佐瀬稔『うちの子がなぜ! 女子高生コンクリート詰め殺人事件』
(草思社)


発行:1990.10.25



 昭和64年(1989年)1月、東京都足立区綾瀬で起きた殺人事件は、検察をして「犯罪史上においても稀に見る重大かつ凶悪な犯罪」と言わしめたほど衝撃的な事件であった。4人の少年が、17歳の女子高生を40日間も監禁・暴行した末に、死に至らしめ、ドラム缶にコンクリート詰めにして捨てるという残忍な内容は、多くの人に「恐るべき少年犯罪」を印象づけた。
 しかし、被告の4少年の親たちにとっては「うちの子が、なぜ!」という驚きと後悔の入りまじった感情で迎えられたことだろう。
 マスコミは「少年法の適用範囲」や「量刑不当」の問題に終始したが、事件の本質はもっと広く根深い。著者は30回以上の公判に通いつめ、多くの関係者に取材し、少年たちの生い立ちを克明に跡づけた。しだいに明らかにされる事件の全容は、いかなる研究所やレポートよりも、現代の家庭や教育が抱える難問を浮き彫りにしているのではないか。(折り返しより引用)


【目 次】
プロローグ
第1章 別れ道
第2章 赤い嵐
第3章 六人の騎手
第4章 身勝手な恋人
第5章 伏線
第6章 ドラゴン・クエスト
第7章 暗い部屋
エピローグ
あとがき


 本書に出てくる四少年のプロフィールは以下(本書より引用、一部誤記を訂正)。

【一夫】
 昭和45年4月生まれ。父は会社員、母はピアノ教師。妹1人。61年、柔道の腕前を買われ、私立高校に推薦入学したが、柔道部でいじめにあい挫折。1年3学期で中退する。62年3月から翌年8月まで、タイル工として働いたのち退職。銀座にシマを持つ露店の生花商でアルバイト。組事務所の当番勤務などもつとめる。母校の中学校校舎に乱入して窓ガラスを割るなどして補導され「保護観察処分」ほかの前歴を持つ。本件のリーダー格。一審の判決は懲役17年(求刑は無期懲役)。控訴審判決は20年、刑が確定。

【次郎】
 昭和46年5月生まれ。姉1人。小学校3年の時、両親が離婚。クラブ・ホステス、スナック経営などで働く母親の手で育てられた。中学校で、一夫の1年後輩。私立校に進学したが、1年の2学期に退学。2か月間ほど、定時制高校に通学しつつ、配線工などを転々。63年秋から生花商でアルバイト。バイク無免許運転で補導され「保護観察処分」を受ける。サブ・リーダー格。一審判決は懲役5年以上10年以下(懲役13年)。平成2年8月、控訴。平成3年7月、確定。

【三雄】
 昭和47年12月生まれ。父は病院事務長、母は同じ病院の看護婦。兄1人。中学校で一夫の2年後輩。63年、工業校に進学したが、1年2学期で中退。定職につかぬまま事件を起こし、自宅2階の自室が少年の監禁場所となる。バイク無免許運転で「保護観察処分」の前歴を持つ。一審判決は懲役4年以上6年以下(懲役5年以上10年以下)。平成2年8月、控訴。5年以上9年以下で確定。

【司郎】
 昭和46年12月生まれ。姉1人。5歳の時、両親が離婚。スーパーで働く母親に育てられる。父親はのち交通事故死。中学校で一夫の1年後輩。62年、工業校に入ったがすぐ中退。ウェーター、空調設備作業員など職を転々。自宅のガラス窓を割るなどして暴れたため「保護観察処分」を受ける。一審判決は懲役3年以上4年以下(懲役5年以上10年以下)。二審で5年以上7年以下を言い渡さた。上告するも取り下げ確定。


