朝倉和泉『還らぬ息子 泉へ』(中公文庫)


発行:1983.11.10



 昭和54年(1979年)1月14日。当時、早稲田大学高等学院一年生の少年が祖母を刺殺し、その直後、近くの経堂ビルの屋上から投身自殺した。少年の両親は一年前に離婚。その後、妹とともに母親に引き取られ、祖父母と同居。祖父は大学教授。別れた父も同じ分野の大学教授――。特殊といえば特殊な家庭環境が多少世間の注目を集めたとはいえ、事件そのものは単なる発作的犯行として簡単に片付きそうな気配であった。
 ところが、少年の部屋から長文の遺書、犯行メモ、犯行の詳細を吹き込んだ録音テープ等が発見されるに及んで、ことは大きくなった。その遺書は計画的犯行の証しであったのみならず、一種現代社会への告発状でもあったのである。「現代」に歪められ、押し潰され、踏みにじられてクシャクシャになった少年の魂の呻きにも似た遺書は、世の人に少なからぬショックを与え、その心胆を寒からしめた。遺書に内部告発的要素が含まれていたこともあり、少年の育てられた「場」が改めて世間の注目を浴びることになったとしても、それは当然のなりゆきであったろう。人の子の親として、私は初めて試練の場に立たされた。その少年、朝倉泉は、私の息子なのである。
 七章からなる遺書の大半は、第二章におけるエリート(またはエリートのつもり(ヽヽヽ))である自分を自殺に追い込んだ大衆の嫌らしさに対する憎悪で埋められていたが、私達、つまり事件の当事者たちにとっての問題は、「祖母」と「母」の章にあった。具体的な加害者として女ばかりが名指しで批判され、男が不問に付されていることから、朝倉家における「女性の地位」が取り沙汰された。弱き男達に、強き女達。お決まりの図式がそこに引かれる。「母」の章を、警察が「善意」からほぼ全文カットし、「母は勝気なお嬢さん育ち、離婚も母がゆずればよかったのではないか」と要約して発表したことも裏目に出た。
「母」の章で離婚について述べられているのは、百七十行のうちわずか五行である。それも離婚そのものへの批判というよりは、母の勝気さと行動力の証しとして取り上げ、不快の意を表明しているにすぎない。それにもかかわらず要約された一行は、あたかも離婚が――それも、強き女にイニシアティヴを取られた離婚が、母親批判の中で大きな比重をしめていたかのような印象を世間に与える結果となった。
 マスコミ、特にゴシップをその命とする週刊誌は、事件の本質の追究などそっちのけで、もっぱら「内部事情」の解明にのり出した。私達(父と私)は、妻と孫の、あるいは母と息子の死の悲しみに浸る暇もなく、マスコミ攻勢の矢面に立たされることになった。
(以下略)

 朝日新聞ではこの事件を扱った「子どもたちの復讐(2)」が2月24日に掲載。筆者は朝日新聞の本多勝一編集委員からインタビューの申し込みを受け、そのインタビューはそのまま「週刊朝日」(3月16日号)に載った。さらに朝日新聞3月28日夕刊に「子どもたちの復讐・番外編」で、投書の一部が掲載された。その投書は、「推測」と「思いこみ」に基づいた不正確な批判であったことに、作者は激怒した。作者は本多勝一に裏切られた思いを抱き、反論すべく自らがまとめようと思いたち、息子の中学・高校時代の友達は母親への電話インタビューや直接話を伺ったりした。しかし、「離婚」も含めてすべての「事情」を述べるべく、作者は別れた夫にその旨を手紙で書き送った。しかし夫から「やめて欲しい」と「強い要望」を受け、作者の目論見は挫折した。
 作者は自分のためにだけ、そして娘が大きくなったときに話すため、厚手のノートを一冊買い求め、息子への手紙を書きつづることにした。

(以上、「はじめに」より一部抜粋)


 本書は、事件後一年間に渡り、ひたすら亡き息子に語り続けた、母から息子への手紙である。その全文は、悔恨と思慕の情ですべてが包まれている。客観的に書こう、客観的に書こうと思いながらも、どうしても自らの想いが表に出てくるところが、母としての感情なのだろうと思う。
 内容としては、母親ならではの文章、としかいうほかない。結局、母は子供の味方であり、それは当然のことだろう。最近は平気で子供を虐待する母親がいるから、「当然」という言葉が当てはまらなくなりつつあるのがとても悲しいことだが。この文章から、いったい何を読み取ればよいのか。母親は息子にこういう想いを抱いているのか、というのを読みとればいいのかもしれない。子供はその母親の愛情を当然のものと思うのか、それとも逆に重荷と思うのか。投げかけるものは大きいが、答えは永遠に得られないだろう。ただ、母親は常に子供へ愛情を降り注いでいる存在、なのだろう。それがどういう形で表に出てくるか、そしてその結果が幸せになるのか、不幸せになるのか。他の生き物と違って、親離れ、子離れが難しい生き物である人間は、本当に難しい。

 本書には、息子である朝倉泉の遺書が付されている。この遺書が凄い。自らをエリートと思いこみ、エリートを自殺に追い込んだ大衆・劣等生、そして祖母への恨み辛みがこれでもかとばかり並べられている。
 本書の「総括」で書かれている本事件の動機は以下である。

  1. エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低納な大衆・劣等生どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を一人でも減らすため。
  2. 1の動機を大衆・劣等生に報せて少しでも不愉快にさせるため。
  3. 父親に殺されたあの開成高生に対して低能大衆がエリート憎さのあまりおこなったエリート批判に対するエリートからの報復攻撃。

 特に第二章に書かれた「エリート批判」に対する批判は、社会を表層的にしか見ることのなかった子供らしい批判である。誰でも一度は、「社会が悪い」と批判した内容であり、それを長々と文章にしたに過ぎない。なんら実績も残さず、自らをエリートと思いこむあたりが中学生らしい幼さである。
 本書は色々な意味で、中学生が起こした犯罪に迫る一冊と言っていいかもしれない。もちろん、解答が与えられているわけではないが、解答に至るヒントが隠されていることは間違いない。

 本書は、1980年10月、中央公論社より刊行された作品の文庫化である。
 作者は1936年、東京に生まれる。津田塾大学英文学科卒業。執筆当時は、シナリオ作家として活躍。


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