1980年3月、長野市内のOL誘拐、聖高原で死体となり発見。一方、富山県下で県立女子高生が行方不明となり、岐阜県下の山林で絞殺された。警察は、赤いフェアレディを運転するトンボメガネの女をマークし、富山市内でギフト商を営む女、○○○○と共同経営者の●●●を連行した。●●●は○○○○と男女の仲にあったが犯行をあくまで否認。警察は"男の責任"を強調し、共謀共同正犯を立証しようとする。被告同士の対立という史上稀な犯罪裁判を克明に追う傑作記録。(徳間文庫版の粗筋紹介より引用)
○○○○は本事件の女性被告の実名、●●●は本事件の男性被告の実名が記されている。そのため、目次でも同様の表記とする。またこのコーナーの趣旨に則り、以後の文章では宮沢知子、北尾弘の仮名を使用する。
【目次】(文庫版)
第一章 広域一一一号事件
第二章 ●●●は全面否認
第三章 四年ぶり法廷対話
第四章「保険金殺人未遂」
第五章 面会室録音テープ
第六章 別れた妻への償い
第七章 五年後の冒陳変更
第八章 ○○○○の新主張
むすび 無期求刑の虚しさ
文庫版のための補遺
文庫版のためのあとがき
付録 連続誘拐殺人事件関係年表
本書は警察庁広域重要指定111号事件、いわゆる富山・長野連続誘拐殺人事件を扱ったノンフィクション・ノベルであり、1987年5月31日に単行本が刊行された。そして1991年9月15日、『女高生・OL連続誘拐殺人事件』と改題し、加筆した上で徳間文庫より刊行されている。
まず、実際の事件がどのように起きたか、年表形式で記す。
日付
出来事
1974年9月
宮沢は69年に結婚したセールスマンと離婚し、富山へ帰る。
1975年
宮沢は結婚相談所に足を運び、再婚相手を捜すため10人近くの男性を紹介してもらった。同時にコールガールの仕事を始める。
1977年1月
北尾、結婚。
1977年9月
北尾は別のコールガールから宮沢を紹介してもらう。その後、付き合い始める。
1978年2月
2人は100万円ずつ出資し、贈答品販売業「北陸企画」を設立。
1979年2月
北尾のネフローゼが悪化。宮沢は大宮の儲け話を持ちかける。
1979年8月9日
宮沢が9000万円の保険金を掛けた運転手を海岸で殺人未遂。
9月5日
赤いフェアレディZを230万円で購入。
暮
北陸企画が休業状態に陥る。借金は約500万円。
1980年2月
閉店準備を始める。
2月23日
富山駅で高校三年生Nさん(18)が宮沢にバイトへ誘われ、「北陸企画」に連れて行かれる。
2月24日
Nさんは家族に「アルバイトに誘われて北陸企画にいる」との電話をする。
2月25日
深夜、岐阜県の山林でNさんが絞殺される。宮沢は一度Nさんの家へ連絡を取ったものの、身代金の要求はしていない。
2月26日
Nさんの母親と警官が「北陸企画」を訪れるも、宮沢、北尾はNさんを知らないと否定した。
2月27日
宮沢がNさん宅へ「娘のことがある」と電話。
3月5日
長野市で帰宅途中の銀行員Tさん(20)を宮沢が誘い、松本市で食事。
3月6日
早朝、長野県小県郡の林道に止めた車内でTさんが絞殺された。Tさんの家に女の声で3000万円要求の電話。同日、Nさんの死体が発見される(翌日にNさんと判明)
3月7日
Tさんの家へ2000万円要求の電話があった。指名されたTさんの姉が指定された高崎駅の喫茶店に向かうも、犯人は現れず、翌日の場所を指定される。
3月8日
指定場所に向かうも、連絡はなし。同日から10日まで富山・岐阜合同捜査本部が宮沢、北尾をNさんの事件で事情聴取を行う。
3月26日
本事件および重要参考人をスクープした『週刊新潮』が発売される。
3月27日
Tさんの事件を公開捜査。
3月29日
Nさんの事件で富山・岐阜合同捜査本部が二人を事情聴取。
3月30日
警察庁は広域重要指定111号事件に指定。同日午後9時、長野県警捜査本部がTさん誘拐事件で宮沢、北尾を逮捕。
4月2日
Tさんの遺体が発見。宮沢、全面自供。このときは単独実行を認めていた。
9月11日
富山地裁の初公判。検察側は冒頭陳述で、「両事件とも、両被告が身代金目的の誘拐を事前共謀し、誘拐を宮沢被告、殺害は北尾被告、死体遺棄は両被告が実行した」と述べ、殺害実行犯は北尾被告とした。宮沢被告は富山事件の被害者を「北尾さんに頼まれて迎えに行っただけ」と、誘拐の事実そのものを否定、北尾被告単独犯行説を打ち出した。逆に北尾被告は全面無罪を主張した。北尾は私選弁護団4名、宮沢は国選弁護人2名。
1982年10月30日
北尾夫婦が協議離婚。
1985年3月6日
検察側は冒頭陳述を変更し、「事前共謀は両被告だが、誘拐、殺害、死体遺棄、身代金要求の実行行為はすべて宮沢被告」と犯行の構図を一転させ、冒頭陳述を18か所変更し、実行正犯は宮沢被告、北尾被告は共謀共同正犯とした。
