西村望『蜃気楼』(徳間文庫)




 昭和42年6月、暴風に見舞われた大阪郊外の街で警邏中の巡査が刺殺された。府警あげての大捜査網にもかかわらず、強盗・強姦、そして殺人事件が17件も連発する。
 昭和46年11月、犯人逆木は広島県警によって逮捕された。が、事件は終結したわけではない。取調べる者、取調べられる者の虚々実々のかけひきが始まり、前代未聞の大事件も白昼夢に終ろうとしていた……。
 大阪府警の必死の捜査を描く犯罪小説。(粗筋紹介より引用)  1978年5月に立風書房から『鬼畜』でデビューした西村望が、『水の縄』(1978年10月)に続いて1979年5月に書き下ろしたノンフィクション・ノベル第3弾。1982年5月、徳間文庫化。

 1967年(昭和42年)6月28日、岸和田署の外勤課の谷山係長は、勤務割りを作って外勤の一人一人に配置先を下命していた。管内では1967年に入って40数件の盗犯が多発しており、特に阪和線久米田駅周辺だけで4月から6件の忍び込みがあった。谷山係長は谷山勝彦巡査(23)、22、21、20歳の4人の巡査に勤務割りを手渡す。4人は午前0時から3時にかけ、久米田派出所の分担区域である御刀代町で張り込みを行うこととなった。谷山巡査は関大の法学部卒で、前日に右のわき腹にできた腫瘍を切除したばかりだった。1時20分過ぎ、若い男が歩いてきたので、谷山巡査は職質をかけた。すると男はナイフでいきなり谷山巡査を刺し、逃亡した。谷山巡査は笛を吹き、残り3人を呼ぶ。1人が走り去る影を見つけるも、暗闇の中に隠れて捕まえることはできなかった。そして、谷山巡査が左胸を刺されて倒れていた。谷山巡査は意識があったものの、その後出失血で死亡した。大阪府下で警官が殺されたのは、明治警察以後で197人目、戦後で5人目となった。
 すぐに捜査本部が開かれ、残された履物後から久米田駅周辺の窃盗犯が殺人犯であると推測された。9月末までに46人が逮捕され、三百件の窃盗事件が解決したが、本星は見つからなかった。その後も容疑者を捕まえることはあっても、本星には辿り着かなかった。1969年には捜査本部が縮小し、わずかに7人の専従捜査員が残るだけとなった。6月には泉佐野署で捕まった窃盗の容疑者が条件に当てはまったことから、専従捜査員の紙屋直樹刑事から厳しい取り調べを受けた。元工員の容疑者は取り調べ後の留置場への移動中に走り出し、窓ガラスを割って飛び降りる自殺未遂をひき起こす。彼も犯人ではなかった。

