木々高太郎『熊笹にかくれて』




<お断り>
 今回取り上げる木々高太郎『熊笹にかくれて』は、1960年5月25日に桃源社版書き下ろし推理小説全集の一冊として出版されたものです。朝日新聞社版の『木々高太郎全集』にも収録されておらず、また、再刊もされていません。現在探求中なのですが、なかなか見付けることができません。そのため、池田浩士『死刑の[昭和]史』(インパクト出版会)に収録されているあらすじから本編を書いております。そのため、結末等はまったくわかりません。実際に本を手に取り次第、本編を改稿するつもりです。ご容赦ください。



 2001年5月11日、画期的な判決があった。「らい予防法」(96年廃止)による国立ハンセン病療養所への強制隔離政策で人権侵害を受けたと主張し、入所者ら元患者が1人当たり1億1500万円を求めたハンセン病国家賠償訴訟の初の判決が熊本地裁であった。杉山正士裁判長(永松健幹裁判長代読)は「遅くとも1960年以降は隔離の必要性はなく、同年には法の隔離規定は違憲性が明白だった。65年以降は予防法の改廃も怠った」と指摘。国賠訴訟では異例の「立法上の不作為」という国会の過失も含めて国の違法性を認め、原告127人全員に総額18億2380万円(入所期間に応じて1人当たり1400万〜800万円)を支払うよう国に命じた。
 国側は小泉純一郎首相の判断で控訴せず、判決が確定した。

 いったいハンセン病とは何なのか。高松宮記念 ハンセン病資料館にはこのように示されている。

 ハンセン病とは、らい菌によって引き起こされる慢性の細菌感染症。主に末梢神経と皮膚が侵されるなどの症状が発現する。らい菌は、抗酸菌(ある染色液でいったん染まると、酸やメタノールなどを作用させても、容易に脱色しない性質を持つ細菌)と言われる細菌の一種で、1873年にアルマウェル・ハンセンによって発見された。ハンセン病という呼び名は、この発見者の苦難の業績を称えて名付けられた。
 ハンセン病は非常に感染しにくく、しかも治療によって確実に軽快する。しかし昔は、接触により感染する、遺伝するなどと間違った情報が伝えられ、恐れられてきた。

 接触による感染、遺伝などの誤った情報は、ハンセン病患者をどれだけ苦しめてきたかのだろうか。“ハンセン病の元患者は、「らい予防法」という国の政策により、強制的に隔離され、施設に何十年間も強制的に収容された。そして、施設の中では、強制労働、監禁、断種、堕胎などを強要され、「人間」として享受すべき権利を奪われ続けてきた。”という記録が残されていることに、驚くばかりである。学校では何も教えてくれない。“教科書が教えない負の歴史”である。

 1931年に制定された「らい予防法」により、強制隔離政策は始まった。そして1953年、新しい「らい予防法」が制定され、国による強制隔離政策は永続・固定化されていった。
 1952年に起きた藤本事件は、ハンセン病患者への強制隔離政策と偏見が生んだ悲劇である。

