増田美智子『福田君を殺して何になる―光市母子殺害事件の陥穽―』
(インシデンツ)


発行:2009.10.1




(前略)
 ぼんやりと報道を眺めているだけでは、こうした弁護団の見解を知る機会は殆どなかったように思う。私も当初は、死刑回避のためにでっち上げの主張を展開していると思っていたのだが、綿井さんの記事を読むうちに、「本当に死刑が妥当なのだろうか」という気持ちが芽生えてきた。その気持ちは、差し戻し控訴審の死刑判決を受けて頂点に達した。「きっと返事は来ないだろうけれど、1度だけ福田君に手紙を書いてみよう」と思って筆をとったのが、私がこの事件にかかわるきっかけだった。
 福田君への手紙は2008年4月30日に投函した。手紙には、私が在郷のフリーライターであること、死刑判決への疑問、報道への疑問、面会して話を聞きたい旨を書いた。
(中略)
 福田君とは2008年8月4日に初めて面会がかなった。以降、私は何度も広島・山口へ足を運び、福田君との面会は25回を数える。手紙を交わしたときに感じた彼の印象は、面会を重ねるうちに少しずつ修正された。事件前の福田君を知る近隣住民や同級生にも、できる限り取材した。福田君は、折り紙付きの不良だったわけではなく、どちらかといえばおたくタイプの子だった。一方で、明るくひょうきんな印象を持たれていたが、決してクラスの人気者ではなく、勉強もスポーツもあまり得意ではなかった。近隣住民や同級生からは、「素直ないい子」「不憫な子」という声も聞かれたが、「気持ち悪い」「変わったヤツ」という声もあった。しかし、世間から断罪されているような「少年法を熟知した狡猾な知能犯」という人物像は、誰もが否定した。私もそう思う。率直にいって、彼は自分の発言や行為が周囲の人にどう受け止められるか、どんな影響を及ぼすかを計算できるほど、知的ではない。
 光市母子殺害事件が社会にもたらした影響は大きい。被害者遺族を踏みつけにしてきた刑事司法、少年法が抱える矛盾、感情論に終始する裁判報道など、多くの問題点を浮き彫りにしてきた。
 だが一方で、被告人・F(ここは実名が書かれていたがあえて略す)の姿だけはいまだにベールに包まれている。福田君本人を含め、事件前の彼を知る人や弁護人などへの1年以上に渡る取材を通して見えてきた、彼の真の姿を伝えたい。そして、1人でも多くの方に、福田君を死刑に処することの意味を考えてみてほしいと思う。

(「序章」より一部引用)


【目 次】
序章 予期せぬ返事
1章 少年時代
2章 父親
3章 不謹慎な手紙
4章 謝罪
5章 虚構
6章 弁護士
7章 死刑
終章 当事者
解説 F君の「言の葉」に込められた魂の逡巡を読み解いてほしい 今枝仁(弁護士)


 1999年4月14日午後、山口県光市のアパートの会社員Mさん(23)方で、排水検査を装った市内の男性会社員F(18)がMさんの妻(23)を襲い、抵抗されたため首を手で締めて殺してから陵辱。さらに近くで泣き叫んでいた長女(11カ月)を持っていた紐で首を絞めて殺し、二人の遺体を押入に隠してから財布を盗んだ。山口地裁は2000年3月22日、無期懲役の判決。閉廷後、死刑を求めていたMさんは「司法に絶望した。被告を社会に出して欲しい。自分の手で殺す」と会見の場で話した。検察側は控訴したが2002年3月14日、広島高裁で控訴棄却。2006年6月20日、最高裁は一・二審の無期懲役判決を破棄、広島高裁へ差し戻した。2008年4月22日、広島高裁は一審を破棄し、死刑を言い渡した。現在上告中。
 光市母子殺害事件は、18歳の少年による犯行、被害者遺族側からの積極的な発言、弁護人が最高裁弁論を欠席、弁護側による傷害致死主張、さらに母胎回帰説など、色々とマスコミの話題になることが多い。それでも2008年4月22日の差し戻し控訴審で死刑判決が言い渡され、一連のマスコミ報道と幾つかの本が出版されてようやく沈静化したかに見えた2009年10月にこの本が出版された。正直、ただ出版されただけならマスコミに取り上げられることはなかったと思う。この本で問題になったのは、少年法を無視して被告である事件当時18歳の少年の実名を書き記したことだ。標題では名字だけだが、本文中では下の名前も記している。そのため、弁護側による出版差し止め申請と却下、元少年側からによる出版差し止め提訴、逆に出版社側からの逆提訴と、裁判が相次いでいる。そしてマスコミもその経緯を逐一報道している。