 1969年秋以降、豊中署管内、池田署管内、さらに奈良県、兵庫県に同一犯と思われる連続強盗強姦事件が1970年8月末までに17件発生していた。手口はいずれも日没直後、もしくはその一時間ぐらいの間に、私鉄の駅から15分以内ぐらいの高級住宅の庭先に忍び込み、女だけが留守居をしていることを確認したうえで、覆面をし、刃物を手にして侵入。主婦を脅し、近くにある紐や電気コードで両手足を縛り、四つん這いにさせて強姦し、現金を強奪するものだった。女性は20歳代から60歳代までと無差別だった。近畿管区警察局(近管)刑事課は協議したうえでこの一連の事件を凶悪重要犯罪としてすべての捜査に優先するよう押し付けた。しかし残された証拠は精液だけだったことから捜査は難航していた。
 1970年10月、大阪府警捜査一課で強盗犯のキャップをしている前田未津男警部は、小沢捜査一課長の命令でこの事件を取り扱うこととなり、配下の紙屋直樹警部補、庄司部長刑事が担当した。二人は豊中署に行き、担当している老刑事の石沢巡査部長に話を聞き、事件の洗い直しを始める。そしてとうとう、被害者の一人が犯人の素顔を見たことが分かり、眉が濃くて切れ長の目をした前科のある若者9人を類似者として選んだ。しかしいずれも犯人ではなかった。
 1971年3月、石沢は池田署の刑事課に異動した。そして3月29日の池田署管内での犯行を皮切りに、連続強盗強姦犯が復活した。さらに池田署管内、八尾市、東住吉区と犯行が続き、5月1日に捜査本部が池田署に開設される。紙屋班5人と、池田署から石沢を含む2人、豊中署から2人の9人が担当する。新たな犯行の目撃証言から似たような前科者がピックアップされるものの、いずれも犯人ではなかった。その間も府内や兵庫県内で事件は続いた。
 10月、前田の発案で、モンタージュ写真が公開される。いくつか情報がもたらされるものの、犯人にはつながらなかった。
 11月13日、広島県の廿日市の住宅街で強盗事件が発生して人妻(33)が襲われ、現金2000円が盗まれた。一報を聞いた廿日市署の刑事課長は、署内に残っていた53歳の所沢刑事とお茶くみの若い刑事を駅に向かわせた。広電廿日市駅に行くと、怪しい若い男がいたため、職質をかけると関西弁をしゃべった。身体検査をすると現金2000円とドライバー1本、さらにおもちゃの手錠を持っていたため、所へ引っ張って問い詰めるとあっさりと犯行を自供した。さらに女性を強姦したことも自供。しかも大阪でも同じようなことを繰り返していた、と言い張るので追及したところ、3月に東住吉で、6月に彦根で強盗強姦をしたことを自供。まさかと思って手配されたモンタージュ写真が載った新聞を見せると、これは自分であり、街中に写真が貼られまくったから広島まで逃げたと自供した。課長は広島県警捜査一課に報告し、三山係長と藤山が連日追求。ある日昼飯に天丼を食わせると、去年に豊中で似たようなことをしたと言ったため、三山は池田署の捜査本部にいた紙屋にこのことを確認した。
 紙屋たちはそのことを聞いてしてやられたと思うも、本当に心証を当たり続ける。
 広島では廿日市の件ですでに起訴していたが、犯人が8月26日に三次市で25歳のスナックのホステスを殺害した容疑が出てきたため、1972年に入っても引き続き取り調べを続けていた。そのことを知った紙屋や前田は慌て、1月10日に紙屋、庄司、石沢の3人が広島まで出張し、取り調べを行うこととした。犯人の写真を見たが、モンタージュとはちょっと似ていない。
 逆木信行、23歳。長崎県乙島出身で、中学卒業後集団就職で名古屋市内の鉄工所に入るも、すぐに職場を離れて大阪に流れ込む。その後はかっぱらい、かつあげ、空き巣などを続け、1967年暮れにタクシー強盗で捕まり、少年院に送られた。1969年春に退院。1970年10月に空き巣で捕まり、大阪簡裁で懲役10月執行猶予3年の判決を受け、12月頭に大阪拘置所から放免されていた。
 日時上の条件、さらに身長やO型という血液型はぴったりと合ったのだが、三山係長は、近管指定の西宮で1970年8月15日に起きた事件については実家に帰っていたという証言が取れているため、逆木は近管の真犯人ではないと告げる(これは後に、証言の日付が勘違いであることが明らかになる)。紙屋たち3人は逆木を取り調べ、近管の犯人である心証を得るも、確固たる証言は得られなかった。
 1月いっぱいで廿日市署は大阪を中心とした39件の窃盗を自供させた。3月に入り、広島では裏の固まった盗みを追起訴し、身柄を広島拘置所に移監していた。慌てた前田は小沢一課長と相談し、大阪地検刑事部の検事を通し、広島の公判部長と話を付けることとなった。前田は公判部長と談判し、広島の事件で求刑まで行った後、広島地裁の移監同意も得たうえで、逆木の身柄を大阪に移すことが決定した。
 4月10日、逆木は池田署まで移監され、翌日より庄司と石沢を中心とする取り調べが始まった。逆木は少し自供しては途中でやめ、翌日は喋らないといったことを繰り返す。その後、少しずつ自供を始め、途中から強盗、強姦、未遂事件などを一気に匂わせるようになる。ただし裏を固めるのは容易ではなく、起訴できそうなのはたった1件だった。5月中旬、盗犯専門だった石沢は捜査方針に納得できず、自ら捜査本部を抜けることとなった。その後、府警本部から北山刑事が加わる。8月23日、ここまで逆木は69件について自供していたが、いずれも取り留めの無いもので起訴はできなかった。しかしこの日、北山の追及を受けた逆木は巡査殺しを自供する。まったく想定していなかった事件が出てきたため、捜査本部は慌てた。その後の証拠調べで、逆木は犯人である確証を得た。大阪府内ではほかにも未解決事件があることから、さらに捜査本部は逆木を追求。高槻の強盗殺人事件を自供するも、起訴するだけの証拠は得られなかった。さらに堺市の若妻殺人事件を自供するも、こちらは供述が出鱈目だった。
 1972年9月21日、逆木が過去に6件の殺害事件を起こしていたという新聞記事が出た。府警本部の幹部が記者に喋ったものだったが、紙屋たちは前田が発表したと受け取った。前田は後に引けなくなり、総勢24人で逆木の殺人の余罪を追及するようになる。
 逆木はその後、堺市の事務員殺し、城東区の薬剤師殺し、橋本市の若妻殺し、三次市のホステス殺しを自供。ただしそれは、新聞記事をなぞったようなもので、一部二は嘘もあった。さらに1967年3月ごろに名古屋で外国人の女を殺害したと自供したが、こちらは証言と異なる点も多く、後に嘘だとひっこめた。ただしこの件についても、10月中旬に読売新聞にスクープされる。
 11月に入り、逆木はすべての殺人事件の自供を覆した。慌てた捜査本部は会議を開き、容疑の濃い巡査殺し、高槻の事件、城東区、橋本市の事件について追及。堺市の2件について庄司は逆木の犯行だと断言するも紙屋は反対。結局前2件の立証に全力投球し、固まれば残り2件について追及し、残りは放棄することを決定した。ところが会議直後、八木刑事部長が他県の事件をやる必要はないと橋本の事件を切り捨てた。その後も逆木の嘘に捜査本部は振り回され、紙屋と庄司は方針が対立する。
 1973年1月、大阪府警捜査本部は逆木の取り調べを高槻1本に絞ることとした。そして捜査の終了期限を2月15日に決定した。紙屋、庄司を含む合計6人が二人一組で2時間ずつ取り調べを続けた。しかし逆木は相変わらず相変わらず追求をのらりくらりとかわし続け、嘘の供述で捜査本部を振り回す。2月23日、高槻事件の放棄が決定した。
 すでに強盗強姦事件では起訴されて裁判が進み、1973年2月15日に求刑、3月6日に大阪地裁刑事十五部で判決公判が開かれた。1970年5月20日の豊中市での強盗強姦事件と1971年11月13日の廿日市での人妻強盗強姦事件で懲役8年(求刑懲役12年)、近畿管内の強姦および強姦未遂事件の計2件で懲役3年6月(求刑懲役7年)が言い渡された。逆木は当初控訴する意向を示すも取りやめ、判決が確定した。その後、谷山巡査殺害事件で公判を受けることとなった。