1986年4月30日
宮沢が子宮筋腫と診断され、八王子医療刑務所で手術。
1987年4月30日
検察側論告。宮沢に死刑、北尾に無期懲役を求刑。
本書は佐木隆三の主なノンフィクション・ノベルと同様、主に公判傍聴記録が中心となっている。単純な傍聴記録だったら大して読み応えのある物にはならないが、本事件については別である。他県にまたがる連続誘拐殺人というのも異常だし、被告が愛人関係にあった男女というのも目を惹く。さらにその男女と検察側の3方で事件に対する主張が異なっているという展開なのである。当然注目を浴びる事件であり、佐木隆三が法廷に詰めかけるのも当然と言える。
本作品のタイトルである「男の責任」とは、警察の取調中で、宮崎が罪を犯したのはお前が原因、宮崎と二人で罪を償い、謝れ、という「男の責任」を問われたからである。
上にも書いたが、検察側、宮沢被告側、北尾被告側で主張が異なっている。検察側は凶悪事件の犯人を有罪に追い込みたいと意気込み、当然面子も関わってくる。宮沢被告、北尾被告側にとって見れば、有罪が課せられれば死刑は間違いないという事件である。まさに命懸けと言える3方のツバ競り合いが、法廷ドラマを生み出している。
ハイライトは第七章だろう。起訴したまではよかったが、北尾被告のアリバイを崩せなかった検察側は、前代未聞ともいえる冒頭陳述の変更を行う。犯行に手を染めたのは全て宮沢被告だが、共謀していたから共同正犯だ、というとんでもないものである。このような苦し紛れの変更を行った検察側、そして自白を迫った警察は内心でどのように思っていたのだろうか。そして宮沢被告も主張を変更、検察側の宮沢被告へ死刑求刑、北尾被告への無期懲役求刑と進み、本書は筆を置くこととなっている。ある意味中途半端なところで終わってしまっているのだが、北尾被告の無罪を信じる佐木隆三が、援護射撃の意味も含めて本書を出版したのだろう。
判決は表に記載したとおり、宮沢被告に求刑通り死刑判決、北尾被告に無罪判決が出された。北尾被告側が主張する宮沢被告単独犯行説を全面的に裁判所が採用した結果となっている。宮沢被告側、検察側は当然控訴した。
しかし結構詳細に裁判状況は報道されていたと思われるのだが、この本によると、判決当日、ある放送局が富山市内で判決結果について街頭インタビューを試みると、五十人中四十九人が、北野は犯行計画を知らなかったはずがない、と応えたため、放送できなかったというエピソードが書かれている。やはり報道のイメージという物には恐ろしい物がある。
文庫版の補遺では、1988年3月10日に行った北野宏との対談「核心インタビュー 北野宏さんが初めて語る獄中八年」(『サンデー毎日』3月27日号掲載)の抜粋が引用されている。そして控訴審の模様も一部書かれている。1988年6月11日、死刑執行停止連絡協議会の総会で宮崎知子が寄せたアピール文も載っている。
本書を読む限り、宮沢知子がとても打算的な女としか見えない。宮沢は同時進行で複数の男を手玉に取っており、タイヤ業者は数十万円をせびられた。誑かされて土地をだまし取られそうになった五十男もいる。結婚相談所で知り合ったトラック運転手は保険金を掛けられ、危うく殺されるところだった。
宮沢知子はその後、多くのマスコミを相手取り、取材によってプライバシーが侵害された、名誉毀損だと損害賠償を訴え、一部では認められている。そしてこの本によって名誉を傷つけられたとして、佐木隆三と徳間書店を相手取り、それぞれに慰謝料500万円の支払いを求めた。訴えで宮沢は、同書には事実と異なる記載や犯罪に関係ない原告の人格についての記載が計43カ所あり、原告の名誉を傷つけプライバシーを侵害していると指摘。裁判所の審理中に出版された同書が、原告の単独犯行と決めつけたことにより原告の社会的評価が低下し、裁判に不利な影響を与えた、と主張した。名古屋地裁の判決では、宮沢が性的にふしだらであるかのように記述した部分について「女性である原告に侮辱的な表現で、社会通念上許される限度を超えたもの」と認定、名誉を侵害していると判断した。そのほかの部分は「社会的評価を低下させる内容もあるが、公共の利益に関する事実で違法性はない」と結論付け、それぞれに50万円の支払いを命じている。
とはいえ、宮沢知子は冷たい人間だと思っている。それは次のエピソードからも明らかである。
最高裁判決確定後の1999年7月、富山地裁は被害者のセーター、バッグ、手帳などの遺品65点の還付手続を取ったが、還付先は過去の最高裁判例(盗んだ物以外の捜査の押収物は、原則として被押収者に還付される)に基づき、被押収者である宮沢死刑囚に送られた。このとき、富山地裁は宮沢死刑囚に遺族へ引き渡すよう問い合わせたが、宮沢死刑囚は再審請求の鑑定に必要だと自分の所へ送らせた。
