして逮捕された。長男は母親を善光寺詣でに誘い、その帰路、トンネル内を走行中の汽車のデッキで母親の頭を鳶口で殴った上、突き落として殺害したと断定され、尊属殺人罪で起訴された。
 福井地裁判決では、(1)致命傷と考えられる頭部の傷は、鳶口によるものとする金沢大学医学部教授の鑑定と、鳶口とは考えられないとする京大医学部教授および慶大医学部教授の鑑定があるが、後者の鑑定が妥当と認められる。(2)警察での自白に一貫性がない。(3)殺人の動機が母親殺しをするほどのものとは考えられない。(4)凶器といわれる鳶口を現場から家まで持ち帰っていることは常識上考えられない、として、無罪判決が言い渡された。
<八海事件>
 1951年1月25日早朝、山口県熊毛郡麻郷村八海(やかい)で老夫婦の惨殺死体を発見された。指紋からY(22)が指名手配され、翌々日逮捕。24日夜に忍び込み、盗みを働こうとしたところで夫(64)が目を覚まし、とっさに台所にあった斧を素早く取ってきて一撃。夢中で斧をふるいめった斬りにした。そして恐怖で腰が抜けていた細君(64)の口を押さえて窒息死させた。室内を物色して現金一万数千円を盗んだ後、鴨居から首を吊ったように見せかける偽装工作を行っていた。
 証拠もそろい、一件落着するはずだったが、警察は現場の状況から複数犯だと先入観を持ち、さらにYを追求。最初は驚いたが、別に首謀者がいれば罪は軽くなると判断したYは、遊び仲間のAさんほか三人の名前を「自供」。四人は逮捕され、拷問を受けて無理矢理「自供」させられた。証拠は何もなかった。Aさんが主犯、Yを含む四人が共犯と警察は発表。一審でAさんは死刑、Yを含む四人は無期懲役の判決が出た。全員が控訴するも、1953年の広島高裁で棄却。Yは二審の無期懲役判決に従った。Aさんは冤罪事件で有名な弁護士、正木ひろしに手紙を書き救いを求める。正木は綿密な調査により無罪を確信、『裁判官』を出版しベストセラーになり、この事件は全国に知られるようになった。
 その後、最高裁と高裁を行ったり来たりし、1968年、ようやく四人に無罪判決が出た。すでにYは出所していた。映画『真昼の暗黒』はこの事件をモデルにしたものである。
 最高裁が死刑判決を破棄し、そのまま無罪を言い渡した、唯一のケースである。
<春日事件>
 1952年3月8日深夜、高松市の雑貨商宅から出火、夫婦(夫67、妻62)の遺体が発見された。夫婦は刃物で刺殺されたことがわかり、1955年3月になって近隣に住む顔見知りのTさん(逮捕当時23)が逮捕された。高松地裁は(1)警察での自白は転々としており、任意性・信用性は認められない。(2)被害者を前から刺したというが、後ろにも傷がある。無抵抗だったというが、被害者には抵抗した跡がある。(3)精神的錯乱もなく、当夜も平常通りと仕事をしている。(4)三畳間に放火したと言っているが、出火場所は六畳間。(5)時間的な疑問が残る。…などとして無罪判決。
<島田事件>
 1954年3月10日、静岡県島田市で幼稚園中のお遊戯会中に幼女(6)が行方不明となり、3日後に暴行、絞殺された死体となって発見された。5月24日、赤堀政夫さん(25)が逮捕された。一旦釈放されたが、28日に別件の窃盗容疑で逮捕。激しい追求の後、1週間後に自白した。最高裁で死刑が確定。1987年に再審が開始された。そして1989年、静岡地裁で無罪判決が下され、確定、35年ぶりに解放された。
<仁保事件>
 1954年10月26日朝、山口県吉城郡大内村仁保で、農業Yさん一家(夫婦、母、子供3人)が惨殺死体で発見され、7700円が奪われていた。怨恨に基づく複数犯という見解のもとで捜査されたが、誤認逮捕のあげく、1年後、大阪にいた仁保出身のOさん(38)を別件逮捕。160日以上もの拘留、取り調べの末、ついにOさんは「自白」した。一・二審死刑判決となるも、最高裁で差し戻しとなり、1972年に無罪が確定した。
