読売新聞大阪社会部『警察官ネコババ事件―おなかの赤ちゃんが助けてくれた』(講談社文庫)


発行:1992.9.15



 1988年2月6日午前11時40分ごろ、大阪府堺市のフードショップ営業者の妻(当時36)は、店先に落ちていた15万円入りの銀行の封筒を持ち、徒歩1分ほどの槙塚台派出所に出向いた。派出所には若い警官がいた。警官に封筒を渡すと、警官はすでに届出が出ていると返事し、主婦の名前、年齢、連絡先を走り書きして返した。拾得物受理の書類は作られなかった。主婦はおかしいなと思いながらも、すでに届出が出ているからいいのかと思い直した。警官は立ったまま対応し、顔を見せようとしなかった。
 落とし主の男性(当時66)は翌日に封筒を落としたことに気付き、夕方ごろ槙塚台派出所に口頭で届け出た。通常ならそこで終わる簡単な話だった。
 9日、男性はもしやと思いフードショップに立ち寄り、そこにいた女子店員から落ちていた封筒を派出所に持っていったことを知る。男性は派出所に回ったが、そこにいた巡査は遺失物届けを受理しただけだった。そのことを聞いた主婦はどうなっているのかと堺南署へ電話を入れた。ところが応対した会計課員は、拾ったという届出を受け取っていないという。会計課員に説得され、主婦は派出所へ向かい、警官の顔を見ることにした。派出所にいたのは二十代の若い警官、五十過ぎの警察官と、三十前後の警察官だった。三十前後の警察官はおどおどした様子で、ヘルメットをかぶったままだった。主婦は首をひねり、体格はこの人に似ているが顔はわからないと答えた。派出所は正式に遺失物届けを受理する。主婦は、あの警察官がネコババしたかもしれない。しかしまだ若いので内密に済ませられればと考えていた。
 同じ日の夕方、主婦は警察から呼び出しがかかる。主婦は夫とともに、槙塚台の隣にある泉が丘派出所に出向く。主婦は一時間ばかり、質問攻めに会う。まるで犯人扱いされているみたいだと思いながら。
 12日、堺南署の若い刑事が迎えに来た。主婦は外出しており、夫が槙塚台派出所に出向いた。そこにいた40過ぎの部長刑事は、白っぽい封筒の切れ端が入ったビニール袋を見せ、これがフードショップの敷地内から出てきたという。さらに主婦が出向いた時間帯には派出所に警察官がいなかったと言った。夫はここではっきりと悟る。警察官がネコババしたのをこちらに押し付けているんだと。そしてこのとき、ネコババをしたN巡査は奥で調書を書いていた。
 同日夕方、若い刑事が主婦に出頭を求めにきた。夫婦の身内も立ち会っていた。さらに部長刑事も現れ、恫喝する。しかし身内の結束は固く、「そこまで言うなら逮捕状を持って来い」との発言に、「今度来るときはそうする」と告げ、出て行った。身内の伝手をたどり、弁護士に連絡を取った。弁護士は言う。「あなたは、大変な事件に巻き込まれました」。夫婦たちの長い戦いが、ここから始まる。
 警察側が言うことはあまりにも矛盾したことばかりだった。実は主婦が店から派出所へ向かい、帰るまでの姿を目撃している人がいた。しかもその人は、派出所にヘルメットをかぶった警官が座っていたことまで見ていた。この目撃者はすでにそのことを警察に届けていたのだが、一切無視されていた。落とし主に部長刑事は千切れた封筒が店先で10日に発見したと伝えているが、落とし主は覚えていた。落としたはずの6日は季節風がものすごく、千切れた封筒が残っているわけがない。主婦が府道沿いの歩道を通って派出所を往復したのを郵便局から見たという目撃者がいるというが、郵便局からは歩道は見渡せない。
 夫婦の知り合いは、警察に掛け合ってみた。その知り合いが会ってくれた中に、堺南署の署長、副署長がいた。彼らは言う。すでに逮捕状も取っている。しかし妊娠中だから、様子を見ていると。堺南署の警部は、主婦が通っている産婦人科に掛け合っていた。留置して調べることができるかどうかと。産婦人科医はその申し出をきっぱりと撥ね付けた。すると刑事が訪れ、何とかならないか、留置しても異常はないと書いてくれないかとまで言ってきた。もちろん医者は断った。夫婦は逮捕される直前であることを知り、かえって闘志を燃やす。絶対警察に負けないと。
 20日、夫婦は弁護士とともに高石署にある大阪府警第五方面監禁室へ向かった。しかし監察官は弁護士と20分程度話しただけで、あっさりと3人を帰した。警察側の意向はこうだった。堺南署の調べでは、警察官の犯行という事実は上がっていない。署長は監察官より階級が上のため、これ以上調べられない。また主婦の供述がころころ変わる。今、どこかの隅から出てきたといって持ってくるという方法もある(という解決方法をにおわせた)。
 この頃、読売新聞の記者がこの事件を耳にした。記者はまず夫婦に話しを聞きに行くと、夫は「新聞記者は警察とつながっているといわれた。弁護士に聞いてくれ」と厳しい言葉を返した。一週間後、記者は堺南署の副署長にその事を聞いてみると、副署長の表情が急変した。さらに署長室に連れられ、「今書かれた大変だ」と署長から告げられた。3月6日、読売新聞は15万円が蒸発した事実と、主婦側、署の話を載せた。載せる前に記者は堺南署にコメントを求めるが、副署長、署長は「そんな記事ボツにするのはわけない」「どう責任取る。変なことを書いたら対抗手段をとる」と過剰反応を示した。
 この記事が出た後、大阪府警本部の捜査二課が捜査に当たることになった。しかし堺南署は主婦の逮捕に固執し、事実大阪地検堺支部に逮捕状を申し出ている。しかし検察庁はその申し出を断っていた。
 3月25日午後11時20分、大阪府警本部は緊急記者会見を開いた。大阪府警本部監査室長は、N巡査が受理手続きを怠り、受付の事実を隠していたことが判明したため、懲戒免職処分に付し、業務上横領容疑で書類を検察庁に装置すると述べた。さらに善意の届出人に申し訳ないと謝った。この発表は、中国上海での高校修学旅行生列車事故の二日目に合わせて行われたため、記事は比較的小ぶりな扱いだった。
 主婦のもとにこのことが知らされたのは、春の定期異動で堺南署に着任した署長からの謝罪電話一本だけだった。しかし、事件の詳細は全くわからないままだった。いったい誰が主婦を犯人に仕立て上げようとしたのか。そのことを知りたくて、主婦は5月25日、慰謝料二百万円の損害賠償請求民事訴訟を起こした。このとき、大阪府警は初めて事の重大性に気付いた。
 5月25日、大阪府警は17日付で当時の堺南署署長を減給(百分の一、一ヶ月)、副署長と警邏課長を戒告、啓二課長を厳重注意の処分にしていたことが明らかになった。そして民事訴訟が起きてから初めて、大阪府警ナンバー2の刑務部長ら幹部が主婦宅や身内のところを回り、謝罪した。着服の事実が明らかになってから2ヵ月後のことだった。
 6月23日、国家公安委員会は府警本部長ら幹部を減給する懲戒処分を決定。同日、大阪府警は当時の堺南署長の引責辞職と捜査を担当した巡査部長を他所の警邏課へ配置替えすることを発表した。
 7月15日のの民事裁判第一回口頭弁論で、大阪府警は請求を認諾。本部長は主婦に陳謝し、慰謝料二百万円を支払った。しかし、誰がどう捜査を指揮したのかは明らかにされないままだった。主婦は二百万円を、冤罪防止に役立ててもらえる団体に寄付した。さらに大阪府警は同日、当時の堺南副署長、警邏課長を引責異動させた。
 N巡査は1989年4月7日、起訴猶予処分となった。


