河野義行『「疑惑」は晴れようとも―松本サリン事件の犯人とされた私』
(文春文庫)


発行:2001.4.10



 いまや周知の冤罪事件となった「松本サリン事件」。1994年6月27日、最大の被害者だった河野さんは警察の見込み捜査で犯人と疑われ、そのリーク情報をもとにマスコミも疑惑報道をくりひろげた。無実が証明される、翌95年3月20日の「地下鉄サリン事件」のはあ阿世まで9カ月にわたる河野さんの無実への苦闘の全てがここにある。(粗筋紹介より引用)

【目 次】
第一章 被疑者から被害者へ事件の発生
第二章 九四年六月二七日
第三章 家宅捜査
第四章 事情聴取
第五章 自白強要
第六章 逮捕に備えて
第七章 マスコミ報道
第八章 謝罪
第九章 <増補>妻との日々
文庫版あとがき


 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員男性(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、約600人が重軽傷を負った(ただし、裁判の迅速化のため、訴因変更で重傷者は4名となっている)。

 ということで、今ではオウム真理教の一連の事件の一つとして知られている松本サリン事件である。しかし事件当初、長野県警は第一通報者である河野義行氏を重要参考人として連日取り調べた。マスコミもまた、長野県警の発表を鵜呑みにした記事をそのまま掲載したり、時には長野県警からリークされた記事を書くことによって、河野氏が犯人であるかのような報道を続けた。特に地元紙である信濃毎日新聞は、その論調が強かった。
 早期逮捕を予測する記事も流れたが、とりあえず河野氏が捕まることはなかった。しかし、河野氏はいつまでクロに近い灰色の存在として扱われ、それは地下鉄サリン事件が起きるまで続いた。

 本書は、松本サリン事件で犯人扱いされた河野氏が、無実であることを勝ち取るまでの戦いの記録である。警察だけではなく、全てのマスコミから犯人視され、しかも警察からの自白強要、河野氏の子供を含む周辺の誘導捜査、マスコミへのリークとそれに乗っかった疑惑報道等、河野氏は世の中の至る所から犯人扱いされてきた。それは、事件で使われた毒がサリンと判明し、サリンは一個人が簡単に作れるものではないと判明してからでも、化学的事実までねじ曲げて犯人扱いを続けてきたのである。
 それでも、河野氏を知る人たちがいたから、マスコミに踊らされない人たちがいたから、河野氏は救われた。河野氏の周辺の人たちは警察やマスコミの誘導に惑わされることなく、河野氏を信じ続けたのである。

 本書は、無実の人間がちょっとしたことで犯人視される恐ろしさ、犯人扱いする報道の恐ろしさを書き記した貴重な記録であるとともに、人を信じることの素晴らしさをも書き記した感動の書でもある。

 地下鉄サリン事件の発生で河野氏の無実がほぼ明らかになったとき、各新聞紙は謝罪文を載せたものの、自ら河野氏へ謝罪することはなかった。テレビ局もまた謝罪の放送があったものの、直接の謝罪はなかった。裁判にまで持ち込まれた信濃毎日新聞もまた謝罪文を載せることにより、和解が成立した。
 しかし、同じ愚をマスコミはいつまでも繰り返している。刑が確定するまでは、全ての人たちはまだ無罪であるはずなのに、犯人扱いをした報道を続け、プライバシーの侵害や社会的制裁を正義面して加えているのである。たまに自らの記事を検証し、反省しているような文章を載せることはあるが、それはあくまでポーズに過ぎない。ロス疑惑事件において、数々の記事で三浦和義氏に損害賠償を求められ、負け続けたことなどを忘れたかのように、いつまでも同じことを続けるのである。
 警察もまた、一切謝罪をしようとしなかった。そしてこのときの教訓を、過去の教訓を全く生かそうとせず、冤罪事件を生み出し続けている。


 本書は、1995年1月に文藝春秋から単行本として出版されたものに、第九章を書き加えて文庫化したものである。


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