下山事件。昭和24年7月5日、日本橋三越から忽然と姿を消した初代国鉄総裁下山貞則が、翌日未明常磐線の線路上で轢断死体となって発見された。自殺か? 他殺か? 戦後最大の怪事件の謎は、50年後のいまも解かれぬまま、関係者は鬼籍に入っていく――ある人物から得た重大な新情報。著者の迷宮への彷徨が始まった。生き残った関係者を探し、その記憶を辿る。真実はどこにあるのか?(粗筋紹介より引用)
【目 次】
プロローグ
第一章 下山事件
第二章 事件の連鎖
第三章 テレビでの日々
第四章 スクープへの予感
第五章 決断と挫折
第六章 終幕
エピローグ
文庫版のための付記
1994年の春、森達也は『彼』に初めて会った。『彼』は森にこう語った。
『彼』の祖父の十七回忌の後の食事の席。祖父の妹、すなわち『彼』の大叔母が『彼』につぶやいた。
「お前のお祖父さんはあの事件の関係者なのよ」。
そのとき、賑やかだった座は水を打ったように一瞬にして静まり返り、大叔母はその話をすぐに打ち切った。
『彼』と出会った1ヶ月後、森は斎藤茂男に連絡を取る。警察による自演事件として有名な菅生事件において、斎藤はこの謀略を暴いた共同通信社取材班の中心にいた人物である。
斎藤は森と出会ったときに、自分のことをこう呼んだ。下山病患者、と。そして斎藤の予言通り、森もまたこの病気に感染することになる。
本書は、『彼』から話を聞き、下山事件に興味を持った森達也が、下山事件の真相に迫ろうとした過程を書いたものである。はっきり言ってしまえば、真相に迫った本ではない。
最初は個人のレベルで追いかけ、その後TBS『報道特集』のプロデューサーと契約をすることができた。
しかし係わったとされる亜細亜産業、そして工場長だった矢板玄(くろし)というキーパーソンの人物まで掴んでいながら、放送のレベルに達するだけの資料をつかむことができず、調査は進まなかったことから、TBS『報道特集』との契約は解除されてしまう。
その後、『週刊朝日』と契約を結び、アシスタントを一人付けてもらう。また森は、取材の過程を同時並行でカメラに収め、ドキュメンタリー作品として完成させようと考え、取材を続けることになる。取材の途中、斎藤が1999年5月に亡くなるという訃報があったものの、少しずつ真相は近づいていっているようにみえた。
しかし1年経っても記事にならないことに苛立った『週刊朝日』は、とうとう独断で記事の連載を始めようとする。『週刊朝日』の山口一臣、そしてアシスタントを続けてくれた諸永裕司が連名で書いた記事に、森が手を加えるのが精一杯の抵抗だった。そして2回目の連載からは、森の名前単独となった。『彼』には諸永裕司が電話で経緯を説明し、その後、連絡を取り合うことはなかった。それと同時に、ドキュメンタリー作品として仕上げようというプランも頓挫した。そして森は、下山事件の真相を追うことに興味を失った。
その後、諸永裕司は『葬られた夏―追跡・下山事件』を朝日新聞社から2002年に出版した。そこには、森が書いた「週刊朝日」の文章がほとんど貼り付けられている箇所がいくつかあった。
そして森は、2004年に『下山事件』を新潮社から出版した。
言ってしまえば、この本は「真実」を追求しようとした森が、テレビや出版社という組織の壁に翻弄されてしまったという、苦闘の書であるともいえる。森は下山事件の真相に迫ろうとした。しかし、時間という壁ばかりでなく、組織という壁に跳ね返されてしまったのだ。ただ、森の取材がじれったくみえるのも事実であり、諸永たちが自らの取材結果を加えて文章に残そうとしたものわからないでもない。『彼』から話を聞いたのは1994年であり、「週刊朝日」に連載が始まるのは1999年である。その間、森はオウム真理教に密着した自主制作ドキュメンタリー映画「A」を発表するなど、他の仕事もしているのだ。もちろん森だって生活をしなければいけないし、時節をとらえたドキュメンタリーだってあっただろう。そういう森の態度、行動が結果的に離反者を産んだとしても、おかしくはないかもしれない。下山事件は50年も前の事件であり、亡くなった関係者もいたのである。
結局森は、中途半端に下山病にかかってしまい、ドキュメンタリーを追い続けることの難しさを知るだけの結果に終わってしまった。
ところが、それだけでは終わらなかった。
『彼』、柴田哲孝が2005年、祥伝社より『下山事件―最後の証言』を出版した。その中で、森の『下山事件』における柴田の大叔母の言葉と、森、斎藤が柴田の母親が経営するカラオケスナックに行ったときの描写を、捏造であると批判したのである。『
森はこの捏造批判について一切語らなかったが、『下山事件』の文庫化における付記の章で、大叔母の言葉は記憶通りに書いたつもりであるが、当事者が語っていないと言う以上、ミスは明らかであると書いた。結局それは、柴田の批判を認めた形になった。
本書は2004年2月に新潮社から出版された『
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