吉永春子『謎の毒薬―推究帝銀事件』(講談社)


発行:1996.3.28


 帝銀事件の毒物を魔性と感じ始めたのはこの十年位のことだった。
 その前のかなり長い期間は、噂されるアセトンシアンヒドリンと勝手に思いこみ、怠惰の上にあぐらをかいていた。
 そのことから脱却出来たのは、気鋭の研究者の“基礎的な調査”の一言だった。彼の助言で私は高名な法医学、薬学、生化学者などの教えを乞うことが出来た。
 そして死体鑑定書の中のシアン濃度の異常に高い点や、シアン配糖体の存在などの教示を次々と受けた。それらは安易な取材に眠りこけていた私の頬を打った。
 なかでも少壮の研究者田所氏(立場上本名を明かせないのが残念なことだが)にはおよそ10年にわたりお世話になってしまった。田所氏は最初から犯人が二回飲ませた方法に注目していた。それが二薬の秘密となった。
 この二薬について、協力を得た学者、研究者などに話したところ、首をかしげた人、そうかと腕を組まれた方など様々だった。読者の方々のなかにはこの二薬の組み合わせを荒唐無稽だと考える方もあると思う。
 私もこのことを押しつけるつもりはない。
 事実は他にあるかもしれない。ただ疑わしいと思う事実に迫る自由は、ジャーナリストの端くれの私にも持つことは出来るのではないかと考えた。(以下略)

(あとがきより引用)



【目 次】
微かなにおい
  事の始まり
  アセトンシアンヒドリン
暴露
  捜査係長の手記
  取材・陸軍極秘部隊
協力者
  死体鑑定書
  新たなる刺戟
  奔流
鼓動
  毒物「X」
  伏兵の登場
二薬の秘密
  あせり
  試験
気になる人
  事件の背後
  人体実験
  奇妙な動き
あとがき


 帝銀事件については様々な角度から語られ続けており、何十冊という著作が既に出版されている。
 裁判では有罪、死刑判決を受け、執行されることなく獄死した平沢貞通が犯人ではないだろうということは、すでにほとんどの方が確信している“事実”だろう。ただし、数々の証拠を突きつけられても、法務省も裁判所もいまだにその“事実”を認めようとしないが。
 作者はTBS報道部に勤めていた1963年頃、デスクに呼ばれ「帝銀事件など戦後の三大事件の調査をやってみないか」と言われたことから、帝銀事件の調査に係わるようになる。
 もっとも最初は違った。資料を調べてみても、作者はこの事件にドラマ性を感じなかった。そんな彼女の一言はデスクに罵声を浴びる結果となる。
「ドラマ性がない。単なる毒殺事件。えらそうな口をきくな。小一時間で何がわかったのだ」
 作者は顔を上げることが出来なかった。

 確かに報道に携わる人の発言としては不用意な一言である。しかし、我々も同じような愚を犯しているのではないだろうか。新聞記事をちょっと呼んだだけで、評論家気取りに事件の背景を蕩々としゃべり、犯人を罵倒する。のちにその犯人が無罪となったら、今度は警察を罵倒するのみ。
 もちろん、我々はただの一市民だから、固いことを言う必要はないかもしれない。しかし、そのような不用意な考えが多数組合わさり、勝手な世論を形成しているという事実は忘れては行けない。

 以後取材を続けるうちに、この事件における「毒」の謎について示唆を受けることになる。そして田所氏の尽力により、毒は「シアン配糖体」と「酵素」の組み合わせであることを「発見」する。


 正直なことを言ってしまえば、作者である吉永春子は、取材こそやっていたものの、肝心の毒物に関する追求についてはほとんど人任せだったという印象しか受けない。その点が、この本における欠点だと思われる。
 もちろん、専門的な毒物の研究を、一ジャーナリストが行うことなど不可能である。とはいえ、毒物に絡んだ事件の背景等をもっと掘り下げることは出来なかったのだろうか、という疑問が湧いてくるのも事実である。
 戦後すぐの事件であり、真実を追い求めるのは難しいことだろう。しかし、帝銀事件の「毒」そのものに着目したという意味では高い評価が与えられても良いと思う。


 吉永春子は広島県生まれ。早稲田大学卒業後TBSに入社し、報道局に勤務する。ドキュメンタリー「松川事件の真犯人」で第1回ギャラクシー賞を受賞。この他「さすらいの未復員」、「ジレンマ」など社会派のルポや、政治の密室のかけ引きをドキュメントした一連の政治ものや、キャバレー、シンデレラ・ボーイ等の風俗ドキュメントを手がけ、なかでも「魔の七三一部隊」の一連の放送は、米のワシントンポスト紙のトップに紹介され、世界各国に波紋をおこし、米の公聴会にも出席。世界17ヵ国で上映された。TBS報道局長を経て、現在、現代センターの代表。著書に『さすらいの未復員』(筑摩書房)、『ドキュメント・ガンからの生還』(新潮社)、『紅子の夢』(講談社)がある。(執筆当時)


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