 藤本事件を題材に扱ったミステリに、木々高太郎が1960年5月25日、桃源社版書き下ろし推理小説全集の一冊として出版した『熊笹にかくれて』がある。


 物語は、東京のある外国語大学の英語教授である堀越盟が、同僚のスペイン語教授に連れられて「ケニーの店」という銀座のバーを初めて訪れるところから始まる。ちょうど春のはじめで、天井いっぱいに桜の花が飾られている。しかし、それは全て造花である。その店では、女性従業員を「女ボーイ」という変わった言い方で読んでおり、これも桜の造花とともに堀越の興味を喚起する。やがて現れたケニーと名乗ったマダムと言葉を交わすうちに、堀越は、これこそ自分が待っていた女性だ、という思いにとらえられる。両親のすすめる相手と三十歳のとき結婚して、味気ない三年間の夫婦生活を過ごし、三年前に妻が結核で死んだあと、彼は、自分からすすんで再婚を考えることをせぬまま生きてきた。ところが、「いま、偶然にケニーと会って、盟は、初めて目を開いて世界を見た人があるとすれば、こんな気持ちなのであろうと考えるようになつた」のである。
 こうして、堀越は足繁くケニーの店に通うようになる。ケニーも彼に好意を示す。もしも二人の間に愛情が芽生えれば、今度こそ理想の結婚をするのだ。ケニーの生まれや経歴など詮索する必要はない。堀越はこう考えていた。初めてケニーと会ってから一年が過ぎた頃、閉店間際の店に入ろうとしたとき、中から一人の男が出てくるのとすれ違った。昔の学生が着たような黒いマントに身を包んだその男は、すれ違いざまに一枚のビラのようなものを差し出した。何気なくそれを受け取って、あとから読んでみると、それは、無実の罪で死刑を宣告された熊本県のライ患者の救援を呼びかけたものだった。堀越にとって、それは自分とは関わりのない遠い世界の出来事でしかなく、すぐに忘れるともなく忘れてしまっていた。
 その夜、堀越は、店の外まで送ってきたケニーから、初めてその本名を聞かされた。
「あたしの本名ね、まだ御存知ない?」
「うん。本名なんてどうでもいいよ。ケニーでよい、名がなくっても、君は君だ」
「ありがとう。−でも、もうお調べになっているかと思ったんですが、やはり知っておいていただきたいの」
「聞かせてくれ」
「賀毛兼衛と、言いますわ」
「かねえ−それでケニーなのだね」
「そうです」
 そのとき堀越は思い当たった。さっきの無実だというライ患者が、やはり賀毛という変わった姓だったのだ。ケニーは、あれは自分の郷里の話なのだ、と堀越に答えた。遠い世界の出来事は、ケニーという存在を介して、堀越に接近し始めた。故郷がいやで十五の時に一人で出奔した、というケニーの口から、かれは、ケニーの故郷のことを、ひいてはビラが無実を訴えている事件の背景の一端を、うかがい知ることができたのだった。それによれば、ケニーの故郷では、あの家はライ病の筋だという中傷が、相手をやっつける強力な武器になる。自分でそれに対する反証を明示し得ない限り、男であれ女であれ、社会的に葬り去られてしまうのである。今でもそれは変わっていないのだろう、とケニーは言う。堀越は、故郷のこのような現実を語ってくれたケニーから、話の内容の重苦しさにもかかわらず、あたたかいものを受け取った気持ちだった。
 遠い熊本県の事件に堀越がかかわることになるもう一つのきっかけは、ケニーの店を紹介してくれた同僚のスペイン語教授、荒三一郎からやってきた。荒は、無実のライ病患者、賀毛辰治死刑囚を救う運動に自分が加わったこと、多くの文化人が参加しているこの救援運動に堀越もぜひ力を貸してほしいことを、ある日、ケニーの店でうったえたのである。堀越は、ケニーの故郷で起きた事件だという理由だけから、これに無関心でいることはできなくなっていたが、だからといって、冤罪であるという確かな根拠もまだ知らずにいながら、すぐに運動に加わる決心をすることなどできない。その上、ケニーの様子を見ると、嫌な思い出がつきまとう故郷の出来事にあまりかかわりたくないらしいのだ。決意を固めることができぬまま何度か事件を話題にするうちに、堀越は、ケニーが故郷を捨てるよりまえに、五人姉弟の長姉がまだ二十歳になるかならぬかの頃自殺していたことや、おそらく母もすでに死に、次姉が幼い弟と妹の面倒を見ることになったのではないか、というケニーの生家の境遇を聞かされる。長姉が自殺したとき、ケニーはまだ幼かったが、ひょっとすると誰かにライ病だという噂を立てられたために死んだのではないか、というのだった。
 物語は、こうして、熊本県の一死刑囚を巡る救援運動に主人公がかかわっていく過程が、同時にケニーの過去と現在が明らかになっていく家庭と重なり合う、という形で進行する。

池田浩士『死刑の[昭和]史』(インパクト出版会)より引用)

 この後、堀越は、木々高太郎のデビュー作からの探偵役である大心池先生の助言を受けながら、事件にかかわってゆく。堀越が、賀毛事件の全記録を読み終わったのは、1960年2月25日だった。本事件の再審請求が59年11月30日に熊本地裁によって却下され、福岡高裁への即時抗告も、60年2月17日に棄却されたところであった。その後、堀越、荒、ケニーが真犯人の解明に乗り出す。そして、ライ病をめぐるおぞましい現実が次第にあらわになり、思いがけない事件の真相が明らかにされる。

