中山義秀『少年死刑囚』(角川文庫)




 本書は「昭和二十三年二月、某地方裁判所で死刑の言渡を受けた、昭和六年一月生、當時かぞへ年十八歳の少年の手記である。少年の犯罪は、とうとう殺人、同未遂、放火未遂。」と冒頭で書かれている。

 少年(垂井浩)は西国の生まれ。父は無口で不愛想で陰気なこともあり、家族から疎まれていた。色々と職を変えるも、いずれも長続きしなかった。実母の顔も名も人柄も、生死すらも知らない。父は祖母の選んだ女を嫌って、他の女と私通したため、祖母は実母を家に入れなかった。
 父は満州へ渡り、少年は花柳界の片隅で雑貨屋を営む祖父母に大事に育てられた。育った場所が場所だけに、男女間のことを少年は早く知り、子守女に納屋に連れ込まれておもちゃにされたこともあったため、小学校の頃から幼い女の友達と男女の戯言の真似をしていた。また、小学生のころから盗癖があった。
 昭和十八年の冬、少年が国民学校の六年生の時、父が満州から帰ってきた。父は金や貴金属をもっており、自分の生活費は自分の懐から出していた。
 少年は真面目に勉強し、中学校へ進んだ。しかし英語や漢文、数学が苦手で、怠けているうちに成績はどんどん落ち、学校を休んで大衆小説ばかり読むようになった。父は家を出、祖母は怠けてばかりいる少年と喧嘩ばかりしていた。そして少年は、元書籍商の家へ下宿することとなった。少年は好きな本をむさぼり読み、読み終わった本を勝手に古本屋に売り飛ばした。下宿の主人に見つかり、少年は祖父母のところへ追い返された。少年は学校を辞め、父のいる保土ヶ谷に送られた。
 父は結婚しており、義母はミッション・スクールに入ることとなった。少年は通学中にすり取ることを覚え、そして父の家から金や品物を盗み始めた。何度も繰り返し、叱られ、最後は有り金全部を盗み出して家を飛び出し、東京へ向かった。しかし警察に捕まり、父が少年を引き取りに来た。父は少年を勘当し、数枚の紙幣を渡してそのまま別れた。
 少年は祖父母のところに戻り、少し経って祖父の父人がいる九州へ渡り、小さな工場で働き始めた。しかし真面目に働かず、ちょくちょく主人の金を盗んでいた。そのうちに空襲で軍需工場がやられ、働いていた工場も仕事が無くなった。その後、別の会社に行くも、金や物を盗んでは別の会社に移るということを繰り返した。
 そんなことを続けるうちに、故郷の県内へ戻った少年は、十歳年上の従兄弟の慎太郎の家を訪ねた。従兄弟夫婦は留守で、鍵がかかっていなかった。少年は勝手に飲み食いし、タンスや押し入れから下着や靴下や革靴などを盗み出した。
 日本の戦況がどんどん悪くなってきても、少年は盗みを繰り返し、その土地土地の宿屋にごろついていた。ある夜、少年は女二人の留守宅に入った。戦死した海軍将校の家だった。娘は自分の小学四年生の時の同級生の想い人いく子にそっくりだった。思わず懐中電灯を当てて見惚れていると、眩しさに目を覚ました少女と母親が目を覚まし、少年は母親の首を絞め、その後逃走した。少年は町を出て、慎太郎の家に押し入り、慎太郎の細君に食事を作らせた。少年は食事をしていたが、その間に細君はこっそり防犯用の合図ボタンを押していたため、警察に捕まった。
 少年は東京の少年裁判所に送られ、懲役五年の刑を申し渡された。強制の見込みがないと判定され、大人たちと一緒に函館刑務所に収容された。
 昭和二十二年秋、少年はまだ刑期の半ばだったが、仮釈放された。少年は保土ヶ谷にいた父の行方を追い捜し当て、野毛の義母の実家を訪ねた。義母より、父は終戦後に脳溢血で亡くなったことを知らされた。旅費をもらい、西国の祖父母のところへ向かうも、戦災で廃墟と化しており、祖父母は慎太郎の家に厄介になっていた。十七歳の少年は罪の意識を持っておらず、謝れば何でも済むと思っていた。少年は慎太郎の家へ向かった。少年は祖父母と再会し、慎太郎夫婦に詫びた。
 その後少年は東京へ向かったが、車中で千円を盗み、中華人街で散財。静岡の鉄工所で工員として働き始めた。しかし食事が少なく、夜な夜な台所で盗み食いをしていたが、女主人にばれた。追い出されはしなかったものの、食事の量は変わらず、同居人のものを盗んで売るようになった。そのうちにばれそうになったので、支配人の服を盗んで逃げだした。
 戦時中とは異なって秩序も戻りつつあり、警察の取り締まりも厳しい。街道筋でぼんやりしているところを、具合が悪いと思ったのか、老婆が優しい声をかけてきた。そのまま家で食事も恵んでもらった。一度家を出るも、少年は夜中に老婆の家に忍び込み、老婆を絞め殺し、残っていた食料を食べ、金を盗んで逃走した。新聞で一人の旅の少年を捜査中と書かれていたことから、高飛びしようと途中で鉈を買い、慎太郎の家へ向かった。
 少年は家へ押し入り、食べ物を探していると、慎太郎が起きてきたので鉈で殺害。さらに腰を抜かしていた慎太郎の妻も鉈で殺害した。そして祖父母も惨殺した。慎太郎の服を盗み、火をつけて逃げ出そうとしたが、少年は捕えられた。
 少年は警察への恨みしかなく、復讐することばかりを考えていた。3月7日、二回目の公判で少年は死刑の判決を言い渡された。少年は判決後、裁判長に「馬鹿野郎、手前なんかに、俺の気持ちが解るかい。誰にも、人を裁く資格なんかないんだ」とどなりつけた。控訴するも、少年は独居房で猛獣のように荒れ狂った。その後は、極度に沈鬱になり、青ざめ、やせ衰えた。夢の中に祖父母が出てきて、謝ると涅槃へ早く来いと誘われた。
 少年は真宗の僧である教誨師の石井先生に助けをすがり、教えを乞うた。信仰は少年を別人にした。少年は死の悩みから救われ、気力を取り戻し快活になり、体も丸々太ってきた。見る人はみな、少年の顔が佛相を帯びてきたというようになった。二審の判決も死刑だった。少年は裁判長に向かい、「有難うございます」と丁寧にお辞儀をした。
 死刑廃止論者になっていた所長は、国会議員のある婦人に頼み、少年の母親になってもらった。少年は婦人に抱きしめられ、幸せでいっぱいだった。

