昭和38年5月埼玉県狭山市で15歳の女子高校生が殺され、容疑者として被差別部落出身の青年が逮捕された「狭山事件」。――「復讐するは我にあり」で直木賞を受賞したニュージャーナリズムの旗手が、新手法で挑戦して、初めて事件の全体像を明らかにした決定版。ほかに、書下ろしの「熊谷事件」を収録する。
(粗筋紹介より引用)
【目 次】
第一章 誘拐
第二章 逮捕
第三章 自白
第四章 判決
第五章 否認
第六章 告発
1963年5月に埼玉県狭山市で発生。15歳の女子高校生が殺害されたこの狭山事件は、帝銀事件とともに二大冤罪事件の一つといわれている。身代金を要求した犯人を目の前にして逃がしてしまうという警察の失態。事件関係者の謎の自殺。そして被差別部落出身のI容疑者が別件で逮捕され、殺人等を自白。二審からの冤罪主張。無期懲役判決を受けて収監された被告。再審請求と棄却。今でも続く支援活動とマスコミ報道。真実はどこにあるのか、今では誰も答えてくれない。
この本は狭山事件の発生から控訴審判決までを書いた作品である。タイトルに“ドキュメント”とあり、文庫版あとがきでも「わたしの書いたこの本は、狭山事件がどのような<事件>であったか、全体像を浮かび上がらせるのが主題である」と作者が書いているとおり、この本は狭山事件の記録である。コンパクトにまとめられているため、読みやすいといえば読みやすいかもしれない。作者の意図通り、この本には「推理」がない。作者は「あなたも「おかしな事件だな」と思われたら、専門的な立場から書かれた裁判批判の本も読んでいただきたい」と記している。
粗筋紹介にある「熊谷事件」とは、第六章のこと。別件逮捕されたI容疑者を最初に取り調べた県警本部捜査一課のS警部は、容疑者がなかなか自白しなかった時点で交代させられている。結局交代したH警視が「やったといえば十年で出してやる」と“男の約束”をしてIを自白させることとなる(もっともH警視は東京高裁の公判でその約束を否定している)。S警部が交代させられた理由は、1955年6月に発生した「熊谷事件」の取り調べを行っており、裁判で取り調べに無理があったと思われないようにとのことである。
「熊谷事件」は1955年6月27日に埼玉県熊谷市に住む18歳の女性が行方不明となり、7月3日の松林の中で遺体が発見された、強姦殺人事件である。10月2日、滑川村に住む無職青年T(26)が1年前に50円のパンを無銭飲食した詐欺と窃盗で別件逮捕。Tは翌日に殺人を自供するが、きわめてあいまいなものであった。勾留期限の切れる22日、Tは強姦致死で再逮捕された。ところがTは弁護人に無罪を主張。自白は拷問によるものだと訴えた。Tは裁判では下をうつむくばかりであったが、それは起訴直前に警察官から脅迫されていたためであり、しかも裁判では5人の警察官が傍聴席の最前列に陣取っていたからであった。精神鑑定でTは素質的な精神薄弱(遅鈍型)と認定。さらに数少ない物証であるはずのクワについて、父親が警察に都合の良い供述をしていたことが判明した。
そして公判中、ある人物が犯人はMであり、物証もあると弁護人に訴えた。弁護人は公判を担当している検事に捜査を依頼し、捜査をすると約束したが実際はまったく動かなかった。そこで弁護人は浦和地裁熊谷支部宛に上申書を提出。1956年10月2日、裁判所から捜査令状が発行された。4日、弁護人を指揮者とする捜査班がMの家を捜査し、いろりの中から犯行に使われた自転車を発見。帰宅したMは犯行を認めたため緊急逮捕された。Mの公判は1956年12月13日に初公判が開かれ、1957年11月7日に求刑通り無期懲役判決が言い渡され、控訴せずそのまま確定した。Tは1956年10月10日に釈放され、11月12日に地検熊谷支部が公訴取り消しの申立を行い、翌日に受理された。TはMの判決が言い渡された後に、刑事補償を受けた。
埼玉県弁護士会は特別調査委員会を設け、熊谷署長やSなど9人を召還。9人は拷問の事実を否定し、Tもどの警察官が暴行していたか記憶していなかった。浦和地方法務局でも調査を行ったが、暴行の天は不明ながらも自白の強要はあった疑いが濃いとして、取り調べに当たった警察官の処分を勧告。埼玉県警本部長は、暴行の事実はないが捜査の過程で適性を欠いた点はあったとの談話を発表。1967年6月12日、埼玉弁護士会は総会の決定に基づいてSを含む4人を特別公務員暴行容疑で浦和地検に告発。浦和地検は捜査を行ったが、事実はないとして不起訴処分にした。8月15日、埼玉県警は人事異動を行い、熊谷署長は警察学校長へ異動となった。後に自発的に退職したという。告発された4人はとりたてて処分がなされなかった。さらに弁護人宛に熊谷署の匿名の警察官から手紙が届き、自白を裏付ける物証とされた被害者の指輪とされたものが実際は大きくて、疑問を提出したら先輩刑事から窘められたということが書かれてあった。
佐木は狭山事件とパターンが共通していることをあげ、埼玉県警が再び同じ過ちを犯したのではないかと疑問を投げかけている。
第一章から第五章までは『文藝春秋』1976年7月号、9月号〜12月号まで掲載。1977年2月に単行本が発売された。本書はその文庫化であり、第六章が新たに書き下ろしされた。
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