 この本について中島河太郎は、「作風の脱皮をはかったものではなかった」(『推理小説展望』)とあっさり書いている。実際に読んでいないのでわからないが、少なくとも簡単に「作風の脱皮をはかったものではない」と言い切れないだろう。実在の事件をモデルにして書かれているのだから。
 この事件の結末が、そして“真相”がどのようなものであったかはわからない。モデルとなった藤本事件の支援に加わっていたかどうかもわからない。ただ、こういった“冤罪事件”をテーマに取り扱うのだから、少なからず関心があったと予想される。ぜひとも本を読み、“作者の声”を知りたいところである。

 ここで、現実の藤本事件の概要、経緯を紹介する。

 藤本松夫(29)は、ライ病であるがゆえに多くの場面で差別と偏見を受けてきた。松夫がライ病との烙印を押されたとき、身内の叔父・叔母でさえ世間を憚り、自殺を迫った。妻は、あまりのいたたまれなさに、ある日「山に行って来る」と言って家を出たまま、戻ってこなかった。

 事の発端は、1950年の暮、役所から届いた一通の通知であった。「ライ病患者として翌年2月7日より国立療養所菊池恵楓園に収容する」とあった。家族はおろか、自覚症状のない本人にとっても青天の霹靂だったが、事の経緯には、近隣に住む藤本某(49)が絡んでいることは容易に察しがついた。丁度そのころ、九州ではライ病患者狩りの嵐が吹き荒れていた。ライ病患者の隔離根絶を目指して「菊池恵楓園」で一千床の増床を完成させたものの、なかなかベッドが埋まらない現状に、関係当局は「ベッドを空のままにしてはいけない」と患者の掘り起こしを行った。藤本某は、水源村(現菊池市)村役場で衛生係を勤めていた。藤本某はもともと小ずるいところがあり、親類、隣人にも彼を快く思わないものがいた。他に重傷のライ病患者がいたにもかかわらず、松夫に通知が来たのも藤本某の仕業であることは間違いなかった。重傷のライ病患者は、村の有力者の家族であった。

 1951年8月1日深夜2時頃、窓を開けて眠っていた藤本某の寝床に、竹竿に結びつけられたダイナマイトが蚊帳の裾から差し込まれた。しかし、完全に爆破しなかったので、藤本某と4歳の次男が一週間から十日の怪我を負うにとどまった。このとき、藤本某は恨みを買っていることを気にしてか、犯人は松夫であると訴えたのである。松夫はアリバイを主張したが、家族の証言ということで取り上げられなかった。しかも家宅捜査時に立ち会ったときには見つからなかったはずの導火線や布片が押収物とされ、犯行の決め手となった。ダイナマイトの入手先すら調べられず、52年6月9日、熊本地裁の「菊池恵楓園」内の出張法廷において、懲役十年の判決を受けた。
 話がちょっとずれるが、このダイナマイト爆破未遂事件も冤罪であることはほぼ間違いないだろう。松夫はダイナマイトの取扱い方を知らなかったというし、入手経路も不明。さらに、完全に爆破しなかったという事実を考えると、藤本某による自作自演の猿芝居である可能性が高い。

