日本で起きた同時形の大量殺人事件で最悪なのは、1938年5月21日に起きた「津山三十人殺し」事件である。ひとりの青年が、わずか1時間足らずで死者30名、重軽傷3名を引き起こす大惨事を巻き起こした。同時形の大量殺人事件では、1996年4月、オーストラリアのタスマニア島のレストランで35人が銃によって一度に射殺された事件が起きるまで、世界最悪であった。
"津山"とあるが、実際には津山市で起こった事件ではない。津山市の隣に位置する、苫田郡内の戸数わずか二十三戸の小さな村(現在は合併して町)で起こった事件である。
司法省刑事局報告にはこう書かれている。
本件は昭和13年5月21日午前1時頃より同3時頃までの間に、岡山県津山市の北方約6里の苫田郡N村の一部落に発生した一青年の凶暴凄惨極まりなき犯行である。犯人はまず自己が幼少より慈育された祖母の首を大斧にて刎ね、ついで九連発猟銃及び日本刀その他の凶器を携え、異様の変装をなし、民家11戸を襲い、僅か1時間足らずの間に死者30名重軽傷3名を出したるのち、同日午前5時頃現場付近で猟銃自殺を遂げたもので、我が国のみならず、海外に於いても類例なき多数殺人事件である。
この事件を書物として最初に紹介したのは、松本清張『ミステリーの系譜』(中公文庫)における「闇に駆ける猟銃」であったと思う。ただし、それ以前に横溝正史がこの事件をヒントに『八つ墓村』(角川文庫)を書いている。ただし、事件の引用部分は序章だけであり、後はオリジナルの作品である。
この事件を元に書かれた小説には、西村望『丑三つの村』、島田荘司『龍臥亭事件』などがある。
この事件のノンフィクションとしてもっともよく調べられているのは、作家黒木曜之助としても知られている筑波昭の『津山三十人殺し』(草思社)である。2001年には新潮OH!文庫からも出版されたため、入手しやすい。多分、この本が「津山三十人殺し」事件について、もっとも真相に近づいていると思う。
『夜啼きの森』は岩井志麻子三冊目の単行本であり、2001年に角川書店から書き下ろされた初の長編でもある。岩井志麻子は短編「ぼっけえ、きょうてえ」で第6回日本ホラー小説大賞を受賞。その後短編集『ぼっけえ、きょうてえ』で第13回山本周五郎賞を受賞した。過去の作品は、いずれも岡山の地を舞台にした怪談である。そんな彼女が、戦前の岡山の貧しい村を舞台に起きた事件を取り上げるのは、必然のことなのかもしれない
岡山の北の果てにある23戸、100人ほどの民からなる集落。処刑された高貴な身分の一族とも、追われた山賊の一党が住み着いたとも言い伝えられている。夜這いの風習が残り、民のいずれも血が繋がっている。この村で最も暗い場所である森は、村に囲まれて存在している。村人は畏敬の念か、恐れからか、この森を「お森さま」と呼んでいた。
辰男は小さいときに父と母を肺病で亡くしていた。姉さよ子と一緒に祖母イヨの手で育てられた辰男は、子供の頃とても利発だった。しかし、家の都合で中学にあがることは出来なかった。さらに両親と同じ肺病を病み、徴兵検査にも落ちる。祖母の畑仕事を手伝うわけでもなく、ただぶらぶらしながら鬱屈した毎日を送る辰男。辰男が慕っていた姉のさよ子は既に他家に嫁にもらわれていた。いつしか彼も夜這いをするようになったが、女たちもそんな辰男をすぐに避けるようになる。いや、辰男は既に村の厄介者になっていた。村人は辰男を蔑み、辰男は静かに怒りを蓄積していった。そしてとうとう満月の夜、辰男は凶行に走る。
以上は、本書におけるアウトラインである。ただし、作者はこれらの出来事を中心に置かず、あくまで他者の目を通し、他者の行動、言動、内面を書くことによって辰男という存在を浮かび上がらせている。いや、辰男ではない。この村を、である。
作者が書きたかったのは、「津山三十人殺し」という事件そのものではない。事件という爆発点までの日常であり、村の空気である。夜這いの風習が残り、民のいずれもが血の濃いつながりを持つ貧しい村。いびつな人間関係をいびつと思わず、ただ与えられた日常をこなす淡々とした毎日。村人たちにとっては当たり前のことではあるが、実は怨念であったのかもしれない。村の中央にある「森」は、そんな業を吸い続けてきた象徴であったのだ。だから「森」は啼いている。いくら太陽が照らそうと、森は暗い。夜、月が照らすとき、人の闇は表にさらけ出される。森は満月に向かって啼き続ける。
精神を病んでいる辰男の叔父仁平の日常を中心とした「お森様」。村一番の金持ちで村中の女に手を付けている泰三の妻・モトを視点とした「サネモリ様」。村の外から来ていんちき神様商売を始め、この村に住み着いて10年になる石野夫婦の娘、村の複数の男と関係を持つみち子を中心とした「さむはら様」。唯一辰男を慕う10歳の治夫が中心となる「是婆様」。村人からバカにされている虔吉を中心とした「荒神様」。そして年取った辰男の姉が語る「序章」「終章」。いずれも村に虜にされ、森の啼き声に怯える民である。
作者はホラー作家……というより、怪談作家である。岡山という場所を舞台に、怪談を書き続けている。そんな作者がなぜ「津山三十人殺し」を題材にしたのか。それは、多くの読者が"結末"を知っているからに違いない。
子供はいつしか、"鬼は怖い"ということを頭の中にインプットしている。絵本を読んだからか、保育士さんに教えられたのか、親から聞いたおとぎ話からかはわからない。いつからか、どうしてなのかはわからないが、鬼は怖いものなのだ。だからこそ子供は、鬼が出てくると怯える。
作者が書く貧しい村の風景も、人々の中にインプットされている情報である。実体験かもしれないし、小さい頃聞いた話かもしれない。しかし実際は、先祖から伝わっている記憶が脳の中に刷り込まれているのではないだろうか。その頃の苦しさ、貧しさ、因習、業……いずれも思い出したくない記憶かもしれない。
この物語は、実は誰もが知っている物語なのだ。貧しい村の平穏な、しかし暗い日常。それは誰もが記憶の底から呼び起こされる恐ろしさである。最後に繰り広げられる大量殺戮。それは伝え聞いた恐ろしさである。
読者は、ダイナマイトの導火線に火を付け、爆発するまでを見ている観客なのだ。結末の恐ろしさを知っていながらも、目を離すことができない。導火線の日は、刻々と爆発点まで近づいていく。
ただ読み終わってしまうと、「津山三十人殺し」を題材にする必要があったのだろうか、という疑問も湧く。むしろ実在しない事件を作り出した方が、より自分の世界を築き上げやすかったのではないだろうか。結末に縛られたもどかしさもどことなく見えるのは気のせいだろうか。
【参考資料】
岩井志麻子『夜啼きの森』(角川書店)
筑波昭『津山三十人殺し』(草思社)
「死体を愛した男たち」前坂俊之 (別冊宝島333『隣りの殺人者たち』(宝島社)所収)
「今宵、この村を根絶やしにする」前坂俊之 (別冊宝島368『身の毛もよだつ殺人読本』(宝島社)所収)
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