 本書は読売新聞大阪社会部が中心となり、追跡ドキュメント「おなかの赤ちゃんが助けてくれた」として読売新聞の大阪本社版で連載されたものである。連載では事件の詳細、さらに民事訴訟では明らかにされなかった、誰が指揮を取ったのかということについて当時の関係者のインタビューなどを中心にして、詳細に報告している。1988年、本連載は日本新聞協会賞を受賞した。
 本書は1989年に単行本化。さらに1992年に補記を加筆の上、講談社より文庫化されている。

 警察官がネコババしたという事件は知っていたが、警察ぐるみで隠蔽、濡れ衣を着せようとしていたことは知らなかった。そういう意味では、警察の作戦は最初だけこそ成功していたのだろう。もし民事訴訟が起きなかったらと思うと、ゾッとする話である。
 ここで問題とされているのは、警察官がネコババしたという事実だけではなく、むしろその後の警察の対応である。組織ぐるみで犯人をでっち上げようとし、それに失敗したらいかにミスを隠蔽するかに腐心する。警察そのものに自浄能力はない。国家権力であるからこそ、ミスは許されないという考えに縛られている。この事件は、そんな警察組織の問題点そのものを暴きだした一つである。しかし、警察はミスを認めようとせず、同じようなミスを繰り返すばかりである。警察が国民からどれだけ信用されているのか。そんなことを考えようともしないのが警察であり、悪いのは信用しない国民そのものであると考えるのも警察である。
 事件から16年が経っても、警察は変わらない。警察官のモラルは低下し、組織は自らを守ることばかりに気を配る。今年、神戸大学院生殺人事件における警察の責任が神戸地裁で断罪されたが、それでも警察は認めようとしないだろう。そして警察は、いつまでも同じ失敗を繰り返すに違いない。

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