 正直に言うが、この本は古本屋で他の本といっしょに安く購入したものである。新刊で買う気は全くなかった。元少年の名前はすでに一度週刊誌で実名報道されているし、インターネットで検索すれば簡単に見付かる。だからといって、「匿名報道が人格を理解することを妨げていると思う」という理由で少年法に逆らってまで実名を記述する必然性があるようには思えなかった。はっきり言えば、無名のフリーライターである筆者の売名行為にしか見えなかった。
 とはいえ、せっかく手に入ったこともあるし、一応読んでみることにした。本文中で元少年は実名で記されているが、私はその方針に賛成するつもりはないので、標題や「序章」の引用を除いてFと記述する。
 内容は筆者によるFの周囲の取材、Fとの文通のやり取り、Fとの面会や取材を拒む弁護人たちとのやり取り、Fとの面会の状況がほとんど。少なくとも筆者が事件についての「真相」に迫ろうと試みた部分はほとんどなかった。多分筆者にとって必要だったのはFという人物の造形であり、Fがどのような犯行に及んだかについての経緯を考えるつもりはなかったのだろう。私はFという人物について幼稚な未熟者というイメージしか抱いていなかったので、筆者が述べている“世間から断罪されているような「少年法を熟知した狡猾な知能犯」という人物像”という視点を否定しようとする取材の書きぶりには、どこかピントがずれている印象を受けた。それに、この手の取材は自分の意見に都合が悪いものが排除されている可能性もあるので、参考程度にしか思っていない。ただ一つ言えることは、筆者がFという人物を造形するのに、わざわざ実名を記す必然性はまったく感じられなかったことだ。この程度のことであれば、わざわざFの実名や写真を載せることがなくてもFという人物像を伝えることは十分できるであろうし、それができないというのであればそれは筆者の力量不足としか言い様がない。裁判所が認定した事実とはここが違うとか、その程度の努力はできなかったのだろうか。
 むしろこの本で興味深かったのは、弁護団とのやり取りだろう。弁護人は被告の利益を守る立場にあるだろうし、特にこのような世間から注目、というより非難を浴びる事件の弁護人ともなれば、マスコミの取材など断るのが当然だろう。しかも無名ライターの取材なんか受け容れている時間なんかあるはずがない。そんな当たり前のことも考えず、自分だけはほかのマスコミと異なり真実を追究している、Fを助けようとしているんだという思いこみで取材を続け、断られては憤慨する筆者の姿は滑稽としか言い様がない。更にいえば、ばい菌でもあるかのような扱いをする弁護人側の態度も(本当にそのような態度を取ったのかどうかはともかく)笑える。もっとも、Fを囲い込み、他者からの取材や接触を拒否しようとする弁護団への怒りは、筆者自身の動機はどうであれ納得できるものもある。少なくとも弁護団は、都合の悪いもしくは気に入らない行動をとる取材陣を、記者会見の場から追い出したという事実について釈明する必要があるだろうし、彼らを応援する立場の人たちもその事実を覆い隠そうとしないでほしいものである。弁護団の有様について「自殺点を打ちまくり、大量リードされたあげく、後半ロスタイムで守備固め」と表現したのはなかなかうまいと思った。弁護団が守ろうとしているのはFではなく、他人から批判されたくない自分たちである、という6章の締めの言葉は、なかなか的を射ている。もっとも、この作者がFを守ろうとしているようにはまったく見えないが。
 筆者は「〜を殺して何になる」という挑発的な言葉を投げかけておきながら、その答えを見つけられないでいる。「なぜ、彼はこれほどまでに凄惨な事件を起こしてしまったのか、同種の犯罪を防ぐためには何が必要か、考えてほしい」などと偉そうに書いているが、こんなのは無責任な新聞の社説で当たり前に読む文章だ。疑問を投げかけるのは簡単だが、疑問を投げかけるのであれば少なくとも自分なりの答えを示したらどうかと思う。対案も出さずにただ反対するのは、無責任なマスコミの姿や自分さえよければそれでいいという市民反対運動と何も変わらない。
 文通のやり取りをそのまま載せるところなんか、デリカシーのかけらもない。Fの幼稚さと反省のなさを浮き彫りにしているだけで逆効果。学校の写真を出す意味も全くない。Fの人物像を描くために写真を出すなら、中学生当時ではなくて事件直前のものを出すべきだっただろう。そんな昔の写真を出したって、まったく意味がない。結局ただの覗き趣味でしかない。
 子供に取材を試みようとするところなんかは、「マスコミの暴力」そのもの。訴えられても文句は言えないところだ。Fの父親が取材を受けたのは、このまま拒否を続ければ作者が何をしでかすかわからなかったからではないか。

 最後になるが、この本を読み終わっても実名を出す必然性はまったく感じられなかった。事件そのものはともかく、その名前まで覚えている死刑囚を筆者はいったい何人いるのだろうか。だったら匿名でも構わなかったと思う。なぜイニシャルや仮名ではいけなかったのか。やはり売名行為でしかなかったのか。報道やこの本の文章から、筆者は思いこみの激しい人物のように思えるし、自分の思い通りにならないと激昂するタイプのように感じられる。自分こそが正義、と思いこむ人間ほど怖いものはない。それとも出版社に言い様に利用されているだけかも。実名や写真がなかったら、本としてまとめられるレベルにすらなっていない。三流週刊誌の記事以下。被告側の立場にありながらも、弁護団とは別の立場にある一介の市民がまとめた本として、このような意見もあるよ程度の一冊にはなっているかもしれないが、金を出して読む価値はまったくゼロ。作者はこれで知名度を上げたかもしれないが、今後この作者の取材を受けようと思う人はまずいない。

 蛇足になるが、タイトルの「福田君を殺して何になる」に対する私の答は簡単だ。正当な理由もなく元少年が母親の首を絞めて殺害した後に姦淫したことと、そばで泣いていた赤ん坊の長女を殺害したという事実は不変のものであり、このような残酷な事件を引き起こした犯人はたとえ少年であろうと死刑になるという事実を世の中に知らしめ、たとえ全ての少年のうちのたった1人でもその事実が抑止力になればよいと思っている。

 筆者の増田美智子は1980年、京都府生まれ。ハウスメーカーの採用試験に落ちまくり、方向転換してマスコミ業界を目指す。2003年、信州大学工学部卒業後、株式会社新建新聞社入社。2006年に退社後、日本インターネット新聞株式会社に入社し、『JanJan』編集部記者となる。2007年1月、記事掲載の可否をめぐり、上層部と対立し、退社。時事通信社内政部デスク補助のかたわら、フリーライターとして雑誌やニュースサイトなどに執筆。2009年4月より国立大学法人一橋大学職員。


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