上前淳一郎『狂気 ピアノ殺人事件』(文藝春秋)


発行:1978.7.15



 神奈川県平塚市の団地に住む無職Oは、5年前に引っ越してきた階下に住む会社員の家族がピアノを弾いたり、大工仕事で出したりする音に悩まされていた。特にピアノの音については再三注意をするものの、辞める気配をまったく見せなかった。仕事の方も退職させられて自棄になっていたところに、騒音でノイローゼ状態になっていたOは殺人を決意。1974年8月28日午前9時10分頃、会社員方で妻(33)、長女(8)、次女(4)の3人を、刺身包丁で複数回突き刺して殺害。このとき「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ、来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」と襖に書き付けている。その後、Oは海で死にたいと思いさまよったが死にきれず、三日後に自首した。
 ピアノ騒音に悩む人たちから同情の声もあがったが、1975年10月20日、横浜地裁小田原支部で死刑判決。弁護人が控訴。控訴審の精神鑑定で、Oはパラノイアで事件当時の責任能力はないという鑑定がなされたが、拘置所内の騒音に悩まされたOは鑑定書が提出される前に控訴取下書を提出。弁護人によって異議申立も提出されたが、1977年4月16日、取り下げが認められ、死刑判決は確定した。

 1974年に起きた、ピアノ騒音殺人事件のノンフィクション。「文藝春秋」1978年4月号〜6月号に掲載。1978年7月、部単行本化。1982年に文庫化されている。本の中でOは小淵謙という仮名になっている。
 この時期はピアノによる騒音問題が表面化した時期だった。そのため、この事件はマスコミに大々的に取り上げられた。今まで騒音に悩まされてきた人たちによる助命の声も大きかった。この本に載っているが、朝日新聞1974年9月1日付の「(前略)この事件のあと、いままで文句をいってもけんか腰で受けつけなかった近所の若い人たちが、急に静かになり、喜んでいます」。この記事を読んでどう思うだろうか。もしかしたらこの事件が起きたのは、必然だったのかもしれない。たまたま包丁を持ったのがOであったというだけで。
 このノンフィクションは、事件が起きてから裁判が終了するまでを克明に記したものである。タイトルの「狂気」という言葉は、誰を指したものなのか。周囲を気にせず音を出す者か、それに耐えきれず凶行に走った者か。
 加害者であるOは、何度も階下の住人に苦情を告げている。しかし、階下の住人はその苦情を理解できなかった。底にあるのは自らを正とする論理である。そんな背景を、作者は淡々と、そして詳細に記述している。それにしても、事件後の同情論に対し、被害者の夫や親族たちはどう思ったのであろうか。
 このピアノ騒音殺人事件は、今でも有名な事件と思われる。しかしこの本を読んでみると、今まで単純化されて伝えられていたことよりも背景は結構複雑であることがわかる。特にOの供述の変換、控訴趣意書の提出、Oが控訴を取り下げた理由などである。特にOが一審判決後に面会に来た騒音被害者の会の若者に対し、「きみたちは、おあつらえ向きの殺人事件が起きた、と思っている。違うかね。こっちは逃げられなくなって事件をやった。そのあげくいまも、逃れられない塀の中だ。きみたちも音に苦しんではいるだろう。しかし、塀の外の人たちのぬくぬくした生活のだしに使われるのだけは、私は断わる」と言い放ったのには驚いた。Oという人物がますますわからなくなる。
 ピアノ騒音による殺人事件を克明に記すとともに、この本では生活騒音に対する問題を取り上げている。事件の背景、社会背景や影響、そして裁判など通し、この事件の本当の姿を追おうとしている。もちろん、この本の全てが正しいかどうかはわからないが、少なくともこの本に書かれている取材内容も含め全てが正しいとするのであれば、この本1冊でピアノ騒音殺人事件がどういう事件であったかがわかるであろう。

 Oは2009年現在も東京拘置所の中にいる。確認できることは、現在も生存しているということだけ。中でどのように過ごしているのか、どのような思いを抱いているのかは、全く伝わってこない。死刑を望みながら、30年以上も執行されないという今の状況を、Oはどう思っているのだろうか。それとも、何も思うことができないほど、自分の世界の閉じこもっているのだろうか。


 作者の上前淳一郎(うえまえじゅんいちろう)は1934年岐阜県生まれ。1959年、東京外国語大学卒業後、朝日新聞社に入社。通信部、社会部記者を経て1966年に退社後、評論家としての執筆活動を続ける。1977年、『太平洋の生還者』で第8回大宅壮一ノンフィクションを受賞。


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