 少年の手記は終わった。
 それから二年後、婦人は少年がまだ生きていることを知り、面会に行った。少年保護法が改正されたため、少年は刑一等を減じられ、無期囚として他の刑務所で、作業用の白手袋を作る労役に服していた。  婦人は少年に会って愕然とした。丸々と太っていた少年は、見違えるばかりに痩せてしまい、人に噛みつきそうな凶悪な相に戻っていた。少年は楽しい憧れを持ってあの世へ旅立とうとしていたのに、再びこの世に戻されて絶望した。少年は獄舎の生活に、何の希望も幸福も見出し得なかった。少年は涙を流して、彼女に訴える。
 「なぜ蒼の時、私を幸福に死なせてはくれなかったのでせう。あれから二年あまり経ちますが、私は毎日生きてゆくのが苦しくならんのです。こんな苦痛にさいなまれているくらいなら、獄外へ脱走してもう一度殺人罪を犯し、死刑に処せられたいと考えます。死んでゆくとの身も心も軽々とする、清々した悦びを思うと、私は助けられたことが恨めしくてたまりません」
 「とにかく私は、うんと仕事をします。それによって幾分でも、現在の苦痛を忘れるようにいたします」
 少年は暗い未来に押しつぶされたように、うなだれよろめきながら獄内へ消えていく。


 「少年死刑囚」は前篇が『別冊文藝春秋』第14号(1942年12月)、後篇が『文學界』1950年8月号に掲載された。他の短編6編とともに、『少年死刑囚』として1950年11月に文藝春秋新社より発売されている。その後「魔谷」との併録で1954年9月、角川文庫より刊行された。1955年、吉村廉監督で日活が映画化。撮影は府中刑務所の全面協力で監房内部までロケの許可が下り、本物の看守の制服までもが俳優たちによって着用された。主人公の少年を新人・牧真介、脇役を田中絹代、左卜全、信欣三らが演じた。
 『少年死刑囚』は角川文庫版でわずか64ページ。文庫本自体、104ページしかない。当時の値段は60円である。帯には何も書かれていないので、映画化とは特に関係なく出版されたものだろう。