<中華青年会館殺人事件>
 1955年8月17日の夜、東京都世田谷区にある中国人留学生寮「中華青年会館」で強盗放火殺人があり、19歳の学生が絞殺された。在日中国人の元法政大学生(当時24)が逮捕、起訴されたが、「自白」以外の証拠が無く、自白調書と現場状況が著しく食い違っていたため、裁判所は自白の任意性を認めなかった。
<松山事件>
 1955年10月18日、午前3時半頃、宮城県志田郡松山町で農家を営む一家の家が全焼。焼け跡から夫(53)、妻(42)、娘(9)、息子(6)がマキワリで斬りつけられ死亡した遺体が発見された。最初は痴情による怨恨説が中心であったが、斎藤幸夫さん(24)が12月に別件で逮捕、4日後に一度自白したが、その後は否認。しかし強盗殺人・放火で起訴され、最高裁で死刑が確定した。再審請求を続けた結果、1983年1月21日に再審が開始した。そして1984年7月11日、仙台地裁で無罪判決が下され、確定。斎藤さんは29年ぶりに解放された。捜査当局による証拠捏造が発覚している。
<玉名市継母毒殺事件>
 熊本県玉名市のO被告は、日頃から継母(50)と仲が悪く、結婚の際の分家をめぐるトラブルから継母を毒殺しようと計画。1956年4月17日、夕食の佃煮に農薬を入れ、継母を殺害。実弟も中毒症状を起こしたほか、父親や他の兄弟ら5人は佃煮を食べず、未遂に終わった。殺人、尊属殺人未遂、殺人未遂の罪に問われたO被告に、検察は死刑を求刑したが、一審熊本地裁は自白に信用性がなく、農薬を入れたのがその日のおかずではない佃煮だったことが殺人と結びつかないなどとして、証拠不十分として無罪判決。これに対し、福岡高裁は事実誤認を理由で破棄差戻し。差戻し審で有罪、懲役12年の判決を受け、最高裁で確定した。
<宮崎県雑貨商一家3人強殺事件>
 1956年5月23日、A被告(43)とN被告は共謀して宮崎県三ヶ所村(現五ヶ瀬町)の雑貨店へ忍び込み窃盗に赴く途中、観音堂に立ち寄り、同所で寝泊まりしているM被告(48)を仲間に引き入れたが、ここで強盗殺人の共謀が成立し、3名で雑貨店に押し入り、家人を斧、包丁などで傷付け、主人(52)を殺害し、妻と義弟に傷害を負わせた。
 公判でA被告は犯行を否認する一方、N被告とM被告は3名共犯を主張したり、Aは無関係だと言ったり、供述が再三変転した。一審ではA被告について、「観音堂での謀議が認められない」「タバコの吸い殻の唾液はA被告のものではない」「障子に付着した血液からA被告の血液型は検出されなかった」などとして無罪判決。M被告には無期懲役判決を言い渡した。N被告は1960年6月、一審公判中に病死した。
 控訴審では一審判決を破棄。「A被告は公判で犯行を否認しているが、捜査段階では共犯を認めている。自供内容も信頼でき、状況や証拠などから共犯と認めざるを得ない」として、A・M両被告にともに改めて無期懲役を言い渡した。
<名張毒ぶどう酒事件>
 1961年3月28日、三重県名張市郊外の村で、生活改善クラブの寄り合いで女性陣が飲むぶどう酒に農薬のニッカリンTが仕込まれてあり、奥西勝(34)の妻、愛人などを含む5人が死亡、12人が重軽傷。元クラブ会長だった奥西は狭い村の中で妻の他にも数人と関係を結んでいたが、特に愛人との中を周囲に知られて妻との仲が険悪になっており、一切を精算しようとするために妻殺しを企んだのが動機とされる。当初は妻による無理心中説も出ていたが、事情を追求された奥西が自白し、逮捕された。
 裁判で奥西は一貫して無罪を訴え続けた。一審無罪判決。二審で逆転死刑判決。1972年6月、最高裁で死刑が確定。一審無罪で、二審死刑判決が出た唯一のケース。
 奥西は無罪を訴え再審請求を行っていたが、2015年10月4日、肺炎のため収容先の八王子医療刑務所で死亡。89歳没。遺族が再審請求を申し立てている。