8月、富山事件の被害者の両親へ押収物目録と宮沢死刑囚へ還付された事務連絡文書が届いた。両親は富山地裁へ問い合わせるが、当事者間で解決するように言われた。長野事件の遺族は諦めたとのことである。両親は9月11日、宮沢死刑囚に返還を求める手紙を出した。10月には弁護士を通じ、回答を求める内容証明郵便を送った。11月、臼井日出男法相にも手紙を書いた。
しかし宮沢死刑囚は9月7日に31点について廃棄を申し出て、名古屋拘置所が廃棄していた。さらに拘置所が遺族からの手紙の内容を確認した上で、宮沢死刑囚に手紙を渡していたにもかかわらず、残りの遺品は10月15日と21日に廃棄していた。そして宮沢死刑囚は11月、刑事裁判の弁護人を通じて「すぐに回答できない」という伝言を残し、12月になって、遺品の現金計165円と処分したという手紙を送っている。
2000年2月8日、遺族側が臼井日出男法相に同様の事態を再発させないための法整備や運用の改善などを求める意見書を提出。同日面会した臼井法相はミスを認め、謝罪した。
最高裁の中山隆夫総務局長は同日、今後同じような事態が起こらないよう、全国の地裁にあて、遺品などの返還先を十分考慮するよう注意喚起する書簡を送った。
これを読んでどう思うだろうか。人情のかけらもないと思うのは私だけだろうか。
なお、宮沢の独り息子は埼玉の父親に引き取られた。その父親(別れた夫)が、息子の母親が死刑囚では可哀想と奔走し、控訴審ではボランティアの私選弁護人がついたのである。ところが宮沢は、自分の主張と異なるという理由で解任してしまう。弁護士は死刑回避を全面に押し出していたが、北尾主犯を主張する宮沢には耐えがたい物だったようだ。控訴審で宮沢は、長野事件の殺人行為と富山事件の誘い出しのみ認めているが、北尾との共謀については従来の主張を繰り返した。当然認められなかった。
宮沢は死刑が確定したが、北尾主犯を主張して再審請求を繰り返しており、事件から30年以上経った現在も拘置所の中で生きている。あなたのためにやったのに、なぜ私だけが死刑なの?というのが、宮沢の本音だろう。
本書以降の裁判の経過について下記に記し、この項を終わる。
日付
出来事
1987年7月28-29日
最終弁論。
1988年2月9日
判決。宮沢に求刑通り死刑判決、北尾に無罪判決。2つの誘拐事件について全て宮沢の単独犯行と認定。閉廷後北尾は釈放、宮沢は即日控訴。
2月23日
検察側が控訴。
6月1日
宮沢が私選弁護人選任。後に4人の弁護団となる。
1989年11月28日
名古屋高裁金沢支部で控訴審初公判。
1990年8月18日
宮沢が私選弁護人を一方的に解任。
10月25日
宮沢が国選弁護人二人選任。
1991年2月13日
富山事件の現場検証。
6月4-5日
長野事件の現場検証。
1991年6月25日
宮沢被告が長野事件の殺人行為を認めた。しかし北尾被告との共謀については従来通りの主張を行った。富山事件についても女子高生を宮沢被告が誘い出し、北尾被告が殺害したと変更した。
11月22日
最終弁論。
1992年3月31日
判決。検察側と宮沢被告の控訴を棄却し、一審判決を支持。察側が主張する一心同体論については「相当深い愛人関係で、共通の経済的利害もあったが、これらの事情から共謀が推認できるとみるのは早計」と退けた。宮沢被告は上告。検察側は上告を断念し、北尾被告の無罪が確定。
1998年6月26日
最高裁弁論。主犯は北尾元被告と主張。また犯行当時は心神耗弱だったと主張して減刑を求めた。
7月
宮沢被告が藤波に改姓。藤波死刑囚と結婚したためと思われる。
9月4日
最高裁第二小法廷は宮沢被告の上告を棄却し、死刑判決が確定した。女性死刑囚としては、戦後7人目である。
2003年12月
宮沢死刑囚が富山地裁へ再審請求。
2006年12月25日
藤波死刑囚が東京拘置所で執行された。
2007年3月23日
富山地裁が宮沢死刑囚の再審請求を棄却。
2008年
名古屋高裁金沢支部が即時抗告を棄却。
2009年
この前後に、宮沢姓へ戻る。
2011年7月
最高裁が特別上告を棄却。
2011年8月15日
富山地裁へ第二次再審請求を提出した。弁護人はKNBの取材に対し、「死刑執行を遅らせて延命する意図もある」とコメントした。
2013年2月25日
富山地裁が請求を棄却。弁護側は即時抗告。
【参考資料】
佐木隆三『男の責任』(徳間書店)
佐木隆三『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間文庫)
新聞記事各種
【「事実は小説の元なり」に戻る】