モノレールに乗って、羽田空港へ向かう私と吉野栞。二人の頭に浮かぶのは、東京地裁の無期懲役判決。私は脳裏にこの一年数か月余りの出来事を思い浮かべる。一人の若い女性・秋本沙也が殺され、犯人の男の裁判に付き合った歳月である。私は殺害された女性の両親が住むM市へ向かう飛行機に乗る予定であり、栞は沙也の友人だった。そして私は栞に見送られ、飛行機に乗った。
『別冊文藝春秋』第199特別号に掲載されたものに大幅な加筆、訂正を加え、1994年7月、文藝春秋より刊行。
本書で取り上げられたのは、1989年9月に起きた女子大生殺人事件、通称「白いマンション殺人事件」である。
住所不定、無職I(30)は1989年9月18日午前3時45分ごろ、東京都世田谷区に住む東海大学1年生の女性(当時19)が住むマンション西側の雨どいを伝ってベランダから女性方に侵入。一人で寝ていた女性の手を粘着テープで縛るなどし乱暴しようとしたが、大声で騒がれて抵抗され、外の通行人に気づかれそうになったことから、口にハンカチを押し込んだうえ両手で首を絞めて殺害。さらに、現金8000円が入った財布などを奪って逃げた。女性は従姉(当時24)と共同生活をしていたが、従姉は当日外泊して不在だった。
捜査本部は同ビルが一見しただけではマンション形式とは見えないことなどから、周辺の事情をよく知る者の犯行とみて、徹底した付近一帯の"ローラー作戦"を実施。不審人物の洗い出しを進めたところ、11月初めに現場付近で職務質問したIから任意で採取していた指紋が、ベランダに残っていた指紋と一致した。このため、同本部では、職質記録をもとに、所在確認を進めたが、住所地には数年前から住んでおらず、都内世田谷、目黒区内などを転々としながら暮らしていたことが判明。11月25日になって都内で発見、取り調べたところ、犯行を認めた。
Iは山形市出身で、高校卒業後都内の調理師専門学校に一年間通い、1978年4月から渋谷、新宿、吉祥寺のレストランに勤務。1983年から北海道函館市のカレー専門店に勤めていた。1989年9月10日、同店を突然飛び出して上京、駅で古本を拾っては売り歩き、駅の周辺で野宿する生活をしていた。
都内山の手地区では1987年11月から白いマンションに住む一人暮らしの女性を狙った暴行、強盗事件が連続17件も起きており、関連性が注目されていたが、捜査本部は事件当時、Iが北海道にいたことなどから関連はないとした。
12月16日、東京地検はIを強盗殺人、強盗強姦未遂、住居侵入で起訴した。
1991年3月28日、東京地裁はIに求刑通り無期懲役判決を言い渡した。裁判長は、検察側が主張したクロロホルムを使用した計画的犯行との主張について、遺体からクロロホルムが検出されたものの入手経路が立証されておらず、被告がかがせたものとは断定出来ないとした。また、自宅から押収されたビデオ類にクロロホルムを使ったシーンがあり、捜査官がこれを念頭に置いた思い込みで被告を誘導した疑いもあると指摘した。しかし、弁護側の「盗み目的」の主張については否定し、死後にいたずらしていることからも性的目的であったという検察側主張を認めた。また殺意についても検察側主張を認めた。そして「自分の欲望と借金のため、何の落ち度もない被害者を殺害した犯行は残忍で、都会に娘を送り出している親たちに与えた影響が大きい」と断じた。1993年5月13日、東京高裁は被告側控訴を棄却した。
事件当初は少し騒がれたが、その後は世間の大きな話題となった事件ではない。しかし作者の笹倉は事件当時、マンションから約2分ほどの距離にあったアパートに住んでおり、警察からアリバイを訊かれ、指紋を取られたことがあった(近所の者全員にお願いしていたとのこと)ため、関心を持っていた。
「私」は友人の弁護士を通じて犯人・兼重洋介の国選弁護人となった野原光太郎と知り合い、色々と聞くこととなる。裁判の傍聴に出かけ、沙也の友人・吉野栞と知り合う。そして一審判決後、一人娘・沙也の両親へ会いにM市に行く。
作品は、「私」と吉野栞とのやり取り、被害者の両親と出会うまでのやり取り、裁判の傍聴、弁護士とのやり取りといったシーンが、時間を飛び越えて行ったり来たりする。時間軸がバラバラだから、読んでいても何が何だかわからない。なぜこんな構成にしたのかが不思議である。
親友や両親のやり取りは、結局被害者が可哀想、なぜこんな事件に遭ったのだろう、という話に終始する。犯人と被害者は無関係に等しい。たまたまコンビニで見掛けて、後を追いかけ、マンションに忍び込んで殺害したものである。あまりにも理不尽ではあるが、特徴のある事件ではない。犯人が無罪を主張しているというのならまだしも、犯行自体は認めており、裁判では殺意や侵入目的などを争っているに過ぎない(もちろん被告本人にとっては量刑が絡むので重要な要素ではあるのだが)。特に裁判の争点となっていたのはクロロホルムの件についてであり、無駄に裁判が長くなっただけだったと思う。被害者や遺族、親友に同情こそするが、いくら作者が近所に住み、捜査中の刑事からアリバイを聞かれたからとしても、小説にするにはほとんど起伏の無い話だ。なぜノンフィクション・ノベルで書こうと思ったのか最後までわからなかったし、出版社側もよく本にしたものだと別の意味で感心してしまった。
この作品の被告の弁護士になったた野原光太郎のモデルは、東京弁護士会の野村吉太郎である。後に野村と笹倉は、『推定有罪』でタッグを組むことになる。
なお、登場人物はすべて仮名である。
【参考資料】
笹倉明『白いマンションの出来事』(文藝春秋)
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