中島河太郎編『三億円事件』(グリーン・アロー出版社 グリーンアロー・ブックス)




 昭和四十三年十二月十日に発生したいわゆる三億円事件は、殺傷を伴わぬ大胆不敵な犯行、長年にわたってボロを出さぬ周到さが民衆の関心を喚起し、話題を独占した。日本犯罪史上にも類例のない特異な足跡を留めることは間違いない。
 この事件は殊にミステリーに関心を寄せる作家にとって格好の課題となり、多くの作家がそれぞれの手法を用いて、その解明にアタックした。捜査実録とはまた違った意味で推理とフィクションを兼ねた作品は、読者を魅了するに十分であろう。
 一つの事件に対して、作家がそれぞれの個性を発揮すると、こんなにもヴァラエティーに富んだ成果が得られるものか、と、私自身もしみじみ思ったが、読者の方々もおそらく同感されるにちがいない。(編者・中島河太郎の解説から)
 1975年11月、刊行。

 元トップ屋で小説家の戸田金六がアメリカ旅行中、助手の元に三億円事件の犯人について心当たりがあるという怪電話がかかってきた。電話のテープを基にかつての部下たちを使って情報提供者を捜し始める戸田の元に、もう無かったことにしてくれという手紙が届く。インキで消した差出人の名前に「海」という文字があったことから、差出人は「鴛海」と見当をつけ、本人へ会いに行き、そこから次々と情報を得ていった。梶山孝之「小説三億円事件」(『オール読物』昭和44年5月号)。事件からわずか3か月後の発表はさすがというべきか。ただ内容としては、三億円事件を推理するというものではなく、トップ屋の方法を紹介したに過ぎない。読み終わってみれば、期待外れという作品である。
 保川政司は、西多摩郡日原の鍾乳洞の近くにあるローソク岩の岩壁を、単独で登攀した。一休みしていると、昭和四十三年型のカローラの運転手が、荷物で角ばったルックザックを背負って何かを探している男を見かけた。男はそのまま去ったが、保川は翌日、三億円事件のことを知った。もしかしたあの荷物はジュラルミンの箱ではなかったかと考え、金を隠したのではないかと毎日日原を訪れる。新田次郎「三億円の顔」(『週刊サンケイ』昭和44年4月21日号)。山岳小説の大家らしく、岩壁登攀から物語は始まるが、内容としては短絡的な思考をした男が犯人と思われる人物を探し回って、最後は皮肉な結果となる話。週刊誌向けの小品程度であり、三億円事件である必要もないストーリー。
 昭和19年、愛知県の海軍工廠で憲兵の制服を着た二人の男が給料240万円を奪う事件があり、状況は三億円事件とほぼ一緒だった。しかし戦時下で報道は差し止められた。当時の行員からその話を聞いた地方新聞社では事件が本当にあったのか、もう一人の行員を探し出すが、それは脱税で手入れを受けた美容整形医の兄だった。「系図・三億円事件」(『オール読物』昭和44年8月号)。三億円事件と似たような事件が戦前にあり、それが現代と結びつくという設定。別に三億円事件でなくてもよかったと思うし、やや強引なところも目立つ。
 有名翻訳家の下訳をしている倉西誠一は三年前、仲のあまりよくない異母弟の藤夫とともに三億円事件を見事成功させた。三億円は、誠一が誰にもわからないところへ隠し、時効まで使わず、さらに時効後は書きとめてある手記を発表してマスコミの寵児となることを夢みていた。た。しかし藤夫はクラブの女と所帯を持ちたく、女の借金を返済するために分け前のうちから1000万円が欲しいと訴えてきた。誠一は藤夫を殺すことを目的に、金を洗ってから渡すとだまして香港へやってきた。生島治郎「三億円は死んだ」(『小説サンデー毎日』昭和46年9月号)。三億円事件の犯人がその後どうなったか、を想像して書かれた作品。もちろんこれも三億円事件でなくてもよいのだが、クライムストーリーとして成立させている点はさすがである。
 週刊誌の契約ライターである鎌田竜介は、三億円事件についてのインタビュー相手を待つホテルのロビーで、大学の同期だった奈良岡哲夫と偶然出会う。奈良岡は、次期総理大臣候補である幹事長の第二秘書を務めていた。奈良岡は、リベートとそのパーセンテージについて謎めいた話を鎌田にする。そのヒントから、鎌田は三億円が他国との取引のリベートに使われたのではないかと思いつき調べてみたところ、防衛庁と百二十億円の取引をした会社が実は三億円を奪われた会社であることを突き止めた。さらにその取引にはある政治家が関わっているという噂があった。豊田行二「三億円のチョコレート」(『週刊大衆』昭和46年1月7日号〜1月18日号)。現実に有り得るかどうかはともかく、三億円事件の意外な真相、という点では本書随一。しかも可能性がゼロとは言い切れないところが、現代の闇というべきか。もっとも現代だったら、訴訟に発展してもおかしくなさそうな内容ではある。作者は後に書き直し、昭和47年に『消えた三億円』(三一書房)という長編を発表している。
 後輩の週刊誌記者から、三億円事件の情報を持っているという男の話を聞き、その若い男と会うことにした。会見のたびにその男は、作者に少しずつ情報を提供していく。そして二回目の会見で男は、犯人は警視庁の幹部とその仲間であると訴え、その目的は警察の捜査を三多摩地区に集め、三多摩地区に一番多いとされる全学連の活動家をあぶりだそうとしただと話した。岩川隆「真犯人をつきとめた!」(『週刊文春』昭和46年11月1日号〜11月8日号)。インタビュー形式にして犯人の情報や周辺状況を小出ししていき、最後に意外な犯人とその動機を暴き出した作品。とはいえ、さすがにこれはやりすぎという気がしなくもない。まあ、三億円事件なら何でもあり、という風潮があったのかもしれないが。ただ、警察が犯人を突き止められない理由などは、なるほどと思わせるものがあった。

 三億円事件を題材にした短編を集めたアンソロジーだが、三億円事件そのものの真相に迫ったものが無いのはとっても残念。ただ、誰でも知っている事件だから、事件の概要を説明せずにすっと物語の中身に入れる点が強みだろう。逆に言うと、三億円事件でなくてもよい話が多かったのには残念である。
 捜せばいくらでも出てくるのかもしれない。それだけ日本中を長く騒がせた、戦後を代表するような事件であり、血を流すことのなかった鮮やかな犯行が、より作家のイマジネーションを刺激したに違いない。


【参考資料】
 中島河太郎編『三億円事件』(グリーン・アロー出版社 グリーンアロー・ブックス)

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