福田洋『科学的魔女裁判』




 人は誰も好きこのんで"犯罪者"になるわけではない。止むに止まれぬ事情があるから、犯罪という行為に手を染めるのだ。しかし、警察に捕まったからといって、その全員が"犯罪者"であるわけではない。そこには「誤認逮捕」「誤判」「冤罪」といった、恐ろしい罠が待ち受けていることもあるのだ。
 もしあなたが、身に覚えのない罪を擦り付けられたらどうするだろうか。警察で、無罪の主張を貫くことが出来るだろうか。悪法「代用監獄」の名の下に20日間以上、休息もろくに取らせてもらえずに尋問を受け、それでも頑張ることが出来るだろうか。
 あなたは警察に捕まったとする。そのときから、マスコミはあなたを犯罪者扱いする。過去を徹底的に暴かれ、忘れ去っていた細かい出来事を大々的に積み重ねられ、極悪人のイメージを着せられる。あなたは耐えられることが出来るだろうか。あなただけではない。家族、親戚などでさえ、冷たい視線を受けることになる。皆が力を合わせて耐え、反撃することが出来るだろうか。まわりの友人たちは離れていかないだろうか。
 裁判が始まってもあなたは無罪を主張することが出来るだろうか。
 無罪なのに刑務所に入ることになったあなた。それでも無罪を訴え続けることが出来るだろうか。「冤罪を主張し続けると、仮出所が出来ないぞ」と言われ、刑務所の職員からいじめを受けたとしても、あなたは主張し続けることが出来るだろうか。
 なにがなんだかわからないうちに、あなたにもう一度問いかけられる。「あなたは無罪ですか? それとも有罪ですか?」


 1965年12月25日頃から、社会保険三島病院の外来、入院患者、職員の間で、腸チフスが発生した。その後、千葉大等でもチフスが発生し、それら病気が発生したところすべてに、中山亮介医師が出入りしていたことから、1966年4月、容疑者として逮捕された。
 当初、チフスが伝染病であるにもかかわらず、病院が内々に処理しようとして、保健所への報告義務を怠っていたため、発覚はしなかったが、病院内部からの匿名の電話(中山医師といわれている)があり、警察の強制捜査によってチフスの流行が判明した。
 手口はチフス菌をバナナやミカン、カステラなどに入れ、それをお見舞いやおやつとして、テーブルに置いていたとされている。

 福田洋『科学的魔女裁判』は、1989年に読売新聞朝刊に載った「4月5日、法定伝染病パタチフス、謎の広域発生。9都道府県で計24人、患者同士に接点なし。厚生省、急ぎ対策」「5月18日、感染原因不明、調査打ち切り、厚生省」という記事を読んだ日高哲也(46)というルポライターが、昔の事件を思い出し書いたという形式になっている。その事件が、上で述べた「千葉大腸チフス事件」である。もちろん、中山亮介とは『科学的魔女裁判』の中での登場人物名であり、本名は全く別である。ここでは中山の名前で通させてもらう。
 福田洋はなぜ「千葉大腸チフス事件」を「科学的魔女裁判」と呼んだのか。その前に、まず腸チフスとはどんな病気だろうか。現在に置いて、チフス自体は恐ろしい病気ではない。特にこの事件で登場した腸チフスは、抗生物質で簡単に治る。発病初期に抗生物質を服用すると腸チフスの病状があらわれる前に、治ってしまうため、医師も患者もチフスとは気付かずに、風邪と勘違いしたまま終わることもすくなくないという。一応、腸チフスは感染性の高さから、細菌兵器として研究されたこともある。潜伏期間は7〜14日、治療せずに放置して置いた場合の死亡者は10%とされている。

