佐久間哲『魔力DNA鑑定 足利市幼女誘拐殺人事件』(三一書房)


発行:1987.2.10



 1990年5月12日、山本純一さん(仮名 33)と鈴子さん(仮名 30)の長女、由里ちゃん(4)が行方不明になった。山本さんは夕方、由里ちゃんと一緒にパチンコ店へ行った。二人ともパチンコ店で勤務していることもあり、由里ちゃんはパチンコ店の雰囲気に慣れていた。前日、パチンコ店でやはり親に連れられてきた二人の子供と一緒に遊んだこともあり、由里ちゃんがせがんだのであった。
 純一さんはパチンコをしながら時々由里ちゃんの様子を窺うが、いつの間にか見えなくなった。19時30分頃になって由里ちゃんを捜し回るが、どこにも見つからない。店の周辺にもいなかった。仕事が終わった鈴子さんも一緒に探すが見つからない。21時45分頃、二人は足利署へ届け出た。
 足利市では1979年8月に5歳の少女が、1984年11月にも5歳の少女が誘拐されて殺害されるという事件が起きていた。しかも、いずれも未解決のままだった。
 翌日13日、渡良瀬川の砂州の茂みの中で、全裸死体の由里ちゃんが発見された。
 山本さんは自分の責任だと思って自殺まで考えたという。後に警察に心境を聞かれたとき、こう応えた。
「犯人は、由里のためにも社会のためにも、捕まえて死刑にしてください」

 遺体についていた精液から、犯人の血液型はB型と判明した。警察の捜査の結果、容疑対象者の一人として、私立幼稚園のバス運転手をしている菅家利和さんが上がる。容疑対象として挙がった理由は、B型であること、アダルトビデオを多数保有していること、アリバイがないこと、土地勘があること、成人女性との性交渉がうまくいかなかったこと、事件が起きたパチンコ屋に事件後は全く出入りしなくなったこと、幼児に対する興味を持っていたことなどである。菅家さんには警察の尾行がつくようになった。
 当時、DNA鑑定の技術がイギリスやアメリカで広まり、日本でも1980年代後半から用いられるようになった。そして本事件でもDNA鑑定がされることとなった。菅家さんの捨てたゴミに入っていたティッシュペーパーについていた精液よりDNA鑑定が警察庁の科学警察研究所で行われた。その結果、鑑定の一つであるMCT118法は12-26型で一致した。また、ABO式、ルイス式の二つの血液型が同一であった。この二つを合わせた総合出現頻度は、1000人に約1.2人と鑑定書に付記される。
 捜査本部は鑑定終了後の1991年12月1日午前8時30分、この頃は失業中だった菅家さんを任意同行した。ポリグラフの結果では「クロ」だった。21時50分頃。菅家さんは犯行の大筋を自供した。12月21日、起訴された。
 捜査本部はさらに過去に起きた誘拐殺人事件も追及する。22日、菅家被告は2件について自供。12月24日、1979年の事件で再逮捕される。しかし、公判維持に必要な物証が得られなかったため、宇都宮地検は処分保留とした。しかし、捜査段階からついていた弁護士は、菅家被告が他人に迎合しやすい性格であったことから、二つの事件の自白を疑問視していた。なお、この二つの事件は1993年2月26日、物的証拠がないことと途中から菅家被告が事件を否認したため、不起訴処分となっている。
 1992年2月13日、宇都宮地裁での初公判で、菅家被告は由里ちゃん殺害の起訴事実を全面的に認めた。
 弁護側は5月21日、DNA鑑定について証拠能力がまだ未完成であることを理由に、証拠採用すべきではないと意見書を提出したが、裁判所は証拠として採用した。
 弁護側は菅家被告の精神鑑定を請求。裁判所もそれを認めた。11月14日付で提出された鑑定書には、菅家被告の知能が「精神薄弱境界域」にあること、「代償性小児性愛」の状態にあったことなどが書かれていた。
 12月22日の公判で、弁護人は菅家被告が家族宛に無実であると訴えた手紙があったことを公表し、菅家被告に質問した。そして菅家被告は「やっていない」といきなり否認に転じた。弁護人質問の前には検察官の質問に犯行を供述していたにもかかわらずである。2日後、菅家被告は裁判長宛に上申書を提出した。そこには、無実であるといったのはこわくなったためである、ゆるしてください、と書かれていた。
 1993年1月28日の公判でも、菅家被告は裁判長の質問に犯行を認めた。
 3月11日、検察官は無期懲役を求刑した。
 3月25日、弁護人は最終弁論で法律の建前から無罪を主張した後、被告の知能の低さが大きく影響していることなどを情状酌量してほしいと結んだ。菅家被告は最終陳述で「ほんとうにもうしわけありませんでした」と述べた。
 6月2日、主任弁護人宛に菅家被告から手紙が届いた。そこには、自分が無実であると書いてあった。
 弁護人は弁論再開を裁判所に請求。6月24日の公判で、その手紙が証拠として提出され、弁護人質問・検察官質問でも菅家被告は犯行を否定した。ただこの時、検察官が質問した家族以外の人の、面会した人の名前をいうことができなかった。そして傍聴席の女性が、「いう必要はない」と発言している。そして改めて論告が行われて結審した。最終陳述で菅家被告は「私はやっておりません」と述べた。
 7月7日、菅家被告に求刑通り無期懲役が言い渡された。本件で行われたDNA鑑定については、全面的に認められた。自白の信用性についても、公判途中まで一貫して被告が維持していたことを理由に認められた。また被告の否認発言については信用性がないとした。
 菅家被告は翌日、控訴した。

