佐木隆三『曠野へ―死刑囚の手記から』(講談社文庫)




 四人を殺害した暴力団員に下った判決は死刑。被告は、弁護人の行った控訴申立を自らの意思で取り下げ、自分の生涯と犯罪歴を手記に残して絞首台に消えた。この<潔い振るまい>は何を意味するのだろう。現実の殺人事件に取材し、さらに本人の手記を加えて構成、殺人犯の<人間>を追求した異色作。(粗筋紹介より引用)
 『小説現代』1978年9月号~12月号連載。1979年4月、講談社より単行本刊行。1983年3月、講談社文庫化。

 本書は1975年6月に起きた北九州4人連続殺人事件を題材としている。事件の概要は以下。

 川辺敏幸は1975年4月24日、6年の刑を務めた福岡刑務所を刑期3か月残して仮出獄。出迎えてくれた母親が住む大分市に帰るも翌日には出て、27日には北九州市へ出て暴力団に入った。覚せい剤の売買を行っていたが、後に自らも打つようになる。6月4日朝、兄貴分である宝石商(46)の情婦(36)との関係がばれ、小倉南区の宝石商の自宅で問い詰められ、一度は家を出るも車の中にあった脇差を持って戻る。宝石商と情婦に猿轡を噛ませ、パジャマ、バスタオル等で厳重に縛った。そのまま情婦の首をバスタオルで絞め続け、続いて宝石商を脇差で何度も刺して殺害。さらに情婦も脇差で殺害した。さらにケースに入った宝石(時価約113万円相当)や200万円額面の手形3枚などが入ったアタッシュケースを奪った。
 11日、宇部市で暴力団の抗争事件が起き、川辺は特攻隊の一人に選ばれ、拳銃を渡される。17日午後3時過ぎ、川辺や組の若頭といざこざのあった若頭補佐の男(30)を射殺し、車で逃走。車を捨てて逃げ回っていたところ、巡査に見つかって追われて玄関が開いていた家に飛び込んだが、住人の主婦(26)に匿うことを断られたため射殺。補佐の妻からの通報で、警察は緊急配備。川辺は補佐を可愛がっていた組長の弟が居るホテルに押し入って部屋から追い出し、弟が連れ込んでいた二人の女のうちの一人で、下関の風俗店で働く女性(26)と一緒に別のホテルに移った。女はシャブの客であり、川辺と肉体関係があった。二人はホテルでシャブを打って関係していた。18日午前0時半過ぎ、川辺がホテルにいることとを警察は発見したが、川辺は発砲。午前2時半過ぎ、北九州市警のおよそ三百人の警官がホテルを包囲し、籠城した川辺は何度も発砲。刑事官の説得に応じ午前7時すぎ、まずは拳銃を持った女性が部屋を出た。それから刑事官が部屋へ迎えに行き、川辺を逮捕した。
 川辺は強盗殺人、殺人、同未遂、覚せい剤取締法違反、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反で1976年3月18日に起訴。公判で川辺は事実関係を争わず、また弁護人による精神鑑定の要求も拒否した。さっぱりしたような顔つきの川辺を新聞は「ふてぶてしい態度」「不敵な笑い」と書いた。殺害された一般人の主婦との関係については、通りすがりとしか答えなかった。川辺はピストルの入手方法について供述を変えたことから、公判回数は14回を数えた。
 1977年3月30日、福岡地裁小倉支部で求刑通り死刑判決。弁護人は閉廷後、すぐに控訴した。しかし川辺は6月7日に控訴申立取下書を提出。8日に受理されたため、死刑が確定した。川辺は一審判決後、生い立ちから事件までの手記を書き続け、四百字詰め原稿紙約150枚分ほどとなった。それをすべて書き終えたため、控訴を取り下げたという。1978年11月16日、執行。33歳没。


 本書は、川辺敏幸が書いた手記と、佐木隆三が取材した内容から成り立っている。いわば、二人の合作みたいな小説となっている。川辺という男の内面と、取材によって浮き彫りになる外から見た川辺という男の外面。両方が交互に書かれることにより、絞首台に上った男の一生が浮かび上がってくる。川辺は頭はよくて呑み込みも早く、度胸もあったが、一方で思い込みが激しくてすぐにかっとなる性格だったという。