 この事件は、以後このような経緯をたどる。

 1966年4月7日、千葉県警は千葉大附属病院第一内科研究生で無給医局員の中山亮介(32)を、細菌をばらまいた傷害容疑で逮捕した。千葉大附属病院、川崎製鉄千葉工場、静岡県の社会保険三島病院、御殿場で腸チフスが異常発生しており、中山が細菌をばらまいたことが原因であった判断した。
 3月に三島病院で腸チフスが流行していることが地元で報道され、その後全国版で報道された。そのため、厚生省は管理責任を追及されていた。さらに千葉大、川鉄千葉工場などで腸チフスが集団発生していたことが連日報道に取り上げられるようになった。また三島病院は、保健所に届けていないことも問題となった。
 この頃、中山は千葉大付属病院内の衛生管理の怠慢によって、赤痢やチフスの自然発生が引き起こされていたとして、保健所に内部告発の匿名通報をしていた。しかし千葉大附属病院は、院長が日本学術会議第七部会の委員になるよう運動中であったため、この事実は非常に具合の悪い出来事だった。そのため、「事実」は「事件」に仕立て上げられ、「事件」と中山の名前をマスコミに流し続けた。逮捕前から各マスコミは中山の名前を挙げて報道。警察はマスコミの報道をもとに捜査を開始していた。
 中山は逮捕後に一度自供したがその後は否認するも、13件63人への傷害容疑で起訴された。裁判で中山は無罪を主張した。弁護側は「事件」の矛盾を徹底的につき、起訴の方法で人をチフスに感染させるのは不可能であると証明した。1973年4月20日、東京地裁は、中山の自供や検察側の主張による方法では赤痢ないしチフスを発症させることは多くの場合不能か至難であることや、自然感染の疑いもある、また動機も不明など、無罪を言い渡した。
 検察側は控訴。1976年4月30日、東京高裁は千葉大病院と三島病院から検出された腸腸チフス菌がいずれもD2型菌で同じ性質を持った腸チフス菌であったことから、検察側が証明する方法で感染は可能であると判断。さらに中山の自白には一貫性があり、信頼できるとして、懲役6年(求刑懲役8年)の逆転有罪判決を言い渡した。犯行動機は性格異常に加え、医局に対する潜在的不満があったとした。
 1982年5月25日、最高裁で上告は棄却され、確定した。

 千葉大腸チフス事件は、今でも冤罪の疑いがあるとして名の上がる事件である。また、いわゆるマスコミ先導型の事件としても有名である。東京を挟んだ東と西で似たような事件が発生していたことから、ミステリとして取り上げられ、推理合戦も繰り広げられた。読売新聞が行った1966年の10大ニュースでは、第3位に選ばれている。
 この事件に関してはいくつかの著書がある。無罪説を唱える畑山博は『罠』の中で、腸チフスが集団発生した病院側・厚生省の管理体制の不手際を隠すために、犯人としてSの名前をでっち上げたとされる。同様の主張は大熊一夫『冤罪・千葉大学腸チフス事件』でも行われている。
 逆に公判途中から担当となった当時千葉地検検事の清水勇男が『捜査官−回想の中できらめく事件たち−』の中で、一審無罪判決を受けた後、どのように立証していったかについて書いている。
 この裁判で立件されたのは下記の事件である。順に発生月、名称、場所、病原菌、発病までの日数、発病した人数を記している。

・1964年9月 ゾンテ事件 川崎製鉄千葉工場 赤痢菌 4時間 1人
・1964年12月 カステラ事件 千葉大 チフス菌 7-11時間 4人
・1965年8月 カルピス事件 川崎製鉄千葉工場 チフス菌 5、6時間-6日 15人
・1965年9月 バナナ事件 千葉大 チフス菌 2-3日 4人
・1965年9月 叔父宅事件 御殿場 チフス菌 3-7日 8人
・1965年12月 バナナ事件 三島病院 チフス菌 2-9日 9人
・1965年12月 本家事件 御殿場 チフス菌 4-8日 6人
・1965年12月 弟宅事件 小田原 チフス菌 4-5日 3人
・1966年1月 焼ハマグリ事件 千葉大 チフス菌 1-4日 2人
・1966年1月 実家隣家事件 御殿場 5-11日 5人
・1966年1月 舌鉗子事件 三島病院 チフス菌 4日 1人
・1966年2月 バリウム事件 三島病院 チフス菌 3-4日 2人
・1966年3月 ミカン事件 千葉大 チフス菌 13-17時間 3人

チフス菌は他の菌と比較して、抵抗力が強く、たいていの食品に混入しても一週間〜十日間程度は生き続けると言われている。こうしたタイプの犯罪を行うには、もってこいの性質といえる。しかし、発病させるだけの量となると、チフスが発病する前に、先ず食中毒を起こすと言われている。(「朝日新聞」昭和41年4月2日)
 当時、アメリカにおける人体実験結果では、3日まで縮まったケースが報告されていたが、それ以上は無理としている。検察側は、日本人とアメリカ人の栄養の違いによって潜伏期間が縮まるケースはある(科学的根拠はない)と訴え、検察側の証人である都立駒込病院副院長は「チフスの潜伏期間は2日という例も有り得る」と証言している。しかし同時に、「チフスが感染の翌日発病するとか、赤痢が感染の10時間以内に発病することは考えられない」とも証言している。この証言を適用するだけでも、5件は無罪といえるだろう。
 当時千葉医大では1965年9月から1966年3月にかけて29人が原因不明の熱性疾患が発生しており、後に腸チフスによるものという結論になっている。