 かなり長い内容となったが、見落としがあるかもしれない。自供だけだったら100件程度の強盗、強姦事件があるようなのだが、実際に起訴されたのはごくわずかである。タイトルの「蜃気楼」は、犯人が目の前に見えていても捕まえることができない状態を表したものだろう。これを読む限りではあるが、若い逆木がここまでのらりくらりと警察の追求をかわしていく姿は、読んでいて本当にじれったくなる。こういうのを見ると、思わず力を使って自供させてしまいたくなる気持ちもわからないではない。もちろん暴力を使うなんてもってのほかなのだが。
 最初の部分は巡査殺害の捜査であるが、これは全く手掛かりのないまま時間ばかりがすぎていく。それから場面は変わり連続強姦事件の捜査となるのだが、被害者への取り調べが中心であり、似たような内容の繰り返しなので、読んでいても面白くない。どこまで脚色されているかは知らないとはいえ、被害者には申し訳ない話であるが、小説として退屈なことは事実。中盤以降は逆木の取り調べが中心であるが、先に書いたとおりこれがじれったいし、話が全然進まないので苛々してくる。これがノンフィクション・ノベルであり、「大阪府警の必死の捜査を描いた」という作品だから仕方がないのだろうが、フラストレーションが溜まる一方であった。
 さらに言えば、捜査陣内部での不協和音などもこれまた丁寧に描かれており、読んでいて腹が立ってくる。刑事ドラマなどのような一体感を求めるなんて無理なのはわかっているのだが。
 いずれにしろ、これが現実だ、と言われてしまうと納得するしかない。ただ、小説にするには少々不向きだった気もする。