<袴田事件(清水市一家4人殺害事件)>
 1966年6月30日午前1時過ぎ、清水市の味噌製造会社味噌工場にある専務方に何者かが侵入し物色していたが、専務の男性(42)に見つかったため、くり小刀で数回刺して殺害。さらに物音で起きた妻(39)、長男(14)、次女(17)も次々に刺して殺害した。そして専務が保管していた売上金204,915円と小切手5枚(額面合計63,970円)、領収書を奪った。さらに工場内にあった混合油を持ち出して遺体に振りかけて放火し、木造平家住宅1棟(332.78m2)を焼毀した。長女(19)は祖父母の家に泊まっていたため、無事だった。
 被害者宅には多額の現金・預金通帳・有価証券などが残されており怨恨による犯行と考えられていた。しかし、金袋がなくなっていることが判明。7月4日、元プロボクサーで同工場に勤務している袴田巌(30)の部屋から血痕のついたパジャマを押収。大々的に報道されたが、実際は二度の鑑定が不可能なほどの微量であった。8月18日、捜査本部は袴田を逮捕。連日密室で12時間以上に及ぶ過酷な取り調べの結果、21日後に袴田は「自白」した。
 裁判で袴田は「自白」は強要されたと無罪を主張。公判では犯行時の着衣はパジャマと検察側は主張したが、事件から1年2か月後の1967年8月31日、血の付いたズボンなど「5点の衣類」が、麻袋に入った状態で、すでに捜索済みであったはずのみそ工場のタンクの中から見つかった。衣類から被害者4人のうち3人の血液と、袴田被告の血液が付いていると鑑定された。補充捜査が行われ、9月12日にズボンの切断面と一致する端布が、袴田被告の実家から発見された。9月13日に公判が急遽開かれ、検察側は冒頭陳述における犯行時の着衣をパジャマから5点の衣類に変更した。静岡地裁の判決で供述調書45通の内44通について、「自白獲得にきゅうきゅうとして物的証拠に関する捜査を怠った」と捜査手法を批判し、任意性がなく証拠とすることができないとして排除し、1966年9月9日付の供述調書のみ証拠として採用した。また、犯行当時着用していた衣類については「虚偽の自白を得」たとして、捜査について厳しく批判したものの、死刑判決を言い渡した。地裁の判決では主任裁判官を務めた熊本典道氏が、自白を取った方法や信用性、また凶器とされるくり小刀と袴田との結びつきに疑問を呈し、合議体(3人)で行われた当時の審理で無罪を主張し、1対2で敗れたことを2007年3月に明らかにした。その後、高裁、最高裁で死刑確定。
 第一次再審請求は棄却。しかし第二次再審請求で静岡地裁は、犯行着衣とされた「5点の衣類」をめぐるDNA型鑑定結果を新たな証拠と認め、再審開始を決定した。さらに刑の執行停止に加え、拘置の停止も認めたため、袴田は釈放された。その後東京高裁では決定が棄却されたものの、最高裁で差し戻し、そして東京高裁で再審開始が決定した。
 再審で静岡地裁は袴田に無罪判決(求刑死刑)を言い渡した。「5点の衣類」の捏造を認めた。控訴せず確定。
<土田・日石・ピース缶爆弾事件>
 1969年10月24日、東京都新宿区の警視庁第8機動隊庁舎に、50本入りピース缶に偽装した爆弾が投げ込まれたが、不発だった。
 1969年11月1日、東京都港区のアメリカ人文化センターに、ピース缶を使用した時限装置付爆弾が入ったダンボール箱が配達されて爆発。職員1人が負傷した。
 1971年10月18日、東京都港区の日本石油本社ビル地階にある郵便局に運ばれた郵便小包の中に入っていた爆弾が爆発。郵便局員1人が重傷を負った。宛先は後藤田正春警察庁長官と、新東京国際空港公団総裁だった。
 1971年12月18日、土田国保警視庁警務部長(後に警視総監)の自宅に送られたお歳暮の中に爆弾が爆発、T夫人(47)が死亡、四男(13)が重傷を負った。
