木村修治『本当の自分を生きたい。 死刑囚・木村修治の手記』(インパクト出版会)
発行:1995.1.10
名古屋市で寿司店を経営していた木村修治は、愛人への仕送り等で多額の借金を抱え、その返済のために競輪と競馬に手を出してさらに借金が増えてしまったため、誘拐を計画。1980年12月2日、「英語の家庭教師をお願いしたい」と新聞の告知板に掲載してあった名古屋市に住む女子大生(当時22)を誘い出し、自宅近くにて車で誘拐して直後に殺害。遺体はレジャーシートでくるみ、木曽川へ捨てた。2日~6日、3,000万円の身代金を要求したが、受け取りに失敗。12月26日、公開捜査が始まり、身代金要求の声が公開された。翌年1月20日、木村は逮捕された。遺体は初公判直前の1981年5月5日、遺棄したと供述していた木曽川橋から700m上流の地点で発見された。
木村は起訴事実を全面的に認め、1982年3月23日に名古屋地裁で求刑通り一審死刑判決。1983年1月26日、名古屋高裁で被告側控訴棄却。被告・弁護側は起訴事実に矛盾があることと、死刑違憲論を訴えたが、1987年7月9日に最高裁は被告側の上告を棄却。判決訂正申立も却下され、8月5日に死刑が確定した。
木村は上告後に死刑廃止運動に出会い、1986年2月に死刑廃止運動を行う死刑囚の集まりである「日本死刑囚会議=麦の会」に入会し、その後運営委員になっている。
その後、1993年9月に恩赦出願書を提出。結果は通知されないまま1995年12月21日、死刑が執行された。45歳没。
【目 次】
第I部
1.寿し政への就職、そして結婚
2.揺らぐ新生活
3.独立への大奔走
4.致命的な挫折
5.つのる不満
6.二重生活
7.暗雲の影
8.借金地獄へ
9.肉体の崩壊
10.追い詰められる日々
11.誘拐
12.実行へ――その真相
13.殺してしまった
14.破滅
15.公開捜査
16.逮捕へ
第II部
1.早く終わってほしい!
2.裁判→死刑判決
3.上告審の中で
4.差別への本質への気づき――私は差別者だったのだ
5.死刑廃止運動との出会い
6.内省へ
7.水平社宣言との出会い
8.死刑確定への抵抗
9.口頭弁論
10.死刑確定――私の罪をとらえかえす
11.なぜ罪を罪とも思えなかったのか
12.生まれてきてよかった
座談会・修治さんとともに
あとがきにかえて
本書は“名古屋女子大生誘拐殺人事件”で死刑判決を受け、そして執行された木村修治死刑囚が1987年8月から1989年5月にかけて執筆した手記である。第I部の逮捕までが罫紙238枚、第II部の逮捕以降が罫紙134枚。400字詰め原稿用紙にして約1,700枚である。第II部が先に完成し、続いて第I部が完成した。
単行本にするにあたって、木村死刑囚の幼児期から結婚までの部分(罫紙86枚分)を削除、それ以降も主題と関係の薄い部分は削除した。その代わり、冒頭では義姉による要約が掲載されている。また手記に登場する人名、地名の殆どは仮名である。
第I部は逮捕されるまで。簡単に書くと、結婚したはいいが妻やその両親との関係が悪くなったところに、古い友人と再会し、愛し合うようになった。家と愛人との二重生活を支えるために、ギャンブルに手を染めるが結局借金を重ねてしまい、サラ金に手を出す。暴力団らによる激しい取り立てから逃れるために、女子大生の誘拐を計画。しかし騒がれた女子大生を殺害してしまったので、シートにくるんで川に遺棄。身代金要求の電話を掛けたが、受け取りに失敗。身代金はあきらめた。借金の総額が2,800万円であることが家族や親族に知られたため、一同で会議。愛人は身を引くこととなり、親族や妻の父が出し合って借金を返済した。新しい職場で働くこととなったが、公開捜査で流れた身代金要求の声がそっくりであったことから、親族一同に問いつめられる。なんとか否定したが、警察の捜査は徐々に近づき、そして逮捕となった。