 松夫は控訴したが、絶望感から療養所の特設拘置所を脱走した。それは罪の汚名を着せられたことよりも、「ライ病」という病気の名が恐ろしかったからだった。自分が死ねば娘がライ病の父の子と言われなくなるだろう、そう思っての脱走だった。しかし、脱走してすぐにのべ300人にものぼる捜査陣が動員され、家にすら寄りつくことができなかった。そんな厳戒態勢のさなか、7月7日朝に藤本某の惨殺死体が村内の山道で発見されたのである。捜査陣はすぐに、犯人を逃走中の藤本松夫と断定した。この予断と偏見が松夫を死刑に追い込んだ。
 松夫はその後逮捕されたが、感染を恐れた捜査員は、十分な猶予と釈明の機会も与えないまま、一方的に自白を迫った。しかも、逮捕時に警官に撃たれた全治7週間の傷すら、運び込まれた病院の医師はライ病患者と聞いた瞬間十分な治療を施さず、取調中も松夫は激痛の中にあった。
 自白の方も、取り調べがすすむうちに凶器が二転、三転し、しかも決め手となるはずの凶器や松夫の着衣から血液は検出されなかった。ところが鑑定者は「水で洗い落とした場合等には血痕は水に溶解し去るものなるを以て」と、血痕が検出されなくても犯行の凶器であるという「意見」をわざわざ付記した。ちなみに水で洗い落としたとしても、血液の検出は当時の鑑定でも可能である。着衣については「検査資料はそもそも不潔であるし、又熊本で蒸気等により減菌されたそうであるから、何かしら不明の物理学的科学的なあるいは雑菌等の繁殖等が影響して……」というわけのわからない理由が書かれた。もちろんどちらも、松夫を犯人に仕立て上げるために無理矢理でっちあげた鑑定結果であるとしか言いようがない。考えてみれば、厳戒態勢のさなかに、村内の山道で松夫が人を殺せるほどの余裕があるはずがない。しかし、裁判で彼は死刑判決を受ける。法廷で松夫が検察側提出の証拠物件を自ら確認しようとしても、感染の恐怖から検事側はその機会を与えなかった。しかも裁判官はゴム手袋をはめ、長さ1mの長箸で証拠物件を扱うという異常さであったが、「菊池恵楓園」に特設された傍聴人なしの特別法廷では、異議を唱える人がいなかった。

 1953年8月29日一審死刑。54年12月13日控訴棄却。この頃から、不当な裁判経過にライ病患者たちが異議を唱え始めた。そしてその声は全国に広がった。けれども57年8月23日、最高裁は上告を棄却して死刑が確定した。それに反比例して、「藤本松夫を死刑から救う会」が自民党から共産党までを含む政界、文化人、学者、宗教家などを結集し、力を付けてきた。当時松川事件、八海事件、菅生事件など冤罪、誤判が相次いでいたこと、ライ病患者への差別と偏見が産んだ死刑でっち上げ事件とみなされたことから、この事件は大きな関心を持たれていた。二度の再審請求こそ棄却されたものの、三度目の再審請求では新証拠も集まり、新しい展望が開けていた。
 1962年9月13日、藤本松夫は係りの看守から、「明日の朝早く、福岡へ行くようになったよ」と言われた。松夫は素直に喜んだ。ライ病病原菌の皆無が証明され、自分が永年夢に見てきた一般処遇への昇格が得られたと考えたからであった。
 この頃、確定死刑囚には帝銀事件の平沢貞道、小松川事件の李珍宇、獄中訴訟魔孫斗八などの“有名人”がいて、法務省は執行の機会を探っていたが、支援組織やマスコミの“騒音”により思うようにならなかった。そのため、法務省刑事局は恩赦・再審請求審理との調整をはかりつつ、周到に死刑執行起案書の作成を完了させていた。中垣国男法務大臣が執行起案書に判を押したのは9月11日。再審請求は9月13日、ひそかに却下されていた。そして九州で死刑の執行台があるのは福岡刑務所だけだった。
 何も知らない松夫は9月14日7時10分、四名の看守とともに福岡刑務所に向かった。着いたのは11時ちょっと前だった。背広を着た部長が入ってきて「お別れですね」と通告したが、松夫には何のことか分からなかったという。三度目のお別れの知らせでようやく自分が執行されるということに気付いた。当時は数日前の執行通告、家族への連絡などが当たり前だったが、松夫の場合、有無をいわさず13時7分、絞首にかけられた。享年40だった。




【参考資料】
 朝日新聞2001年5月12日朝刊
 池田浩士『死刑の[昭和]史』(インパクト出版会)
 村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社)
 中島河太郎『推理小説展望』(双葉文庫 日本推理作家協会賞受賞作全集第20巻)
 前坂俊之『誤った死刑』(三一書房)
 高松宮記念 ハンセン病資料館


 ※本原稿は、謎宮会に掲載されたそして彼らは闇で笑う〜犯罪ノンフィクション招待席〜 第3回 差別と冤罪(1) 差別と偏見が産んだ死刑 を改稿したものです。


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