 小説の冒頭には『今昔物語集』巻二十七、本朝付霊鬼、第三九の話が出てくる。これが何を意味するのかが分からなかった。
 本書で述べられている事件の犯人・逆木信行のモデルは、「西の大久保(清)」と書かれたこともあるA・Hである。『週刊現代』14巻41冊(1972年10月12日号)30-34頁によると、「婦女暴行日本新を記録した淫獣の十六歳から二十四歳までの犯行録」などと書かれている。雑誌が古すぎて、なかなか手に取ることができないのだが、当時の雑誌や新聞を探せば、色々と記事が出てくるだろう。ただし、逆木信行(ここからはこの名前に統一する)の犯行は大久保清とは内容が全く異なる。
 本書に書かれている内容だけとしても、大阪、兵庫、奈良などで良家に侵入し、家に居る20〜60歳代の主婦や女中を強姦し、金銭を強奪するという強盗強姦を繰り返している。強盗に入った家に居た女性だったら無差別に強姦しており、そこに女性の好みというものが全く存在しない。だからといって女性に対する恨み等があるとも思えないし、性欲が強い様子も見られない。この本からは、なぜ逆木が女性を強姦し続けたのかはさっぱりわからないのは残念だ。
 逆木はその後、谷山巡査殺しで起訴されるのだが、そのことについては小説では書かれていない。もっとも小説の前半で、巡査殺しの裁判の大詰めの状況が描かれる。老弁護士は情状酌量をもらう作戦か、傍聴席にいる巡査の両親に詫びるよう促すも、逆木は拒否。しかも逆木は悪いことをしたとは思わない、と言い切り、弁護士からも呆れられてしまうありさまだった。裁判官も「人間らしい気持になったらどうかね」と注意されるも逆木は「なめたことをいわんといてもらいたいな。人間らしい気持とはどういうことや。あんあたはちゃんとした学校出とるかもしらんが、わしは中学校しか出とらんのや。中学校しか出とらんもんに、人間らしい気持やなんやいう曖昧な言葉を使われても理解に苦しむだけや。だいたいあんたの識はいつも的がはずれとるわ」と噛みついたのだ。この本を書きおろした1979年5月だったら、すでに判決は出ているだろう。もしかしたら確定しているかもしれない。せめてそれぐらい、あとがきでもいいから書いてほしかった。
 警官殺しだから、無期懲役であってもおかしくないと思ったのだが、よく考えると巡査殺害事件の時はまだ未成年であった可能性が高い。せいぜい懲役15年程度だったのだろうか。

 なお、逆木が巡査殺害の他に自供した殺人事件は以下である。

  1. 1967年3月、名古屋市の喫茶店でレジを担当するアメリカ国籍を持つ日本人女性(22)がアパートの2階で裸にされ、電気コードで首を絞められて殺害された。さらに外国人登録証明書や腕時計、財布などが盗まれた。膣内にA型の精液があったが、和姦か強姦かの判別はできなかった。
  2. 1969年6月7日午前10時ごろ、和歌山県橋本市の一軒家に住む若妻(22)が刃物で八か所を刺されて殺害された。さらに強姦されており、現金20000円天度入った財布が盗まれた。精液は亭主と異なるB型だった。
  3. 1970年1月9日午後8時ごろ、堺市の南海本線浜寺公園駅前の近くにある二階建て住宅で主婦(27)が下半身を裸にされ、ナイロンストッキングで首を絞められて殺害された。強姦はされておらず、室内の物色の跡はあるものの、なくなっているものはなかった。残された皮膚片はA型だった。
  4. 1971年4月13日午後9時ごろ、堺市に住む運送会社事務員として働く主婦(39)が帰宅途中を襲われて強姦されたうえ、首を絞められて殺害されたうえ、腕時計や指輪などが盗まれた。精液はA型だった。
  5. 1971年6月12日、大阪市城東区の高層団地群の中で、女性薬剤師(28)が首を絞められて殺害されたうえ、スカートやズロース、下着が脱がされてシミーズに押し込まれたうえ、13階の塵芥室に放り込まれた。強姦はされていなかった。
  6. 1971年8月26日、三次市に住むスナックのホステス(25)がブラウス1枚の状態で首を絞められ殺害された。ネックレスやイヤリング、財布等が盗まれたと推定された。強姦はされていなかった。
  7. 1971年10月3日午後8時ごろ、高槻市の阪急電車富田駅近くの住宅街で、社宅アパート1階に住む会社員(28)の妻(25)が、服を脱がされ、首にテレビのコードが二重に巻きつけられて殺害された。女性は生理直前でタンポンを詰めていたからか、強姦はされていなかった。そして指輪やネックレスなどが盗まれていた。
 捜査本部の判断では、高槻市の事件、城東区の事件では心証あり、橋本市の事件では自供に信憑性あり、ということでいずれも逆木の犯行であろうという結論となった。堺市の2件について紙屋は1件については精液が違い、1件については自供の内容が実際と異なるとして反対している。名古屋と三次については判断されていないが、自供の時点で供述内容が実際と異なる点が多いため、ガセであると判断している。

【参考資料】
 西村望『蜃気楼』(徳間文庫)
 篠原孝『日本殺人年表』(晧星社)
 加太こうじ『昭和犯罪史』(現代史出版会)


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