第II部は逮捕後から裁判が終わるまで。逮捕から警察の取り調べ、そして裁判。自らが犯した罪の大きさに恐れ、マスコミなどからの攻勢に恐れた彼は、裁判でも起訴事実をほぼそのまま認定。名古屋地裁は死刑判決を言い渡した。控訴するつもりはなかったが、母などの説得により控訴。高裁は3ヶ月で結審し、死刑判決を支持。
しかし上告後、彼は「水平社宣言」と出会い、麦の会の死刑囚たちと出会う。「被差別部落民」の出身であった彼は、自らが差別意識を持っていたことに驚く。そして自分の半生を振り返り、自分の罪を見つめ続け、生きて償いたいと願うようになる。改めて裁判の内容を調べると、自らの記憶している犯行とは違うことが多々書かれてあった。そのうち、彼には支援者がつくようになり、私撰の弁護士も付いた。上告審では自供調書や認定事実にある殺害方法や犯行時間、遺体梱包等に矛盾があるとして、「周到、綿密な計画性を持った犯行ではなかった。被告の改悛の情は顕著であり、死刑は不当。正義に反する」と述べ、死刑判決の破棄を求めた。しかし結果は死刑判決の支持。そして彼は死刑確定囚となった。
彼は自らの生き方を反省するとともに、二度と同じような犯行を繰り返す人が現れないことを祈り、この手記を執筆した。
とまあこうやって書くと、手記を読んで感動する人がいるような書き方だけど、実際のところは単なる甘えの手記でしかない。起訴事実と若干の異なりがあったとはいえ、女子大生を誘拐して殺害(過失ではない)したうえで川に放り投げ、家族に身代金を要求したという事実は消えない。計画性が曖昧だとか、殺害が偶発的であるというのはあくまで当人が言っていることであり、それが真実であるかどうかはわからないし、結果が変わるわけでもない。それに小さな子どもならいざ知らず、すでに大人になっている大学生は、犯人の顔を詳細に覚え、説明する能力を持ち合わせているのだから、例え身代金を奪うことができたとしても、素直に解放するとはとても思えない。誘拐した時点で殺害も頭にあったと考える方が当然であろう。
私は彼が自らの罪の重さから逃げるために、このように書いているとしか思えない。第I部で述べられているような、困難や苦労から逃げたり目を背けたりする彼の姿勢が、自らの記憶を都合のよいように改竄したとしか思えないのである。
また彼は生きて償いたいと書いている。書くのは簡単であるが、では生きて償うとはどういうことなのか。どういう風にするのか。それで誰もが納得するのか。未だかつて、誰もその問いに答えた人はいない。ただ、償いたいと訴えるだけだ。そして本書でも、被害者や遺族に対する償いについて書かれているのはごくわずかである。
犯罪者の声というのはなかなか表に出てこないので、このような手記が出版されること自体はよいことだと思う。手記出版の打ち合わせを目的とした面会を拒否する名古屋拘置所の姿勢については、さすがにやりすぎである。ただ、手記を書くのならまず被害者や遺族に対する謝罪をまず最初に書くべきではないのか。このタイトルにしたって、結局は犯罪を犯す前に戻りたいという願望なだけだ。“本当”とは、結局自分は犯罪を犯すような人間ではない、ということを差しており、そしてそんな生活に戻れることを夢見ているだけの、ただの甘えである。
彼は死刑判決を受けて、初めて自らを振り返ることができた。これがもし無期懲役判決だったら、いつまで経っても自らの過去を振り返り、反省するようなことはなかっただろう。
本書は恩赦出願後の1995年1月に出版された。そして木村死刑囚はその年の12月21日、執行された。45歳没。被害者の父親は、「「まっとはよ(もっと早く)、処刑せないかん」「死刑廃止(論)はでたらめ。死刑制度がある以上、(執行は)即刻やるべきだ」「娘がおれば、孫を連れて遊びに来るだろう。そういうこともありゃせん」「犯罪を犯せば、被害者だけでなく親兄弟、親類にまでものすごく迷惑がかかる。犯罪に走る前にそれを考えないかん。(悩みを)一人で考えず、だれかに相談してほしい」「(木村死刑囚も)だれかに相談していれば、殺さなくてもよかったのに……」と語った。
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