 新左翼活動家の犯行と警察は断定し捜査。1972~1973年の間に警察は、当時赤軍派に属していたMTを全事件の主犯と断定。他17名も逮捕した。しかしMTを含む18名は、裁判で無罪を主張。MTには死刑が求刑され、他にも無機・有期懲役が求刑されたが、ピース缶爆弾事件で有罪判決が出た2名を除く16名が一審で無罪判決が出された。5名は一審で無罪が確定、6名は控訴棄却され確定、5名は控訴取り下げにより、1985年12月28日までに無罪が確定している。また有罪が確定したうちの1名は、再審で無罪が確定している。以下の日付は、死刑を求刑されたMTについて記している。
<豊橋事件>
 1970年5月15日、豊橋市で母親が強姦後に殺害され、さらに放火によって子供2人が焼死した。3ヶ月後に男性(当時21)が逮捕された。
 初公判では起訴事実を認めたが、第2回公判から起訴事実を否認。新聞記者が動き、当時の捜査を担当した刑事(退職)が法廷で「捜査が物証に基づかないものであった」と批判した。無罪判決後、犯人が残したとされる猿股に、男性とは別の血液型の精液が付いていたことが判明。捜査機関による証拠隠しが明らかになった。
<山中事件>
 1972年5月11日、石川県加賀市在住のDさん(24)が行方不明となり、7月26日に同県江沼郡山中町の林道において白骨死体で発見された。「共犯者」の証言により、霜上則男さん(26)が殺人容疑で逮捕され、起訴された。また、「共犯者」への口封じによる殺人未遂についても起訴された。一・二審で死刑判決が出るも、最高裁で差し戻され、無罪判決が確定。
<北方事件>
 1989年1月27日、佐賀県北方町の山林で三人の女性の死体や白骨が発見された。佐賀県警は捜査本部を開設、連続殺人と断定。白骨遺体は武雄市の料亭従業員A子さん(48)で、1987年7月8日から行方不明になっていた。二遺体は、北方町の主婦B子さん(50 1988年12月7日から行方不明)と、同町の従業員C子さん(1989年1月25日行方不明 37)であり、二遺体はいずれも絞め殺されていた。
 時効直前の2002年6月11日、佐賀県警はC子さん殺害容疑で、住居侵入と窃盗の罪で鹿児島刑務所に服役中の元運転手M(39)を逮捕した。MはC子さんと顔見知りであり、1989年には一度C子さん殺害を自供していた。ところがその後、容疑を否認。物証が乏しく、逮捕が見送られていた。引き続きA子さん、B子さん殺害でも逮捕、起訴された。Mは容疑を一切否認している。検察側は死刑を求刑するも、一・二審でいずれも無罪判決が出て、確定している。
 Mはその後、福岡、宮崎、大分、鹿児島の4県で127件の窃盗事件などを繰り返した。被害総額は約440万円に上る。このうち2011年6月~12月に起こした5件の窃盗(被害総額計約34万円)と、2012年1月に使用した覚せい剤取締法違反容疑で福岡地検に送検された。2012年6月11日、福岡地裁は懲役2年10月(求刑懲役3年6月)を言い渡した。
<高岡市組長夫婦射殺事件>
 暴力団副組長のKは、暴力団組長(当時56)が強引な組織運営をすることなどを疎ましく思い、暴力団幹部のOと共謀して、別の元暴力団幹部I、Wに殺害を指示したとされた。IとWは2000年7月13日、富山県高岡市の組長宅で夫婦を射殺した。
 判決では、Oが自分の刑事責任の軽減を図る強い動機があったとして、虚偽の供述をした可能性を指摘。「K被告から電話で殺害を指示されたとする共犯者の供述に信用性が認められない」と述べ、起訴事実の証明が不十分と結論付けた。二審も同様で、無罪が確定した。O、Iは求刑通り死刑、Wは懲役18年(求刑無期懲役)が確定。
<広島一家3人焼死事件>