 主人公である垂井浩であるが、自らの手記ということもあり、フルネームが出てくることはない。途中、呼びかけで「垂井」「浩」と名前が出てくるので判明するだけだ。
 垂井の家庭環境であるが、実母こそ存在すらわからず、父も外へ出ているものの、祖父母から愛情をもって育てられていたこともあり、この時代なら特に不幸とまでは思えない。嘘をつく癖、そして盗み癖、怠け癖。持って生まれたものといっては申し訳ないが、間違ってはいないだろう。少年は欲望に従い、盗みと逃亡を繰り返す。女性に対する欲望がないのが不思議なくらいだ。このあたりは、戦時中、戦後すぐで食事に恵まれなかったということも一因だろうか。
 少年は欲望のままに犯行を重ね、最後は5人を殺害した強盗殺人の罪で死刑判決を受ける。少年は荒れ狂うが、信仰に救いを見出し、やがて死刑を受け入れるようになり、執行されて涅槃に向かうことを楽しみにする。
 ところが少年法の改正により無期懲役に減刑され、絶望のまま生き続ける。
 作者は死刑と無期懲役について、どこまで考えていたのかはわからない。しかし、死刑に救いを見出し、無期懲役に絶望する。刑罰とはいったい何なのだろうか。作者は問いを投げかける。答えを出すのは読者である。

 『少年死刑囚』にはモデルがある。「鹿児島雑貨商一家殺傷事件」である。事件の概要は以下。

<鹿児島雑貨商一家殺傷事件>
 1947年12月18日、東京本籍のAT(17)は、鹿児島市に住む雑貨商宅に押し入り、主人(41)と長女(5)を手斧で殺害、妻(31)にも重傷を負わせた。長男と次男は無事だった。ATは現金3,300円と衣服を奪い、ミカン箱に放火。火はすぐに消されたため、無事だった。事件後は屋久島に逃走するも、12月22日、逮捕された。
 ATは横浜市の関東学院中等部を2年で中退し、軍属になるも、1945年7月に強盗、窃盗事件を起こして軍法会議に掛けられ、懲役5年以上7年以下の判決を受け、刑務所に収監。戦後の1947年11月に仮出所後、見習工となるも働くのが嫌いなことから辞め、暖かい地方に行きたいと鹿児島まで来て事件を起こした。
 1948年2月27日、鹿児島地裁で求刑通り一審死刑判決。11月29日、福岡高裁宮崎支部で改めて死刑判決(自判)。上告せず、死刑が確定。しかし1948年7月15日、死刑を適用できない年齢を16歳未満とする少年法から、18最未満とする新少年法に改正された。制度変更に伴う不公正の是正のため、1949年3月23日、無期懲役に減刑された。
 その後熊本刑務所に収監されるも、精神障害のため城野医療刑務所に移監された。2010年には仮釈放審査が却下されている。この時点で、在監年数60年10月。無期懲役刑で最長である。


 戦前に収監され、戦後に仮出所。その後事件を起こすという流れは同じだが、事件の内容は異なる。ただ、事件当時満17歳で強盗殺人事件を起こし、死刑が確定したことは同じである。そして1949年1月1日に改正された新少年法により、死刑判決を下される年齢が満16歳から18歳に引き上げられたため、無期懲役に減刑された。この時、無期懲役に減刑されたのは他に2名いる。そのうちの1人はその後二度の恩赦を経て、出所している。もう一人については不明である。
 ATの存在は犯罪マニアや死刑囚マニアの間でも語られており、2010年に仮釈放審査が却下されたうちの一人「70代で収監60年10月で許可しない」がATであることはほぼ間違いない。2020年の仮釈放審査にはそれらしき人物が載っていなかったので、この間で亡くなった可能性は高い。
 ATは死刑から無期懲役に減刑され、苦しんだのだろうか。それとも死刑を免れてホッとしていたのだろうか。『少年死刑囚』が投げかける「罪と罰」は非常に重いが、その後を知りたいと思うのは私だけではないだろう。

 池田浩士が『少年死刑囚』(インパクト出版会)を復刊させたとき、解説でモデルとなったATのその後を追い、衝撃的な事実を発掘したとあるが、残念ながら未読である。


 中山義秀は1900年、福島県生まれ。早稲田大学在学中に横光利一らと同人誌「塔」を創刊、小説を発表。中学教諭の傍ら、創作に励む。退職後の1936年、処女作品集「電光」を刊行。1938年、「厚物咲」で第7回芥川賞を受賞。翌年の「碑」で、文壇上の地位を築く。戦後は歴史物、剣豪ものなどを執筆。1969年、ガンで死亡。享年68。没後、「中山義秀全集」全9巻が、新潮社より刊行された。


【参考資料】
 中山義秀『少年死刑囚』(角川文庫)
 村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)


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