 1994年4月28日、東京高裁で控訴審の初公判が開かれた。主任弁護士は、菅家被告が、無罪であると訴えた。検察側は、控訴棄却を求めた。
 弁護側は公判で、菅家被告の自白に不自然な点や矛盾点があることを指摘し、追求する。また、精神鑑定の結果にも疑問を投げ、菅家被告が本当に「代償性小児性愛」の状態にあったとはいえないと指摘した。さらに証拠となったDNA鑑定についても、科警研が行ったMCT118法には欠陥があることなどを訴えた。
 1996年1月18日、最終弁論で弁護側は、被告の自白には信憑性がないこと、精神鑑定や死体鑑定書に重大な疑義があること、DNA鑑定には欠陥があることなどから無罪を訴えた。検察側はDNA鑑定は信頼できること、自白には「秘密の暴露」に準ずるものがいくつもあることなどを理由に信憑性が高いことを挙げ、控訴棄却を訴えた。
 5月9日、裁判所は控訴棄却を言い渡した。自白、DNA鑑定、精神鑑定結果など、すべてにおいて是認した。


 本書は、「足利市幼女誘拐殺人事件」の事件発端から控訴審の結果までを書き記したものである。本書には、作者の感情というものが一切入っていない。事件の動きから捜査の状況、裁判の内容などを裁判記録からただ写実的に書き記したものである。よって、本書で書かれている無実の訴えというのは、あくまで被告側、弁護側の訴えの内容である。
 作者の感情が入らないため、余計な感情論に振り回されずに読むことができるのは助かる。無罪を訴える著書の一部は、独善的かつ感情的に書かれることがあるため、読んでいて逆に腹が立つことがあるからだ。しかし、感情が全くないのは、事件を客観的に見ようとする分にはよいが、物語として読もうとするとあまりにも無味乾燥すぎるところがあるので困ってしまう。このあたり、どこまで読者に配慮するかは難しいところである。
 本書で、というか本事件で特に注目したいのは、自白とともにDNA鑑定が裁判で重要な役目を果たしているところにある。DNA鑑定というと、犯人逮捕の決め手となるような有力な鑑定であるかのように思われるが、実際のところ鑑定方法によってはあくまでパーセントが絞られるという程度のものであり、指紋のように必ずしも100%の結果を示すものとは成り得ない。特に本裁判では、DNA鑑定が導入された初期の方法には、欠陥が生じていることを訴えている。弁護側は、改めてDNA鑑定を要求するが、その訴えが通ることはないだろう。
 本事件は、直接証拠が少ないという難しい裁判である。このような場合、どうしても「自白」に頼らざるを得ない。この「自白」というものが曲者で、本当に被告が「自白」したのか、それとも捜査官の「誘導」によるものなのかが争われることが多い。この曖昧さを打破するためには、取り調べ状況を撮影するしかないと思うのだが、警察側はかたくなに拒否しているというのが現状だ。
 本書を読んで、読者は菅家被告が有罪であると判断するだろうか、無罪であると判断するだろうか。

 DNA鑑定はこの頃、幾つかの事件で威力を発揮するようになっていた。
 ・刃物についていた血液が被害者か加害者のものかを判定
 ・誘拐殺人事件の容疑者の車についていた血液が、被害者のDNAと一致
 ・小学生連続強姦事件の精液がDNA鑑定の結果、すべて同一人物のものと判明

 本事件後も、幾つかの事件で威力を発揮したが、逆に無罪を証明する結果も出ている。
 大分市で起きた女子大生強姦殺人事件、いわゆる「みどり荘事件」では、控訴審で裁判所主導によるDNA鑑定が実施された。膣内に残された体液は被告と一致しなかったが、室内に残された毛髪が被告と一致した。ところが、この毛髪は長さから考えて被告のものといえるものではなかった。結果、鑑定結果自体が誤りであるという異例の展開となり、被告は逆転無罪となった。
 佐賀で起きた連続強姦事件では、被告が取り調べでは自白したものの、裁判で1件を否認。DNA鑑定の結果、被害者の服に付着していた犯人の血液と被告のDNA型が異なっていたため、一部無罪となった。
 飯塚市で起きた2幼女誘拐殺人事件でも現場に残された血痕のDNA鑑定が争点となった。科警研での2種の方法では被告とDNA型が一致したが、帝京大の鑑定では一致しなかった。裁判では、帝京大の鑑定方法は資料が少ないということで退け、科警研の1つめの方法については証拠としての信用性を否定したが、もう1つの方法については証拠として認め、有罪判決を言い渡した。
 「晴山事件」での再審請求でも、DNA鑑定が行われた。この結果、現場に残された唾液と死刑確定囚とのDNA型が一致したという結果が出た。再審請求は棄却され、死刑囚はその後病死した。


 この「足利市幼女誘拐殺人事件」であるが、2000年7月に最高裁で上告が棄却され、確定した。最高裁でDNA鑑定が証拠として採用された初めてのケースである。
 2002年12月25日、弁護団は宇都宮地裁に再審請求を提出。検察側のDNA鑑定について、「捜査段階のDNA鑑定は、今は利用されていない初期のもので鑑定結果は不正確」と主張した。また殺害方法についても、自白とは矛盾すると訴えている。


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