堀田市で起きた幼女殺人事件「堀田事件」の犯人として死刑判決を受けた赤江修一。彼は無実を主張したが、控訴、上告とも棄却され、判決確定後、わずか二年で刑を執行された。それから六年後――亡き赤江に代わり再審請求中の堀田事件弁護団宛に、真犯人を名乗る「山川夏夫」から手紙が届く。さらに一年後に届いた二通目の手紙の中には、犯人のものだという毛髪が入っていた。弁護団の須永英典弁護士は手紙の差出人を突き止めるべく、新聞記者の荒木らと調査を開始する。調査が進むにつれ、日本の刑事司法の根幹を揺るがす計略が浮かび上がる……。
死刑執行後も事件の再審請求を続ける弁護団。東京高検検事長殺人事件の捜査に当たる刑事たち。無関係の両者が交錯するとき、驚愕の事実が明らかに――!(帯より引用)
2021年8月、徳間書店より書下ろし単行本刊行。
深谷忠記はトラベルミステリ、歴史ミステリなどを描き続けているが、一方で2000年ごろからは書下ろしで骨太の社会派推理小説を発表していた。本作は社会派推理小説としては久しぶりの出版になるようだ。
物語は三つのパートに分かれている。
2014年3月7日、延岡事件の犯人である鳥淵透(51)が独居房の中で自殺した。予備のパジャマを割いて紐を作り、水道の蛇口に紐を結び付けて首を吊ったのだ(具体的方法はここでは書かない)。「延岡事件」とは、鳥淵が延岡市の民家に押し入り、留守番をしていた小学三年生の少女に悪戯をした後に殺害し、帰ってきた母親もナイフでめった刺しにして殺害した事件である。既に一審、二審で死刑判決を受け、最高裁に上告中だった。警察は死体と現場の状況を捜査し、最終的に自殺と判断した。北九州拘置所の石塚所長、宮之原総務部長、平沼処遇部長のトップ3も半ば不可抗力の出来事だと認めた。当日夜間の巡回警備をしており、死体を発見した森下裕次刑務官も口頭注意で済んだ。しかし裕次はひどく落ち込み、同じ拘置所の刑務官であり従兄の滝沢正樹はひどく心配し、励ましていた。裕次には秋に結婚する予定の相手、田久保菜々がおり、しかも菜々は妊娠していた。菜々がそのことを裕次に告げると、堕ろしてほしい、親になる自信がないといっていたという。滝沢は東西新聞北九州支局の荒木啓介記者と会い、鳥淵が殺されたのではないかという噂が流れていることを知る。そして裕次は、6月に宗像市の実家の裏山で首吊り自殺をした。遺書に理由は書かれていなかった。
2015年6月25日、ひとみは恋人の須永英典弁護士とN県堀田市の三橋法律事務所で会った。ひとみは「堀田事件」で死刑になった赤江修一の娘である。今は弟の肇とともに祖父母の養子となり、水島姓となっている。「堀田事件」とは、1992年2月に堀田市で起きた幼女殺人事件。小学一年生の少女二人が登校途中、何者かに連れ去られ、翌日、郊外の崖下で絞殺死体で発見された。94年9月、赤江修一が容疑者として逮捕。赤江は一貫して犯行を否認し続けた。直接的証拠はなかったが、1999年、地裁で死刑判決。東京高裁、最高裁で棄却され、2006年9月に死刑確定。2008年10月、死刑執行された。赤江の弁護を引き受けたのは、三橋法律事務所の所長、三橋昌和弁護士。2010年6月、赤江修一の妻、君子がN地裁に再審請求。DNA鑑定や目撃証言に関しての新証拠を提出し、無罪を証明すべく戦っている。須永は弁護団の中心となって活動していた。
2014年5月中旬、弁護団宛に山川夏夫と名乗る人物から一通の手紙が届いた。消印は八幡西からだった。堀田事件の犯人は自分であり、四年ほど海外に行っていたこともあり事項が伸び、さらに刑事訴訟法改正によって時効がなくなったため、真相を明らかにすることができなかった。次の手紙では赤江さんが犯人ではないことを示す証拠の品を送る、と伝えるものだった。弁護団は悪戯と考えていたが、三橋は本当である可能性もゼロでないとひとみたちに伝えていた。そして2015年5月、今度は宗像市の消印が押された、山川からの手紙が届いたのだ。そこには手紙とともに自分が犯人である証拠だと、山川自身の毛根の付いた髪の毛が入っていた。被害者の衣類に付着していたという血液と毛髪のDNA鑑定を行えば、必ず一致するはずだと伝えていた。それとともに、自分は別の事件の犯人として死刑になる可能性が高いので告白する勇気がなかったとも伝えていた。しかし、山川の手紙には、拘置所の検印はなかった。DNA鑑定を受けようとしても、肝心のその毛髪が誰のものかわからないと、どうにもならない。須永は九州で死刑判決を受けそうな事件を調べたが、生存している容疑者の中で山川に該当する者はいなかった。須永は友人である福岡の弁護士、鈴川翔太から東西新聞北九州支局の荒木啓介を紹介される。鈴川と荒木は、山川の正体は延岡事件の犯人であった鳥淵透ではないかと須永に告げた。
2019年3月12日午後九時ごろ、文京区千駄木の春木神社の境内で男性が殺害された。参道が近道となっており、近くのマンションに帰ろうとした四十代の夫婦が発見者だった。男性は刃物で刺されたうえに、首をロープで絞められていた。凶器だけではなく、男性の身元が分かるようなものは何もなかった。翌日、ニュースを見た家族からの通報で、男性が東京高検検事長、鷲尾敦夫であることがわかった。鷲尾は久留米市生まれの62歳。東大法学部を卒業。検察・法務官僚のエリートの道を歩み、2017年7月、東京高検検事長に就任した。検察庁のナンバー2であり、今年の8月には検事総長に就任することがほぼ内定していた。そのような超エリートが、なぜ殺害されたのか。本駒込警察署に設置された特別捜査本部には、米原警視総監、島刑事部長といったそうそうたる面子がそろった。捜査一課の管理官である津山が捜査の指揮を執る。