 1990年5月21日に行われた論告の中で、検察側は言葉をきわめて被告らの所業を攻撃した。「わが国犯罪史上においても稀に見る重大かつ凶悪な犯罪」「残忍かつ極悪非道である点において、過去に類例を見出し難く、重大かつ凶悪な犯罪」と繰り返したうえ「動機はきわめて反社会的かつ自己中心的」「犯行態様は残虐かつ冷酷」「行動はまさに人の仮面を被った鬼畜の所業と断ぜざるをえない」と述べている。
 2ヶ月後の7月19日、法廷で裁判長が読み上げた判決文にはこうある。
「(被害者の)身体的及び精神的苦痛・苦悶、ならびに被告人らへの恨みの深さはいかばかりのものであったか、まことにこれを表現する言葉さえないくらいである」。
 四人が行ったことに関するかぎり、弁護側に、反論の余地はない。
 問題は、そこにいたる歳月である。二十年足らずの間に、いったい、何があったのか。それははたして、鬼畜を育てるだけのために費やされた歳月だったのか――。(本文より引用)

 「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の内容については、もはや多くを語る必要のない事件である。
 1988年11月25日、帰宅途中の女子高生Wさん(18)に三雄が襲いかかった。一夫が助けるふりをして近づき、甘言を弄して誘拐。次郎、司郎も荷担。三雄宅に略取した。その後41日間、Wさんを不法に監禁、強姦行為や暴力行為、陵辱を繰り返した。1989年1月4日、Wさんはショック死。4人は遺体をボストンバックに入れた後ドラム缶にコンクリート詰めにし、空き地に投げ出した。
 3月29日、別事件で少年鑑別所に収容されていた一夫、次郎のもとに、綾瀬署の刑事が訪れた。刑事たちは、1988年11月16日に起きた綾瀬母子殺人事件の捜査で、現場付近の不良グループを虱潰しにチェックしていた。刑事は一夫を見て、何かあると思い「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」とカマをかけた。一夫は「すみません、殺しました」と答えた。しかし告白したのは、綾瀬の事件ではなく、本事件であった。
 4人は猥褻目的略取誘拐、監禁、強姦、殺人、死体遺棄で起訴された。

 本書はフリージャーナリストである佐瀬稔が、なぜ彼らはこのような事件を起こしたのか、それを追求することにより、この事件の全容を明らかにするために書かれた。筆者は少年少女に関する事件に以前から関わっており、1984年には浪人生が実父を殴り殺した『金属バット殺人事件』を著している。
 この作品は、裁判の過程と事件の流れ、そして加害者家族や関係者たちへのインタビューを並行に書き記しながら、事件の全容を明らかにするための取材を綴っている。極力自らの主観を語ることを避け、様々な論文等からの引用を加味することにより、客観的な事件の全容を浮かび上がらせようとしている。
 しかし、結論らしい結論が書かれなかったことにより、ただの記録で終わってしまっているのも間違いない。あとがきでたった数行のことを書くことが結論だったとは思いたくない。
 結局は我々がいったい何を感じ取るのか、どうすればよいのかを考えなければならないのだろう。それは当然のことなのかもしれないが、ジャーナリストとして本を著すのにそれだけでよいのか、という気持ちにもさせられる。

 2004年現在、次郎、三雄、司郎はすでに出所している。ところが99年に次郎は2004年5月19日未明、東京都足立区の路上で、好意を寄せていた女性と交際していると思い込んだ知人男性に「女を取っただろう」などと言いがかりをつけ、車のトランクに押し込んで埼玉県内のスナックに4時間以上監禁し、顔を殴るなどして約10日間のけがをさせた。このとき、次郎は男性を「人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ」などと脅していたとされる。Bは6月4日に捕監禁致傷の疑いで逮捕された。2005年3月1日、東京地裁は次郎に対し、懲役4年(求刑懲役7年)を言い渡した。
 結局次郎は、人を殺害したという重荷を全く背負っていなかったのだろうか。裁判と刑務所を通り過ぎた結果がこれでは哀しすぎるではないか。当時多くの人がいったように、量刑が軽すぎた(ただし、少年の有期刑としては当時最長)のだろうか。それとも刑務所では全く反省することがなかったのか、教育を受けさせられなかったのだろうか。


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