 福田洋『科学的魔女裁判』は、千葉大腸チフス事件の状況から逮捕、そして裁判判決までを書いている。弁護団による上告趣意書の結びに、こう書かれているという。「私たちは、(略)本件事件を魔女裁判と読んできた。それは、中世における魔女裁判と同様に、余談と偏見、糾問主義と拷問主義が支配し、自白が最大の証拠とされ、魔女の嫌疑をかけられた者は、火刑台上から逃れることができなかったのと、軌を一にしていたからである」。ここから福田は、本書のタイトルを付けたのだろう。そして登場人物であるルポライターの日高哲也と同様、1989年の読売新聞の記事を見てこの事件を思い出し、執筆を始めたのかも知れない。

 ただし、小説としては面白味に欠ける作品である。作品では、弁護側が公判で、この事件の背景にある厚生省や病院側の裏側を暴いてゆくとともに、検察側の主張する方法では犯行が不可能であることを、事細やかに証明してゆく。ところが科学的専門用語が飛び交うため、読んでいてもさっぱり面白くない。ただのノンフィクションではないのだから、小説なのだから、などと思ってしまうのだが、検察側が無理矢理有罪にしようとしている様を書くためには仕方がないことなのかもしれない。
 作中では中山も、そして弁護人である藤堂晃子も裁判に疲れ果ててしまう描写が出てくるのだが、読んでいる方もはっきり言ってしまうと疲れ果ててしまうのだ。一度冤罪の蟻地獄に陥ると、誰もが這い上がれないままもがき続けることとなる。その地獄を見せることは必要だが、読者も巻きこむ必要はない。ではどう書けばよかったのかという問題は残るだろうが、それは作者が考えることだ。

 この事件では色々な問題点が残されている。千葉大病院、三島病院、葛城病院、川鉄などで、大がかりなカルテや検査伝票の改ざん・破棄が行われていたのだが、公判中に明るみに出た。ある技士は、伝票が自分で書いたものではなく書き直したものがあり、その事実を警察に正直に発言し、調書にも取ったはずだが、その後は梨の礫だった。
 この裁判では、汚染方法を途中で訂正し、犯行動機も人体実験説から異常性格説に変えている。このように途中で変えるようないい加減な立証は、無罪判決への第一歩のはずだ。ところが一審でこそ無罪だったが、二審では逆転有罪、そして最高裁で確定してしまう。本人の無念はいかほどだっただろうか。
 なお、中山は逮捕時32歳。一審無罪判決となったのは40歳。妻とは離婚している。一つは妻の勤め先である国立千葉病院からの圧力、そしてもう一つは警察からの圧力だ。中山を取り調べていたM刑事は、毎日のように妻の所に押し掛けては、あることないこと吹き込んで、離婚するように薦めていたという。最高裁判決時は49歳。医師免許を剥奪され、拘留された。未決拘留期間2年のため、実質4年の実刑である。そして1986年11月、満期出所。両親、弁護団も出すつもりであった再審請求は、ついに提出されなかった。彼は、マスコミと裁判というものに絶望してしまった。
 弁護を引き受けた藤堂晃子(仮名)は30歳だった。結婚もせず、裁判に全てを打ち込んだが、結局は有罪判決だった。

 福田はあとがきでこう書いている。

 ルポライターを登場させたのは、もちろん、私の意見を代弁させるためである。私が黒子になり、架空の人物に喋らせたのは、本編がノンフィクション・ノベルのスタイルを取っていることもあり、筆者の視点を強引に押しつけるのをはばかったからである。日高の反対側の主張も、できるだけ詳細に収録し、読者諸氏の公正な判断の資料に供したつもりである。
 事件の起こした波紋に翻弄された人々の中には、今更、過去に触れられたくないと思っている人がいるものわかっている。だが、もの書きは平地に波乱を起こし、ある意味では加害者になってしまう場合が多い。一つの作品、特に、世間から白眼視される犯罪事件を扱った作品を発表するのは、意図的ではないが結果的に、関係者の誰かを傷つける。
 そんなことは百も承知で、この作品を上梓する理由はなにか? 答は、本編のエピローグにあると思っている。

果たして、あなたはこの本を読んで、中山に有罪であると言えるだろうか。

 本書は1991年6月、潮文社より単行本で出版されている。

 なお、この事件で犯人とされた中山だが、原田義昭衆議院議員のブログの2009年1月4日に出てくる。医者の資格復帰を願った中山のために、医学同門の友人たちが嘆願の署名簿を作成した。そして10年ちょっと前、厚生省内の「医道審議会」が開催されたが、審議会委員は未だ腸チフス事件の衝撃が残っていたこと、S本人が犯行を否定していることから反省の色がない、として否決した、とのことである。中山は現在、青森県に住んでいるという。


【参考資料】
 福田洋『科学的魔女裁判』(潮文社)
 磯川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社)
 国民自衛研究会『毒物犯罪カタログ』(データハウス)
 畑山博『罠』(文藝春秋)
 原田義昭Blog「千葉大チフス事件』のこと」(2009年1月3日)
 朝日新聞 1972年8月24日付朝刊

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