 川辺は別府市で生まれたが、父親は酒乱だったため、母親と一緒に佐賀へ逃げ出した。しかし母親は病院の附添婦となったため、6歳の川辺は天草に住む祖母に預けられたた。川辺は我儘かつやんちゃだったため祖母の手に負えず、親類や他人の家にたらい回しされ、小学校の転校は4回を数えた。中学校の時には佐賀市の寺へ預けられるも、そこは非行グループのたまり場となってたびたび補導された。16歳の時、窃盗で人吉少年院送り。17歳の時、強盗で大分特別少年院収容。退院後、小倉へ向かった。母親は北九州市に移り、一緒に住むようになったが、川辺はすでに組員となり刺青をしていた。その後、自分の彼女、弟分、弟分の彼女と一緒に別府の叔母の家に行き、そのまま二階に居候する。一か月後に家を出て、小倉へ戻る。二年後、叔母の世話で就職するも4か月後に退職し、小倉に戻る。1969年4月、天草へ出かけ、かつて家において小学校へ通わせてくれた校長を縛り上げて5万円を奪った。母のもとにあった手紙をたまたま見つけ、関係があったと誤解したことが動機であった。1969年8月、熊本地裁で懲役6年の刑を言い渡され、そのまま確定。1975年4月24日、仮出獄した。
 福岡刑務所を出た川辺を母と叔母が出迎え、大分に戻る。事件前に可愛がっていた2つ下の従妹と結ばれて堅気の道を進むと決意していた川辺であったが、それは勝手な幻想であり、従妹はすでに結婚が決まっていた。川辺は1か月前に実家へ挨拶に来た宝石店経営の原口勝也が来ていたことを知り、翌日小倉へ向かう。原口の宝石店は盗難品を扱っており、贓物故買で服役中に川辺と知り合っていた。小倉では原口の情婦である犬養幾子が出迎えた。26日、別府に戻って母に原口のところに行く旨を伝え、27日に小倉へ到着。原口に伴われ、戸畑区の中島組事務所へ行き、組長や若頭の杉本善雄に紹介された。その日は返事を濁すも、後日入り、覚せい剤の売買を行うようになるが、いつしか自分にも打つようになった。三代目大菊組が発足し、中島組組長が跡目を継いだので、川辺もそのまま一員となった。川辺は原口の宝石店の社員という形になっていたが、気が付いたら幾子と関係を持つようになる。
 6月4日、幾子との関係が原口にばれ、幾子は無理やりやられたと告白。激昂した原口に追い出された川辺であったが、逆に殺されてしまうと思い、ついに殺しに手を染めてしまう。

 悪事に手を染める典型的なパターンと言ってしまえばそれまでかもしれないが、本人の性格も、そして周囲の環境もすべてが川辺を悪の道に誘い込んでいるように思える。そして一度入ってしまえば抜け出せないし、抜け出そうと思っても本人の気力が続かず、すぐに戻ってしまう。こうなると、いったい何が原因なのか、わからないだろう。そのような素養があったとしか、言いようがない。特に従妹と結ばれたいというのは川辺の勝手な思い込みであり、本人の性格をよく表している。しかもそれが叶わなかったとなると、すぐに暴力団の道へ進んでしまう。転げ落ちる道しかなかったのかと思うと、非常に悲しい。そして、いまさらジタバタせず罪を償えと言うしかない母親の心情は胸を打たれる。死刑が確実な息子へそう言うしかなかったと思うと、余計である。

 佐木は『小説現代』1977年7月号に「狙撃手は何を見たか」という短編を書いている(『閃光に向って走れ』所収)。佐木は一審判決の直前に川辺と面会し、後に手記を渡された。佐木はその手記をもとに取材を重ね、新たに「曠野へ」を『小説現代』に連載することになる。手記の前と後で、川辺に対する見方がどう変わったか。見比べてみるのも面白い。もちろん「犯人」の行為は罰せられなければならないものであるが、本人に触れることで「犯人」そのものの印象が大きく変わってくる。なぜ犯罪に手を染めたのか。そのことを知るためにも、本書は読まれなければならないと思った。それは手記を書いた川辺にとっても、本望だろう。
 また本書は、当時の暴力団の仕組みについても筆を割かれている。暴力団の中にいた人物だからこそ書ける手記であり、貴重な部分である。
 川辺は「曠野へ」への最終回が『小説現代』最終回が掲載された1週間後に執行された。


 本書は後に『死刑執行 隣りの殺人者1』と改題し、小学館文庫から再刊された。手に取りやすいのはそちらだろう。ただ、タイトルだけは『曠野へ』のままにしてほしかった。犯人の心情がよく表れたタイトルだと思う。


【参考資料】
 佐木隆三『曠野へ―死刑囚の手記から』(講談社文庫)
 佐木隆三『閃光に向って走れ』(文春文庫)


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