 2001年1月17日午前3時過ぎ、広島市西区の男性N宅で、1階で寝ていた飲食店経営の母親(当時53)の首が両手で絞めてられて殺害。家に灯油がまかれて火が付けられ、木造2階建て住宅が全焼し、2階で寝ていた長女(当時8)と二女(当時6)が焼死した。
 事件から5年後、Nが詐欺事件で逮捕された。拘留中に3人の殺人と、死亡保険金など計約7300万円をだまし取ったことを認め、起訴された。
 しかし、Nは公判で無罪を主張。裁判所も、自白の信用性について否定し、物的証拠も無いことから無罪を言い渡した。ただ、地裁では「シロではない、灰色かもしれないが、クロとは断言できない」、最高裁では「被告が犯人である疑いは濃いが、自白内容の不自然さは否定できない」と言及された。
<大阪市平野区母子殺害放火事件>
 2002年4月14日、大阪市平野区の4階建てマンション3Fに住む会社員宅にて、会社員の妻(当時28)が首を犬の散歩用のひもで絞めて殺害され、長男(当時1)も浴槽に沈めて水死していた。さらに部屋に火をつけられ、42平方メートルを全焼させた。
 会社員の母親と再婚していた、元府警巡査で大阪刑務所刑務官の男性M(45)が逮捕された。Mは以前から妻に対して性的嫌がらせを続けていたとされる。
 Mは捜査段階から犯行を否認し、逮捕後は黙秘を貫いた。公判では無罪を主張。直接証拠がないため、検察側は目撃証言やマンション階段の灰皿で見つかったたばこの吸い殻の唾液が、MのDNA型と一致したという鑑定結果などの状況証拠を提出した。一審無期懲役、二審死刑判決が出るも最高裁は、物証となった吸い殻や状況証拠についてM被告が犯人でなければ合理的に説明できない事実関係があるか疑問とし、審理が尽くされていないとして審理を大阪地裁に差し戻した。府警は、灰皿から見つかった残り71本の吸い殻について、起訴から間もない2002年12月下旬に紛失。しかし府警と検察はその事実を公表していなかった。差し戻し審で検察側は新証拠を提出するも一蹴され、地裁は無罪を言い渡した。控訴審は検察側の請求を受け、凶器とされる犬のひもなど計10点のDNA型鑑定を3年近く費やして実施。検察は被害者の遺体に付着していた多数の皮膚片などのDNA型を調べる独自の鑑定も行ったが、いずれも被告と一致するDNA型は検出されなかった。高裁は無罪を言い渡し、検察側の控訴を棄却した。検察側は上告せず、無罪が確定した。
<土浦市家族3人殺害事件>
 茨城県土浦市の無職男性I(28)は2004年11月24日正午頃、土浦市内の自宅で母(当時54)、姉(当時31)を包丁や金鎚で殺害。さらに、同日午後5時半頃に帰宅した同市立博物館副館長の父(当時57)の頭を金鎚で殴るなどして殺害した。母親の遺体近くには、おいにあたる姉の長男(11ヶ月)が座っていた。Iは専門学校中退後、19歳ごろから自宅に引きこもっていた。職に就かないことを巡って父から叱責され、口論になったことから殺害を考えるようになり、包丁や金鎚を購入。犯行当日は、里帰り中の姉と口論になり、暴力をふるったのをきっかけに殺害を決意した。
 検察側は約4ヶ月の鑑定留置の結果、「刑事責任能力は問える」と判断して起訴。弁護側が請求した精神鑑定では、Iは24歳ごろから統合失調症に罹患して現在も悪化しており、また事件当時は心神耗弱状態で、心神喪失だった可能性も否定できないと指摘された。検察側の求刑死刑に対し、一審では心神喪失であったとして無罪を言い渡すも、二審では責任能力を部分的に認定し、無期懲役判決。最高裁で確定した。
<舞鶴女子高生殺害事件>
 京都府舞鶴市の高校1年の少女(当時15)が2008年5月6日夜、自宅を出たまま行方不明になり、府警が8日朝、自宅から約7㎞離れた同市内の雑木林で遺体を発見した。顔などを激しく殴打され、失血死だった。京都府警は11月15日、現場近くに住む無職Nを別件である女性の下着1枚とさい銭約2,000円を盗んだ窃盗容疑で逮捕。京都地裁舞鶴支部は2009年2月25日、窃盗罪でNに懲役1年(求刑懲役2年)を言い渡した。控訴せず確定、京都刑務所で服役。府警は2009年4月7日、殺人と死体遺棄の容疑で逮捕。京都地検は28日、殺人と強制わいせつ致死の罪で起訴した。
