大河内秀明『無実でも死刑、真犯人はどこに 鶴見事件の真相』(現代企画室)


発行:1998.6.30



 この世の中でもっとも不公正な殺人とは、「誤判による死刑」という名の、国家による合法的な殺人以外のなにものでもない。なぜなら、法廷で正義が得られなければ、ほかにそれを得られる場所は世界中のどこにも存在し得ず、無辜の被告人を、この上なく非業な死に追いやる結果になってしまうからである。

 これは、濃厚な容疑によって強盗殺人罪の被疑者として逮捕され、違法な取り調べによって自白させられた男が、七年間に及んだ困難な裁判を通して懸命にその嫌疑をは晴らそうとしたが、その甲斐なく一審で死刑判決を受けるまでの、苦難に満ちた文字通り命を懸けた壮絶な闘いの記録であるとともに、警察・検察・裁判所が三位一体となって、「疑わしきは、これを罰せず」という刑事司法の鉄則とはまさに正反対の、「疑わしきは、これを罰する」という誤判の構造的システムを形成し、それによって犯罪の十分な立証がないまま一人の人間を処刑しようとしている、戦慄すべき刑事裁判の記録である。(冒頭より引用)

【目 次】
第一部 事件の解剖
 第一章 事件
 第二章 捜査
 第三章 公判
 第四章 被告人の弁明――「無罪の推定」原則の適用
 第五章 潔白の証明――その一「被告人の非犯人性」
第二部 判決の分析
第三部 真相解明
 第一章 他の犯人性
 第二章 潔白の証明――その二「アリバイの存在」
第四部 誤判の構造

 電気工事業高橋和利被告は、知人の土地や建物を担保に約1200万円を借りる約束をして、1988年6月20日午前10時40分頃、横浜市鶴見区の不動産業兼金融業の男性(当時65)の事務所を訪れた。高橋被告は男性と奥の和室へ入った後、隠し持っていたバールで男性の顔などを殴り、さらにドライバーで胸や背中などを刺して殺害。男性が用意していた現金1200万円を奪って逃げようとしたが、外出から帰ってきた男性の内縁の妻(当時60)と鉢合わせをしたため、妻も奥の和室で滅多打ちにして殺害した。高橋被告は、妹の夫が経営する会社の資金難を援助してから約4910万円の借金があり、奪った金は金融業者への支払いに充てられた。殺害した男性からも借金をしていた。
 夫婦の知人が午後2時30分頃に事務所を訪れ、遺体を発見した。捜査本部は7月1日、高橋被告を強盗殺人容疑で逮捕した。

 鶴見事件は上に記したとおり1988年6月20日に発生した強盗殺人事件である。事件発生推定時刻に現場を訪れたこと、そして被害者の金を持ち去っていたことから、警察は簡単に自供が取れるだろうと考えていただろう。しかし高橋和利容疑者は金を持ち去ったことこそ認めたものの、現場を訪れたときにはすでに夫婦は死んでいたと主張し、自らは殺人を犯していないと頑強に犯行を否定したのだ。しかし厳しい取り調べと、「奥さんも同じように取り調べる」という言葉に負け、ついに犯行を「自白」した。高橋容疑者は、一刻も早く取り調べから逃れたい、裁判で真実を話せばわかる、と考えたという。(この事件が冤罪であるとしたならば)いくつかの冤罪事件と同様のケースである。
 起訴後に就いた横浜弁護士会の大河内秀明弁護士は、自白内容に不自然なことが多いこと、現場の状況と合致しない部分が多いことから、高橋容疑者の無実を確信。58回に渡る裁判の中で、一つ一つ自白の矛盾を追及し、立証するとともに、別人が犯人である可能性があることを示唆、さらに見込み捜査によって他の容疑者をほとんど調査しなかった警察を批判した。
 作者によると、マスコミは無罪判決の感触を得ており、前日から坂本弁護士一家の遺体発掘捜査が始まっていたにもかかわらず、法廷に取材陣を配置していたという。しかし1995年9月7日午前10時から始まった判決で、裁判官は冒頭から主文を言い渡した。死刑判決の場合、冒頭に宣告すると被告が動揺して理由をまともに聞けなくなるという理由から、主文を後回しにすることが慣例となっている。しかしこの判決で、裁判官は主文から言い渡した。しかしそれは死刑判決。弁護士や被告を裏切るものであった。
 判決で上田誠治裁判長(中西武夫裁判長代読)は争点となった凶器や殺害態様について、「完全に解明できない」としながらも、捜査段階の被告人の自白に任意性があることや、事件当時被告人が犯行時間帯に現場にいた事実などから起訴事実を認定した。

 本書は鶴見事件の弁護士である大河内秀明が、無罪判決を訴えながらも横浜地裁で死刑判決を受けた後に執筆したものである。目次にあるとおり、事件の概要から公判の内容、そして判決までを詳細に記載している。さらに一審判決を受けての分析と反論、さらに真相の追求。最後には裁判全体を覆う誤判の構造についても触れられている。
 被害者宅を事件発生時刻に訪問、しかも金を奪っている点で状況証拠はそろっており、心証としてはあまりよくないものであったと想定される。しかし大河内弁護士は自費で事件を調査し、高橋被告の無罪を確信して、検察側の主張に対し徹底的に反論した。いったいどれだけの苦労があったことだろうか。数人の弁護士と弁護団を組んでいたとはいえ、金を盗んでいるという圧倒的な心証の悪さからよくぞここまで事件について調べ上げていったものだと感心する。
 本書は事件の概要と公判の内容など、あくまで事実のみを記載する形を取っており、いわゆる心の動きや感情といったものはほとんど触れられていない。そのため、事実の回りくどい詳細な説明ばかりを読まされている結果となっており、構えてかからないと読み通すのに苦労を要する。しかしこれを読むと、鶴見事件という事件で警察は金を盗んだという事実を基に、自白を取ることに専念し、まともな捜査をしていなかったことがわかる。
 この本を読んで、あなたは高橋被告に有罪を言い渡すことができるだろうか。

 高橋和利被告は2002年10月30日に東京高裁で控訴が棄却された。このときの裁判長は、横浜地裁の判決で上田誠治裁判長の判決文を代読した中西武夫裁判長というのは、ちょっと問題があるんじゃないかと思ってしまう。
 高橋和利被告は2006年3月28日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。高橋死刑囚は2007年4月、横浜地裁に再審請求を提出した。


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