列島を横断しながら殺人や詐欺を重ね、高度成長に沸く日本を震撼させた稀代の知能犯・榎津巌。捜査陣を翻弄した78日間の逃避行は10歳の少女が正体を見破り終結、逮捕された榎津は死刑に――。綿密な取材と斬新な切り口で直木賞を受賞したノンフィクション・ノベルの金字塔を三十数年ぶりに全面改定した決定版。(粗筋紹介より引用)
1975年11月、講談社より書き下ろしで上下巻単行本刊行。1976年1月、第74回直木賞を受賞。1978年12月、講談社文庫化。30年後、すべて書き直して2007年4月、弦書房より単行本刊行。2009年11月、文春文庫化。
講談社文庫版は読んでいたのだが、改訂版は読んだことがなかったので改めて手に取ってみた。作者によるとストーリーは逸脱していないが、事実誤認があった個所を修正するとともに、当時仮名だった市などは実際の名前に変え、さらに文体もわかりやすく表現するなど今の物に書き改めたとのことである。
1971年11月の沖縄ゼネストで火炎瓶を投げつけられた機動隊員が死亡した事件で、首謀者として1972年1月に逮捕され、12日後に釈放、そして翌年に沖縄を離れたが仕事がなかった作者に、講談社の編集者から声をかけられて執筆したのが本書である。トルーマン・カポーティ『冷血』のような作品を書いたらと言われ、思いついたのが西口彰連続強盗殺人事件であった。事件は以下である。
西口彰は大阪生まれ。両親は長崎県五島列島から大阪に出稼ぎに来ていたが、3歳の時に戻っている。父親は網元として成功し、その後は果樹園を経営。さらに別府市で温泉旅館経営をしていた。西口はミッション・スクールに入っていたが、3年の2学期で中途退学している。
1942年1月、16歳の時に詐欺罪で別府署に検挙され、福岡少年審判所で保護処分。6月、窃盗罪で検挙され、保護処分。9月、詐欺罪で検挙され、大分区裁で懲役1-3年の不定期刑判決。岩国少年刑務所入所。1944年、横浜刑務所に移管。1945年8月25日、仮出所。
1948年8月、恐喝罪で検挙され、大阪地裁で懲役2年6ヶ月判決。1950年2月、出所。
1951年8月、米ドル不法所持で検挙。別府簡裁で罰金4,000円判決。
1952年12月、かご抜け詐欺で検挙され、福岡地裁で懲役5年判決。1957年12月、出所。
1959年11月、詐欺罪で検挙され、大分地裁で懲役2年6ヶ月判決。1962年8月、仮出所。
1963年10月18日、トラック運転手をしていた西口彰(37)は、福岡県で専売公社集金車を襲撃し、専売公社職員(58)と運送会社社員(38)を殺害し、約27万円を奪って逃走。目撃証言から全国指名手配された。
23日には捜査本部に「自分が犯人であるが、自殺する」という手紙を投函した。25日、宇高連絡船から投身自殺を図った形跡があるとの連絡があったが、偽装自殺と断定。
11月上旬、広島県の電器店から寄付名目でテレビ4台を騙し取り、質に入れて8万円を手に入れた(これは不起訴)。
11月14日、浜松市で大学教授と偽り、以前にも宿泊して顔なじみだった旅館に泊まる。18日、女将(41)と母親(60)を絞殺。宝石類、現金15万円を奪った。
12月には千葉地方裁判所、兜町、福島県、苫小牧市などで詐欺を働いている。このうち、千葉と東京の詐欺2件で起訴され、他は不起訴となっている。
12月29日、東京豊島区で弁護士(81)を絞殺、現金約14万円や弁護士バッチ、訴訟書類を奪った。
1964年1月2日、西口は熊本県に現れ、福岡事件で判決を受けた二人の死刑囚の救援活動を続けている教誨師(43)のところに訪れ、自分は弁護士だが弁護活動を支援すると約束。ところが小学五年生の娘(10)は、弁護士の顔が駐在所の手配書とそっくりであることを思い出し、母親に告げた。母親は駐在所で確認、警察に連絡。翌日、ついに西口は逮捕された。
西口は、殺人5件、詐欺10件、窃盗2件で起訴された。
1964年12月23日、福岡地裁で求刑通り死刑判決。「史上最高の黒い金メダルチャンピョン」「悪魔の申し子」と呼ばれた。1965年8月28日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1966年8月15日、突如上告を取り下げ、死刑確定。8月26日に最高裁で弁護人が意見陳述をする予定だった。1969年12月11日、死刑執行。43歳没。
西口彰が当時不思議がられたのは、強殺みたいなある意味粗暴な事件を起こしながらも、詐欺事件のような知能犯罪にも手を染めていたところ。しかも指名手配されてから78日間逃亡し、福岡-広島-東京-千葉-福島-北海道と逃げ回る。その間も事件を起こし、捕まらなかったのだから、警察は何をやっていたんだと言われても仕方がない。なお、上告を取り下げた明確な理由は明かされていない。
本書は取材と裁判記録などを重ね、積み上げられたノンフィクション・ノベルである。日本でノンフィクション・ノベルという言葉が定着したのは、この作品があったからである。この本が出版されたとき、すでに榎津巌のモデルとなった西口彰は死刑が執行されている。そのため、西口本人からの取材を行うことができない。西口の言葉は、調書や公判記録、当時の新聞等、そして手紙等の言葉、取材の相手からの言葉のみである。作者は偶々傍聴した裁判で一度見かけたことがあるだけである。だからこそどういう切り口で榎津彰という人物を浮かび上がらせるのか。そこには徹底した取材により、関係者の言葉から全体像を浮かび上がらせる手法だった。
残酷なシーンを飾る言葉があるわけではない。しかし空白の部分と心情を作者の言葉で作り出すわけではなく、あくまで関係者の言葉で構成されるその内容は、かえって榎津彰という人物の恐ろしさを浮かび上がらせる。真実の言葉から浮かび上がる犯罪者の心と姿。それが本書の凄味である。
旧作を読んだのがかなり以前になるので、どのように違うのかはわからない。正直に言うと、だいたいこういう風に書き直すと、当時の勢いがある文章が失われ、かえって面白さが失われるというものだ。本来だったら読み比べてみるべきなのだろうが、申し訳ないがそこまで手は回らない。しかし、本書でも十分榎津彰という男は浮かび上がってくる。やはり傑作だろう。
【参考資料】
佐木隆三『復讐するは我にあり』(文春文庫)
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