 Nは1973年9月17日に2名を殺害し、1974年11月11日、大津地裁で懲役16年判決(求刑無期懲役)を受けている。出所後の1991年9月12日、舞鶴市内の夜道で若い女性の自転車に体当たりして転倒させいたずらしようとしたところを通りかかった海上自衛官に取り押さえられ、強制わいせつ、傷害容疑で逮捕。京都地裁舞鶴支部で懲役5年の判決を受けている。
 逮捕当初からNは無罪を主張。直接証拠はなく、間接証拠である目撃証言と、Nが非公表の遺留品供述について供述したことが焦点となった。一審ではこれら間接証拠の信用性を認めたが、計画性はなかったとして無期懲役判決。しかし二審では間接証拠についていずれも信用性を認めず、状況証拠で有罪認定する場合の基準を示した最高裁判決を踏まえ、被告が犯人でなければ説明できない事実関係が含まれていないと判断した。最高裁も二審判決を支持し、無罪が確定した。
 Nは二審無罪判決後釈放されたが、2013年5月28日にコンビニで万引きをして逮捕された。8月30日、大阪地裁で懲役1年2月(求刑懲役1年6月)の実刑判決が言い渡されており、最高裁判決時は服役中であった。
 Nは2014年11月5日、知人女性(当時38)をナイフで刺した殺人未遂事件を起こした。2016年3月4日、大阪地裁で懲役16年(求刑懲役25年)判決。控訴せず、確定。同年7月11日、大阪医療刑務所で病死。67歳没。
<鹿児島夫婦殺害事件>
 2009年6月18日夜、鹿児島市に住む夫婦宅に何ものかが窓ガラスを割って侵入。仏間で夫(当時91)と妻(当時87)の顔などをスコップで十数回殴打して殺害した。夫婦は2人暮らしで、貸家など不動産を多く所有する資産家だった。現場に残された指紋から無職Sが逮捕されたが、Sは当初から無罪を主張した。
 裁判員裁判の一審では、現場に残されたSの指紋から、「被告が過去に周辺をさわった事実は動かない」としつつ、「後から別人が物色した偶然の一致も否定できない」と述べた。凶器とされるスコップにSの指紋などがないことや、現金が容易に発見できるところに残され、被害者が激しく殴られている状況などから「金品目的」で侵入したとする検察の主張に疑問が残ることも指摘。「『被害者宅に行ったことは一度もない』という被告の供述はうそだが、その一事をもって、直ちに犯人であるとは認められない」と述べた。鹿児島県警についても「真相解明に必要な捜査をしたか疑問が残る」と指摘。そして「被告を犯人と認定することは『疑わしきは被告人の利益に』という原則に照らして許されない」と述べた。
 Sは釈放後の2012年3月10日に病死。3月27日付で福岡高裁宮崎支部は、公訴棄却の決定をした。

<不明>
<その他>
 求刑死刑で判決が無期懲役以下。その後、再審で無罪となったケースは次がある。  下記の事件では被告が精神鑑定で心神喪失と判断されたため、一審で検察側が求刑せず、無罪判決が出たものの、控訴前に仮病であることがばれたため、控訴審で死刑を求刑され、無期懲役判決が出たケースである。

南条悟史様より多数の情報をいただきました。有り難うございました。

(2012年6月20日記)
(2012年7月8日 大幅追記)
(2012年12月23日 無罪判決1件追加)
(2014年4月19日 その他のケースに1件追加)
(2014年7月10日 裁判結果追加)
(2017年3月5日 裁判結果追加)
(2024年1月31日 裁判結果追加)



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