殺害された日、鷲尾は福岡経済振興会で理事をしており、上京してきた高校時代の友人である久住芳明と夕方七時頃、東京駅で会っていた。そこには鷲尾が連絡した、高校の二年後輩である宮之原佑もいた。立ち話後、宮之原は妻の誕生日ということで挨拶だけで帰り、鷲尾と久住はホテルのレストランで食事をした。当初は銀座で飲む予定だったが、鷲尾に用事ができたため、食事だけになったものだった。八時半にホテルを出て、鷲尾は赤坂に行く予定と久住に話していた。しかし久住は千駄木で殺害されていた。タクシーで現場付近まで来たことは確認できた。しかし、家族にも秘書を含む職場の人間にも、千駄木に心当たりは全くなかった。警察の捜査で、篠原美優という26歳の女性と当日連絡を取っていたことがわかった。
物語は滝沢正樹のパート、須永とひとみのパート、そして検事長殺害の捜査の三つに分かれる。当然ながら最終的にはこの三つの話が交わるわけである。
滝沢のパートで出てくる「延岡事件」にモデルはないが、須永とひとみのパートで出てくる「堀田事件」は、飯塚事件をモデルにしている。舞台こそ福岡県飯塚市ではなく、東京高裁管轄内のN県堀田市という架空の市となっているが、それ以外は事件の日時から執行、さらに死後再審の過程まで全く同じである。ただし、飯塚事件で逮捕された久間三千年に息子と娘がいたかどうかは不明である。
飯塚事件の概要は下記である。
1992年2月20日朝、福岡県飯塚市の小学1年女児2人(ともに7)の登校中に行方不明となり、翌日、福岡県甘木市野鳥の雑木林で遺体が発見された。福岡県警は事件当初、久間三千年(54)を容疑者の一人として取り調べを行っていた。1994年9月23日、福岡県警は久間を死体遺棄容疑で逮捕。10月14日、殺人容疑で再逮捕。
自白、物的証拠は一切なく、久間は一貫して無罪を主張。動機は明らかにされていない。
検察側は、<1>遺体周辺の血痕について行った2種類のDNA鑑定のうち一方について、犯人が1人と仮定すれば、被告と一致<2>被告の車の血痕の血液型が女児の1人の型と一致<3>遺留品発見現場で目撃された車が被告の車と似ている、と主張した。なおこのときの科警研によるDNA鑑定は足利事件のときの鑑定と同じ方法で、後に足利事件はDNA鑑定が誤りであったとして再審無罪となっている。、
裁判では、状況証拠の「総合評価」により、1999年9月29日、福岡地裁で死刑判決。2001年10月10日、福岡高裁で被告側控訴棄却。2006年9月8日、最高裁は上告を棄却し、刑が確定した。Kは判決後も無罪を訴え、弁護士とともに再審請求を準備していたが、2008年10月28日、執行。70歳没。
2009年10月28日、Kの妻は福岡地裁へ再審請求した。2014年3月31日、福岡地裁は請求を棄却。2018年3月6日、福岡高裁は即時抗告を棄却。2021年4月21日付で最高裁は特別抗告を棄却した。
2021年7月9日、Kの妻は第二次再審請求を行った。
飯塚事件は当初から冤罪ではないかという疑いがあり、弁護団も積極的に動いていた。特に鑑定試料が残されていないという本来なら有り得ない警察側の失態もあり、より裁判を難しいものにさせていた。また、死刑確定からわずか2年1か月後の執行というのも衝撃的だった。ただし、当時久間死刑囚より以前に確定していた死刑囚はほとんどが再審請求をしていることなどから執行が難しく、このころは死刑執行のペースが速まっていることもあり、久間死刑囚は正直危険なラインに入っていたといえる。本人は再審請求を準備しており、まだ執行されないだろうと接見した弁護士にも伝えていたという。
本作品では、「堀田事件」の闇が事件に大きく関わっている。正直なことを言ってしまえば、森下が自殺した原因の内容については、普通だったら有り得ない、と言いたくなるものである。同様のことは、鷲尾殺害の犯人についてもいえるだろう。そもそも、闇の部分の衝撃的な内容について、本当に可能なのかどうか、私にはわからない。複数回読み返してみたのだが、それでもわからなかった。
それでなぜ飯塚事件をそのまま作品に取り込んだのだろう。「延岡事件」を創作するのなら、何も「堀田事件」を飯塚事件と同じにする必要はなかったはず。飯塚事件の無実を訴える作品ではなかった。飯塚事件そのものは冤罪が疑われる事件として有名だと思うのだが、やはり飯塚事件の疑惑を広めようとでも思ったのだろうか。
作品自体の方なのだが、先に書いたとおり、数か所無理と思える部分がある。多分、作者もそれをわかりつつも、死刑という刑の闇の部分を照らしてみたかったのかもしれない。力作だとは思うが、傑作というわけではない。ただ、帯にあるとおり予想できない結末ではあった。
【参考資料】
深谷忠記『執行』(徳間書店)
各種新聞記事
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