昭和二十五年七月二日早暁、金閣は焼亡した。
放火犯人、同寺従弟・林養賢、二十一歳。はたして狂気のなせる業か、絢爛の美に殉じたのか?
生来の吃り、母親との確執、父親ゆずりの結核、そして拝金主義に徹する金閣寺への絶望……
六年後、身も心もぼろぼろになって滅んだ男の生と死を見つめ、足と心で探りあてた痛切な魂の叫びを克明に刻む問題長編小説。(帯より引用)
1950年7月2日未明、京都市にある鹿苑寺(金閣寺)が火事になり、消防隊が駆けつけたものの炎が激しくて手の出しようがなかった。死傷者はいなかったが、国宝である舎利殿(金閣)46坪が全焼し、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点が焼失した。
犯人・林養賢は事件当時21歳で京都府舞鶴市生まれ。中学の時、禅宗の僧侶であった父が結核で亡くなった後、後を継いでほしい母からの過大な期待を背負わされていたが、病弱であることに加え重度の吃音症であった。林は1943年3月に鹿苑寺で得度を受け、1944年4月に金閣寺に入山して従弟となる。臨在学院禅門学校へ入るも、病にかかり一時期田舎に帰った。そして全快後の1946年4月に鹿苑寺へ戻るも、勉学の意志があったことから1年足らずで退学し、1947年4月に年大谷大学予科へ入学する。最初は成績が中程度だったが、予科三年の1949年夏ごろから囲碁に耽るようになって成績が急落。このままでは落第だったが、1950年から新制に切り替わり予科が廃止されるという事情が幸いし、辛うじて卒業した。その頃、母親の志満子は1949年10月21日、林が育った成生の西徳寺を放逐されて尾藤へ行っている。林は1950年4月から大谷大学へ通うようになったが結局ろくに登校しなかった。そして7月、放火事件を引き起こす。
林は放火後に逃亡。警察による現場検証の結果、普段火の気がないところであることから不審火の疑いがあるとして寺の関係者を調べていたが、林が行方不明であることが判明。林が寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見。林は救命処置により命は取り留め、後に放火容疑で逮捕された。
林の母親は事件後に事情聴取で呼び出され、帰り道の山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで飛び降り自殺をした。
林は精神鑑定を受け、軽度の分裂病質と診断される。この時、師である村上慈海への反感、師の言葉から影響を受けた自殺願望を語るとともに、動機について死に場所として金閣を選び、建物とともにこの世から消えようとした、と語っている。1950年12月28日、京都地裁は心神耗弱と認めず、林に懲役7年を言い渡した。林は控訴せず、確定。服役中に結核と統合失調症が進行し、1953年3月12日、加古川刑務所から八王子医療刑務所へ移送された。恩赦減刑となり、1955年10月初め、京都刑務所へ移送される。10月30日に釈放されたが、重態であったため、府立洛南病院に入院した。1956年3月7日に死亡、26歳没。
金閣寺は国や京都府からの支援、地元経済界等からの浄財によって、1955年に再建された。
この事件をモデルとした小説では、三島由紀夫の代表作『金閣寺』(1956年)が有名である。金閣寺の美に憑りつかれた学僧が、寺を放火するまでの経緯を一人称告白体の形で書かれた作品である。『金閣寺』のアンサーとして水上勉が書いたのが、同じく代表作である『五番町夕霧楼』(1962年)であり、五番町の遊郭を舞台に学僧と幼馴染の少女の悲恋が書かれている。
水上勉は舞鶴市で教員をしていたころ実際に犯人と会っていたこともあり、いつかこの事件について詳細を書きたいと考えていた。周囲のことを調べ、事件に関わった人から話を聞いて、まとめるまでに二十年かかったという。
『金閣炎上』は、舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人・林養賢の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたノンフィクション・ノベルであり、1979年7月に新潮社から刊行された。
詳細を描くということは犯人の内面に迫るということであり、どうしても地味な仕上がりになってしまう。金閣という誰もが知っている国宝を放火したという派手な事件ではあるが、事件そのものについて触れられているページは少なく、あくまで犯人である林養賢の内面に迫ったものとして仕上がっている。既に林養賢は亡くなっていたことから、あくまで周囲の人物による証言と記録から内面に迫らざるを得ない。創作ならいくらでも不足部分を埋めることができるだろうが、ノンフィクション・ノベルでは逸脱するわけにはいかない。作者は事件について淡々と書いているようだが、深い取材力と資料に基づき、無理に誇張することなく、犯人の心情に迫ってゆく。絶望に囚われた犯人が放火に至るまでを「滅びの美学」に祀りあげるのではなく、それでいて犯行に至るまでの悲劇を冷静な、しかしやや犯人寄りの視線で書いている。
純文学ではなく、ノンフィクション・ノベルの形で仕上げたというのは、作者が推理小説を書いていた過去が生きているといってよいだろう。同感でも同情でも批判でもない視線は、普通の作家ではなかなか書くことができない。
【参考資料】
水上勉『金閣炎上』(新潮社)
【「事実は小説の元なり」に戻る】